« 徳川慶喜の参謀・原市之進 | トップページ | 3000人のさらし首…信玄の志賀城攻略 »

2011年8月15日 (月)

肥後細川家・存亡の危機~板倉勝該・刃傷事件

 

延享四年(1747年)8月15日、江戸城内での刃傷事件・細川宗孝殺害事件が起こりました。

・・・・・・・・・

時は、江戸幕府・第9代将軍・徳川家重の時代・・・

その日は、月例拝賀の式日で総登城の日・・・朝の8時頃から順々に、江戸城には、多くの大名や旗本たちが、緊張の面持ちで、続々登城していたさ中の事・・・

そのうちの一人が、大広間の廊下に人が倒れているのを見つけます。

近づいて見ると、その人は、低いうなり声をあげながら、必死で起き上がろうとする様子・・・さらによく見ると、周囲にはおびただしい血が!!!

「どないしはったんですか?」
と、慌てて駆け寄って抱き抱えると、頭と肩に、かなりの深手・・・

すると、そのケガをした男は
「俺は、熊本藩主・細川宗孝(むねたか)だ」
と名乗り、
「まったく見知らぬ者に、突然斬られた」
と証言・・・

当然の事ながら、殿中は大騒ぎとなり、すぐにすべての門にいた門番へ問い合わせ・・・すると、「この間、登城した者はいたけれども、下城した者は一人もいない」と・・・

つまり、「宗孝を斬った犯人は、まだ、城内にいる」という事・・・

即座に、城内をしらみつぶしに探したところ、(かわや)に隠れていた不審者を発見します。

不審者の定義は微妙ですが、おそらくは、血のついた刀を持ったままだったか、衣服に大量のかえり血を浴びていたか・・・とにかく、その者を引っ張り出して問い詰めたところ、素直に刃傷を白状し、自身の名を、旗本・板倉勝該(かつかね)と名乗りました。

勝該は、下総(栃木県)芳賀(はが)郡6千石を知行する板倉重大(しげもと)の養子となって板倉家を継いだ堀田正休の次男・重浮(しげゆき)の息子で、それまで、兄の勝丘が継いでいた板倉家を、前年の12月に、その兄の死を受けて、彼が、あとを継いだばかりだったのです。

しかしながら、勝該には、なにやら性格的に問題があったようで、「このままでは家内を治めていけないのでは?」と思った板倉家・本家の板倉勝清(いたくらかつきよ)が、勝該を廃して、別の人物に後を継がせようとしていたのだとか・・・

Itakurahosokawakamon_2 それを知った勝該が勝清に恨みを抱き、勝清を亡きものにしようと斬りつけた。

という事なのですが、上記の通り、斬った相手は細川の殿さま・・・実は、この板倉家の家紋が、細川家の家紋=九曜星紋にそっくりだった事から、この日、背中にあったその家紋を見間違えて、宗孝に斬りかかったのでした。

つまり、完全な人違い・・・

勝該は、そのまま水野忠辰(ただとき)に預けられ、8日後の23日に切腹、改易となりました。

一方、災難なのは細川家・・・

現在のような医療技術もない時代・・・もはや、その命が風前の灯なのはケガの状態を見ればわかります。

しかし、宗孝は未だ31歳の若さで、世継ぎもおらず、後継者も未定でした。

先日お話した豊島明重事件(8月10日参照>>)のように、未だ戦国が色濃く残った時代はとうに過ぎ、元禄赤穂事件(12月24日参照>>)以降は、殿中の刃傷沙汰は喧嘩両成敗が基本・・・

ただでさえ、何かしらのお咎めを受けるのに、そこに後継ぎもいないとなっては、肥後細川54万石は、お取り潰しになるが必至・・・

そんな窮地を救ったのが、事件の起こった時、たまたま近くにいたわせた仙台藩主・伊達宗村(むねむら)でした。

宗村は、まだ、宗孝の息がある事を確認し、
「とにかく、息のある間に、江戸藩邸に運び込み、手当をして、宗孝を1分1秒でも長く生きさせて、その間に、養子を立てて、その者に後を継がせる手続きをせよ
と指示したのです。

細川家では、早速、藩邸に宗孝を運ぶとともに、その日のうちに、弟の細川重賢(ほそかわしげかた)養子に迎え、幕府に届け出・・・

とは言え、実際には、残念ながら宗孝は、その日に亡くなってしまっていたのですが、それは、そこ、すでに藩邸に運び込んでしまっている以上、チョイとばかりのゴマかしはきくもんで、翌・16日になって、その死亡を届け出ました。

不幸中の幸いな事に、その頃には、すでに、この事件は「人違い」による物と把握していた幕府は、当然の事ながら、「細川家には罪は無い」との判断・・・何とか、無事、細川の家を守る事ができたのです。

以来、細川家では、それまで使っていた九曜星紋から、少し●の小さめデザインの家紋に変更し、さらに、それまでは、背中に一つ、両胸に二つ、両そでの前側にの、計・5つ紋だったのを、背後からも見えやすいようにと、両そでの後ろ側にも家紋を配置した「7つ紋」の特別な物にしたのだとか・・・

宗孝さんは、お気の毒でしたが、とにかく細川家が守られて、しかも、後を継いだ重賢がかなりの名君となって藩を立て直(10月26日参照>>)平成の世には総理大臣まで輩出したのですから、良かった良かった・・・という事ですね。
 .

内容が「よかった」と思っていただけましたら
右サイドバーsoonにあります【拍手!!】を・・・
ブログ内の人気ページとしてランキングされます(゚ー゚)
あなたの応援で元気100倍!

人気ブログランキングへ    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



 

 


|

« 徳川慶喜の参謀・原市之進 | トップページ | 3000人のさらし首…信玄の志賀城攻略 »

江戸時代」カテゴリの記事

コメント

こんにちわ、茶々様。
日本は暑い日が続いているようですが
体調管理には気をつけてください。

>仙台藩主・伊達宗村
>養子を立てて、その者に後を継がせる手続きをせよ

流石、独眼竜 政宗の子孫・・・

今日も面白い記事をありがとうございます!

投稿: DAI | 2011年8月16日 (火) 11時11分

DAIさん、こんにちは~

>流石、独眼竜 政宗の子孫・・

ホントですね~
たまたま近くにいてくれて、細川家は助かりましたね~

こちらこそ、いつもありがとうございます。

投稿: 茶々 | 2011年8月16日 (火) 12時04分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/47570/41219618

この記事へのトラックバック一覧です: 肥後細川家・存亡の危機~板倉勝該・刃傷事件:

« 徳川慶喜の参謀・原市之進 | トップページ | 3000人のさらし首…信玄の志賀城攻略 »