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2011年7月14日 (木)

頼朝の愛娘・大姫の死にまつわる疑惑

 

建久八年(1197年)7月14日、源頼朝の愛娘・大姫が亡くなりました。

・・・・・・・・・・

未だブログ初心者の頃の2006年の記事ではありますが、大姫について書かせていただいていますので(2006年7月14日参照>>)、本日は、その捕捉のような形で、大姫の入内事件と、その死にまつわる疑惑についてお話させていただきます。

くわしくは上記のページを見ていただけるとうれしいのですが、源頼朝北条政子夫婦の長女として生まれた大姫(長女という意味で、彼女の個人名は残っていません)は、伊豆で挙兵した父・頼朝と同時期に北陸で挙兵し、やはり平家を討ち破りながら京へと向かう木曽(源)義仲(頼朝の従兄弟)との融和を図るため、義仲の息子・義高と婚約します。

義高が鎌倉に入るという言わば人質のような形ではありましたが、実際に婚儀の準備も進められたいたとか・・・

しかし、先に京都に入った義仲を、頼朝の命を受けたその弟・源義経が討ち果たした事で(1月20日参照>>)頼朝は義高を殺害・・・この事が、大姫の心に深い傷を負わせます。

婚約当時は、義高は10歳、大姫は5~6歳という幼さ・・・確かに大人の恋ではありませんが、ともに暮らすうちに、大姫には義高を慕う気持ちが生まれていたようで、以来、大姫は食事もまともにとる事が出来ないようになり、病に伏せる日々となります。

義高の死から10年後の建久五年(1194年)には、頼朝の妹の息子である貴族の一条高能(たかよし)が鎌倉へと下って来て、少し容態が良くなった大姫との縁談も持ち上がりまが、彼女は、「結婚するくらいなら自殺する!」と言って、かたくなに拒否・・・

さすがに、そこまで拒否されては無理強いもできず、やむなく頼朝夫婦は縁談をあきらめますが・・・

ところが、その後まもなく、頼朝夫婦は、嫡男の頼家・・・そして大姫も連れて上洛するのです。

表向きは東大寺の落慶法要のためですが、実は、水面下で、大姫を第82代後鳥羽天皇の妃にすべく、入内の準備のための上洛だったのです。

しかも、今回の頼朝は、以前、征夷大将軍になる時に骨を折ってくれた縁から大親友となって連携していた九条兼実(かねざね)ではなく、宮廷のもう一人の実力者・土御門通親(つちみかどみちちか)丹後局(亡き後白河法皇の愛人)と接触します。

もう一人の実力者・・・という事は、当然、通親は兼実とは敵対しているわけですが、そんな通親&丹後局に対して、お土産攻撃に始まり、宴に招待しての接待三昧の毎日・・・。

かつては、後白河法皇の死を受けて、残された膨大な荘園を手に入れようとした通親&丹後局を、兼実との強力タッグで阻止した事もあった頼朝でしたが、今回は、そのかつての決定を取り消すという見事な手のひらの返しっぷり!

この頼朝の手のひら返しには、京の町では「兼実邸に近づくと頼朝に睨まれる」なんて噂まで流れ始める始末・・・

そして建久七年(1196年)・・・兼実は関白を罷免され、その弟の慈円も天台座主の地位を奪われ、中宮ととなっていた兼実の娘・九条任子も後宮から退去させられ・・・彼ら一門は失脚します。

こうして、かつての友を裏切ってまで勝ち取った大姫の入内への道・・・しかし、建久八年(1197年)7月14日、その大姫は亡くなってしまいます。

しかも、その翌年には、あの甥っ子貴族の一条高能も亡くなって朝廷とのつながりが薄くなる中、頼朝は、大姫に代わって次女の乙姫(三幡)入内を画策しようとしますが、そうこうしている建久十年(正治元年・1199年)正月・・・その頼朝自身が亡くなってしまいました(12月27日参照>>)

すでに女御の称号も得て、あとは実際の入内を待つばかりとなっていた乙姫の件は、そのまま2代将軍となった頼家が引き継いで進めて行く事になるのですが、なんと、その乙姫も、頼朝の死後から、わずか5ヶ月で病死してしまうのです。

大姫と乙姫・・・ともに入内直前の病死という事で、やはりあります暗殺疑惑・・・もちろん、仮説の域を出ない推理ではありますが・・・

特に乙姫・・・前から病弱だった大姫はともかく、乙姫の場合は、死の2ヶ月前に突然高熱を出して危篤状態に・・・しかも、そこに、京都から医者が派遣され、一旦が快復に向かうものの、すぐに、また病状が悪化し、医者が「もう、あきまへん」サジを投げて帰った4日後に死亡してしまうのです。

その医者を派遣したのは、誰あろう、九条兼実を失脚させて、現段階ではすっかり朝廷の実権を掌握していた、あの土御門通親・・・

実は、時をさかのぼる事4年前・・・頼朝が手のひら返しで大姫の入内を画策していた真っ最中の建久六年(1195年)、通親が再婚した奥さんの連れ子で後鳥羽天皇の妃となっていた在子(ざいし)が、男の子を産んでいるのです。

つまり、大姫入内の一件は、頼朝の希望もあるものの、そもそも、最初にその話を持ちかけたのは通親の側からではなかったか?・・・もちろん、それはライバルの兼実一門を追い落とすためです。

当然ですが、すでに朝廷の実権を握ってしまった今となっては、大姫であろうが乙姫であろうが、頼朝の娘が入内する事自体が、通親にとっては、ただライバルを増やすだけ・・・邪魔以外の何物でもなかったのかも知れません。

それにしても・・・
その在子さんの産んだその時の男の子が、後に即位して第83代土御門天皇となり、あの幕府を揺るがす大事件=承久の乱の時に、ヤル気満々の後鳥羽上皇に対して、唯一、討幕に反対してくれる存在になろうとは(10月11日参照>>)・・・まさに、世の中わからない物ですね。
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コメント

頼朝の入内に熱心なところが、朝廷と距離を置く方針だと思っていたので、意外です。
平家の二の舞になるとは思わなかったのでしょうか?
遠すぎて扱いが難しくなるだけのように思います。
「遠くの親戚より近くの他人」とも言いますし。

逆に宮将軍を迎えることになるのですから、世の中わからない物ですね。

投稿: ことかね | 2011年7月15日 (金) 14時30分

ことかねさん、こんにちは~

結果を見ると…ほんと世の中わからない物って感じですね~

投稿: 茶々 | 2011年7月15日 (金) 17時11分

茶々さんこんばんは。
歴史の深い知識をいつもメッチャ楽しい文章で教えて下さり、ありがとうございます!
コチラにお邪魔するのが日々の密やかな楽しみとなっております、千と申します。

さて、建久六年が(1995年)になっておるようでして…
不躾ながら初コメントさせていただいた次第でございます。

…おもむろに失礼いたしましたー(^_^;)

投稿: 千 | 2011年7月15日 (金) 19時44分

千さん、こんばんは~

ありゃりゃ…当然1195年です(*´v゚*)ゞ
1995年なら、こないだですがなwww

見つけていただいてありがとうございます。
訂正させていただきました。

またよろしくお願いします。

投稿: 茶々 | 2011年7月15日 (金) 20時42分

頼朝の子供達は、短命な気がします。頼朝の暗殺説もあるし。政子の遺伝子を受け継いでいない? ☆大河ドラマの「大姫」は斉藤こず恵でしたが、不評でした。「鳩子の海」の子役でブレークしたけど〜。

投稿: やぶひび | 2011年7月16日 (土) 09時45分

やぶひびさん、こんばんは~

短命というか、不幸というか…
やはり、関東の武士たちは源氏という看板が欲しかったんでしょうか?

投稿: 茶々 | 2011年7月16日 (土) 23時14分

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