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2011年7月25日 (月)

日清戦争・開戦!豊島沖海戦

 

明治二十七年(1894年)7月25日、日清戦争において、連合艦隊初の海戦・豊島沖海戦がありました。

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明治維新とともに開国を果たした日本に続き、鎖国状態を解除した朝鮮でしたが、その内情はいたって不安定・・・そこに双方の思惑を絡めて介入していく日本と清国(中国)(6月2日参照>>)に、さらにロシアイギリスも・・・

7月10日に日本が朝鮮に提出した「日本単独の内政改革案」は16日に拒否され、22日を回答期限とした「過去に清国と結んだ条約破棄」の要請にも朝鮮政府からの回答が得られなかった事を受けた(6月9日参照>>)大鳥圭介(おおとりけいすけ)公使は、その22日の夜に王宮・景福宮(キョンボックン)を包囲・・・約1時間ほどで武装解除させて、当時、朝鮮政府を牛耳っていた(ミン)一族を追放して大院君(テウォングン)を政権に復帰させました。

一方、大陸でのそんなこんなを見据える日本では、7月19日、すでに日本海軍にあった常備艦隊西海(さいかい)艦隊を合わせた新艦隊=連合艦隊を誕生させ、その司令長官に薩摩出身の伊東祐亨(ゆうこう)が就任・・・作戦立案担当の軍令部長には、同じく薩摩出身の樺山資紀(かばやますけのり)が就任しました。

すでに7月9日には戦闘準備を完了させて、朝鮮海域周辺に複数の艦隊を進出させていた清国・・・日本も負けじとばかりに、清国に最後通牒(つうちょう)を交付し、7月23日、連合艦隊は佐世保港を出港しました。

かくして明治二十七年(1894年)7月25日、先に仁川(インチョン)に派遣されていた八重山武蔵の両艦と合流すべく、豊島(プンド)を航行する連合艦隊・・・

しかし、両艦を発見できないまま、あたりを探索していた午前6時30分・・・逆に、清国の巡洋艦・済遠(さいえん)と広乙(こうおつ)が接近して来るのを確認します。

さらに、清国の両艦は、連合艦隊の行く手を塞ぐかのような態勢とり、戦闘準備を整えた模様・・・清国艦船の動きを確認した伊東中将は、午前7時25分、両国の艦隊の距離が3000mに縮まった事を受けて、砲撃を開始したのです。

先頭にいて、連合艦隊の猛攻をモロに受けた済遠は、まもなく大破したものの、その後の追撃を振り切って逃走します。

後ろにいた広乙も猛攻を受け、一旦、進路を変えて逃げようとしますが、更なる攻撃を受けて牙山(アサン)近くの湾口にて座礁・・・やむなく、自ら火薬庫に火をつけて、自爆を遂げたのです。

思わぬ遭遇戦となって開始された連合艦隊史上初の海戦・・・それは、気温30度の炎天下の中、日本の大勝に終わったのでした。

Nissinpundooki 朝鮮豊島近海激戦日軍艦隊大勝利の図(静岡県立中央図書館蔵)

この報を受けた日本では、大勝利を報道する錦絵が巷に溢れ、大国・清国を相手に奮闘する姿に、日本人は熱狂したと言います。

そしてまもなく、日清戦争における本格的な戦闘が開始される事に・・・

と、そのお話は、また、関連する「その日」に書かせていただきたいと思います。
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