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2011年7月 5日 (火)

宇佐美定満~長尾政景とともに池の中

 

永禄七年(1564年)7月5日、上杉四天王の一人として上杉謙信に仕えた宇佐美定満が、長尾政景とともに野尻池で溺死しました。

・・・・・・・・・・

もともとは伊豆国宇佐美荘(静岡県伊東市宇佐美)から出た一族である宇佐美氏・・・

宇佐美駿河守定満(うさみするがのかみさだみつ)は、越後守護である上杉氏の配下として琵琶島城(新潟県柏崎市)の城主を務めていた宇佐美房忠(うさみふさただ)の息子として生まれます。

定満が、おそらくは30歳前後の頃、守護の上杉家に取って代わる勢いを見せて来たのが、守護代長尾為景(ためかげ)・・・

永正四年(1507年)、その為景は、現守護の上杉房能(ふさよし)の養子である上杉定実(さだざね)を取り込み、その定実を次期守護にするという大義名分を掲げて挙兵し、房能を討ち果たしました(8月7日参照>>)

しかし、当然の事ながら、為景にとって定実は傀儡(かいらい・操り人形)の主君・・・実権は為景が握る状況に不満バリバリの定実に、味方したのが、宇佐美房忠・定満父子でした。

しかし、定実復権を目指して戦う中で、父・房忠は戦死・・・

その後、父の後を継いだ定満は、定実の実家である上条上杉家上条定憲(じょうじょうさだのり)とともに為景と戦い、天文五年(1536年)には、為景を隠居に追い込みます。

そして天文十一年(1543年)に為景が亡くなった後は、その息子である長尾晴景に仕え、さらに、晴景との家督争いに撃ち勝ったその弟の上杉謙信(当時は長尾景虎)に・・・。

こうして、かの上杉謙信に仕える事になった定満は、上杉二十五将の一人であり、上杉四天王の一人であり、後に越後十七将にも数えられるほどの八面六臂の活躍をし、名軍師と呼ばれる存在になるわけです。

謙信に仕えるようになった直後には、その越後平定の最大の障害となってした同じ長尾一族の上田長尾家長尾政景(まさかげ)屈服させる事に尽力し、謙信の姉・綾御前(仙洞院・仙桃院)と政景の婚姻を以って、両者の関係は融和の方向へと向います。

さらに、永禄四年(1561年)3月の小田原城の戦いでは早朝の撤退を進言したり、同じ年の9月の第4次川中島(2006年9月10日参照>>)でも、武田方の別働隊の動きを察知し、別働隊が妻女山に到着する前に、八幡原へ全軍を移動させるよう進言して、あの山本勘助啄木鳥(きつつき)戦法」を破ったとされます。

しかも、その合戦で命を落とす信玄の弟・武田信繁(2008年9月10日参照>>)討ち取ったのも定満だという話も・・・

とは言え、以前書かせていただいたように、この川中島・・・啄木鳥戦法だの車がかりの戦法だの、その戦い方自体が怪しいわけで(2007年9月10日参照>>)、そこで進言したと言われてもねぇ。

この川中島に限らず、とかく、この定満さんの軍師ぶりに関しては、大幅に指しい引いて考えるべきという意見が多くあります。

というのも、後に、武田信玄の軍法である甲州流軍学に対抗する謙信の軍法とされた越後流軍学の祖と言われる宇佐美定行(うさみさだゆき)なる人物と、定満が同一視されるので、謙信を支えた名軍師とされるのですが、

一方ではこの定行なる人物は、定満をモデルとした架空の人物であるとも言われ、そうなると、どこまでが実際の定満のホンモノの武功かという事が怪しくなって来るわけです。

しかも、永禄を迎える頃にはすでに70歳に達していて、最前線からは引退していたとも言われますから、ますます怪しいのですが・・・

とは言え、この定満さん・・・
最後の最後に大きな仕事をやってのけます。

実は・・・
先にお話したように、越後平定の最大の障害となっていた上田長尾家を、姉との婚姻という形で、味方に引き入れようとした謙信でしたが、それがうまくいっていたかどうかは怪しい部分があるのです。

・・・というのは、天文十八年(1549年)6月20日付けで本庄実乃(さねより・謙信の重臣)が平子氏に宛てた手紙というのが存在するのですが・・・

その内容が、直前に起こった定満の居城・琵琶島城の放火事件の背後に、政景の影が疑われている事に触れ
「もし、放火事件への関与が本当なら、新しく近親者になった者であっても、キッチり落とし前つけなアカンな」
というもの・・・

この一枚の手紙で、いくつかの事がわかります。

定満が謙信に仕えた時期が、天文十八年より以前であるという事・・・
政景と綾御前の結婚も、天文十八年より前であるという事・・・
そして何より、謙信の府中長尾家と政景の上田長尾家が、両家の婚姻の後でもうまくいっていなかったという事です。

かくして永禄七年(1564年)7月5日、この日、定満は政景を野尻池の舟遊びに誘います。

二人っきりで小舟に乗り、水上で盃を交わす・・・すると、突然、定満が政景に飛びかかり抱きついて、そのまま、政景もろとも池の中へ飛び込んだのです。

とは言え、もちろん、これも真実は池の中・・・いや、藪の中

政景の死を、上記のように定満の命がけの謀殺とする『北越軍記』もあれば、同じく謙信の家臣の下平吉長(しただいらよしなが)の命がけの謀殺とする『穴沢文書』もあり、また、泥酔状態での舟遊びの末の事故死という見方もあります。

ただ、この政景の死によって、彼の配下にあった上田衆が謙信の指揮下に入り、謙信の越後支配がより強化された事は確かです。

しかも、後に長谷堂の戦い(10月1日参照>>)殿(しんがり)を務める事になる定満の遺児=宇佐美民部は、謙信の死後に当主となった養子・上杉景勝(かげかつ)に、生涯、目通りが許されなかった、なんて話も・・・ご存じのように、景勝は、政景と仙洞院の息子ですからね~

もし、これが本当なら、景勝も定満の命がけの謀殺を疑っていたという事ですから・・・

ひょっとして定満さん・・・享年・76歳だったと言われていますが、体力の衰えとともに、もはや合戦で武功を挙げる事が困難となった彼が、その命と引き換えに、主君最大の目の上のタンコブを抹殺したのかも知れません。

真実の探求は専門家の方にお任せして、歴史を楽しむぶんには、そう考えた方が断然ワクワクしますね~
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コメント

「風林火山」で宇佐美を演じた緒方拳さんは、大河ドラマでは同作が遺作となりました。放送当時体調が良くなかったらしいのですが、「天地人」(第1回で記事の「溺死事件」に触れていました)で謙信の養子の三郎景虎を演じた玉山鉄二さんと共演した、単発ドラマが本当のNHKでの遺作ですが、まさかあれが「最後」になるとは思わなかったです。放送直後に訃報を聞いたので。

投稿: えびすこ | 2011年7月 5日 (火) 13時25分

えびすこさん、こんばんは~

緒方拳さん…良かったですね~

投稿: 茶々 | 2011年7月 6日 (水) 01時52分

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