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2011年6月21日 (火)

北の大地に蜂起!アイヌの英雄・シャクシャインの戦い

 

寛文九年(1669年)6月21日、総酋長シャクシャインの呼びかけに応じて全蝦夷のアイヌが一斉に蜂起したシャクシャインの乱が勃発しました。

・・・・・・・・・・

寒冷の地である蝦夷島(えぞがしま=北海道)に、独自の文化を育んだ人々・・・

ここに住んだアイヌ民族の歴史については、未だ不明な点が多いですが、おおよそ13~14世紀頃には、現在の私たちが知り得るようなアイヌ文化が形成されたと考えられています。

そんな中、鎌倉時代に代々執権を継承した北条氏は、津軽地方に多くの領地を持っていた事もあって、あの前九年の役(9月17日参照>>)で滅びた安倍貞任(さだとう)の遺児を祖とする(異説あり)安東(安藤)代官に任じて、その津軽地方の支配を任せていたわけですが、2代執権の北条義時の時代から、安東氏は蝦夷管領(えぞかんれい)という役職にに任命されます。

・・・と言っても、この役職は、蝦夷を支配するというのではなく、蝦夷に住むアイヌ民族と和人(日本人)との交易を統轄する役目・・・

そう、アイヌの人たちは、以前から、島内はもちろん北方とも交易を行っていましたが、特に、この13世紀頃からは、津軽海峡を挟んだ日本との交易が盛んになっていたのです。

青森の十三湊(とさみなと)を拠点とする和人との交易は、14~15世紀に入ってますます盛んとなり、やがては、その交易で得た利益や経済的地位が、彼らアイヌ自身の政治や支配関係に影響を及ぼすまでになり、アイヌ民族の中でも、集団間の対立が生まれたりもしました。

しかし、何と言っても、アイヌの人たちの不満は、和人とのトラブル・・・当初こそ友好的に行われていたアイヌと和人の交易でしたが、次第に蝦夷島に移住してきた和人と衝突するようになります。

そんな中で、最初の大きな反乱となったのが長禄元年(1457年)に発生したコマシャインの戦い・・・この乱の鎮圧で頭角を現して、安東氏の娘婿となったのが、若狭から流れて来た蠣崎季繁(かきざきすえしげ)なる人物でした。

・・・と言っても、ここまでは伝説の域を超えない不確かな話なのですが・・・

とにかく、その季繁から数えて5代めに当たるという蠣崎慶広(かきざきよしひろ)・・・この人の見事な世渡りで、文禄二年(1593年)1月に、当時の天下人である豊臣秀吉から正式な蝦夷地の支配を認められ(1月5日参照>>)、さらに、蠣崎から松前に改姓した慶広は、征夷大将軍となった徳川家康から、蝦夷地における交易独占権を公認される事に成功します。

こうして江戸期には、アイヌとの交易は松前藩の独占となるのです。

アイヌと松前藩の交易も、最初のうちはお互いの利益に見合う正統な条件に基づいて行われていましたが、やがて、徐々に徐々に、松前藩の有利なように改定されていきます。

たとえば、当初は、アイヌが持ち込む干鮭100本に対して30kgの米俵と交換していたのが、いつの間にやら10kgの米俵との交換になってしまったり・・・

あるいは、前年に約束した数が揃わなかった場合は、翌年には、その倍の数を揃えるよう決められ、そのぶんが揃えられなければ、子供を人質に差し出さねばならないとか・・・

当然、アイヌの人たちには和人に対する不満が蓄積されていく事になりますが、そんな中で一つの事件が起こります。

もともと、シャベチャリ川(静内川)の漁業権をめぐって、日高地方より東に住むメナシクルというアイヌ民族と、それより西に住むシュムクルは100年以上に渡って対立していましたが、その抗争に負けそうになったシュムクルが松前藩の力を借りようとしたところ、使者として向かった青年が、帰り道に亡くなってしまったのです。

実際には、その死因は天然痘だったと言われていますが、かねてからの和人に抱く不信感から、アイヌの村々には「彼は松前藩に毒殺された」と誤って伝えられてしまったのです。

それを受けて、
「同族で争っている場合じゃない!」
と立ちあがったのが、メナシクルのリーダー=シャクシャインでした。

松前藩をはじめ、弘前藩(青森県)盛岡藩(岩手県)に残る記録には、
「シャクシャインは64歳前後の男性で経験豊富な首長であった」との事・・・

Syakusyainkankeizucc ↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために、趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

こうして、東西の蝦夷島に住むアイヌ民族に、「対・松前藩を旗印に、ともに立ち上がろう」と呼びかけたシャクシャインのもとには、約2000人のアイヌの人々が集結したのです。

寛文九年(1669年)6月21日、一致団結して立ちあがったシャクシャインらは、港に停泊していた交易船を襲撃・・・さらに和人居住地も襲撃し、鷹待(たかまち=鷹狩用の鷹を捕獲する人)や砂金掘りなども襲撃します。

彼らの急襲に対応しきれなかった日本人たち・・・記録によれば、この時、350人余りの日本人が殺害されたと言います。

もちろん、この知らせを聞いた松前藩は、すぐに対応・・・松前城下の警備を固めると同時に、幕府を通じて弘前・盛岡・久保田(秋田県)3藩に出兵を要請します。

その間にも、松前を目指して進軍するシャクシャインに率いられたアイヌ軍・・・しかし、弓矢が主体だったアイヌ軍に対して、松前藩は鉄砲で応戦したため、8月上旬頃からは少し停滞気味となり、シャクシャインは長期戦を視野に入れての作戦変更を行います。

しかし、松前藩は、この間に、アイヌ民族たちの分断を図ります。

もともと、いくつかの集団に分かれていたアイヌ軍ですから、個々に分断され、半ば脅しのような交渉で降伏を促されると、徐々に恭順な態度へと変化してしまうのは仕方のないところ・・・

やがて、態度を変えないシャクシャインらだけが孤立していく事になります。

とは言え、戦いが長引いてアイヌとの交易がストップするのは、松前藩にとっても死活問題・・・そこで、松前藩はシャクシャインに和睦を申し出ます。

一方のアイヌ側にとっても、この交易にストップは生活に支障の出る事・・・シャクシャインはその申し出に応じる事にします。

こうして、蜂起から4カ月後の10月23日・・・日高のピポク(新冠町)にあった松前藩の陣営にて、開かれる事になった和睦の儀式。

しかし、この酒宴の席で、シャクシャインは騙し討ちされてしまうのです。

指導者を失ったアイヌ軍は急速にその力を失い、またたく間に乱は鎮圧・・・結局、このシャクシャインの戦いは、松前藩の支配力をさらに強化させる結果となってしまいました。

120年後の寛政元年(1789年)には、クナシリ・メナシの戦いという、やはり、一方的な交易に不満を持つアイヌ民族の乱も勃発しますが、コチラもアイヌ側の敗北となり、松前藩の支配はさらに強化され、アイヌの人々は、ますます苦しい立場に立たされます。

やがて、幕末目前の寛政四年(1792年)、ロシアが直接、通商を求めて来た事に脅威を感じた幕府は、蝦夷島を幕府の直轄地として、直接支配当たります。

その後、明治維新となって、ご存じのように蝦夷島は北海道と名を変え(2月10日参照>>)、開拓による新天地を求めて、多くの日本人が移住する事となるのですが・・・(1月12日参照>>)

明治三十二年(1899年)に公布された「北海道旧土人保護法」によって、これまで受けて来た差別からアイヌ民族が保護されるようになっていきますが、それは、日本の法律によって、彼らを日本人としてしまう事でもあり、彼ら独自の文化が失われる事でもありました。

この状況には、20世紀になってやっと批判の声が上がり始め、1970年代頃には、アイヌの文化を伝承すべく活動が展開され、平成九年(1997年)に、先ほどの「北海道旧土人保護法」が廃止となり、新たな「アイヌ文化振興法」が施行され、やっとこさ、日本政府は、アイヌが日本民族とは異なる民族である事を認めました。

さらに平成二十年(2008年)の6月6日、ようやく、国会がアイヌ民族を先住民族と認める決議をしたのです。

遠き昔に立ちあがった誇り高き民族の末裔たちの戦いは、21世紀になって、やっと一つの節目を迎える事ができました。
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江戸時代」カテゴリの記事

コメント

茶々様。

札幌の読者です。
はじめてメールいたします。

いつも楽しく拝見しています。
本当にいろんな歴史に通じておられ、感服しています。
私も歴史に興味がありますので、大変勉強になっております。

これからも書き続けてください。

北から応援させていただきます。

なお、大変僭越ではございますが、文中の
「コマシャインの戦い・・・この乱の鎮圧で頭角を現して、安東氏の娘婿となったのが、若狭から流れて来た蠣崎季繁(かきざきすえしげ)なる人物」
は武田信広なる人物ではないかと考えます。

蠣崎季繁は、上の国・花沢舘で武田信広を迎えた人物ではないかと思います。

またシャクシャインに戦いでは、シャクシャイン本人が戦地に赴く前に、戦が始まってしまい、シャクシャイン自身は戦いに参加していないのではないかとも思います。

いろんな説がありますから、どれが正しいかは分かりません。だから歴史は面白いんですけどね。。。

こんなページを立ち上げていますので、お時間があるときに、ご覧いただけますと幸甚です。

http://rekitan.namara-hokkaido.net/

http://www.namara-hokkaido.net/guide/rekitan/

では、またコメント申し上げます。

投稿: レキシスト | 2011年6月21日 (火) 13時34分

「アイヌ新法」を手掛けたのが、アイヌの末裔に当たる参議院議員の人なんです。国会で委員会質問か何かの機会で、アイヌ語を使ったと話題になりました。

投稿: えびすこ | 2011年6月21日 (火) 17時35分

レキシストさん、こんにちは~

おそらく地元の方から見れば、NG満載の記事になっている事と思います。

蠣崎季繁に関しましては、本文でリンクしたページにも書いておりますが、私の知り得た情報では、出羽で安東氏の婿になったその武田何某が、蝦夷地に渡って蠣崎季繁と名乗ったという事だったので、そのように書かせていただきましたが、おそらくは地元の方であられるレキシストさんのおっしゃる方が正しいのではないかと思いますが、何ぶん伝説に近いお話ですので…

シャクシャインに関しては、最初の戦いに間に合わなかったという事でしょうか?
それとも、最後まで、シャクシャイン自身は戦いに参加していなかったのでしょうか?

謎多き北海道の歴史、これからも、色々調べてみたいと思います。

情報ありがとうございました。
また、教えてくださいo(_ _)o

PS:サイトは、かなりボリュームがあるので、どこから見て良いかとまどい気味です。
ゆっくり、拝見させていただきます。

投稿: 茶々 | 2011年6月21日 (火) 17時56分

えびすこさん、こんにちは~

>「アイヌ新法」を手掛けたのが…

そうなんですか?
知らなかったです。

おそらく、アイヌの方々に関しては、私たちがまだまだ知らない事がたくさんあるのでしょうね。
日々勉強です。

投稿: 茶々 | 2011年6月21日 (火) 18時09分

茶々様、ご返答ありがとうございます。

ちなみにシャクシャインに関しては、
最初の戦いに間に合わなかったと、本で読みました。

正確には、シャクシャインの到着を待って戦を始めるはずだったのですが、
その前に前線のアイヌ民族の方々が、松前藩と戦い始めてしまったと記憶しています。

そのように記憶していますが、ご承知の通り、アイヌ民族は文字を持たない民族です。

本はアイヌ民族の伝承と、松前藩の記録から書かれたものでしたので、真相はわからないですよね。

さりとて、ようやく茶々様とお話ができました。

うれしく思います。

また、コメントさせていただきます。

投稿: レキシスト | 2011年6月21日 (火) 19時42分

以前、中曽根さんだったかな?「日本は単一民族国家」と言って非難されたけど、あの~私はアイヌの方たちこそ「本来の日本人」だと思ってるんですが。北海道には弥生文化が波及しなくて、縄文文化の後、続縄文文化、擦文文化、アイヌ文化と北海道独自の歴史を築いてきました。縄文系=土着系=国津神系。弥生系=渡来系=天津神系。ではないかと。そして弥生系・天津神系に与さなかった集団は東へ、北へと追われ、まつろわぬ神々とされ、北の地で細々と先祖(縄文時代)から受け継いできたものを大事に守り続けてきた。それがアイヌの方たちではないかと。つまりアイヌの方たちこそ太古の時代に日本列島に住みついた大先輩であり、なんで差別さるんじゃ?と不思議でしたが、日本人、とすることそのものが差別になるんですか。そううかぁ~。いや~勉強になります。私はアイヌ文化を、その哲学も(森は子孫からの借り物とか)とても尊敬してます。今こそアイヌの教えに学べ!と言いたい。

投稿: Hiromin | 2011年6月21日 (火) 21時37分

レキシストさん、こんばんは~
お返事ありがとうございました。

歴史の史料という物は、例え1級の第1次史料でも、いわゆる「大本営発表」で、書いてある中身が事実かどうかというのは、わからない物ですが、つじつまの合わない事、不思議な事に、一つ一つ向かい合っていきながら、推理していく…

それが歴史の醍醐味だと思います。

これからも、よろしくお願いします。

投稿: 茶々 | 2011年6月21日 (火) 23時25分

Hirominさん、こんばんは~

>アイヌの方たちこそ太古の時代に日本列島に住みついた大先輩…

私も、そうだと思います。


>日本人、とすることそのものが差別…

難しい問題だと思いますが、以前、小耳に挟んだ話があります。
あるアジア系の某国の方が、
「我々は、その国の名前を名乗らされ、その国の国民と同じ教育を受けさせられた」と言い、
一方では、ある黒人男性が、
「我々は、同じ名前を名乗る事も許されず、同じ教育も受けさせてはもらえなかった」と言ったと…、
もちろん、どちらも、自分たちは差別されたと感じておられるわけですが…

その民族の伝統と文化を尊重しつつ、ともに暮らす…人は、この先の未来で、できるだけ理想に近づくために、歴史を学ぶのかも知れません。

投稿: 茶々 | 2011年6月21日 (火) 23時37分

茶々様
9月のシルバーweekに自転車で北海道旅行(函館から稚内)を計画してます。途中、アイヌの文化史跡を見学出来ればと思い、ブログを拝見しました。また、覗かせて頂きます。

「電波おやじ自転車の旅」の事前参考資料にさせて頂きます。

投稿: 電波おやじ | 2011年8月21日 (日) 13時25分

電波おやじさん、こんにちは~

>9月のシルバーweekに自転車で北海道旅行

スゴイですね~
気候もちょうど良い頃です。

無理をなさらないように、
それでいて、ステキな思い出を沢山持って帰って来れますように…

気をつけて、行ってらっしゃいませ。

投稿: 茶々 | 2011年8月21日 (日) 18時06分

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