« 道灌のDNAを受け継ぎ軍用犬を駆使した智将・太田資正 | トップページ | 何となく腑に落ちない松下長綱の改易 »

2011年9月 9日 (金)

『甲陽軍鑑』の真と偽

 

永禄四年(1561年)9月9日、来たるべき川中島の戦いに際して武田信玄が軍議を開いた席上で、山本勘助が「啄木鳥の戦法」を献策・・・これが採用される事になりました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ご存じ、有名な第4次川中島の合戦を明日にひかえた日・・・上杉謙信の軍・1万3000は妻女山(さいじょざん)に陣取り、武田信玄率いる2万は、その東の海津城を控えた位置に陣取って、お互いの動きを探っていました。

山本勘助が提案した「啄木鳥(きつつき)戦法」が実施されたのは、軍議のあった永禄四年(1561年)9月9日の深夜・・・

「啄木鳥が木の穴にいる虫を捕まえる時、穴にくちばしを突っ込むのではなく、木その物をつついて、驚いて飛び出して来た虫を捕まえる」という習性にならって、隊を2隊に分け、別働隊が夜のうちに妻女山の背後へと回り、早朝から襲撃を開始し、その襲撃から逃れようと山から下りて来た上杉軍を、川中島で本隊が待ちうける・・・という作戦。

謙信&信玄&勘助の登場するドラマや小説では、最も盛り上がりを見せるカッコイイシーンですが、ご存じのように、この「啄木鳥戦法」『甲陽軍鑑(こうようぐんかん)にしか登場しません。

Kouyougunkan なので、冒頭に書かせていただいた「9月9日うんぬん」というのも、当然『甲陽軍鑑』でのお話という事になります。

 
戦いのその後の流れとしては、この「啄木鳥戦法」を見抜いた謙信が、夜のうちに妻女山を下山し、朝が白々を明ける頃には、信玄本隊の目の前にいて、その後、謙信による「車がかりの戦法」で両者激突!・・・となるのですが、くわしくは2006年9月10日【鞭声粛々・川中島の戦い】>>で見ていただくとして・・・

ブログでは、その翌年の2007年9月10日【川中島の合戦は無かった?】>>に書かせていただいたように、ここに登場する「啄木鳥戦法」「車がかりの戦法」も、現実には不可能な作戦であろう事から、「川中島は無かった?」というのは少々オーバーなれど、少なくとも『甲陽軍鑑』に書かれているような物では無かった可能性大と思われます。

こんな話があります。

後に、京都に隠居していた畠山義春(よしはる・七尾城主・畠山義統の息子で謙信の養子になり上条上杉家を継ぐ)『甲陽軍鑑』を見せ、その感想を聞いたところ、
「事実と違うとこだらけ・・・作者のはずの高坂が死んだ後の事も書いてあるし、河越夜戦の年月も間違ってるし、人の名前が違えば、実在しない人も登場する。
謙信の時代の事はよく覚えてるけど、こんだけ間違ってたら信用できる書物とは言えない」

と言って2度と読む事はなかったのだとか・・・

実際に、その活躍に100年以上の差がある人物を、互いに影響し合った同世代のように書いてあったり、極めて困難な夜の行軍をサラッとやってのけさせたり・・・

以前、江戸時代に『常山紀談(じょうざんきだん)を記した湯浅常山(ゆあさじょうざん)(1月9日参照>>)も、「ウソ八百」として「あまり信用しないように…」なんて言ってる事をご紹介しましたが、そのページでも書かせていただいたように、そもそも『甲陽軍鑑』は軍記物・・・

『平家物語』しかり、『太平記』しかり、およそ軍記物という物は、今で言うところの歴史小説で、「事実に基づいたフィクション」なのです。

その作者も、信玄・勝頼の2代に仕えた武田の家臣・春日虎綱(かすがとらつな・高坂昌信)が語った話を、甥の春日惣次郎と家臣の大蔵彦十郎らが書き継いだとされていますが、それも実際には不明で、最近では多くの人物が関与した共同作業のように考える人も多いようです。

歴史の・・・というよりは、武田流の兵法を後世に伝えるための書物と解釈したほうが良いでしょう。

が、しかし・・・かと言って、まったく信用できないか?と言えば、そうではありません。

それこそ湯浅常山も言ってますが、
「戦国の時代をよく研究して、武士の魂も気質も心得たとおぼしき人が書いているようなので、ウソが多いからと軽くみないで、学ぶべき所は大いに学ぶべき」
というのが本当のところだと思います。

たとえば、今回の第4次川中島・・・上杉側の伝承には、この9月10日の合戦の話は、まったく伝えられていないと言いますが、別の所では、謙信による感状(武功を挙げた者を評価・賞賛する文書)が発見されており、何かしらの戦いがあった事は事実と思われます。

このように、細かな事は別として、その内容は、なんだかんだで史実に基づいている事が多くあると考えられるところから、現在のところ「甲陽軍鑑にも、ある程度の信憑性がある」というのが専門家の皆様の定説となっており、このブログでも、時々、『甲陽軍鑑』に書かれている事を、歴史の逸話としてご紹介させていただいたりしてます。

ただ、あまりにもうまくできた歴史小説がそうであるように、やはり『甲陽軍鑑』も、どこまでが史実に基づいていて、どこからが筆者の創作なのかが非常に見つけづらい・・・よく、専門家の間でも、「逐一検討が必要」なんて事も言われる通り、一つ一つに、「あーだ」「こーだ」と探って行く必要がありそうですが、それこそが、『甲陽軍鑑』の一番ワクワクするところでもあるわけです。

とかく人は、「どれが本当なの?」「史実はどうなの?」と、早急に答えを知りたがるものですが、そんなに急がずゆっくりと・・・歴史のおもしろさは一生モンですから

とにもかくにも、ドラマや映画の場合は、史実とは別に、信玄VS謙信の一騎打ちがあったほうがオモシロイ事は確かです。

甲陽軍鑑 (ちくま学芸文庫)

 

内容が「おもしろかった」と思っていただけましたら
右サイドバーsoonにあります【拍手!!】を・・・
ブログ内の人気ページとしてランキングされます(゚ー゚)
あなたの応援で元気100倍!

人気ブログランキングへ    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

 

 


|

« 道灌のDNAを受け継ぎ軍用犬を駆使した智将・太田資正 | トップページ | 何となく腑に落ちない松下長綱の改易 »

戦国・群雄割拠の時代」カテゴリの記事

コメント

肖像画でも顔が似ていない事はありますね。
画になった人物が死んで100年以上たって描かれた物もあるので、「瓜二つ」と証明できようがないですね。
肖像画で画の人物の生前に書かれた物は少ないですね。

投稿: えびすこ | 2011年9月10日 (土) 08時47分

えびすこさん、こんにちは~

そうですね~
武田信玄も、あの有名なほうの肖像画は信玄じゃないみたいですしね~

投稿: 茶々 | 2011年9月10日 (土) 10時00分

こんにちわ、茶々様。

>史実とは別に、信玄VS謙信の一騎打ちがあったほうがオモシロイ

私が歴史好きになるキッカケとなった小学館『日本の歴史』シリーズにも信玄と謙信の一騎打ちがあったような気がします。
子供の時に何度も何度も読み返し、胸をトキめかせていました。

今思うと『史実と違うなぁぁ~』と思う場面は多々 あるとは思いますが子供には過分なフィクションのほうが面白かったと思います。

まぁ・・・その時分には信玄がボーイズラブだったなんて想像もしていませんでしが・・・ (゚ロ゚屮)屮


>歴史のおもしろさは一生モンですから
名言ですね!

これからも楽しい歴史ブログを頑張ってくださいo(_ _)oペコッ

投稿: DAI | 2011年9月13日 (火) 12時34分

DAIさん、いつもありがとうございます。

歳がバレそうなのでアレですが、私が子供の頃にテレビでやってた子供向けの時代劇は、原作が吉川英治さんだったりしてました。

子供向けですから、勧善懲悪のヒーロー物で、ストーリーはほぼ丸々創作ですが、原作者に歴史の知識があるぶん、時代背景がはっきりしていて、何たっておもしろかったです。

ワクワクするようなおもしろい創作あっての時代劇…そんなドラマを期待したいです。

投稿: 茶々 | 2011年9月13日 (火) 19時21分

甲陽軍鑑のことを検索していたら、貴記事にぶつかりました。とても興味深い記事ですね。また是非立ち寄らせてください。他の記事もとても面白そうです!!

投稿: noki | 2015年11月21日 (土) 12時23分

nokiさん、こんにちは~

コメントありがとうございますm(_ _)m
また、ご訪問下さいませ。

投稿: 茶々 | 2015年11月21日 (土) 16時14分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/47570/41592009

この記事へのトラックバック一覧です: 『甲陽軍鑑』の真と偽:

« 道灌のDNAを受け継ぎ軍用犬を駆使した智将・太田資正 | トップページ | 何となく腑に落ちない松下長綱の改易 »