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2011年6月23日 (木)

島津四兄弟の父となった中興の祖・島津貴久

 

元亀二年(1571年)6月23日、島津中興の祖と称され、あの島津四兄弟の父として知られる島津家15代当主の島津貴久が亡くなりました。

・・・・・・・・・・・

永正十一年(1514年)に薩摩島津氏の分家の当主だった島津忠良(ただよし)の長男として生まれた島津貴久(たかひさ)・・・

この頃の島津家は、本家が弱体化し、逆に、分家や国人衆が力を持ち始めていた頃で、若年で14代当主となった島津勝久は、風前の灯となってしまった本家を救ってもらおうと、分家の忠良を頼ります。

そこで大永六年(1526年)・・・忠良の息子であった貴久が、勝久の養子となって、島津本家を継ぎ、本拠地である清水城(鹿児島県鹿児島市)に入ったのですが、もともと、島津の分家は貴久クンとこだけではありませんから、当然の事ながら、他の分家から不満がチラホラ・・・

そこで、かねてより
「我こそが当主にふさわしい」
と思っていた薩州島津家の島津実久(さねひさ)が、仲間を募って反旗をひるがえします。

そこで、忠良らは、実久の仲間の一人となった伊集院重貞伊集院城を攻め落としますが、その間に、実久らは、勝久を味方につけて伊集院城も奪還し、さらに、勝久に守護職を返上するよう、忠良・貴久父子に迫ってきます。

「そんなモン、今更、返すか!」
と、断固拒否して、一旦、鹿児島から退く貴久ら・・・

その後、小競り合いにあけくれながら、日々、鹿児島奪還を目指して奮闘する貴久ですが、この間に生まれたのが、かの島津四兄弟たち・・・

天文二年(1533年)に長兄の義久が、2年後の天文四年に次兄の義弘(7月21日参照>>)が、さらに2年後の天文六年に歳久・・・そして、上の3人とは母が違う4人目の家久は天文十六年(1547年)に生まれます。

25年の歳月を費やし、やがて、実久方の最大拠点である加世田城(鹿児島県加世田市)を攻略した貴久らは、紫原で衝突した最終決戦にも勝利して天文十九年(1550年)に鹿児島に再入城・・・ようやく、名実ともに守護となったのでした。

悲願の鹿児島奪回を果たした貴久・・・次ぎの目標は、島津氏の旧領であった薩摩大隅日向三州の統一を果たす事でした。

その最初の突破口となるのが天文二十三年(1554年)の岩剣城(いわつるぎじょう・鹿児島県姶良市)攻めでした。

ここは、鹿児島からわずかに北へ7kmの国境線にある蒲生(がもう)の出城で、さほど大きくはありませんが、南北と東の3ヶ所を絶壁に囲まれる天然の要害を持つ城・・・

「この城は単独では落とし難い」と考えた貴久は、すでに蒲生軍からの攻撃を受けていた島津配下の肝付兼演(きもつきかねひろ)の居城である加治木城(かじきじょう・鹿児島県姶良市)救援に向かい、その間に3人の息子に、この岩剣城を攻めさせるのです。

そう、この戦いが義久・義弘・歳久の3人の息子の初陣となりました。

そして、岩剣城の急を聞きつけて、救援に駆けつけて来た蒲生範清(のりきよ)を撃退・・・これによって孤立してしまった岩剣城は2ヶ月後に落城します。

これをきっかけに蒲生氏を攻め続けた貴久は、弘治三年(1557年)に蒲生氏を、この一帯から追い払う事に成功しますが、この間には義弘と歳久が重傷を負ったり、貴久自身も危機一髪のめに遭ったりと、まだまだ領内は群雄割拠の状態でした。

永禄三年(1560年)になると、日向の雄・伊藤義佑(よしすけ)(8月5日参照>>)から目をつけられていた飫肥(おび・宮崎県日南市)を所有する豊州島津家島津忠親を助ける意味で、次男の義久を養子に出して警戒・・・

それを察した義佑は、大隅を支配する肝付氏と組んで、北と南から飫肥にチョッカイを仕掛けてきます。

翌・永禄四年には、貴久の弟・忠将(ただまさ)廻城(めぐりじょう・鹿児島県霧島市)にて肝付勢に討ち取られるという苦戦を強いられながらも、さらに翌年の永禄五年には、飫肥から呼び戻した義弘や歳久らとともに、大隅横川城(同霧島市)を落城させるという一進一退の状況が続く中、

永禄九年(1566年)、貴久は剃髪して長男の義久に家督を譲り、隠居しました。

永禄十二年(1569年)、家督を譲られた義久が、これまで抵抗していた菱刈隆秋を降伏に追い込み、ようやく薩摩一国を掌握しますが、その2年後の元亀二年(1571年)6月23日貴久は肝付との抗争のさ中に病死・・・未だ三州統一の夢を果たせないまま、57歳の生涯を終えました。

貴久の死を好機と見た義佑が攻めてくる中、奮戦する息子たち・・・その後、大隅半島の肝付氏を降伏させ、伊藤義佑を豊後に追いやった息子たちが、父の夢であった三州統一を実現するのは、貴久の死から7年後の天正4年(1576年)の事でした。

思えば、13~4歳で本家の家督を継いでから、戦いにあけくれる日々を過ごした貴久・・・

(中国)琉球はおろか、インドとの交易も視野に入れていたとされる貴久は、かの岩剣城の戦いにおいて、日本で最初に鉄砲を実戦使用した人とも言われます(鉄砲の初見は諸説あり)

その絆を以って、後に九州の覇者となる島津四兄弟・・・その基盤を造ったのは、まさに、この父=貴久であった事でしょう。
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戦国・安土~信長の時代」カテゴリの記事

コメント

⊂二二二( ^ω^)二⊃ ブーーーンupcatup

投稿: | 2011年6月24日 (金) 11時06分

う~~ん
とりあえず、「○」という事かな?
喜んどきましょ(*≧m≦*)

投稿: 茶々 | 2011年6月24日 (金) 16時24分

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