« 乱世に咲いた可憐な花~武田の姫・黄梅院殿 | トップページ | 男と男のアブナイ関係…若衆歌舞伎 »

2011年6月19日 (日)

いよいよ姉川…小谷に迫る信長と同盟者・家康

 

元亀元年(1570年)6月19日、徳川家康にも加勢を求めた織田信長が、浅井長政討伐のため岐阜を出陣しました。

・・・・・・・・・・

永禄十一年(1568年)9月、第15代将軍・足利義昭を奉じて上洛した織田信長(9月26日参照>>)・・・以来、着々と畿内での覇権を固める中、元亀元年(1570年)1月、「禁中(御所)御修理、武家御用(将軍の命令)、そのほか静謐(せいひつ)のため」との理由をつけて、諸国の大名に上洛を呼び掛けたのです。

つまり、「御所の修理とか、その他モロモロの件を平穏に済ませるためにも…と将軍さんが呼んでるから会いに来てネ」と・・・

名目は将軍ですが、それはイコール、その将軍を奉じて上洛した信長の傘下に入るという事ですから、当然、応じない大名もいるわけで・・・

その一人が越前(福井県)を支配する朝倉義景(よしかげ)・・・なんせ、もともと、信長の織田家は、朝倉とともに尾張(愛知県西部)や越前の守護大名だった斯波(しば)に仕えていた家臣同士で、しかも、朝倉家はその守護代を務めていた直臣でしたが、織田家はもっと下の陪臣(ばいしん・家臣の家臣)だったわけですから、
「そんなん、頭下げれるかい!」
と、義景が思ってしまうのも無理のないところ・・・

・・・で、ここんとこ勢いのある信長は、義景の上洛拒否を「これ幸い」とばかりに、越前攻めを決行します。

これが、元亀元年(1570年)4月26日の手筒山城・金ヶ崎城の攻防戦(4月26日参照>>)です。

ところが、もう、あとチョットで、義景の本拠地・一乗谷・・・ってところで、突然のニュースが!

「北近江(滋賀県北)を支配する浅井長政が、義景の味方につき、こっちに向かって攻めて来る」というのです。

ご存じのように、信長は、この長政に、妹のお市の方を嫁がせて、すっかり味方につけたつもりでいて、長政も、信長の命令で近江南部を支配する六角氏を攻めたりなんぞしてたわけですが、ここに来て、昔馴染みの朝倉のピンチを見過ごせず寝返ったのです。

福井と滋賀・・・その真ん中に信長・・・このままでは挟み撃ちに遭う!とばかりに、信長は決死の覚悟で岐阜へと撤退します・・・有名な金ヶ崎の退き口です(4月27日参照>>)

5月21日・・・なんとか無事に岐阜に戻った信長ですが、もちろん、このままで終わらせるわけにはいきません。

それは、裏切った長政も重々承知・・・信長の近江進攻を警戒すべく、美濃(岐阜県)との国境にある長比(たけくらべ)刈安尾(かりやすお)などの場所に城砦を構築して準備を整えます。

Anegawaitikankeizucc ↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために、趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

・・・が、しかし、信長の行動は素早く、翌・6月に入ってすぐ、永原城(滋賀県野洲市永原)に残して来た佐久間信盛長光寺城(滋賀県近江八幡市長光寺町)を守らせた柴田勝家に檄を飛ばします。

それに、早速応えてくれたのが勝家・・・わずかの手勢だけで守っていた最前線の城を、「今がチャンス」とばかりにチョッカイを出して来た六角承禎(じょうてい・義堅)義治(よしはる)親子野洲(やす)にて撃退し、散り散りにさせてくれました(6月4日参照>>)

さらに、そのスキに、鎌刃城(かまはじょう・滋賀県米原市番場)堀秀村と、長比城(滋賀県米原市長久寺)樋口直房を調略によって寝返らせ(6月13日の真ん中あたり参照>>ここに竹中半兵衛が関与してます)長政から離反させる事に成功した信長・・・これで、彼の北近江への進攻を妨げる物は、すべて排除されました。

かくして元亀元年(1570年)6月19日、同盟者である徳川家康に出陣を要請するとともに、自らも岐阜城を出陣・・・その日のうちに長比城へと入ったのでした。

一方、信長からの援軍依頼を受けた徳川家では、その依頼に応じて出陣するか否かが話し合われていました。

というのも、あの今川氏の滅亡(12月27日参照>>)によって、1年チョイ前に徳川の傘下となったばかりの高天神城(静岡県小笠郡大東町下土方)小笠原氏助(うじすけ・信興)が、未だ今川時代の気質が抜けきれず、何かとチャンスをうかがう気配をかもし出していたからです。

そんな状態で大量の兵を率いて家康が本拠地を留守にすれば、それをきっかけに、何か事を起こすかも知れません。

しかし、軍議の席で、あの本多忠勝が物申します。
「気になる事があります!
信長さんは、一見、味方のようにふるまってはりますけど、実はそうでないように思いますよって、今回の出陣は大事と考えたほうがええかと・・・」

その意見を採用して、必要最低限の守備兵を国境沿いに残し、精鋭部隊を引き連れて、自ら出陣する事を決意した家康・・・ここで、ピッカ~~ンflairナイスなアイデアがひらめきます。

そうです、その出陣に、かの氏助も連れて行けば良いのです。

氏助と、その兵が、家康とともにいるなら、その留守のスキを狙われる事もありません。

家康は早速、氏助にも出陣を依頼・・・それも、彼の持つ兵力の半分を守備に残し、「残りの半分を率いて、ともに出陣せよ」と・・・

ただ、ここでゴタゴタしていたために、家康は初戦に遅れをとる事になり、その間に北国脇(ほっこくわき)往環を通って小谷城近くへと達していた信長が、早くも21日に小谷の村々に放火・・・

ただ、以前も書かせていただいたように、小谷城は険しい山上にあり、なかなか攻めるに難しい・・・そこで、南側にある横山城(滋賀県長浜市堀部町)を囲み、長政らが救援に来るように仕向けるわけですが・・・

果たして6月24日・・・長政からの「小谷危うし」の連絡を受けて救援に駆け付けた朝倉軍と合流して、小谷城の南東に姿を現した浅井軍・・

そして、一方の信長軍には家康が合流・・・

姉川を挟んでにらみ合った両者は、いよいよ・・・と、このお話は、4年も前のページではありますが、2007年6月28日のページで>>

ところで、なんだかんだウマイ事言って連れて来られた感のある小笠原氏助とその配下なんですが・・・なんと、意外にも、この小笠原隊が、姉川本番では大活躍!のお話は2008年の6月28日のページでどうぞ>>
 .

内容が「よかった」と思っていただけましたら
右サイドバーsoonにあります【拍手!!】を・・・
ブログ内の人気ページとしてランキングされます(゚ー゚)
あなたの応援で元気100倍!

人気ブログランキングへ    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



 

 


|

« 乱世に咲いた可憐な花~武田の姫・黄梅院殿 | トップページ | 男と男のアブナイ関係…若衆歌舞伎 »

戦国・安土~信長の時代」カテゴリの記事

コメント

姉川の戦いは「江 姫たちの戦国」の第1回の前半で丸々取り上げていましたね。姉川の戦いで織田軍が撤退する時に、木下藤吉郎が「しんがり」をするのを、昔の「秀吉」でも見た事があります。記憶違いでなければ確かそうです。
ちょうどこの戦いの頃に初が生まれたんですね。19日の放送では水川さんの初が出ませんでしたね。気付きました?

この10何年の大河ドラマの主役の人は、半分くらいが番組が終わった後に、「テレビのドラマから少し距離を置く」傾向があると思います。映画や舞台には出る(活動中心を移す?)ので仕事の不自由はないです。宮崎あおいさんは「映画一本」に絞っている印象で、妻夫木聡さんは今のところテレビドラマの主役はなく、滝沢秀明君もテレビから離れています。
でも、香取慎吾さんや仲間由紀恵さんとかはテレビドラマで主役をしています。今年の主役の上野樹里さんは来年以降はどんな活動をするか?

投稿: えびすこ | 2011年6月21日 (火) 17時22分

えびすこさん、こんにちは~

思うに、ギャラが相当アップするんでしょうね。

投稿: 茶々 | 2011年6月21日 (火) 17時59分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/47570/40446909

この記事へのトラックバック一覧です: いよいよ姉川…小谷に迫る信長と同盟者・家康:

« 乱世に咲いた可憐な花~武田の姫・黄梅院殿 | トップページ | 男と男のアブナイ関係…若衆歌舞伎 »