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2011年9月20日 (火)

信長を支えた森可成・討死…宇佐山城の戦い

 

元亀元年(1570年)9月20日、近江宇佐山城に攻め寄せた浅井・朝倉勢が織田勢と激戦・・・この宇佐山城の戦いで城将の森可成が討死しました。

・・・・・・・・・

森可成(もりよしなり)森氏は、清和源氏の流れを汲み、あの八幡太郎義家(はちまんたろうよしいえ)を先祖に持つ由緒正しきお家柄・・・やはり源氏の流れを汲む美濃(岐阜県)の守護・土岐(とき)に代々仕えていましたが、その土岐氏が、あの斉藤道三に滅ぼされた(12月4日参照>>)事から、尾張(愛知県西部)織田信長に仕えます。

天文十六年(1547年)頃に信長に仕えはじめたとされますが、可成が信長の良き参謀として頭角を現してくるのは、天文二十二年(1553年)に、信長の傅役(もりやく=教育係)であった重臣・平手政秀(ひらてまさひで)が亡くなって(1月13日参照>>)以降から・・・

重臣の死で、大きく穴の開いた信長の片翼を埋めるかのように、その才能を発揮していのです。

Moriyosinari400 と、ゴチャゴチャ説明するより、あの森蘭丸のお父さんと言ったほうがわかりやすいかも知れませんが・・・(*´v゚*)ゞ

女っぽい美少年・蘭丸ですので、お父さんも??とイメージしてしまいがちですが、コレがけっこうスゴイ人なのです。

弘治三年(1557年)には、織田と敵対する駿河(静岡県西部)今川配下の戸部政直(とべなおまさ)が、織田に寝返りを申し出ている」という内容のニセの手紙を作成し、自らが商人に化けて今川の領地に潜入し、自身の手で義元の側近に渡すという忍者顔負けのスゴ技をやってのけています。

もちろん、この作戦は見事成功し、その手紙を信じた義元によって政直は処刑されたのだとか・・・

また、ご存じ、永禄三年(1560年)に起きた桶狭間の戦い(5月19日参照>>)でも・・・

よく、ドラマや映画で描かれる桶狭間の戦いでは、雨の中を馬で突っ切って現場に到着した織田軍が、騎乗のまま義元の陣に襲いかかるシーンがありますよね。

普通、野っ原で行う互い戦ならともかく、奇襲をかける場合は、騎馬武者も馬を下りて、敵にできるだけ近づいてから攻撃を仕掛けます。

なんせ、大量の馬の音って、思ってる以上にスゴイですから、けっこう遠くからでも気づかれてしまいますので・・・現に、この桶狭間の時も、信長は、寸前まで、馬を下りて攻めようと考えていました。

それを、騎乗のまま突入するよう意見したのが、可成だと言われています。

降りだした雨によって、或る程度、その馬の音がかき消されるであろう事から、音のマイナス面よりも、スピードを優先するプラス面の方が大きい事を計算していたのかも知れませんね。

果たして信長は、可成の進言通り、騎乗のまま義元の陣に突入し、アッと言う間に、その首を挙げてしまったわけですから・・・

そんな可成さん・・・
永禄十一年(1568年)に信長が上洛する(9月7日参照>>)と、柴田勝家(かついえ)丹羽長秀(にわながひで)といったご存じの織田重臣たちとともに、洛中(京都市内)や、その周辺の治安維持に努めます。

この時代の文献には、可成を、いわゆる京都諸司代のような役職としている物もあり、その政治手腕も、なかなかのものだったのでしょう。

時期を同じくして近江宇佐山城(滋賀県大津市)城主に抜擢された可成・・・しかし、まもなく、信長と、その信長からの上洛要請に応じない越前(福井県)朝倉義景(よしかげ)との間で衝突が起こります

ご存じ、手筒山・金ヶ崎城の戦い(4月26日参照>>)ですが、この時、信長の妹・お市の方を娶って、すっかり信長の味方になっていたはずの北近江(滋賀県北部)浅井長政(あざいながまさ)朝倉方につき、信長はあわや!の挟み撃ち・・・に、なりかけた所で決死の撤退に成功・・・(4月27日参照>>)

これが、その3カ月後の元亀元年(1570年)6月、浅井・朝倉を相手に戦う姉川の合戦(6月28日参照>>)に発展するわけですが、もちろん、可成は、その姉川の合戦にも出陣し、自陣を死守する働きを見せ、信長勝利の一翼を担うわけですが、この戦いで、織田軍が敵兵を深追いしなかった事で、浅井・朝倉はある程度の勢力を温存したままの撤退という形になりました。

果たして、その3カ月後の9月・・・浅井・朝倉軍は、態勢を立て直して、琵琶湖の西岸を南下して来ます。

この時、この8月に勃発した石山本願寺との戦い(9月12日参照>>)のため、信長自身とその主力部隊は摂津(大阪府北部)にて活動中・・・そうです、可成の任された近江宇佐山城は、まさに織田軍の北部最前線の城という事になります。

その命賭けても、この最前線を死守する決意を固める可成・・・そんな中、浅井・朝倉軍には、本願寺顕如(けんにょ)からの要請を受けた比叡山の僧兵をプラスして、約3万の大軍に膨れ上がります。

迎える可成は、当時、野府城(のぶじょう・愛知県一宮市)を任されていた信長の弟・織田信治(のぶはる)の加勢を合わせても約1000ほど・・・

かくして元亀元年(1570年)9月20日坂本に迫った浅井・朝倉連合軍に対し、城を下りて撃って出る可成・・・先鋒の朝倉景鏡(あさくらかげあきら・義景の従兄弟)の軍を押し返す健闘を見せますが、なんせ、多勢に無勢・・・正面の先鋒を押し返しても、左翼から右翼から、次々と新手が登場し、さらに、この情勢を見たのか?ここに来て、新たに朝倉軍に加わる武将も登場して、ついに崩れ始めた可成&信治らは、ここに、壮絶な討死を遂げのです。

勢いづいた浅井・朝倉軍は、そのまま宇佐山城へ・・・しかし、可成の命がけの決意を引き継いだ城兵たちは、強固に抵抗し、何とか落城を免れます

其の日に宇佐山城を落とせなかった浅井・朝倉軍は、翌日から大津や山科に火を放ち、焼き討ちにしますが、その頃には、この状況を知った信長が、即座に摂津の主力を撤退させて畿内の将兵をかき集め、標的を湖西の浅井朝倉に絞って進軍開始・・・

可成の強い遺志を受け継いだ宇佐山城は、家老の各務元正(かがみもとまさ)らによって、信長が坂本に到着するその日まで守り抜かれました。

さぁ、いよいよ、信長と浅井・朝倉の再びの合戦か?・・・と行きたいところですが、そこに関与するのは、あの比叡山延暦寺・・・続きのお話は(3年も前の記事ですが…)11月26日の【堅田の戦い】でどうぞ>>

ちなみに、この戦いで、弟の信治、寵臣の可成を失った信長の怒りが、やがて比叡山焼き討ちへと向かわせたとも言われます。
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戦国・安土~信長の時代」カテゴリの記事

コメント

柴田勝家に匹敵するくらいのなかなかの武闘派ですね。確か「江」の初頭で蘭丸が、「我ら兄弟はいくさで父を失いました」と言っていました。今年の大河ドラマで森3兄弟を演じた若手俳優は今年ブレイクしましたね。

投稿: えびすこ | 2011年9月20日 (火) 14時17分

えびすこさん、こんばんは~

>森3兄弟を演じた若手俳優は…

そうなんですか?
瀬戸くんしか知りませんでした(ToT)
乗り遅れてるかな?

投稿: 茶々 | 2011年9月21日 (水) 01時36分

いい記事ですが、「本願寺顕如(けんにょ)からの要請を受けた比叡山の僧兵をプラスして、約30000万の大軍に膨れ上がります。」は帝政しておきましょう。

ある程度知識があれば、ああ、単なる打ち間違いだね、と気づきますが万一にでも、本当にこんな大軍だと思う人がいてはいけませんから。

3万、ですね。これでも当時としては大軍ですけど。

投稿: とおりすがり | 2013年2月 9日 (土) 13時45分

とおりすがりさん、ありがとうございます。

アハ、3億の大軍とは…平成日本の全人口の倍以上ですがな
さすがに勘違いする方もいないと思いますが、速やかに訂正させていただいときます。

投稿: 茶々 | 2013年2月 9日 (土) 14時10分

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