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2011年10月28日 (金)

関ヶ原後の豊臣恩顧・最初の犠牲者?赤松広秀

 

慶長五年(1600年)10月28日、但馬国竹田城城主・赤松広秀が、徳川家康の命により自刃しました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・

雲海に浮かぶ美しい姿から、天空の城・日本のマチュピチュとして城好きの間では有名な但馬(たじま=兵庫県北部)竹田城・・・

かくいう私も、その姿に感動した一人ですが・・・(12月21日参照>>)

Dscn7521a800 竹田城跡(兵庫県朝来市)

この竹田城の最後の城主となった人が赤松広秀(あかまつひろひで)・・・と言っても、この方、書籍によって様々な名前で登場します。

この広秀は、村上源氏の流れを汲む赤松氏庶流の一族・龍野赤松家の人で、父の名も赤松政秀・・・彼もはじめは赤松広通と名乗っていたのですが、その後、広秀から広英、そして、最後に、父の死後、しばらくの間、身を置いていた才村(佐江村)にちなんで斎村政広(さいむらまさひろ)と名乗っていて、それこそ、ネット上でもいろんな名で登場するのですが・・・

本日はややこしいので、竹田城の案内板に書かれていた赤松広秀という名前で通させていただきます。

・・・で、もともとは、その先祖代々の播磨(はりま=兵庫県南西部)龍野城を居城としていた広秀ですが、ご存じ、織田信長の命をを受けた羽柴(後の豊臣)秀吉中国攻めの時に、織田方に降ります。

その後、やはり、その中国攻めで、この竹田城を秀吉が落とした事から、天正八年(1560年)、但馬竹田城2万2000石を与えられ、以後、秀吉の配下として、広秀は、九州攻めや小田原攻め、朝鮮出兵などでも活躍する事になります。

一方、それまで、砦と言っても過言ではないような簡素な城だった竹田城に、現在残る立派な石垣を構築し、戦国の山城として完成させたのも広秀でした。

そんな中、秀吉の死後に、ご存じの関ヶ原の戦いが勃発します。

この時、西軍として、細川幽斎(ゆうさい・藤孝)の籠る田辺城攻め(7月21日参照>>)に加わった広秀でしたが、結局、田辺城は落ちる事なく、本チャンの関ヶ原では西軍の敗北となってしまいました(9月15日参照>>)

この時、広秀に声をかけたのが因幡(いなば=鳥取県東部)鹿野城城主だった亀井茲矩(かめいこれのり)・・・実は、この茲矩も、広秀と同時期に、あの秀吉の中国攻めで、その傘下となって、その後、秀吉のもとでともに過ごした事から、親しい関係にあったと思われるのですが、この関ヶ原では東軍として参戦していました。

そう、茲矩は、広秀に寝返りを即したのです。

茲矩の声かけに応じて、東軍に転身した広秀・・・茲矩は、広秀が最初に西軍として参戦した事を帳消しにしてもらおうと、ともに、西軍の宮部長房(みやべながふさ)の居城・因幡鳥取城を攻めたてます。(10月5日参照>>) 

しかし、この時、鳥取城下を焼き討ちして落城させた事が、徳川家康の逆鱗に触れるのです。

家康の言い分は、
「もはや、勝敗は決しているのに焼き討ちとは…何て事をするんだ!!」
てな事らしいですが・・・

結局、平謝りの茲矩は助かり、広秀だけが、その責任をとった形で、切腹を申し渡されたのです。

慶長五年(1600年)10月28日、自刃して命を落とした赤松広秀は、未だ39歳の働き盛りでした。

この采配に関しては、
家康からの咎めを受けた茲矩が、本来は「ともにやろう!」と言った城下の焼き討ちを広秀一人のせいだと、その責任をなすりつけたとも、

もとから東軍として参戦していた茲矩を咎めるわけにいかないので、寝返り組の広秀だけを、家康が処分したのだとも言われますが・・・なんだか、腑に落ちませんねぇ。

「戦いは決した」って言っても、それは本チャンの関ヶ原の事・・・ご存じのように、この関ヶ原の戦いは、関ヶ原だけではありません。

東北では、上杉景勝の執政・直江兼続(かねつぐ)長谷堂でゴチャゴチャやってましたし(10月1日参照>>)、九州では、黒田如水(じょすい・官兵衛孝高)大友義統(よしむね)石垣原(9月13日参照>>)の後も、10月20日の久留米城攻め(10月20日参照>>)や、柳川城の開城(11月3日参照>>)に至っては11月3日と・・・まだまだゴチャゴチャやってたわけで、これらだって関ヶ原関連の抗争なわけですから・・・

それに、城下の焼き討ちなんてのは、城攻めの常とう手段で・・・そりゃ、そんな事しないで、キレイに城を落とせればそれに越した事はありませんが、むしろ、そんなのが稀なわけで、戦国の世においては、それほど悪とは言い切れませんよね?

なのに、この戦国の世に、味方となって城を落とさせておきながら、その責任を負って切腹って・・・((・(ェ)・;))

実は、この赤松広秀さん・・・かなり頭の良い、優れた人物だったようです。

彼は、日頃から藤原惺窩(ふじわらせいか)という儒学者から、儒学をはじめ朱子学陽明学などの教えを受けていて、その関係から、朝鮮出兵の際に捕虜となって日本に連れて来られていた姜沆(きょうこう=강항(カン・ハン))とも親しくしていたのですが、当時の最高頭脳とも言えるこの二人から、彼は絶賛されています。

捕虜となった経緯から、「日本の将兵なんて、皆、盗賊や!」なんて毒舌をかましていた姜沆が、「広秀さんだけは違う…あの人には心がある」と言い、惺窩に至っては、「日本で孔孟の道を究める人物と期待できんのはあの人だけやったのに~」と、秀の死を聞いて、声をあげて泣いたと言います。

ここで死ななければ、おそらくは、これからも、かなりの活躍が期待できた人物・・・いや、ひょっとしたら、そんな人物だからこそ、家康は切腹させたのかも知れません。

そして、もう一つ、あの生野銀山が竹田城の管轄にあった事も忘れてはなりません。

家康は、この後、竹田城を廃城として、すぐさま、近くに篠山城を築いて譜代の松平康重を入れ、生野銀山には但馬金銀山奉行を配置して、佐渡金山石見(いわみ)銀山と並ぶ天領としているのです。

豊臣大好きの私・・・家康ファンの方には申し訳ないのですが・・・
つまりは、豊臣恩顧の頭脳を排除するとともに、金のなる木の銀山を手中に納めるがための赤松広秀の切腹ではなかったか?と思います。

ずいぶん前に、【加藤清正・疑惑の死】と題して書かせていただいたページ(6月24日参照>>)で、「ひょっとして、家康、ウラで何かやってんやないの?」と疑いたくなるくらい、関ヶ原から大坂の陣までに亡くなる豊臣方の武将が多いと書かせていただきましたが・・・

もし、本当に、家康が、豊臣恩顧の武将をターゲットに何かを企んでいたとしたら、最初の犠牲者となったのは、まぎれもなく、関ヶ原直後に切腹を言いわたされた赤松広秀という事になりますね~

切腹に際しては、亀井茲矩に対して恨み節を言う事もなく、何の弁解も無しに、ただ粛々をその命を受け入れ、何も語らず、静かに自刃に及んだという広秀・・・ひょっとしたら、この家康の思惑のすべてが、彼には見えていたのかも知れません。
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家康・江戸開幕への時代」カテゴリの記事

コメント

この前テレビで竹田城が日本のマチュピチュとして取り上げられていました。(どんな番組かは忘れてしまいました( ̄◆ ̄;)

いつか絶対に行ってやるぞ!

タヌキ爺は謎だらけですね。


投稿: Ikuya | 2011年10月28日 (金) 19時11分

茶々さん、こんばんは!

赤松広秀が乱世を生きながらえていたら、どんな世の中になっていただろう?って考えちゃいますよね。

広秀が所蔵していた儒学関連の書物は皆、家康が没収し、徳川幕府の蔵書としてしまったようです。

もし生きながらえていたら、藤原惺窩も広秀に林羅山を推薦していた可能性もあったでしょうね。

また領民に対して、不作の年には減税してやったり、産業を奨励するなど仁政を施したので、“名君”“賢君”と称されていたかもしれません。

実際、広秀の死を悼んだ領民たちが塚を作って、毎年法要を営んでいたという伝承も残っていますから…

投稿: 御堂 | 2011年10月28日 (金) 19時26分

Ikuyaさん、こんばんは~

>この前テレビで…

たぶん、同じの見てますね(笑)
ウッチャンの教科書に載せたいなんとかという番組じゃないですか?

機会がありましたら、ぜひ…12月の半ばくらいが、雲海が出やすいらしいですよ。

投稿: 茶々 | 2011年10月29日 (土) 03時01分

御堂さん、こんばんは~

江戸時代まで生きていたら、さぞや名君になったんでしょうねぇ。

残念です。

投稿: 茶々 | 2011年10月29日 (土) 03時03分

初めまして。

40代女性です。
昨日、竹田城址に行ってきました。
ボランティアガイドさんから赤松氏の話を聞き、検索してたどり着きました。

とても素敵なブログですね。
私は30代になって歴史に興味が出てきて、城をあっちこっち訪ねています。
これからもちょくちょく訪問させてくださいね。

竹田城址は想像以上に素晴らしい城でした。
城に関する資料は家康が全て処分したとのこと。
よっぽど赤松氏のことを恐れていたとしか思えません。
赤松氏の自刃が残念でなりません。
天空の城でしばし戦国時代に想いを馳せました・・・。

投稿: とも | 2012年4月 9日 (月) 12時58分

ともさん、こんにちは~

そうですか…行かれたのですね。
私も、想像以上に素晴らしい城でした。

ちょっと出るのが遅れて、天空に浮かぶ姿は、ほんの小一時間しか見られませんでしたが、石垣などがすばらしくて、雲海に関係なく、何度も訪れたくなりますね。

ホント、家康は、あれやこれや、イロイロ末梢してくれてるので、難儀なお人です。

また、遊びに来てくださいね。

投稿: 茶々 | 2012年4月 9日 (月) 17時12分

今竹田城から帰りです。赤松氏が気になったので調べました。とても役に立ちました。

投稿: | 2013年10月12日 (土) 20時21分

竹田城に行かれたのですか?

何やら、今は大変な人気だそうですね。
私が行ったのは、5年ほど前ですが、本文に載せた写真でお解りの通り、ほとんどお客さんはいませんでした。

人気が出るのは良い事ですが、あまりに多すぎて、あの美しい石垣も危なくなって来たそうで、心配です。

投稿: 茶々 | 2013年10月13日 (日) 00時52分

こんばんは!はじめまして。
13年ほど前・・・訪ねたときは誰も居なくて静かでした。(ちょっと不思議な空間で、怖いくらい 笑)
赤松氏が亡くなった時期が、遅ければ、歴史が変わったかもしれませんね。
歴史で、もしも?は、ただの妄想だとしても、働き盛りで命を絶たれた人たちが生きていたら?と考えることがしばしばあります。
(それは世界大戦に関しても同じです・・多くの芸術家やスポーツ選手そして、国民が亡くなり・・もしも生きていらしたら、日本の文化や政治も変わったのかなとか)

人望や能力があったり、その土地が豊かだと狙われたることは多いにありうると思います。
唯一の救いは、死後も誰かが想いだしてくれる。それだけ惜しまれるのも、赤松氏の人望なのでしょう。

木村佳乃さんが出ていた映画「船をおりたら彼女の島」に霧がかかった不思議な廃墟が登場します。
一瞬、竹田城跡かと思ったんです。
だけど、ロケ地は別子銅山の跡地でした。
現在、そこも有名になって観光バスも行くようになり、便利になりました。お城とは違いますが、不思議な空間です。もし行かれたことが無いようでしたらおすすめです。(廃墟がお好きでしたら・・)

山の自然もそうですが、大勢の観光客が訪れるとゴミの問題、排気ガスなど、環境も悪化するから、ディズニーみたいに(?)入場規制をして劣化が進まないようにするのも、大事かなと思います。

投稿: かめこ | 2015年10月20日 (火) 00時18分

かめこさん、こんばんは~

別子銅山跡は行ってませんね~
個人的には、お寺&神社系の廃墟は神秘的で平気なんですが、近代的な廃墟は苦手…というか不気味さが先に来ますね~
まぁ、その不気味さもクセになるし、時間が止まって見える感じがタマランですがww

お客さんには来てほしいけど、現状維持も大変…観光地は悩みの種でしょうね。

投稿: 茶々 | 2015年10月20日 (火) 03時28分

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