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2011年6月26日 (日)

名誉か?重荷か?謙信にとっての関東管領職

永禄二年(1559年)6月26日、足利義輝長尾景虎に裏書・塗輿を許し、関東管領上杉憲政の補佐を命じるとともに、信濃出兵に名分を与えました。

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長尾景虎(かげとら)と言えば、ご存じ、上杉謙信の事ですが、越後(新潟県)にいた謙信が関東と関わるようになるのは、天文二十一年(1552年)の事・・・

そもそもは、あの足利尊氏室町幕府を開く際、自分の本拠地が関東であるにも関わらず、南北朝でゴタゴタしていたために、京都で幕府を開かざるを得ない事になり、自らは将軍として京都にいて、領地である関東を治めさせるための役職=鎌倉公方というのを造ったわけです。

ほんで、将軍を尊氏の長男の家系が、鎌倉公方を次男の家系が代々継いでいくわけですが、この鎌倉公方を補佐する役職が関東管領・・・で、この関東管領を、扇谷(おうぎがやつ)上杉家山内(やまのうち)上杉家両上杉家が交代々々でやってたわけです。

ちなみに、その関東管領を補佐する執事・・・扇谷上杉家の執事が、あの太田道灌(どうかん)太田家で、山内上杉家の執事が長尾家です。

もともと越後という土地も、山内上杉家が守護を務め、長尾家が守護代だったのを、謙信の父である長尾為景(ながおためかげ)が、守護の上杉房能(ふさよし)を追いやって、事実上の権力を握ったわけで・・・(8月7日参照>>)

そう、世は戦国に突入して、あっちでもこっちでも下剋上の嵐・・・関東では、あの北条家が力をつけて来て、もはや扇谷だ山内だと言ってられなくなった山内上杉憲政(のりまさ)扇谷上杉朝定(ともさだ)ら両上杉は、古河公方足利晴氏とも一致団結して北条氏康(うじやす)と相対する事になるのですが、天文十五年(1546年)の河越夜戦で奇襲をかけられて見事敗退し(4月20日参照>>)もはや、公方も管領も壊滅状態となります。

Kensinbazyounozu500 やがて天文二十一年(1552年)の正月・・・その山内上杉家の憲政が、とうとう関東を追われ、越後・春日山城にいた謙信を頼って来たわけです。

この時のそれぞれの心の内は、それこそ当人に聞いてみるしかありませんが、ともかく、表面上は、「頼られたんで…」という事で、謙信は早速準備を整え、その年の5月に、初めての関東遠征軍を派遣しました。

ただ、ご存じの通り、越後は雪深い土地・・・退路を断たれる事を懸念して、その遠征軍は12月には帰国します。

とは言え、この頃の長尾家は、まだまだ1枚岩とは言い難い状況・・・そんな中でも、上田長尾政景の反乱を鎮めて、ようやく越後制覇も目前となった頃、今度は、あの甲斐(山梨県)武田信玄が・・・

もともと、かねてより信濃への領地拡大を図っていた信玄ですが、これに対抗して踏ん張っていた村上義清(9月9日参照>>)、ここに来て信玄に本拠の葛尾城を包囲され、先に信玄に破れて義清のもとに逃げ込んでいた小笠原長時とともに、城を脱出して謙信を頼って逃げて込んで来たのでした(4月22日参照>>)

これによって、謙信は、信玄とも相対する事になります・・・これが、後に5回に渡って繰り広げられるあの川中島の戦い

一方、謙信の援助により、少しは回復した憲政でしたが、結局、永禄元年(1558年)5月、またもや氏康に攻められ、またもや越後に逃亡して来ます。

しかも、今度は、上杉家の系譜と先祖代々のお宝を手に・・・

そう、今回の憲政は、もはや、自分の手に負えなくなった関東管領職を、謙信に譲る決意で頼って来たのです。

未だ24歳の青年にとっては、
「んもう~ どいつもこいつも!(≧ヘ≦)」
(↑謙信、心の叫び)てな感じ?

確かに、越後の一戦国大名にとって関東管領は名誉であり、それなりの魅力もあったでしょうが、信玄との決着は着かんわ、越後からの関東遠征は大変やわ・・・で、この時は丁重にお断りする謙信でしたが、その翌年・・・

三好長慶(みよしながよし)の台頭で京都を追われていた第13代室町幕府将軍・足利義輝(よしてる)が、三好氏と和睦して晴れて都に戻った事で、その義輝から上洛要請があったのです(11月27日参照>>)

こうして、4月27日に上洛を果たした謙信(4月27日参照>>)・・・

かくして永禄二年(1559年)6月26日謙信は、将軍・義輝より、関東管領並みの格式を許されるとともに、信濃出兵の名分を得たのです。

しかし、この時の謙信にとっては、関東管領よりも、信玄と戦う事の大義名分を得た事のほうがうれしかったかも?知れませんね。

将軍のお墨付きを得た事で、一連の信玄との戦いでは、コチラが官軍となり、向こうは賊軍となるのですから・・・

それを示すかのように、この時点での謙信は、あくまて管領並みであり、補佐であるわけで、結局、正式に関東管領職を継ぐのは2年後の永禄四年(1561年)・・・鎌倉の鶴岡八幡宮にて、憲政から家督と管領職を譲られ、その名も上杉政虎(まさとら)と改めた時です。

しかし、結局、これが、謙信自身が自分で自分の首をしめる結果に・・・

なんせ、ここから、天正六年(1578年)に亡くなる(3月13日参照>>)までの間、14回も関東に出陣し、そのうち7回も関東で年を越す事になってしまうのです。

歴史にifは禁物ですが、もし、謙信が関東に力を削がれなければ、あの信玄との決戦は?そして、あの織田信長との関係は?
と、妄想を掻き立てられてしまいます。
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戦国・群雄割拠の時代」カテゴリの記事

コメント

上杉謙信は20代前半でいろいろな人にあてにされたんですね。後世に「毘沙門天の化身」と称される由縁ですね。
上杉謙信は「天地人」では僧体になる前は総髪でしたね。「月代の上杉謙信」はあまり見た事がないんですが、月代である上杉謙信は映画かテレビのどの作品で見られますか?

「千思万考」ですが、特集の時間の関係で今日はありませんでした。残念。

投稿: えびすこ | 2011年6月26日 (日) 16時47分

えびすこさん、こんばんは~

>月代である上杉謙信は映画かテレビのどの作品で見られますか?

申し訳ないです。
そんなに映画やテレビを見ないので、私も、頭巾をかぶったとこか、最近ではガクトさんのヘアスタイルしかわかりませんo(_ _)oペコッ

投稿: 茶々 | 2011年6月27日 (月) 02時15分

上杉謙信は女性であるという説がある。その根拠は春日山にある謙信のお墓は女性の作りだからだという。「公方」は「管領職」だけに命令し、実際の命令者は「管領者」だったけど、公方と管領はずっと仲が悪かった。「関東争乱」の原因だったかもよ。後北条の関東制覇を阻止した謙信の評価はどうかな?

投稿: 銀次 | 2011年6月27日 (月) 04時24分

もし関東管領になって本拠地を関東(群馬あたり)に移転していたら、越後から北関東にまたがる勢力になったんですが、謙信自身は春日山城を離れませんでした。群馬であれば長野に近いので、碓氷峠を越えれば山梨にも近いですね。関東での戦いに苦戦したのは、群馬北部の山地を越えるのに苦労したからですね。

昨日「月代の上杉謙信」について書いたのは、「天地人」では家来も総髪(これは北陸が冬場寒いため?)だったんですね。「もしも上杉謙信が月代を剃っていれば、家臣にも月代があるのかな?」と感じたからです。16世紀半ばまでは、月代を剃る事を徹底していない?時期でもありますね。
担当によると「他の大名家の家臣と区別をするため」と言っていました。

投稿: えびすこ | 2011年6月27日 (月) 09時06分

銀次さん、こんにちは~

>上杉謙信は女性であるという説

他にも、色々と「女性だ」と思わせる根拠があるみたいです。
4年も前のページですが、良かったら2007年1月21日>>を見ていただけるとウレシイです。

確かに、北条を野放しにしていたら、もっと大きくなった可能性も無きにしもあらずですが、個人的には、北条には現在の「権限を維持したい」というのはあっても、これ以上に「領地拡大」の野望は、さほど無かったように感じています。

謙信は頑張ったワリには、関東における効果が少なかったような…そのぶん越後や北陸に力を入れてたら、どうなっていたのかな?と考えてしまいます。

投稿: 茶々 | 2011年6月27日 (月) 15時23分

えびすこさん、こんにちは~

そう言えば、妻夫木くんが最後まで総髪だった事が論争になってた事があったような???

投稿: 茶々 | 2011年6月27日 (月) 15時27分

当時、越後守護は領国経営を守護代に任せていた。しかし房能は守護就任から4年後、郡司不入権を破棄、直接支配に乗り出した。郡司は守護の郡単位の代官で、守護の公的権力介入を拒否出来る権限を持っていた。突然の方針転換に代官は反発、租税に苦しむ民衆の不安も増幅した。
そして、権力強化を図る房能への反発は日増しに大きくなっていた。1507年、守護代・長尾為景は房能の娘婿・上杉定実と共に房能打倒の兵を挙げた。
討伐理由は
「守護職を堅持したい房能が、力をつけた為景の誅殺を企てたが、動きを知った為景が先手を打ったのではないか」と、地元の郷土史家は推測する。

そして、「領民を顧みないで家臣に討たれた房能は自業自得」と、房能が自害した地元の年配者は語った。

投稿: 元上杉家領民 | 2011年8月 7日 (日) 22時34分

元上杉家領民さん、こんばんは~

長尾為景と上杉房能については、2年前の2009年の房能さんのご命日:8月7日のページ>>でご紹介させていただいていますので、また、そちらにもコメントいただけると幸いです。

投稿: 茶々 | 2011年8月 8日 (月) 00時36分

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