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2011年9月21日 (水)

毛利元就VS陶晴賢~決戦の地・厳島へ…

 

弘治元年(1555年)9月21日、陶晴賢が大軍を率いて岩国から厳島に渡り、塔の岡に本陣を置いて毛利方の宮尾城を攻撃しました。

・・・・・・・・・・

そもそも、大内氏尼子氏という中国地方の2大勢力に挟まれてひしめき合う小豪族の一つだった毛利氏(10月22日参照>>)・・・毛利元就(もうりもとなり)の代になって大内氏の傘下となった毛利でしたが、天文二十年(1551年)、その大内氏の重臣・陶晴賢(すえはるかた・当時は隆房)謀反を起こし、第31代の当主だった大内義隆(よしたか)を自害に追い込んで、自分の思い通りになる大内義長(よしなが・当時は大友晴房=大内義隆の甥で大友宗麟の弟)傀儡(かいらい・操り人形)の当主に迎えて、事実上大内氏の実権を握ったのです(8月27日参照>>)

このお家騒動に対して、初は、晴賢に同調して勢力拡大を謀っていた元就でしたが、天文二十三年(1554年)に、石見(いわみ・島根県)の国人領主・吉見正頼(よしみまさより)が反旗をひるがえしたのをきっかけに、元就も晴賢からの離反を決意・・・またたく間に銀山(かなやま)草津城など、安芸南西部の諸城を落としていき、さらに、厳島(いつくしま・宮島)も制圧しました。

Sueharukata600 しかし、当然の事ながら、この離反劇を晴賢が黙って見ているはずはないワケですが・・・

とは言え、相手は名門大内氏の勢力をそのまま掌握した重臣・晴賢・・・今の毛利がまともに戦えば、とても勝ち目はありませんから、謀略を貼りめぐらして内部分裂を起こさせたり、厳島に(おとり)の城を築いたり・・・(4月8日参照>>)

その囮の城が、今回の宮尾城だったわけです。

一方、弘治元年(1555年)9月2日に2万の軍勢を率いて拠点を発った晴賢は、岩国永興寺(えいこうじ)に諸将を集めて、今回の毛利攻めについての軍議を開きます。

その席で、勇将・弘中隆兼(ひろなかたかかね)ら何人かの武将は陸路を進言します。

「おそらく、今回の宮尾城は、陸路での野戦では勝ち目が無いと踏んだ元就の苦肉の作戦・・・厳島にこだわるのはやめましょう」
と・・・

おぉ、ちゃんと晴賢側にも、元就の作戦を見抜いていた人はいたんですね~~

以前の4月8日にupした記事の地図↓
Mourimotonarikankeizucc_2 ↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

この地図の通り、このまま陸路にて毛利の本拠・郡山城まで攻め進んで行く事が、本来の道・・・しかし、それだと毛利の負けが見えているので、晴賢の大軍を、狭い厳島へとおびき出すために、元就は、これ見よがしの場所に城を築いたわけです。

しかし、晴賢は
「瀬戸内の制海権を握れば、海岸沿いの諸城は手に入れたも同然」
という考えを崩しません。

確かに、厳島を制圧すれば制海権を握れますが・・・

そこに同調して、晴賢に援護射撃するのが三浦房清(ふさきよ)・・・
「厳島を制圧してから本拠の吉田へ向かっても、さほど問題ないんじゃない?宮尾城なんか、この房清が3日で落としてみせまっさ!」
と・・・

確かに、なんだかんだで、わずかの期間で構築した囮の城ですから、その堅固さも、本格的な城にはかなわないわけですし、周囲を晴賢の軍で囲んでしまえば、兵糧の運搬も不可能ですから、それほど長くもつ城ではありません。

こうして軍議は「厳島渡海」という事に決まっのでした。

かくして弘治元年(1555年)9月21日、晴賢率いる2万の大軍は500艘の船に分乗し、岩国から一路、厳島へと渡り、大元浦近くから上陸・・・宮尾城の南にある塔の岡に本陣を構えたほか、大元浦近くの多宝塔や弥山にも兵を配置し、もちろん、海には兵船を並べて、毛利の到着に備えます。

こうして、完璧な布陣を行った後、軍議で息巻いた房清を先頭に宮尾城に攻撃を仕掛けます。

当時の最先端の兵器=鉄砲を駆使して攻める晴賢軍に、守る宮尾城は、わずかに600・・・そのワリには決死の抵抗を続けますが、やがては水の補給路も断たれ、落城は時間の問題となります。

一方、宮尾城への攻撃開始を24日に聞いた元就・・・早速、重臣に留守を任せて進発しますが、元就が厳島へ向かうには、もう一つ条件が・・・

島の周囲に船を配置して、城への攻撃を仕掛けている彼らを袋のネズミにするためには、コチラにも、それなりの水軍の力が必要です。

しかし、今のところ、毛利が有する水軍は、川内警固衆小早川の水軍と、援軍として駆けつけた因島村上水軍・・・これらを合わせても、わずかに120艘・・・晴賢の500艘には到底及びません。

そのために、元就は、能島(のしま)村上氏来島(くるしま)村上氏にも声をかけていたわけですが、彼らの水軍が現われる気配は、まだありません。

そうこうしているうちに、更なる宮尾城の知らせが・・・
「今や、城兵の着物を裂いて作った大縄で櫓を縛りつけて、倒壊を防いでいる状態です!
あと10日ももちません!」

と・・・

この厳島へのおびき出し作戦・・・宮尾城が落とされて厳島を制圧されてしまっては、ジ・エンドです。

何がなんでも、宮尾城が落ちる前に、元就本隊が駆けつけなければ意味がありません。

迫る落城・・・
来ぬ水軍・・・
むなしく時間だけが過ぎる中、元就は決断を迫られます。

・・・が、この続きのお話は、9月28日【厳島の戦い~運命を変えた能島・来島村上水軍の参戦】でどうぞ>>
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コメント

すみません。前記コメント欄を間違えました。悪しからず。

投稿: レッドバロン | 2011年9月24日 (土) 15時01分

レッドバロンさん、了解しました!

まことに勝手ながら、
(その方が他の方が見て、わかりやすいので)
コメントをアンケート募集のページに移動させていただきました。

それで、良かったですか?
もし、「勝手に移動させないで!」
って事でしたら、元に戻しますので、おっしゃってくださいね。

投稿: 茶々 | 2011年9月24日 (土) 17時36分

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