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2011年6月12日 (日)

自らの死後も見据える智略の将=小早川隆景

 

慶長二年(1597年)6月12日、毛利元就亡き後、孫の輝元を支え、兄の吉川元春とともに、「毛利の両川」と呼ばれた小早川隆景が亡くなりました。

・・・・・・・・・・・・

ご存じ、西国十三州に君臨した毛利元就(もとなり)が、正室の妙玖(みょうきゅう)(11月30日参照>>)との間にもうけた3人の息子のうちの一人です。

嫡男=隆元は「仁の人」
次男=元春は「勇の人」
三男=隆景は「智の人」

当時、世間では、こう称されていたと言います。

この3人の中でも、本日主役の小早川隆景(こばやかわたかかげ)は、
「危険な戦いをせずに、謀(はかりごと)を以って敵を屈服させる達人である」
と評価されています。

Kobayakawatakakage480 そのたぐいまれなる智将ぶりは、すでに少年の頃からあったとか・・・

彼は、13歳の時から3年間、当時は、まだ毛利家の主君であった大内義隆のもとに人質に出されますが、3年後に、人質を許されて帰国した隆景は、父=元就に、

「大内家はやがて滅びましょう」予言したのです。

「義隆公の怠慢に家臣の心が離れていくのを、陶隆房(すえたかふさ・晴賢)が何とかまとめている状態・・・」
と、その時の大内家内の様子を見事に見抜いていますね~。

そして、ほどなく、大寧寺の変を起こした隆房によって大内氏は牛耳られるのです(8月27日参照>>)

そんな隆房を倒して、毛利が大内氏に取って代わる一大決戦となった厳島の戦い(10月1日参照>>)での隆景は、村上水軍を率いて参戦し、大きく迂回して敵を欺いた後に上陸・・・という、ここでも見事な智将ぶりを見せてくれています。

ご存じの、毛利の3本の矢=「三矢の訓え(さんしのおしえ)の話のもととなった、元就が3人の息子に送った「三子(さんし)教訓状」(11月25日参照>>)を見ても、父=元就が、隆景に大きな期待を寄せていた事が読み取れますね。

・・・で、そんな偉大な父=元就が亡くなった時には、すでに長男の隆元もこの世にはなく、その嫡男(つまり元就の孫)輝元が毛利を継ぐ事になるわけですが、未だ若年な輝元を、次男の元春は吉川家へ、三男の隆景は小早川家へと、ともに養子に出た二人(9月27日参照>>)見事にサポートし、「毛利の両川」と呼ばれたのは有名なお話です。

ところで、そんな隆景は、上記の通り、智略の武将ではあったものの謀略は好まない、いたってマジメな人だったようです。

なんせ、奥さんに対する時も肩衣(かたぎぬ)に袴をつけて、まるで客人を迎えるかのような態度で接していたのだとか・・・(だから子供がおらんのか?(゚ー゚;)

あの本能寺の変の直後も、備中高松城を水攻め中の羽柴(後の豊臣)秀吉が、主君=織田信長の死を知って、とにかく早く畿内へ戻りたいとばかりに、その死を隠したまま、早急に和睦へとこぎつけたわけですが・・・(6月4日参照>>)

その後、交渉成立のお祝いとして秀吉から贈られて来た酒樽を、「毒が入ってるかも…」と警戒して飲まない家臣たちの前で、
「すでに誓書を交わした後で、そんな事するかいな!飲めへんかったら、かえって失礼に当たる」
と言って、真っ先に口をつけたと言います。

さらにその後、先の和睦交渉が、信長の死を隠しての交渉だった事がわかった後でも、
「追い撃ちをかけて秀吉を討とう」
という兄=元春に対して、
「一旦、起請文を以って和睦したものを、敵の災いに乗じて約束を破るなんざ、武士の恥や!」
と言って、追跡をしなかったとか・・・やっぱマジメ

その事を、人づてに聞いたであろう秀吉は、天下人になった後、隆景を参謀として重用し、あの五大老の中に、輝元と隆景・・・と、毛利が二人も存在している事こそが、その信頼の証とも言えます。

さらに、あの小田原征伐の時などは、秀吉は、わざわざ隆景を呼び出し、この長期戦をどのようにこなして行けば良いかのアドバイスを求めています。

そして隆景は
「城攻めを休んで、弓鉄砲も休んで、夜討ちの用心だけは怠らず、味方に長期戦の覚悟をさせたうえで、気を張り過ぎて疲れないように、狂喜乱舞の宴会を開いたり、茶会を楽しんだりして、相手にも、長期戦になる事を悟らせましょう」
と、父=元就が、あの尼子氏の月山富田(がっさんとだ)を落とした時(11月21日参照>>)長期戦の経験を語ったと言います。

いやはや、あの小田原攻めで、秀吉は現地におねさんの次に大好きな淀殿を呼び、諸将たちに「君らも、奥さんや側室を呼んじゃいな」なんて言って、陣中で千利休にお茶を点てさせた・・・なんてのも、隆景さんのアドバイスによるものだったんですね~

・・・で、結局、根負け気味の小田原城も天正十八年(1590年)7月5日に開城となるわけですが・・・(7月5日参照>>)

しかし、そこまで信頼されているにも関わらず、隆景が秀吉への警戒を解く事はありませんでした。

そして、晩年・・・案の定、そのカンは当たります。

すでに40歳になっている輝元に子供がいなかった事で、秀吉は、自分の養子となっている甥っ子(正室・おねの兄=木下家定の息子)秀俊を、「毛利家の養子にしてはどうか?」と持ちかけてくるのです。

キターーーーー!!(゚ロ゚屮)屮
これ、元就が二人の息子たちにやった例の、養子になって乗っ取り作戦です(再び9月27日参照>>)

しかし、さすがは智略の隆景・・・
「殿下のお耳には達してない話ですけど、実は、もう内々で決めてますんで…」と・・・

もちろん、実際には、まだ決まっていないハッタリですが・・・
「我が異母弟=穂田元清(ほいだもときよ)の子の秀元(11月7日参照>>)で、もう、輝元も承諾しております」

こう、はっきり言われたら、秀吉も
「ん…まぁ、一族の中にふさわしい者がおるんやったら、それに越した事はないわなぁ」
と、引き下がるしかなかったとか・・・

もちろん、その後すぐに輝元に手紙を書いて事情を説明・・・これを聞いた輝元は、即座に秀元を養子にして、毛利家の後継者として披露したのです。

しかし、智略の隆景・・・これだけでは、まだ、安心しませんでした。

そう、秀吉が名前を出した秀俊です。

この時、隆景は、すでに元就の末っ子=秀包(ひでかね)を養子にしていたにも関わらず、「秀俊を養子に迎えて跡取りとしたい」と申し出るのです。

この頃の毛利家は100万石を有していて、隆景の小早川家も50万石・・・この大きな領地ゆえに警戒されるのであれば、小早川の50万石を秀吉の血筋に返す事で、本家の毛利家への警戒を解こうとしたのです。

かくして文禄三年(1594年)、かの秀俊クンは隆景の養子となり、小早川秀秋と名乗ります。

その翌年には隠居して、小早川家の家督を秀秋に譲った隆景・・・こうして、本家=毛利家を守った隆景は、慶長二年(1597年)6月12日卒中で急死します。

享年65歳・・・それは、自らの死後の事をも見据えた見事な判断でした。

ただ、関ヶ原=徳川家康という大波を越えるには、もう一人、隆景クローンが必要だっのかも知れませんが・・・
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戦国・桃山~秀吉の時代」カテゴリの記事

コメント

小早川の死後だったか、宇喜多秀家が大老になりますが、秀家はまだ青年(20代)だったので、この後の政局を思うと責務が重かったとも言えますね。
この時代の「秀」が付く人は、ほぼ豊臣秀吉から片諱をもらった人ですね。
秀長(弟)、秀次、秀保、秀勝(以上甥)、秀秋(義理の甥)、秀家、秀康、秀忠、秀信など。

投稿: えびすこ | 2011年6月12日 (日) 15時47分

えびすこさん、こんにちは~

隆景の死後になったのは上杉景勝ではなかったか?と思いますが、
いずれにしても、秀家も景勝も、たぬき爺(失礼o(_ _)o)と渡り合うには、ちょっと若かったですね。

やはり、輝元さんにもうちょっとしっかりしといて欲しかった?かな

投稿: 茶々 | 2011年6月12日 (日) 16時33分

あっ、上杉景勝の方でしたね。
ご指摘ありがとうございます。m(_ _)m
宇喜多秀家の方が先に就任したんですね。
「天地人」で三成と兼続が人選した後に、5大老がそろうシーンが記憶にあったので勘違いしました。

投稿: えびすこ | 2011年6月12日 (日) 17時03分

えびすこさん、こんばんは~

>「天地人」で

あの時は、皆に「若い」とからかわれてましたね。

投稿: 茶々 | 2011年6月13日 (月) 01時49分

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