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2011年9月12日 (月)

蒙古襲来を予言して流罪となった日蓮

 

文永八年(1271年)9月12日、幕府や他の宗教を批判したとして、日蓮が佐渡島に流されました。

・・・・・・・・・・

日蓮(にちれん)は貞応元年(1222年)に現在の千葉県鴨川市(旧安房小湊)で生まれました。

以前、書かせていただいたように、第83代土御門(つちみかど)天皇ご落胤?という話もありますが(10月11日参照>>)、日蓮さんご本人が、「海辺の施陀羅が子なり」とか「片海の石中の賎民が子なり」とか「貧道の身と生まれて」など、一般の貧しい生まれだとおっしゃっているので、真実のほどはわかりません。

Nichiren400 12歳の時に、郷里の清澄山(きよすみさん)にあった山寺・清澄寺(せいちょうじ)に入門・・・16歳で出家しました。

やがて19歳の時に、一念発起してお堂に籠り、虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)に祈願の修行を試みますが、その満願の日に霊夢を見た事により、今後の進む道を決定・・・決意を固めて山を降りました。

その後は、20歳で比叡山に遊学、24歳で三井寺に遊学、26歳で薬師寺高野山仁和寺へ・・・さらに、28歳で四天王寺東寺に・・・と、各宗派を学び、究め・・・

いつしか、『法華経』こそが経典の中の王・・・釈尊の意にかなう経典であるとの信念にたどりつきます。

こうして、建長五年(1253年)に古巣の清澄寺へと戻った日蓮は、4月28日の朝、山内の旭の森に立って海上を望みながら、立ち上る朝日に向かって「南無妙法蓮華経」と題目を10回唱えて、立教を宣言したのです。

ここに、日蓮宗が誕生しました。

翌年には、幕府のある鎌倉に出て布教活動を開始した日蓮・・・

しかし、それは法華経を宣伝すると同時に、他の宗派を否定する活動でもありました。

ちょうど、その頃、地震や暴風雨、飢饉や疫病などの災害が相次いだ事もあって、それを憂いた日蓮は、『立正安国論(りっしょうあんこくろん)なる書物を記し、政治・宗教がどうあるべきかなどを、当時、事実上の最高権力者であった5代執権・北条時頼(ときより)に提出したりなんぞします。

その中で日蓮は、相次ぐ災害の原因として
「人々が正しい法である法華経を信じずに、浄土宗などの邪法を信じていることにある」
と対立している宗派を非難し、
「このまま邪教を放置すれば、国内では内乱が起こり外国からは侵略を受けるゾ」
なんていう過激発言・・・

当然、他の宗派からは非難の嵐で、文応元年(1260年)の日蓮・39歳の時には、松葉ヶ谷(まつばがやつ・神奈川県鎌倉市大町)草庵を焼き打ちされ、弘長元年(1261年)には、その内容が「幕府への批判である(当時の幕府は禅宗推し)として、伊豆への流罪を申し渡されます。

さらに文永元年(1264年)には、安房国小松原(千葉県鴨川市)にて、他宗派の信者であった地頭の東条景信(とうじょうかげのぶ)襲撃され、左腕と額を負傷し、二人の弟子も失ってしまいました。

ところが・・・です。

その6年後の文永四年(1267年)、モンゴル帝国のフビライ国書を持った高麗の使者が日本にやって来る(10月5日参照>>)・・・ご存じのように、これが、文永十一年(1274年)10月の文永の役(10月19日参照>>)と弘安四年(1281年)6月の弘安の役(6月6日参照>>)という2度の蒙古襲来につながるのですが・・・

もちろん、この時点では、まだ国書が送られたばかりですが、外国からの侵略の兆しを感じるには充分・・・この事実は、日蓮に、大いなる自信をもたらす事となり、その後、何度となく、迫害覚悟の過激発言をする事になります。

しかも、他宗派と、公の場での対決を促する手紙を時の執権・北条時宗(ときむね)に提出したりなんぞする強気姿勢・・・まさに「果し状」ですが、自論を展開する宗教家としては、それくらい強気でないとやっていけない事も確かですが・・・

そんなこんなの文永八年(1271年)9月・・・日頃からの幕府批判プラス他の宗派から連名で訴えられた事で幕府に捕えられ、腰越龍ノ口刑場(神奈川県藤沢市片瀬・龍口寺)にて処刑されかけますが、なぜか、処刑は執行されず・・・

伝説によれば、この時、
「日蓮の首を斬ろうと刀を振り下ろすと、次々と、その刀が折れた」とか、
「江の島の方角から、光の固まりが飛んで来て、処刑人の目をくらませた」

とか・・・

とにかく、ここで日蓮が死ぬ事はなく、後の評定で佐渡への流罪となる事が決定・・・文永八年(1271年)9月12日佐渡島に流されたのでした。

その後、文永十一年(1274年)に53歳で赦免となった日蓮は、幕府から、「外国からの侵略」についての意見を聞かれ、「よも今年はすごし候はじ」「今年、来まっせ」と答えたとか・・・

果たして、その5ヶ月後に文永の役・・・

その後、身延山(みのぶさん)に草庵を建て、弟子の育成と執筆活動の日々を送った日蓮は、そのまま9年間、身延山を出る事はありませんでしたが、弘安五年(1282年)、病となり、湯治療養のために常陸国(ひたち・茨城県)へ・・・

しかし、10月13日・・・その途中の武蔵国(むさし・東京&埼玉&神奈川の一部)池上宗仲(いけがみむねなか)館跡(東京都大田区)にて61歳の生涯を終えました。

その死に際して、日昭(にっしょう)日朗(にちろう)日興(にっこう)日向(にっこう)日頂(にっちょう)日持(にちじ)の6人の弟子=六老僧を指名して後の事を託した事から、現在の日蓮系には、多くの流派・分派があるという事です。

日蓮の開いた日蓮宗は、
法然の浄土宗(2月18日参照>>)
親鸞の浄土真宗(11月28日参照>>)
一遍の時宗(8月23日参照>>)とともに、純粋に日本で成立した新しい鎌倉仏教の一つです。
 

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コメント

以前、立○佼○会の冊子を頂いたことがあります。
社会不安を煽りながら信仰が唯一の救いになるとか、
全く一緒だなと。
予言も一緒ですね。外国が攻めてくると書いてありました。

本気なのか、定型なのかは分かりませんが。(笑)

投稿: ことかね | 2011年9月13日 (火) 14時18分

ことかねさん、こんばんは~

私は、予言とかは信じないクチなので、言わせていただくと、社会不安を煽るのは定番中の定番でしょうね。

今回の場合は、様々な情報を集めて、統計学的な判断で言ったら「本当に来ちゃった」って感じじゃないでしょうか。

たぶん、同時に様々な予言をしているはずですが、こういう場合、当たってない予言の方は忘れてしまい、当たった方だけが記憶に残るのが人の常ですから…

投稿: 茶々 | 2011年9月13日 (火) 19時08分

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