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2011年6月 6日 (月)

第2次蒙古襲来~弘安の役

 

弘安四年(1281年)6月6日、博多湾に10万の軍勢で蒙古が襲来・・・世に言う弘安の役の勃発です。

・・・・・・・・・・

文永五年(1268年)閏1月・・・の皇帝=フビライ・ハーンからよこされた国書を無視した日本・・・大帝国から売られたケンカ=日本始まって以来とも言える未曽有の危機を乗り越えるべく、未だ18歳の北条時宗第8代執権に就任したのは、その国書から2ヶ月後の事でした。

新しきリーダーに、未だ盤石とな言い難い内政ではありつつも、来るべき敵に備えて、北九州を中心とした要地の防備に尽力する時宗・・・

やがて、文永十一年(1274年)10月5日に対馬(つしま)沖に現われた元軍は、またたく間にかの地を占領(10月15日参照>>)、10月19日には博多湾に侵入してきました・・・

これが文永の役(10月19日参照>>)なわけですが、一旦は博多を落されながらも、翌日に忽然と姿を消した元軍・・・ご存じのように「神風のおかげ」と言われる、突然の元軍撤退ですが、とにもかくにも、こうして一度めの蒙古襲来に、日本は耐えわけです。

一方のフビライ・・・

日本への文永の役と同時に、南宋への侵出も開始していたフビライは、1276年、南宋の首都=臨安(りんあん=現在の杭州)を陥落させ、南宋を滅亡に追いやります。

ただ、その後も、南宋皇帝の遺児を掲げた生き残りによる反乱がしばらくは続きましたが、それも3年後の1279年3月に完全粉砕・・・ここに、名実ともに中国全土を統一したのです。

こうして、思う存分、日本に目を向ける事ができるようになったフビライ・・・わずか3カ月後の弘安二年(1279年)6月に、元への服属を要求する使者を日本に派遣して来たのです。

ところが、周福(しゅうふく)を正使とするこの一行=3名を、日本側は大宰府で斬首してしまいます。

もはや臨戦態勢の日本・・・というか、すでに、この4年前の建治元年(1275年)に、執権=時宗は、元の使者=5名を斬首して、その徹底抗戦の姿勢を見せていました(9月7日参照>>)、フビライのところには、そのニュースが届いていなかったようで、どうやら、今回の斬首事件で初めて、前回も同じような事になっていた事を知った・・・という事のようです。

とにかく、これに激怒したフビライ・・・中国全土を支配したモンゴル民族の威信にかけて、日本に再度の遠征軍を派遣する決意を固めたのです。

実は、この遠征軍の派遣は、フビライにとっても好都合な事でした。

・・・というのも上記の通り、中国全土を支配したという事は、先の南宋の生き残りのように最後まで抵抗する者もいる事はいるものの、そんな数はほんの一部・・・それより、はるかに多くの将兵が、すんなりと降伏して服属しているわけで、この頃、フビライが抱える兵の数は、ハンパなく多いものとなっていたのです。

一説には、首都の臨安だけで40万人もいたのだとか・・・

そんな彼らのすべてを元軍の兵士とすれば、それこそ膨大な費用がかさむわけですが、かと言って何かあったらすぐ解雇!とすると、それはそれで、いらぬ反乱に発展するかも知れません。

そこで、フビライは、旧南宋軍や漢人(中国北部の民族)や高麗(朝鮮)人などを中心にして日本遠征軍を再編成・・・それこそ、攻略したあかつきには、そこが彼らの新天地になるとでも言わんばかりの膨大な遠征軍が組織されたのです。

その数は、約10万人とも言われます。

こうして、弘安四年(1281年)1月4日・・・フビライは諸将に、日本再征軍の出陣を発令しました。

高麗の港=合浦(がっぽ)から出発する東路軍と、旧南宋の慶元(けいげん・現在の寧波)から出発する江南軍・・・大きく2手に分かれた軍団は、合計:3500隻という前代未聞の船団を組んで海を渡ります

Moukosyuuraigennnofune900 元軍の船(宮内庁三の丸尚蔵館蔵「蒙古襲来絵詞」部分)

・・・とは言え、実は、その中の多くが、まるで移民団のごとき非戦闘員であったとか・・・

近年の研究では、10万と言えど、ほとんどが鋤(すき)や鍬(くわ)などを武器として持つ農民兵で、弓矢などの装備が許されていたのは、監視役の軍人=約3000人ほどだったと言われます。

一方の、日本側は、九州と関東の御家人を合計すれば、約4万のプロ戦闘集団だったとも・・・

とにもかくにも、世界最大とも言える大艦隊は、5月21日に対馬に上陸・・・26日には壱岐(いき)を攻撃した後、前回と同様に、博多湾沿岸から上陸すべく、一部の船団が長門(山口県)へと向かいます。

かくして弘安四年(1281年)6月6日博多湾上に姿を見せた蒙古=元軍・・・しかし、彼らが見た物は・・・

渡す限りの海岸に築かれた鉄壁の防塁=石築地(いしついじ)でした。

そう、執権=時宗は、前回の文永の役を踏まえて、元軍の上陸を阻むべく、要所要所に防塁を築いて準備万端整えていた(3月10日参照>>)のです

さぁ、どうする元軍・・・

と、このお話の続きは、次に動きのあった7月1日のページへどうぞ>>o(_ _)oペコッ
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コメント

昨日ちょうど5年前の同じ記事に投稿したんですね。
今夜の「世紀のワードショー」では、北条政子を取り上げますよ。来年の大河ドラマの終盤に出ますかね?

投稿: えびすこ | 2011年6月 6日 (月) 17時20分

えびすこさん、こんばんは~

>昨日ちょうど5年前の同じ記事に…

はい、
ブログを始めてすぐの、だいたい半年間(秋~冬)くらいは、まだ、ブログのコンセプト(歴史の話をする事)も決まっておらず、文字通りの「日記」のような内容だったので、くわしく書き直したいと思っているページが多々あります。

ブログ全体の容量も決まっていて、永遠に書き続ける事は不可能ですから、機会があれば、書き直して、古いページは排除するようにしようかと思っています。

投稿: 茶々 | 2011年6月 6日 (月) 22時13分

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