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2011年8月17日 (水)

3000人のさらし首…信玄の志賀城攻略

 

天文十六年(1547年)8月17日、武田信玄に攻められた信濃志賀城笠原清繁が討死・・・志賀城が陥落しました。

・・・・・・・・・・

これまで何度が書かせていただいてますように、父・信虎を追放して(6月14日参照>>)甲斐(かい・山梨県)を掌握した武田信玄が、まず行ったのは、父の代からの悲願であった信濃(長野県)への進攻・・・

Takedasingen600b 天文十一年(1542年)6月の諏訪(すわ)を皮切りに(6月24日参照>>)伊那谷へ進出(10月29日参照>>)する一方で、佐久方面にも攻め込み、天文十五年(1547年)5月20日には内山城(長野県佐久市)大井貞清(おおい さだきよ)降伏させた信玄・・・

そのまま勢いに乗った信玄は、翌・天文十六年(1547年)閏7月、笠原清繁(かさはらきよしげ)が守る志賀城(同佐久市)を包囲したのです。

志賀城は、上信国境の寄石山(よせいしやま)から延びる尾根に築かれた山城で、なかなかの堅城・・・守る清繁も、その自然の要害に囲まれた鉄壁の城に、ある程度の自信があったのでしょうか、上野国平井城(群馬県藤岡市)にいた関東管領・上杉憲政(のりまさ)援軍を依頼し、籠城作戦をとる事にします。

しかし、金井秀景ら西上野の国人衆からなる援軍が碓氷(うすい)を越え、小田井原(長野県北佐久郡御代田町)あたりまで到着すると、信玄は、本隊を志賀城の包囲に残したまま、別働隊を小田井原に派遣・・・

8月6日、激戦の末、この援軍を蹴散らした信玄・・・一説には、この小田井原の合戦で武田軍が挙げた敵の首級は3000余りに達したのだとか・・・

その夜の事・・・
信玄は、これらの首級のうち、名のある武将の首は槍先にかざし、その他の平首は棚に並べて志賀城下にに晒したのです。

一夜明けて、太陽が降り注ぐ中、援軍の到着を今か今かと待つ志賀城内の城兵が目の当たりにしたのは、見下ろす城下に、おびただしい数の無残な首が並ぶという悲惨な光景でした。

これで、一気に戦意を失う志賀城内・・・

かくして天文十六年(1547年)8月17日(11日とも)、もはや命運は尽きたと覚悟を決めた清繁以下300余名は、決死の突撃を決行し、壮絶な討死を遂げたのです。

落城後には、城内に残っていた女性や非戦闘員、さらに城下に住む男女までもがことごとく生け捕りにされ、甲府へと連行されたと言います。

その後の彼らを待つのは死か、例え生きたとしても、男なら金山工夫などの過酷な肉体労働か、女なら宿場の飯盛り女か・・・いずれにしても、このように生け捕りにされた人々が人身売買の道具にされるのが、この時代の常でした。

そんな中の一人だった城主・清繁の妻・・・一説には憲政の娘だったとも言われるこの女性を、信玄配下の小山田信有(おやまだのぶあり)買い取って妾にしたというお話は、以前の大河ドラマでも描かれていましたね。

戦いの後、廃城となった志賀城には、今は小さな五輪塔が建ち、本丸周辺にわずかな遺構をしのばせるのみだという事ですが、つい先日書かせていただいたような名言を残す名将=信玄(8月7日参照>>)と同一人物とは思えない、今回のさらし首披露は、信玄ファンにも、ちとツライところだと思いますが、世は戦国ですから、きれいごとだけではやっていけないのも事実・・・

結局、6年もかかってしまった佐久攻略・・・それには、今回の信玄が行った仕打ちに対する地元民の恨みと反発が大きかったからだとも・・・

それこそ、当の信玄も、後になって、「ちと、やり過ぎた」と思ったのでしょうか?

永禄三年(1560年)には、北高全祝(ほくこうぜんしゅく)禅師を迎えて、佐久の龍雲寺を手厚く庇護したと言います。
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戦国・群雄割拠の時代」カテゴリの記事

コメント

この時代は生きるか死ぬかの混沌とした背景…。

「おあん…」だったかな?女子供は首実検に備え生首を洗い、櫛を通して髪型を整え、白粉などの化粧を施し、それ用の台に供えて勝利を祝ったという記述が有ったような…無かったような…。

NHKのドラマの中で、ほのぼのとした映像として使っていただきたいです。
(おしゃべりしながら笑顔で生首を洗ってる映像とか…) 
これほどに時代背景によって価値観、趣味興味、道徳観も変わるのですねえ。

(その辺をしっかりわきまえている茶々様は、ブログを拝見しててもトテモ安心できます。)

まるで大阪狭山市にある「讃岐うどん いってつ」の様…(何を食べてもとてもおいしい。)       ヽ(≧▽≦)ノ  
(オススメしときます…ニャハ!!)(関係無いか…)

信玄の3000人さらし首は、
「少しやりすぎとちゃうか…?相当頭にきとったんやで…(ただやりすぎるとマイナスに…?)」
というレベルではなかったのでは…と思いますが…

ではでは

投稿: azuking | 2011年8月17日 (水) 18時25分

azukingさん、こんばんは~

>「少しやりすぎとちゃうか…?相当頭にきとったんやで…(ただやりすぎるとマイナスに…?)」
というレベルではなかったのでは…

確かに、そのレベルではなかったですね。

「おあん物語」に関しては2008年9月11日>>で書いていますので、そちらも見ていただければうれしいです。

投稿: 茶々 | 2011年8月18日 (木) 02時02分

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