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2011年6月22日 (水)

松平正綱が日光に造った「人生の並木路」

 

慶安元年(1648年)6月22日、徳川家光・家綱・2代の将軍に老中として仕えた松平正綱が、73歳でこの世を去りました。

・・・・・・・・・

松平正綱(まさつな)・・・

老中として仕えたのは、上記の家光と家綱ですが、最初に出仕したのは初代将軍の徳川家康で、もちろん2代将軍の秀忠にも仕え、家光・家綱・・・と、まさに、徳川時代の始まりを支えた人でした。

ただ、戦場にて武功を挙げるタイプの人ではなく、官僚として政務をこなす人だったので、どちらかと言えば、目立たない地味な役周り・・・

彼の養子が、後に「知恵伊豆」の異名をとる松平伊豆守信綱なので、ご本人には失礼ながら、「知恵伊豆のお父さん」というイメージの正綱さんですが、実は、彼は、あの有名な日光の杉並木を造ったお方・・・

もちろん、徳川の威勢を背負って街道を整備したというのではなく、アレを彼が個人で植え、育成したという事です。

・‥…━━━☆

天正四年(1576年)に遠江(とおとうみ静岡県西部)大河内秀綱の次男として生まれた正綱は、その後、長沢松平家(長沢城を本拠とした松平家)松平正次の養子となって松平姓を名乗り、文禄元年(1592年)の17歳の時に、未だ豊臣家の五大老の一人であった徳川家康に(たぶん小姓?として)出仕しました。

4年後の慶長元年(1596年)、相模国(神奈川県)淘緩(ゆるき)郡万田(まんだ)380石の知行を賜った時には、そのうれしさに、早速、具足をあつらえようとしたところ、家康が、
「まだまだ、給料低いんやさかい、武器の用意は、ワシがしたるがな」
と、自分の鎧を正綱に与えたと言いますから、かなり、家康さんのお気に入りとなっていたのでしょうね。

果たして、その家康さんから貰った具足をつけて、あの関ヶ原の合戦に挑んだ正綱は、戦後に山城国のうちの500石を賜っていますから、武勇もなかなかのものだったのかも知れません。

やがて、家康が江戸で将軍職についた時には、正綱も同行し、従五位下右衛門佐(うえもんのすけ)に任じられます。

その後、家康が大御所となって駿府城に移った時にも彼は同行・・・

慶長十五年(1610年)10月に、駿府城で大きな火災が発生した時には、パニックに陥った人々を前に、納戸から晒(さらし)を持ち出して結び合わせ、それを石垣の上に垂らして、その綱をたどって堀へと逃げるよう指示して、多くの人命を救ったと言います。

この時は、その冷静沈着な誘導ぶりを絶賛した家康から、三河(愛知県東部)幡豆(はず)のうちの3000石を加増されたのだとか・・・

その後も、家康の近臣として勘定奉行などをこなし、大坂の陣でも家康のぞばに・・・やがて家康が亡くなった時には、その葬列にも連なり、翌年に慰霊が久能山から日光に改葬(4月10日参照>>)される時にも、供として従ったと言います。

ここで、終われば、有能な官僚というよりは、単に家康さんのお気に入りだったのかな?って感じですが、正綱は、その後も、2代将軍・秀忠の娘=和子後水尾(ごみずのお)天皇(4月13日参照>>)入内(にゅうだい)するおりに、酒井忠世土井利勝老中たちとともに同席したり、家光が3代将軍に就任するために上京する時にも、これに従ったり・・・と、まさに徳川初期の重要な出来事に、ことごとく顔を見せています。

徳川の節目節目に顔を見せる・・・これは、やはり、彼が優秀な官僚であったからに他ならないでしょう。

寛永二年(1625年)には2万2100石を以って、相模玉縄藩(たまなわはん=神奈川県鎌倉市)の初代藩主となった正綱・・・彼が日光東照宮の参道に杉を植樹し始めるのは、この年から・・・

Nikkousuginamiki700 日光杉並木

徒歩移動しかなかった昔の旅人たちにとって、街道沿いの街路樹と言えば、疲れた時に日陰の涼しさを提供してくれるもので、日本でも、奈良や平安の昔から、並木を植樹するという事があったようで、それこそ、幕府の大名や旗本衆に呼び掛けて、公費でまかなう事もできたはず・・・

でも、正綱は、そうは、しませんでした。

思えば、17歳で家康に出仕して380石の知行を得た時から、目立たぬ中にも、ただひたすら、徳川家のためにと働いた日々・・・

途中、家光から疎まれ、幕閣から排除された事もありましたが、わずかの期間で復帰し、最終的に譜代大名の藩祖として名を残せた事は、彼にとって誇りであり、その人生は、徳川家への感謝に満ちあふれた物だったのでしょう。

24年もの長きに渡って、日光に杉を植えて整備し続けた正綱は、慶安元年(1648年)6月22日未だ杉並木の完成を見ないまま、73歳の生涯を閉じました。

彼の死後に完成した日光の杉並木は、現在、世界最長の並木道としてギネスに認定されているのだとか・・・

そこには、私費を投じる事で自らの気持ちを1本1本の杉の木に込めて植えていった、正綱という人の人生が写しだされているのかも知れません。

まさに♪人生の並木路♪・・・古っ!
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江戸時代」カテゴリの記事

コメント

シブい!!
歴史上の目立たない人物、事柄を教えていただいて毎度アリガトウゴザイマス。
徳川300年の体制を築いた、あの「知恵伊豆」のお父さんが日光の杉並木を作ったんですか。
数回行ったことがありますが、遠く離れても日光街道の場所を確認できるほどの杉の高さになってました。(なかなかの迫力!)
日光というと吊り天井、天海→光秀、または眠り猫→ショボイという安直な発想しか無かったもので…。(湯葉はまあまあでした…。)

ではでは

投稿: azuking | 2011年6月22日 (水) 16時19分

松平正綱さんは元々、三河大河内家出身で家康に取り立てられて松平性になったんですよね。末裔に理化学研究所の創設者だった大河内正敏先生などもいらっしゃって、中世から近世にかけて逸材を輩出した家柄だったりします(ちなみに、松平家は明治期に大河内家に復帰しています)。
実は、大河内先生は保存料や化学調味料合成の開発者でもあり、明治以降も松平家が存続していなかったら、カップヌードルなんか存在してなかったかもしれませんね(笑)

投稿: おみそしる | 2011年6月22日 (水) 16時52分

azukingさん、こんばんは~

私も、行くには行った事あるんですが、完全に車でスルー状態でしたね。

今度行く時は、正綱さんに思いを馳せながら、じっくりと雰囲気を味わってみたいと思います。

投稿: 茶々 | 2011年6月22日 (水) 18時45分

おみそしるさん、こんばんは~

>カップヌードルなんか存在してなかったかも…

ホントですね。
歴史は、いつの時代も、「今」につながっているのだなぁ…とつくづく

投稿: 茶々 | 2011年6月22日 (水) 18時47分

私は、栃木県民(宇都宮市民)なので日光について小学校で色々調べたりしました。ですがこれほどまで杉並木には思いが込められていたとは、はじめて知りました。杉並木をはじめ日光の文化財は、栃木県の誇りです。

投稿: Ikuya | 2011年7月 5日 (火) 22時57分

Ikuyaさん、こんばんは~

>栃木県の誇り

いいですね~
日光はすばらしいデス!

投稿: 茶々 | 2011年7月 6日 (水) 01時57分

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