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2011年10月14日 (金)

封建社会を痛烈批判…忘れられた思想家・安藤昌益

 

宝暦十二年(1762年)10月14日、秋田藩出身の医師で思想家の安藤昌益が60歳でこの世を去りました。

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安藤昌益(あんどう しょうえき)・・・元禄十六年(1703年)に出羽国秋田二井田村(大館市)の農家に生まれた彼は、家を継ぐべき長男では無かった事もあって、若くして京に上り、仏門に入ったと言われます。

しかし、どうやら、その教えに納得がいかず、寺を出て、今度は、味岡三伯(あじおかさんぱく)なる医師の弟子となり、医学の道に進みます。

やがて40歳前後の頃に、陸奥国八戸城下町医者として開業・・・そこで、八戸藩士やら僧侶やら、同じ医者仲間やらと交流する中で、なかなかの博識ぶりを披露し、学者としても知れれた存在となっていったようです。

その後、郷里を継いでいた兄が亡くなった事を受けて、宝暦八年(1758年)に故郷に戻りますが、そこで町医者として開業しつつも、凶作にあえいでいた村を指導して復興に成功・・・自ら守農大神と名乗ったと言います。

宝暦十年(1760年)に昌益の弟子たちが、一門の全国集会を開いたところ、14名ほどの参加者がいたという事ですが、その2年後の宝暦十二年(1762年)10月14日60歳で亡くなったとの事・・・

と言っても、実は安藤昌益についての記録はほとんどありません。

医者としても学者としても、それほど特出した人ではなく、言わば、物知りなオッチャン程度・・・なので、その死後には、彼の存在は、ほとんど忘れ去られてしまっていたのです。

そんな彼が世に出るキッカケとなったのは・・・

彼の死後から138年経った明治三十二年(1899年)・・・当時、一高の校長をしていた狩野亨吉(かのうこうきち)が、昌益が宝暦三年(1753年)頃に書いたとされる著書・『自然真営道(しぜんしんえいどう)稿本(こうほん=写本・下書き:実際には、弟子が昌益の死後に遺稿をまとめた物)100巻を発見した事に始まります。

その中で、昌益が語る徹底した平等主義思想が、まさに、明治のその頃にもてはやされた思想に通じる物があったのです。

残念ながら、発見後に東京帝国大学図書館に寄贈されていた稿本は、未だ書き写す前に関東大震災で大部分を焼失してしまいます。

が、しかし、幸いにも、その後、明治の発見以前に写されていた写本や宝暦三年(1753年)に刊行された刊本が見つかり、今に至っています。

Sizensineidou1a800 「自然真営道」第1巻(日本史ものしり事典より)

・・・で、ここで気になるのは、その明治の頃に絶賛されたという昌益独自の世界観・・・

彼が言うには・・・

人間は本来、万人が「直耕=直接生産」をして、皆で平和に暮らす「自然世」の社会で、そこには天皇も将軍も武士もおらず、男女も平等に働いていたはずである。

ところが、そこに「不耕貪食の徒=自らは生産しないで農民を搾取して支配する者」が現われた。

昌益は、この社会を「法世」と呼び、人間社会の墜落の始まりとしています。

こうした思想ゆえ、昌益は武士が支配する封建社会を徹底的に批判し、その根本となっている儒教や仏教をも否定したのです。

さらに、直耕する者だけで作る自然世を理想のユートピアとして掲げた・・・つまり、農民による共産主義が理想であると・・・

Sizensineidou2a800 あのフランスの哲学者=ジャック・ルソー『人間不平等起源論』を刊行したのが1755年・・・その2年前に同じような事を考えていた日本人がいたとは!

私は、右だ左だと論議を交わせるほどの知識を持ち合わせていませんので、昌益の主張が正しいか否かについては意見をひかえますが、江戸時代という封建制度真っただ中の時代に、それを真っ向から否定するような事を考え、かつ、その著書を刊行していたという事実に、一歴史好きとして、とても興味を抱きますね。

ちなみに、聞くところによれば・・・
稿本のとある箇所で、徳川家康を称して「聖人」と書いてあるところに、見ると何枚も貼紙が重ねてあって、その下に何か書いてある・・・つまり、何かヤバイ事が書いてあったので、その上にシールのように紙を貼って、一番上に「聖人」と書いてあるわけです。

発見者の狩野が、その下に何て書いてあったのかが気になり、水を湿らせて丁寧に剥がすと、下から出て来たのは「君主」という文字・・・

さらに、それを剥がすと「獣」・・・さらに剥がした一番下には「奴輩(どはい)と書いてあったのだとか・・・

「君主」と「獣」の間に差があり過ぎやろ!
というツッコミはさておき、

江戸時代に、神君家康公を「奴輩」とは( ̄○ ̄;)!・・・
よく、後世まで残っていたもんだとつくづく・・・。
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コメント

『発見者・狩野亨吉をして「狂人の書」と言わしめ、』
『弟子の神山仙確が昌益の死後に遺稿をまとめたもの』
@wiki
宗教くさいなぁ。特に弟子の名前が...

>江戸時代に、神君家康公を「奴輩」とは( ̄○ ̄;)!・・・
ウソくさいなぁ。文章全体を変えないと不自然じゃないのかな?

それはともかく、背景をもう少し知りたい人ですね。
特に、『味岡三伯(名医らしい)なる医師の弟子となり、』のあたり。
享保の大飢饉(1732年)と関係があるのか、ないのか?

投稿: ことかね | 2011年10月17日 (月) 14時07分

ことかねさん、こんにちは~

明治のグッドタイミングで発見されて絶賛される…なんだかタイミングがスゴ過ぎな気もしますがww

専門家さんによってはあまり評価されてないみたいですけどね。
その人となりは知りたいです。

投稿: 茶々 | 2011年10月17日 (月) 14時52分

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