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2011年6月17日 (金)

乱世に咲いた可憐な花~武田の姫・黄梅院殿

 

永禄十二年(1569年)6月17日、武田信玄の長女・黄梅院殿が、わずか27歳でこの世を去りました。

・・・・・・・・

私・・・先日来より、政略結婚に翻弄された戦国の女性が不幸一辺倒ではない事を、何度か主張して参りました(4月22日参照>>)

それは、近年の研究によって明らかになりつつある女性の役割・・・

政略結婚によって嫁いだ女性たちは、実家と婚家との架け橋となる重要な役割を果たしつつ、おそらくは、その役割を担える事を誇りに思っていたであろう事・・・

また、結婚後は、婚家の大黒柱として家内の事を仕切り、夫が病気、あるいは亡くなった時には、その代役として政務をこなす事もあったであろうと考えるからです。

たとえば、悲劇の政略結婚の代表格とされるお市の方も、浅井家&柴田家との架け橋となる重責を担って嫁ぎ、なんだかんだで死ぬ直前まで3人の娘たちとともに過ごし、最後は、おそらく、自らの意思で勝家とともに散ったと思うのです(4月23日参照>>)

もちろん、志半ばで死ぬ事は悲しい事で、できれば天寿を全うするのがベストですが、平和な時代と違って、男だって明日をも知れぬ戦国の世なのですから、その中で、自らの意思でその最期を決定できたという事は、武家に生まれた女としては、ある意味、満足ではなかったのかな?と思うのです(あくまで個人の価値観ですが…(゚ー゚;)

しかし、その末路によっては、やはり、悲劇的な政略結婚の犠牲となる場合もあると思います。

その代表格が、本日の黄梅院ではないでしょうか・・・

・‥…━━━☆

黄梅院殿・・・戦国女性の常として、その実名は残っておらず、これは出家した後の法号で、その読み方も「おうばいいん」「こうばいいいん」かは確定されていません。

黄梅院は、彼女の父=武田信玄(当時は晴信)が、最初の正室をわずか1年で亡くし、その次に、今川義元の仲立ちで迎えた正室の転法輪三条公頼(てんぽういんさんじょうきんより)の娘・三条殿(三条の方)(7月28日参照>>)との間に、23歳の時にもうけた娘で、長男の義信(よしのぶ)、次男の竜芳(りゅうほう)の次ぎに生まれた、初めての女の子=長女です。

そんな事で、幼い頃は、ものすごく大事にされ、可愛がられて育ったと言いますが、わずか12歳で、早くも結婚話が決まります。

相手は相模(神奈川県)北条氏でした。

そもそもは・・・
天文六年(1537年)に、信玄の姉が今川義元に嫁いで、両家の同盟が成った事で、その前から武田と敵対していた北条は、今川と断交・・・

その後、しばらくの間は抗争を繰り返していたものの、天文十四年(1545年)には、今川と北条が和睦の道へ・・・

しかし、天文十九年(1550年)に義元に嫁いでいた信玄の姉が亡くなった事を受けて、翌年、義元の娘が信玄の嫡男のもとに嫁ぐ事が決まると、またまたその関係は微妙な物に・・・

そんなところに、当時、北条と同盟を結んでいた古河(こが)公方足利晴氏が、北条と敵対する上杉謙信(当時は長尾景虎)同盟を結んでしまったのです。

つまり、北条氏康は、今川&武田&足利&長尾(上杉)・・・と、これら全部を敵に回す事になってしまったわけです。

そんな状況を打開しようと持ち上がったのが、氏康の嫡男・氏政と黄梅院の結婚を証とした同盟関係の成立だったわけです。

こうして決まった天文二十三年(1554年)12月の輿入れは・・・
輿が12挺、長持42挺、
小山田信有(弥三郎)を警護役責任者に3000の騎馬武者、
徒歩の人数は1万人だったと・・・

こういう記録の場合、大抵はオーバーに数を盛る物ではありますが、その分を差し引いても、豪華絢爛な輿入れ行列だった事は確かで、それも、信玄の彼女への愛情の証と言われています。

こうして、両家の架け橋となる大役を担って小田原城へと入った黄梅院・・・結婚の儀式が行われたのは、翌・天文二十四年の正月だったと言いますが、その年の11月8日には、早くも第1子の嫡男が生まれているところを見れば、夫婦の関係も、なかなか良かったのではないかと・・・

ただ、残念な事に、その第1子は、その後の系図や史料に登場しない所から、比較的早くに亡くなったと思われます。

しかし、その子を含め、生涯に7人の子供を出産し、そのうち5人は元気に育ちます。

ご存じ、この後に北条家を継ぐ事になる氏直
後に千葉邦胤(ちばくにたね)と結婚する女の子・芳桂院
その邦胤の婿養子に入って千葉氏を継ぐ直重(なおしげ)
大田氏資(うじすけ)の養子となって大田家を継ぐ氏房(うじふさ)
小田原開城後に徳川家康に仕える直定・・・

氏政は、なかなかの愛妻家であったようですし、子供たちにも囲まれ・・・小田原で過ごしたこの頃が、黄梅院にとって、一番幸せな時期だった事でしょう。

しかし、そんな時間は長くは続きませんでした。

永禄三年(1560年)5月、あの桶狭間で今川義元が倒れる(5月19日参照>>)と、信玄は、密かに家康と同盟を結び、駿河への進攻を開始するのです。

当然ですが、これは、今川&北条&武田で結んだ三国同盟を事実上破棄した事になります。

もちろん、その真意は信玄本人に聞くしかありませんが、かの同盟の時に義元の娘を妻に迎えてした嫡男・義信を死に追いやってまで決行する(10月19日参照>>)という固い決意のもとの行動でした。

そして、とうとう、永禄十一年(1568年)12月、義元の後を継いでいた今川氏真(うじざね)今川館に攻め、信玄が駿河を奪い取ったのです(12月13日参照>>)

これに激怒したのが北条氏康・・・なんせ氏康は、その氏真に、娘・早川殿(=氏政の妹)を嫁がせているわけで、しかも、この時、今川館を脱出する氏真とともにいた早川殿は、乗る輿すらなく、徒歩にて命からがら逃げたのだとか・・・

勝手な同盟破棄のうえに、娘のそんな状況を聞かされたひにゃ、到底、許せるはずもなく、怒りは、信玄の娘である黄梅院へと向けられ、即刻離縁となってしまったのです。

・・・と、ここで、黄梅院は、すぐに甲斐に送り返されたという事がよく言われますが、実は、それを確定する史料は残っておらず、研究者の中には、そのまま小田原で亡くなったのではないか?と考える方もいます。

そう、その心痛のあまりか・・・黄梅院殿の死は、この離縁から、わずか半年後なのです。

ただ、離縁の時に、父・信玄から与えられた(氏政からの堪忍分という説も)十六貫二百文の知行が、彼女が亡くなった後に創建された黄梅院(山梨県甲斐市・現在は“伝黄梅院跡”となっている)というお寺の造営費用として使われ、そこには彼女の墓もあったというところから、「甲斐に戻っていたのだろう」との意見が主流となっています。

しかし、この曖昧さが、彼女の最期を物語っているようで、なんとも胸がつまります。

もし、小田原に残っていたとしても、おそらくは、可愛い子供たちに会う事など許されなかったでしょうし、甲斐に戻っていたとしても、引き離された幼子を思いながら、たった一人で、身の置き場の無い日々を送っていたに違いありません。

「離縁後の史料がない」・・・これこそが、何よりも「彼女の居場所が無かった」事のように思えてなりません。

永禄十二年(1569年)6月17日、武田と北条の間に可憐咲いた花は、わずか27年でひっそりと・・・
その場所すら伝えずに散っていった
のです。
 .

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戦国・安土~信長の時代」カテゴリの記事

コメント

黄梅院は不幸かもしれませんが、こればかり本人に聞いてみないとわかりません。子供が家督を継いでいるのだから、そうとも言えないです。墓所も早雲寺にもあるそうです。武田家の夫人や娘たちはあまり幸福な人はいないような気がしますが。

投稿: やぶひび | 2011年6月18日 (土) 15時45分

やぶひびさん、こんにちは~

>こればかり本人に…

確かに、本人のみぞ知るところですが…(*^.^*)

投稿: 茶々 | 2011年6月18日 (土) 17時13分

五女の松姫も非常に数奇な運命でしたね。
織田の信濃進行時、婚約者の織田信忠との縁組を破棄。武田滅亡後、彼女を諦めきれない信忠が正室として松姫を迎え入れる準備をし、彼女に使者を送ったものの、信忠が本能寺の変にて死去。その後、松姫は出家。さらに後年、幼少の保科正之を育て、八王子千人同心の心の支えとなりました。
余談ですが、保科正之と言えば会津、八王子千人同心と言えば新撰組の近藤家、偶然ですが幕末史に繋がり、歴史の奇を感じます。

投稿: おみそしる | 2011年6月19日 (日) 09時54分

>松姫は保科正之の世話を見た。
確か、松姫は「葵 徳川三代」に出ていたような気がします。
武田信玄の子供で1番長生きした人かも。

投稿: えびすこ | 2011年6月19日 (日) 10時09分

おみそしるさん、こんにちは~

>五女の松姫も…

そうですね。
このブログでも、その保科正之のページとその母のお静さんののページでチラッっと書かせていただきましたが、いずれ、また、彼女を主役にしたお話も書かせていただきたいと思っています。

投稿: 茶々 | 2011年6月19日 (日) 11時14分

えびすこさん、こんにちは~

「おんな風林火山」の主役でもありましたね

投稿: 茶々 | 2011年6月19日 (日) 11時16分

武田信玄(出家前は、晴信)の長女として生まれ、北条氏康&今川義元との三国同盟の締結のために、北条氏政の正室となった黄梅院でしたが、桶狭間の戦いで義元が戦死したことで、人生を狂わされたのではないでしょうか。氏政との間に、北条氏直&北条氏房兄弟らをもうけましたが、
義元死後に、黄梅院の兄である武田義信が、駿河侵攻に反対した上に、幽閉の後に自害したことで、黄梅院は、苦しい立場に追いやられたことでしょう。政略結婚は、大名同士の結び付きを強めるために実行される行為ですが、黄梅院は、強制的に実家に帰されたことを考えると、見方によっては、時代の犠牲者だったと思います。

投稿: トト | 2017年1月10日 (火) 09時59分

トトさん、こんにちは~

子宝に恵まれた事は救いでしたね。

投稿: 茶々 | 2017年1月10日 (火) 11時04分

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