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2011年7月11日 (月)

武士の時代の幕開け…保元の乱

 

保元元年(1156年)7月11日、後白河天皇崇徳天皇との対立を軸にした保元の乱がありました。

・・・・・・・・・・・

第75代崇徳(すどく)天皇、第76代近衛(このえ)天皇、第77代後白河(ごしらかわ)天皇・・・と3代28年に渡って院政を敷いていたのが第74代の天皇だった鳥羽上皇・・・

上記の3人の天皇は、全員、鳥羽上皇の息子ですが、鳥羽上皇自身は、長男の崇徳の事を「嫁の璋子が、ジッチャンの白河天皇と浮気してできた子供じゃないか?と疑い、崇徳を退位させて、もう一人の嫁・得子の産んだ九男・近衛天皇を即位させます。

しかし、この近衛天皇が17歳の若さで亡くなってしまい、今度は、璋子が産んだ子だけど、自分の子供の可能性が高い四男の後白河天皇を即位させます。

この間、鳥羽上皇に無理やり退位させられた崇徳天皇は、おもいっきしウップンが溜まりまくってたわけですが、そんな鳥羽上皇が、保元元年(1156年)7月2日、波乱を含んだまま亡くなってしまいます(くわしくは7月2日参照>>)

Hogennoransoukanzu 保元の乱・相関図

ちょうどその頃、摂関家でも、前摂政関白の藤原忠実(ただざね)が、長男で現関白の忠通(ただみち)を嫌い、その弟の左大臣・頼長(よりなが)を可愛がるため、この兄弟に反目の心が生まれていたのです。

そんな中での鳥羽上皇の死を受けて、忠通は後白河頼長は崇徳とくっつき、両派は、それぞれに有力な武士を集めて、臨戦態勢に入ります。

そして、これまた、その有力武士たちも、一族の中でモメていたため、それぞれ両派に分かれます(2016年7月11日参照>>)

源氏は、父・源為義(みなもとのためよし)と弟の為朝(ためとも)が崇徳のもとに走り、兄の義朝(よしとも)が後白河・・・

平氏は、叔父の平忠正(たいらのただまさ)が崇徳、甥の清盛(きよもり)が後白河につきます。

Hogennoranitikankeizucc ↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

かくして保元元年(1156年)7月10日、両者の軍勢は、京都の鴨川を挟んで対峙します。

一触即発の状態で迎えたその日の夜・・・崇徳派の軍議にて、為朝が夜討ちを提案しますが、全権を握る頼長は、「そんな姑息なマネできるかい!」と、これを却下します。

しかし、一方の後白河派では、義朝が提案した同じ夜討ち作戦を、後白河は認めて宣旨(せんじ=天皇の命を伝える文書)を与えます。

宣旨を得る=官軍となった事で士気上がる後白河派は、保元元年(1156年)7月11日未明、清盛が約300、義朝が約200、源義康(よしやす・為義の従兄弟で足利家の祖)が100の軍勢を率いて拠点の高松殿を出陣し、敵方の拠点である白河北殿を3方向から包囲・・・それぞれの門から奇襲を決行したのです。

そもそも、数において不利でありながら、さらに夜討ちをかけられたワリには、なかなかの抵抗を見せる崇徳派・・・とくに、御殿の西門を守っていた為朝は、兄の義朝と真っ向からぶつかり、見事、これを撃退しています。

結局、攻めあぐねた義朝は、後白河に火攻めの許可を得て、白河北殿の隣家に放火・・・たちまちのうちに白河北殿に火が燃え移った事で、崇徳&頼長は逃亡し、崇徳派の兵たちも散り散りに・・・

こうして、戦いはわずか4時間ほどで、後白河側の大勝利という形で決着がついてしまいました。

『保元物語』に残る名言(史記のパクリ?)・・・「先んずる時は人を制す」
まさに、先に夜討ちをかけたフットワークの良さが、勝利をもたらしたと言えるでしょう。

これで、天皇家も摂関家も、もはや武士の力なくしては権力を維持できないという構図が出来上がっていくのです。

Hogennoranbyoub900 保元合戦図屏風(馬の博物館蔵)

ところで・・・
戦後処理にて、忠正や為義をはじめとする多くの武将が処刑されますが、このブログでもチョコチョコ書かせていただいているように、この保元の乱には、とてもスルーできない後日談が残っています。

可愛がってくれた父の屋敷を目指して、奈良へと逃走する頼長・・・(7月14日参照>>)

伊豆大島へ流罪となった後、日本初の切腹?いやいや、まだ死なず、その先は、遥か琉球の王になったという為朝・・・(3月6日参照>>)

そして、讃岐(香川県)へ流された崇徳は、鬼と化し、史上最強の怨霊として恐れられる事になります(8月26日参照>>)
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源平争乱の時代」カテゴリの記事

コメント

本当にふと思ったことなのですが…源氏も平氏も実は身内同士で反目した振りをして、実はどちらに転んでもいいように敢えて崇徳側と後白河側に分かれたのではないか…というのは流石に夢見がちですかね(--;)
(少なくとも源氏は崇徳側に為朝が、後白河側に義朝がいますし、それぞれ嫡男に義仲、頼朝がいますから)

投稿: うちゃ | 2012年5月14日 (月) 21時10分

うちゃさん、こんばんは~

いや、あながち「夢見がち」とは言い切れないかも知れませんよ。

応仁の乱しかり、
関ヶ原しかり、
大坂の陣しかり…
天下分け目の大乱と呼ばれる物は、皆、父子・兄弟など、一族で分かれて、どちらが勝っても良いように、生き残り策をとってますから…
平安時代に、その考えが無かったとは、言い切れないかも知れません。

投稿: 茶々 | 2012年5月15日 (火) 00時48分

初めまして。

讃岐は徳島県ではありません。
香川県です。地元なのでご指摘させて頂きました。
陵(みささぎ)は、香川県坂出市青海町にある白峯陵(しらみねのみささぎ)に治定されています。

四国八十八箇所白峰寺のすぐ近くです。


投稿: 真野 | 2014年5月 9日 (金) 00時06分

真野さん、こんばんは~

ありゃりゃ…ホントですね~
気づいてませんでした。。。
徳島は阿波ですね…訂正させていただきました。

投稿: 茶々 | 2014年5月 9日 (金) 01時05分

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