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2011年10月 5日 (水)

大寧寺&厳島…陶晴賢の思いやいかに

 

弘治元年(1555年)10月5日、厳島の戦い後、陶晴賢の草履取りであった乙若が捕縛され、晴賢の首が、毛利方に確保されました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

*すでに読んでくださってる方は、この、これまでのあらすじ部分は飛ばしてくださいo(_ _)oペコッ

主君・大内義隆(よしたか)を倒して(8月27日参照>>)大内氏の実権を握った陶晴賢(すえはるかた・隆房)から離反し、反旗をひるがえした安芸(広島県)の国人領主・毛利元就(もとなり)は、様々な諜略作戦を駆使して(8月27日参照>>)、晴賢の大軍を、狭い厳島(いつくしま・宮島)におびき出す事に成功(9月21日参照>>)・・・

さらに、瀬戸内の雄・村上水軍の援軍を得た元就(9月28日参照>>)は出陣を決意・・・弘治元年(1555年)10月1日、いよいよ厳島の戦いの幕が開きます

元就の狙い通り、狭い場所にひしめき合った晴賢の大軍は、毛利方の挟み撃ちに遭い、またたく間に総崩れとなってしまい(10月1日参照>>)、もはや敗戦が濃くなった晴賢は、海岸沿いに西へと逃走をはかります。

位置関係図:別窓で開きます>>

・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆

何とか大元浦までやって来た晴賢でしたが、厳島の沿岸に停泊させていた船は、すでに碇綱を切られており、海上に漂うばかり・・・わずかに残る船には、厳島から脱出しようとする陶軍の将兵で溢れかえっています。

しかも、運よく動ける兵船に乗って漕ぎだしたとしても、その向こうには、すでに海上封鎖を完了した村上水軍が待ち構え、火をかけられたり奪われたり・・・晴賢を救出するどころか、戦場から脱出する事さえ困難な状態でした。

やむなく、さらに西へと向かって馬を走らせる晴賢は、少し沖へと漕ぎ出した船を見つけては馬印(大将の位置を示す旗印)を見せて、漕ぎ戻るよう指示を出しますが、もはや、その命令に従う船もありませんでした。

結局、島を脱出する事をあきらめた晴賢は、やおら刀を抜き、最後のひと差しを舞うと、側近と水盃を交し、自刃して果てました。

Sueharukatazizin800 陶全姜敗死の図「厳島図絵」(廿日市市宮島歴史民俗博物館蔵)

享年・35歳・・・
♪何を惜しみ 何を恨みん 元よりも
  この有様に 定まれる身に ♪
 陶晴賢・辞世

・・・と言われますが、その自刃した場所というのは複数伝えられています。

  • 大元浦から西の大江浦にて宮川市充(いちのじょう)の介錯で割腹…『棚守房顕覚書』
  • 山を越えて東海岸の青海苔(あおのり)まで行き、乳母子(めのとご)伊香賀隆正(いかがたかまさ)の介錯で自害…『吉田物語』
  • 青海苔浦の奥の高安(たかやす)ヶ原『芸藩通誌』(現在、石碑が建ってます)

その後、伊香賀隆正が、晴賢の首をとある場所に隠した後、彼も自刃した・・・との事・・・

そうです。
先日も書かせていただきましたが、たとえ態勢が勝利となっていても、敵の大将を討ち取る、あるいは、今回のように自害した場合は、その首を確認せねば、合戦の終結とはなりません。

なので、毛利方は追撃を開始し、晴賢の重臣・弘中隆兼(ひろなかたかかね)父子も、まだ戦い続けていたわけで・・・そんな隆兼も、最後の3人になるまで奮戦しますが、残念ながら10月3日に討死(10月3日参照>>)を遂げました。

こうして、ほぼ戦闘状態ではなくなった後も、必死の捜索をする毛利軍・・・やがて、戦闘開始から5日経った弘治元年(1555年)10月5日山中に潜伏していた少年が捕まります。

彼は、名を乙若(おとわか)と言い、晴賢の草履取りをしていた者・・・まだ、幼さの残る少年は、屈強な武者たちに囲まれて怖くなったのでしょう、
「主君の首のありかを教えるので助けてください」
と、命乞いをしたのです。

彼に案内をさせて大江に行くと、その告白通り、岩の陰から晴賢の首を発見・・・ここで、毛利軍はようやく、勝鬨(かちどき)を挙げて勝利宣言したのです。

ちなみに、約束通り、その命を助けられた乙若ですが、主君を裏切った自責の念にかられたのか、後に自殺したと言われています。

ところで・・・
こうして厳島に散った晴賢の事を、先日の10月1日のページ(再び10月1日参照>>)で、
「逆臣の汚名を着た猛将は、弁解の余地を許されず、厳島に散った」
と書かせていただきましたが、

この「逆臣」というのは、もちろん、主君の大内義隆を自刃に追い込んで、自らが、事実上の実権を握った大寧寺の変(再び8月27日参照>>)の事です。

そして、この後、これまでの経緯の通り、物の見事に元就の計画通りに厳島の大勝利となる事から、とかく、晴賢については、あまり良い噂は聞きません。

「所詮、平時の軍師止まりで、戦国の荒波を越える器量はなかった」
とか、
「猜疑心が強く、冷酷で直情型、単独専行ばかりで周囲との摩擦も多かった」
とか・・・

しかし、それこそ、死人に口無し・・・もはや、晴賢には弁解する術もなく、勝てば官軍の毛利の言い分ばかりがまかり通るというもので、後世に伝えられる晴賢が、どこまで、彼の真実の姿に近いのかは微妙なところでもあります。

その昔、主君の義隆が、ライバルの尼子氏月山富田(がっさんとが)城攻めで負け戦となった時、晴賢は自ら危険な殿(しんがり)をかって出て、追いすがる敵をかわしつつ、残り少なくなった米を兵卒たちに与え、自分は水と雑草で飢えをしのぎながら撤退を成功させたと言います。

晴賢は、そんな一面も持っている人なのです。

主君への謀反の時、晴賢自身が、『史記』の一説を引用して、
「天の与えを取らざれば、かえってその科(とが)を受く」
と言って、謀反を正統化したしたと言いますが、一方では、晴賢自身は、主君の義隆の失脚は願っていても、命を取るまでのつもりはなかったとされています。

それが、結局、主君殺害にまで発展するのは、重臣たちで行った評議の結果
「消極的な政策ばかりを行う義隆・義尊(よしたか)父子を誅殺しなければ、家内の乱れは収まらない」
となったからで、この謀反は、晴賢個人の野望ではなく、重臣たちの意見で行った事がうかがえます。

もちろん、この時点では、元就だって晴賢に同調しています。

その後、大内氏一族の大内義長(よしなが・当時は大友晴房=大内義隆の甥で大友宗麟の弟)を新たな当主に迎えるところを見ても、やはり、自身が大内氏にとって代わろうという野望は無かったように思えます。

その義長が、傀儡(かいらい・あやつり人形)の当主で、実権を握った晴賢の言いなりだったというのも、ひょっとしたら、その後に義長を死に追いやる(4月3日参照>>)毛利側の言い分なのかも知れません。

果たして真相やいかに・・・
ワクワクドキドキの歴史ミステリーには、
今夜も眠れません\(;゚∇゚)/
 .

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コメント

ご先祖様のこと詳しく取り上げてくださって有り難うございました

投稿: オオイタッコ | 2011年10月 7日 (金) 00時38分

オオイタッコさん、こんばんは~

そうですか…ご先祖様でしたか。
ご訪問とコメント、ありがとうございました。

投稿: 茶々 | 2011年10月 7日 (金) 01時24分

陶晴賢は私の先祖であると聞いております。千草という娘の墓が我が家墓にあります。陶氏が厳島で敗れたのち、生き残った娘と一族が京都へ逃れ、その後徳島に逃れて名前を少し変えて現在に至っていると聞き及んでおります。

戦国時代のためにいろいろと謀反や下克上が言われますが、陶は、大内氏の繁栄と永続を願っての行動であったと私は思っております。

  徳島県阿南市山口町
         陶久晴岳

投稿: 陶久 晴岳 | 2011年11月21日 (月) 10時21分

陶久晴岳さん、こんにちは~

>謀反や下克上が言われますが、陶は、大内氏の繁栄と永続を願っての行動であったと…

その通りだと思います。
明日をも知れぬ戦国の世で生きた人々は、今の私たちよりはるかにストイックで真剣に生きていたと思います。

晴賢に限らず、そこには、自らの命と、一族郎党の運命を賭けるにふさわしい大義名分があったと思います。

ところで、コメントに書かれてある住所ですが、すべてを表示してはマズイのではないかと、町名までにして、以下、番地の部分は削らせていただきましたが、何かの理由で、「表示してほしい」という事でしたら、その旨、お知らせいただければと思います。

投稿: 茶々 | 2011年11月21日 (月) 17時49分

97年大河ドラマ「毛利元就」での晴隆の行動は、主君を諌めるための行い(義隆の息子を救おうとしたが家来が殺した)と言う事でしたが、その後に毛利元就につけこまれて大内家の領地を取られました。
大内義隆がもっと人望ある人物ならば、後々に大内家が豊臣政権で五大老になったかも?

投稿: えびすこ | 2011年11月22日 (火) 17時22分

えびすこさん、こんばんは~

>大内義隆がもっと人望ある人物ならば…

そうですね。そもそもはそこからですから…
実際には、どうのような人だったのか、気になりますね。

投稿: 茶々 | 2011年11月23日 (水) 03時17分

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