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2011年9月 3日 (土)

頼朝に味方した秩父平氏・葛西清重

 

治承四年(1180年)9月3日、伊豆で挙兵した源頼朝が、葛西清重に参陣要請の手紙を送りました。

・・・・・・・・・・・・

つい先日・・・9月1日の江戸城再建のおでも触れましたように、東京=江戸を領地とした人物として思い浮かぶのは、やはり徳川家康か、それ以前の北条5代・・・さらに、室町時代の関東管領がらみの大田道灌(どうかん)といったところですが・・・(9月1日を見てみる>>)

もちろん、それ以前の平安後期にも関東一円に拠点を構えて繁栄していた人たちがいわけで、彼らは「秩父平氏」と呼ばれた平家の一族です。

桓武天皇の曾孫・高望王(たかもちおう)に始まる桓武平氏・・・以前、平将門(まさかど)のページ(11月21日参照>>)でも触れさせていただきましたが、上総介(かずさのすけ)に任じられて関東へと赴任した彼らは、しっかりと関東に根をおろし、任期が過ぎても帰京する事なく、むしろ、常陸や下総にまで勢力を伸ばし、関東地方に一大武士団を形成・・・その子孫たちが各地に散らばって、『平家物語』に登場する千葉氏畠山氏三浦氏などの武家となっていったわけです。

その中の一つが、現在の「東京都豊島区」にその名を残す豊島(としま)・・・もちろん本拠地は、そのあたりで、前九年の役(9月17日参照>>)保元の乱(7月11日参照>>)などでも、その活躍ぶりが描かれていますが、長元元年(1028年)に起こった平忠常(ただつね)の乱をきっかけに、その乱を鎮圧した源頼信(よりのぶ)の配下となり、保元の乱では源義朝(よしとも=頼朝の父)配下として参戦していました。

そんな豊島氏で、今回の源平の争乱が始まる頃に当主となっていたのが豊島清元(きよもと)・・・その清元の三男で、葛西(かさい)三郎と称していたのが葛西清重(きよしげ)でした。

お察しの通り、現在の「葛飾区」あたりを本拠とし、後に奥州総奉行を命じられた事で奥州の大族となり、あの豊臣秀吉に屈する事を拒んで葛西・大崎一揆(11月24日参照>>)で抵抗する葛西氏の祖となった人物です。

とは言え、先の保元の乱で味方した義朝は、次の平治の乱(12月26日参照>>)平清盛に敗れ、世はまさに平家一色・・・今回の治承四年(1180年)の頃は、その清盛の配下として「秩父平氏」の道を全うしていたわけですが・・・

しかし、そんな治承四年(1180年)4月、清盛の威勢のために、後白河法皇の息子でありながら不遇の生活を送っていた以仁王(もちひとおう)が、『平家追討の令旨(りょうじ・天皇家の人の命令書)を発して挙兵したのです(4月9日参照>>)

実際の挙兵は、わずか2ヶ月足らずで鎮圧され(5月26日参照>>)、大勢が動く事は無かったのですが、一旦、反清盛勢力に発せられた令旨が、徐々に徐々にと影響を及ぼし始めます。

そして8月17日・・・保元の乱の後に伊豆で流人生活を送っていた(2月9日参照>>)亡き義朝の息子=源頼朝が挙兵したのです(8月17日参照>>)

当然の事ながら、諸国に散らばる源氏は、即刻、ともに戦う決意をしますが、「秩父平氏」としては微妙・・・血筋は平氏ですが、関東に根を下ろした源氏の配下となり、清盛が力を持つまでは、ともに仲良くやってたわけですから・・・

結局、彼らの中でも、このまま清盛に従う者と、挙兵した頼朝に味方する者とに分かれる事になります。

そんな中の8月23日・・・頼朝は、石橋山にて大敗を喫してしまいます(8月23日参照>>)

「もはや頼朝も終わったか?」と思われるほどの負けっぷりでしたが、命からがら船で房総半島に逃げた頼朝は、何とか態勢を立て直します。

そして治承四年(1180年)9月3日葛西清重とその父に対して、味方になってくれるよう、参陣を促す手紙を送ったのです。

もちろん、同様の手紙は清重らだけではなく、小山朝政(おやまともまさ)庄司行平(ゆきひら)など、他の東関東の武将たちにも送られていたのですが、鎌倉幕府の正史である『吾妻鏡』には、この時の清重への手紙にだけ、わざわざ「忠節に抽(ぬき)んでている者なので…」てな事が書かれていたようで、頼朝が清重の参戦に、特別に期待をしていた事がうかがえます。

専門家の方の研究によれば、「御所の警備を担当していた事もある清重は、度々京都を訪れていて、その行き帰りに伊豆へと寄り、すでに、頼朝の信頼を得ていたのであろう」との事・・・

もちろん、そんな清重ですから、すぐに頼朝側について参戦する事を決意しますが、なかなか本隊と合流できず・・・頼朝が千葉常胤(つねたね)の300余騎の援軍を得て、武蔵の国境・隅田川のほとりに到着した(10月6日参照>>)10月3日に、やっと合流する事ができました。

以来、まさに頼朝の期待通り、主君に忠節を尽くした清重・・・同じ年の11月に、頼朝が、未だ味方になっていなかった常陸佐竹秀義(ひでよし)を討った時には、その帰り道に自宅に招いてもてなし、一泊したその夜には、奥さんを差し出して夜のお相手をさせ(←ええんかい!w(゚o゚)w)、頼朝を大いに喜ばせた(←喜ぶんかい!( ̄Д ̄;;)のだとか・・・

その信頼の厚さからか、同時期に頼朝のもとに馳せ参じた上総介広常(かずさのすけひろつね)(12月20日参照>>)畠山重忠(しげただ)(6月22日参照>>)など、鎌倉時代に入ってから次々と粛清されていく御家人たちの中でも、清重だけは北条氏から重用され、宿老としての人生を全うし、80歳くらいまで長生きしたという事です。

やがて、多くの所領を持っていた奥州に拠点を移した葛西氏は、上記の通り、秀吉が奥州仕置きを行うその時まで、奥州の覇者として君臨する事になるのです。
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源平争乱の時代」カテゴリの記事

コメント

ほぉぉ~、豊島区、葛飾区ってそういう由来があったんですか。いやぁ~、勉強になります。やはり古い歴史を忘れない意味でも、歴史に由来する地名っていいと思うんですけどね…最近は新しく開発されたとこほど〇〇ヶ丘ばっかりだな・・でも、セントレアよりはましか。 頼朝、清盛の人生も興味津々!
来年の大河こそ!期待したいです! (いつも裏切られるけど・・・)

投稿: Hiromin | 2011年9月 3日 (土) 21時33分

Hirominさん、こんばんは~

歴史ある地名は、できれば残していただきたいですね~

ただ、利便性を考えて合併する時、由緒ある地名同志だと、どっちを残すかでモメのかも…で結局、まったく新しい地名にしてしまうなんて事もあるのかしら?

〇〇ヶ丘は、何となく太陽降り注ぐいい感じの場所のような響きがありますね~

投稿: 茶々 | 2011年9月 3日 (土) 23時51分

合併しても、旧○○町とか呼んでいますね。駅名や学校名に残っていたり。☆台風は大丈夫でしたか?緑地の方は大変だったとか〜

投稿: やぶひび | 2011年9月 4日 (日) 22時24分

やぶひびさん、こんばんは~

奈良や和歌山のほうは大変だったようです。
私のところは、雨風ともにさほど強くも無く大丈夫です。
未だ降ったりやんだりしてますが…

投稿: 茶々 | 2011年9月 4日 (日) 23時11分

今日の日記、豊島、葛西の話へーと思ったのですが、それよりも突っ込みたい話は、清重が奥さんを差し出して~→「あかんやろ!」と思いました、→頼朝も「よろこぶなよ」かえってイメージが落ちるやん!

投稿: minoru | 2014年11月23日 (日) 15時50分

minoruさん、こんにちは~

時代が変わると価値観も違いますからね~
それが、主君への忠誠の証って事だったんでしょうね。

まぁ、今のドラマでは絶対に描けないですけどね(笑)

投稿: 茶々 | 2014年11月23日 (日) 16時03分

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