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2011年11月30日 (水)

毛利元就を支えた良妻賢母・妙玖

 

天文十四年(1546年)11月30日、1代で中国地方に広大な領地を持つ西国の雄となった毛利元就の正室・妙玖が47歳で亡くなりました。

・・・・・・・・・・

その頃は中国地方の2大勢力である周防(すおう・山口県)大内氏出雲(島根県)尼子氏の間で奔走する一国人に過ぎなかった毛利家・・・

そんな中の永正十四年(1517年)・・・戦国の世となってから小豪族たちが領地化して、勝手に治めていた安芸(あき・広島県)という場所を、鎌倉時代からの守護であった武田氏の当主・武田元繁(もとしげ)奪回しようと動き始めます。

まずは、2年前に毛利興元(おきもと:元就の兄)に奪われた有田城(広島県山県郡)奪い返そうというのです。

実は、この前年に興元が突然死亡・・・毛利の家督を継ぐのは、その息子でわずか2歳の幸松丸(こうまつまる)という事態になっていて、元繁としては大チャンス!!

その時の有田城は、興元の義弟・吉川元経(きっかわもとつね・興元&元就の妹を奥さんにしてる)が守っていましたが、なんだかんで守護のターゲットとなった城は大ピンチ!!

そのピンチを救ったのが、亡き興元の弟・毛利元就(もとなり)・・・21歳の彼にとって、これが初陣でした。(10月22日参照>>)

上記の通り、興元&元就強大の妹・松姫が嫁いでいた事で、すでに姻戚関係にあった毛利家と吉川家ではありましたが、守護の武田家を破った事で一気にその名を挙げた元就と、ピンチを救われた吉川家が、より親密な関係になった事は言うまでもありません。

その吉川元経の妹である妙玖(みょうきゅう)が、元就の妻となったのは、おそらく、この頃と思われます。

以前、関連のページ(7月10日の後半部分参照>>)に書かせていただきましたが、この元経さんの祖父・吉川経基(つねもと)は、この少し前に、散々、尼子経久(つねひさ)に毛利との縁組を勧めていたようで、ひょっとしたら、尼子氏の姫を娶っていたかもしれない元就でしたが、結局、その縁組は実現せず・・・

そんな微妙な運命の行き違いにより、元就の正室となった妙玖でしたが、この後、元就が尼子氏を敵に回して大内氏の傘下となる(1月13日参照>>)事を思えば、それは、すでに決まっていた運命なのかも知れません。

やがて、長男・隆元(たかもと)、次男・元春(もとはる)、三男・隆景(たかかげ)毛利三傑と、後に重臣・宍戸隆家に嫁ぐ事になる五龍(ごりゅう)という姫の合計4人の子供を、夫・元就との間にもうける妙玖ですが、その人となりや夫婦関係の事は、ほとんど史料に登場しません。

しかし、ドラマや小説に登場する妙玖さんは、決まって良妻賢母に描かれる・・・実は、そこには、妙玖さんが亡くなった後に、元就が発するラブラブ光線満載の語録が複数存在するからなのです。

なにか、事あるごとに
「妙玖がおったら、もっと楽やのに…」
「なんや、この頃、妙玖の事ばっかり、考えてまうわ~」
さらに、息子らにも・・・
「お前らが仲良うする事が、お母さんの供養になんねんで」

嫁さんが亡くなった後に旦那がこんな事を思う・・・それは、ひとえに、「奥さんが良い人で、すばらしい人だったからなんだろう」って事なわけです。

もちろん、妙玖さんが健在の間には、元就は側室の一人すら持つ事がなく、奥さん一筋だった事も・・・

さらに、元就がその生涯で戦ったとされる2百数十回の合戦の中で、それこそ、一か八かの危ない合戦のほとんどが、彼が、初陣の21歳から50歳になるまでに経験した戦い・・・妙玖は元就より2歳下という事なので、まさに、彼女とともに生きていた時代は、危険な戦いにあけくれる日々だったわけで、

しかも、その間には、長男の隆元が15歳で大内氏の人質に、三男の隆景に至っては、わずか12歳で小早川家乗っ取りの道具として手元を離れる(9月27日参照>>)事になるわけで・・・

さすがに隆景の時には、彼女は、3年間も猛反対し続けたと言いますが、それこそ、昨今のドラマでは「息子を政略の道具に使うなんて!!離縁して下さい」てなモンですが、彼女は、そうはならず、

合戦と謀略にあけくれる夫、他家との架け橋となるべく向かった息子、そして、その領域を広げる使命を帯びて他家へ入った息子たちをしっかりと支え、見守り、彼らの最大の内助者となるのです。

天文十四年(1546年)11月30日、病に倒れた妙玖は、安芸郡山城(広島県安芸高田市)にて、静かにその生涯を終えました。

この5カ月前には、幼くして亡くなった生母の代わりに自分を育ててくれた父・毛利広元の側室・杉大方(すぎのおおかた)も亡くしていた元就・・・

妙玖の喪が明けるとすぐに、長男の隆元に家督を譲って隠居するのも、彼を支えてくれた二人の女性が、ほぼ同時に亡くなってしまった事が、少なからず影響しているのでしょうか?(そのワリには、あんまりおとなしくしてないけど…)

Motonarisyozyouhahawoba600 毛利元就自筆書状(毛利博物館蔵)
真ん中あたりに「内をば母親以って…」という言葉が書かれています。

後の、元就自筆の書状の中に・・・
「内をば母を以って治め、外をば父親をもって治め候(そうろう)と申す金言、すこしもたがはず候」
とあります。

嫁さんがしっかり家を守ってくれるからこそ、自分は安心して外で力を発揮できる・・・

女性の社会進出が叫ばれて久しい今日この頃・・・それも大切だと思いますが、個人的には、やっぱり、こんな夫婦関係が好きな茶々でおますヽ(´▽`)/
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2011年11月29日 (火)

山城屋事件~陸軍省で割腹自殺した山城屋和助

 

明治五年(1872年)11月29日、陸軍省から借りた多額の公金を返済できなかった御用商人・山城屋和助が、割腹自殺しました。

・・・・・・・・・・

山城屋和助(やましろやわすけ)は、本名を野村三千三(のむらみちぞう)と言い、周防国(山口県)玖珂郡(くがぐん)医師の四男として生まれましたが、幼い頃に両親を亡くしたために寺へと預けられ、僧侶として修行に励んでおりました。

Yamasiroya550 しかし、文久三年(1863年)、25歳の時に還俗(げんぞく:僧侶が俗世間の一般人に戻る事)して、高杉晋作が創設した奇兵隊に入隊します。

ここでは山県有朋(やまがたありとも)の部下となって戊辰戦争に参加・・・越後(新潟県)各地を転戦しました。

維新後は、山城屋和助と名を変えて横浜に店舗を構え、貿易商を営む商人となりますが、ここでフル活用したのが、奇兵隊時代の上司であった山県との縁でした。

当時、兵部省(国防機関)大輔(たいふ:次官)だった山県を通じて、兵部省の御用商人となり、軍需品の納入を一手に引き受けて莫大な利益を得、豪商として名を馳せます。

山県は、その見返りとして多額の献金を受け取っていたと言われますが、そこンところは謎に包まれています。

ただ、その後、生糸相場に投資するための資金として陸軍の公金を、山県が勝手に和助に貸してしまったのは事実のようですが、これがまた、エライ損害を被ってしまいます。

おりから、普仏戦争(ふふつせんそう:フランスとプロイセン王国=ドイツ北部の間で行われた戦争)が勃発した事により、ヨーロッパの生糸相場が暴落してしまったのです。

公金を使って大損・・・しかし、これで懲りないのが、一度、富を得てしまった人間の悲しいサガ・・・

山県は、今回の欠損を補てんするため、またしても公金を和助に貸しつけ、今度は、自らの手で交渉しようと、和助は、この大金を手に、フランスに渡ったのです。

ところが、まもなく・・・
フランスに渡った和助が、「仕事もせず、日夜豪遊している」との噂が現地に広まります。

不審に思った駐仏公使が、日本の外務省に報告・・・豪遊資金の出どころが、山県の貸した公金である事がバレそうになってしまいます。

ナイショで貸しつけた公金の総額は約65万円・・・それは、当時の陸軍省予算の1割にも当たる額だったとか・・・

まさしく公金横領・・・ティッシュで稼いだ会社の金をカジノで使っちゃった人もいましたが、コチラは軍のお金ですから、さらに罪は重い・・・

ただ、悲しいかな和助自身には、あまり罪の意識が無かったのかも知れません。

なんせ、幕末の頃には、あの高杉晋作も、そして伊藤博文井上馨(かおる)も、藩の公金で遊び歩いていたという悪しき習慣が長州にはにはありましたから・・・彼も、そんな、過去の英雄のマネをして、儲けにつながる人脈を築きたかっただけなのかも知れません。

しかし、もう、時代は変わりました。

新政府も薩長による公私混同に眉をひそめはじめていましたし、政府内には、山県が推進する徴兵令に反発する保守派もいて、対立の様相を見せていましたし、なんたって「役人の不正は許さぬ」江藤新平(4月13日参照>>)も健在でしたから・・・

事の発覚に、さすがの山県も慌てふためき、すぐに和助を日本へ呼び戻して、貸しつけたお金の返済を迫ります。

しかし、もはや破産寸前の和助に、返済するお金などありません。

こうなると周囲は冷たいものです。

山城屋と親しい関係にあった長州出身の官僚たちは、手のひらを返したように、山城屋との関係を一切断ち切ります。

明治五年(1872年)11月29日、山県に司法の取り調べが及ぶ事を防ごうと考えた和助は、すべての証拠書類を焼却し、山県に会いに、陸軍省へと向かいました。

しかし、山県は和助からの面会の申し入れを拒否・・・山県も、彼を切ったのです。

山県からも拒絶された事を痛感した和助は、そのまま陸軍省内の一室で割腹自殺を謀ったのです。

享年36歳・・・

陸軍省内の一室にて自殺したという行為は、和助なりの意地であり、山県への抗議の意味もあったのかも知れませんが、結局、彼が、すべてを背負って自殺した事で、この事件の真相は闇に葬られる事となり、山県は、その後も順調な出世コースを歩む事になります。

♪誉(ほま)れある 越路(こしじ)の雪と 消えもせず
 永らへてこそ 恥ずかしきかな  ♪
   山城屋和助:辞世

和助にとって、誇れる自分とは、幾万の富を築いた維新後ではなく、遠き新潟の地で奇兵隊の一員として戦ったあの時代・・・

命を賭けた武士として生きたあの頃こそ、彼が一番求めていた彼らしい生き方だったのかも知れません。
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2011年11月28日 (月)

大河ドラマ「江~姫たちの戦国~」最終回:希望

 

とうとう終わりましたね~

大河ドラマ「江~姫たちの戦国~」・・・昨日の最終回のお題は「希望」でした。

このお題を聞いて、私は、
泰平の世が来た事を実感して、「徳川の未来が明るい希望に満ち溢れている」と江夫婦がしみじみと感じる・・・という意味なのか?と思っていましたが、

そうではなく、秀忠にとって江が「希望」だったんですね~

11ヶ月に渡って拝見させていただいた個人的感想を、ひと言で言わせていただくならば・・・
「スゴかった」
とにかく、スゴかったドラマでした。

まずは、身長167cmの樹里ちゃんが、6歳の幼女を演じる事にド肝を抜かれ、信長の命令で小谷城を攻めたのに、父の仇と恨むのは秀吉・・・

ただ、どこにでも出没して、何にでも首を突っ込むのは、大河に限らず、どんなドラマでも主人公の特権なので、それは気になりませんでした。

しかも、信長の御馬揃えが見事に描かれていましたし、明智光秀が、堺にいるはずの信長の嫡男・信忠が京の妙覚寺に入った事を知って、それが本能寺の変を起こす後押しになるくだりは、見ていて拍手喝采でした。

昨年の今日、書かせていただいた信忠さんがらみのページ(2010年11月28日参照>>)でもお話させていただいたように、個人的には、この本能寺の日に、信長と信忠が京のほぼ同じ場所にいた事がとても重要だったと思うわけですが、これまでのドラマではほとんどスルーされてましたから、そこに触れてくださったのは、ひょっとして初めてだったのでは?

初めてと言えば、浅井三姉妹のうちの江が主役・・・というのも初めてなのでは?

これまでは、三姉妹のうちでスポットが当たるのは、やはり、長女の茶々=淀殿でしたからね。

だからこそ、そんな江が中心の場面が描かれる物と思っていたのですが・・・

昨日の放送で、秀忠&江が庭先でしみじみ語るシーン・・・
秀忠:(結婚して)もう何年になるかな?」
お江:「30年でございます」
と言ってましたが、そのうちの最後の10年を、昨日の75分間で描いていました。

私が最も見たかったのは、その10年でした。

家康亡き後に、幕府の基盤を固める秀忠・・・
中止になりかけた和子の入内実現に奔走する秀忠と江・・・
大奥のシステム確立に挑む江と春日局・・・

そこらへんを、もう少しくわしく見てみたかったのですが、やはり1年という長い期間ですから、放送時間に対する逸話の配分も難しかったのかも知れませんね。

ただ、一つだけ、歴史がどうのとか、時間配分がどうとかではなく、どうしても、個人的に忘れられないセリフがあります。

それは、芦田愛菜ちゃんが演じた幼い千姫の結婚を描いた回・・・

「父上、母上のお役に立ちたいのです!」
と涙ながらに語るシーンが、あまりに印象的で、もはや記憶に残っていない方もおありかも知れませんが、その少し前に・・・未だ、秀頼との結婚が決まる前のお正月、父の秀忠と楽しく羽つきをする長女・千姫が、

幼くして加賀前田家に嫁いだ次女・珠姫の事が心配で、うかない顔をしている江を慰めるシーン・・・この時、確か、江は初姫を妊娠中

千姫は、母のお腹の中の子は「きっと姫です」と言い、「生まれて来る姫は珠の代わり・・・それで母さまの悲しみが癒えるでしょう」みたいな事を言って、それを、さも、「千姫は優しい」と言わんばかりに、感動の眼差しで見つめていた江・・・

この千姫のセリフ・・・私には、すごく残酷なセリフに聞こえました。

母親にとって、我が子の誰かが誰かの代わりになる事なんてあり得ません。
まして、珠姫は、お嫁に行っただけで、加賀で健在なのに・・・

家康と決死の伊賀越えをした事も、天下人に「サル」「サル」とエラそうにくってかかったことも、現代の恋愛感や結婚観を戦国に持ち込んだ事も、大坂の陣で敵対する秀頼に和睦めいた手紙を書いた事も、すべての事がどうでも良くなるくらい、このセリフは悲しかったです。

あと、大坂の陣の翌年の元和二年(1616年)5月7日に、生前の淀殿が建立した浅井家の菩提寺である京都の養源院で、その淀殿や秀頼の一周忌法要をとり行う事や、その後に火災で焼失した養源院を再建する事など、ほとんど史料の無い中で、おそらくは江が「どうしても」強く願って実現したであろう出来事か描かれなかったのも、ちょっと残念でしたね。

Dscn3548a800 京都・養源院
(くわしい行き方は本家HP:
京都歴史散歩「七条通を歩く」でどうぞ>>

最後は、ドラマの常として、敵対していた人物とも和やかになり、様々な事が、すべて丸く納まって、めでたしめでたしとなって、自らの人生に満足したように、
「人生は戦いではなく、喜びであった」
と締めくくった江・・・

それにしても、馬に乗って秀忠の元を去って行くと、そこに母・お市の方が現われ・・・という演出で、江が秀忠より先に死ぬ(9月15日参照>>)という事を暗示させる手法は良かったですね。

それこそ、これまで、主人公が亡くなるシーンをあのように描いた事は無かったような気がしますので・・・

11ヶ月もの長きに渡るドラマ・・・それぞれのシーンで、何をどう感じるかは千差万別です。
以上は、あくまで個人的な感想とお心得くだされば幸いです。
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2011年11月26日 (土)

信長が指示?謎が謎呼ぶ織田信光・殺害

 

弘治元年(1555年)11月26日、織田信長叔父・信光が、那古屋城にて家臣の坂井孫八郎に殺害されました。

・・・・・・・・・・

織田信長が尾張統一を果たすまでは、織田信○さんばかりが登場するややこしい世界ですが、おつき合いのほど・・・

今回の織田信光(のぶみつ)さんは、信長の父・信秀・・・武勇に優れた人物で、はじめは、その信秀の下で、数々の武功を挙げ、天文十一年(1542年)の小豆坂の戦い(9月19日参照>>)では、『小豆坂の七本槍』の一人に数えられたほどでした。

その後、信秀の死によって、息子の信長が、清州三奉行・織田家の家督を継いでからは、その大きな後ろ盾として信長を支え、未だ同族・織田家同志の争いが絶えない尾張(愛知県西部)国内で、ともに戦ったのです。

特に信長と敵対関係にあった尾張下四郡の守護代織田信友の重臣だった坂井大膳(だいぜん)が、信長と信光の信頼関係を分断すべく画策した天文二十四年(弘治元年・1555年)4月には、その誘いに応じたかのフリをして、信友の清州城(愛知県清須市)に入った後、逆に、その信友を殺害・・・危険を察知した大膳は、命からがら、今川義元を頼って駿河(静岡県東部)へ落ちて行ったとされます(4月20日参照>>)

しかし、こうして奪った清州城を、信光はあっさりと信長に渡し、自身は、その信長から与えられた那古屋(なごやじょう・愛知県名古屋市中区)へと入っています。

ところがです。

そんな信光の絶頂期は、その信友殺害からわずか半年後・・・弘治元年(1555年)11月26日に、不慮の死という形で終わりを告げました。
(年の変わりめでややこしいですが、旧暦:弘治元年11月26日は、西暦:1556年1月7日となります)

自らの重臣である坂井孫八郎という人物の手にかかって殺害されたのです。

甫庵信長記』によれば、信光の正室(松平信定の娘)が病弱な信光に満足できず、家臣の孫八郎と浮気していたと・・・当然の事ながら、主君の奥さんを寝取ったとあっては、もし事が発覚すれば、その命は無いわけで・・・

それで、発覚を恐れた孫八郎が、信光が、まだ事実を知らないうちに殺害して、夫人とともにかけおちして行方不明になったのだとか・・・

さらに、その孫八郎のその後については、彼が父のもとへ立ち寄った際に、「不義者」として夫人ともども成敗されたなんて事も言われます。

これだと、単純な不義密通による謀反・・・となるのですが、時期が時期だけに、様々な憶測が生まれています。

一説には、混沌とする一族内・・・この後、自らの弟をも葬り去る(11月2日参照>>)信長にとっては、織田家内で唯一とも思われる理解者だった信光を失って、信長が、たいそう悲しんだ、なんて事も言われますが、

一方では、この先、織田家のトップを目指す信長にとって、叔父・信光の力が大きくなり過ぎる事は、いつ、後ろ盾から脅威に変わるかも知れず、今の内に始末していた方が懸命だと・・・つまり、この殺害事件は、信長の指示であったとする説・・・

また、上記の通り、家内で対立していた弟・信行を、織田家の後継者として擁立したい者にとっては、現時点で、最も信長の片腕として活躍する信光を抹殺して、その力を削ぐ・・・つまり、信行指示派による暗殺との説もあります。

果たして、不義密通が、信長か、信行擁立派か・・・

謎が謎呼ぶ信光殺害・・・ただ、結果的に見れば、この後、尾張上四郡守護代の信長は織田信賢(のぶかた)を倒して織田家のトップとなり(11月1日参照>>)、さらに天下を狙う立場になるのですから、信光の死は、信長に幸運をもたらした事になるのでしょうが・・・

こればかりは、何とも言えません(><)
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2011年11月25日 (金)

織田信長の三瀬の変…名門・北畠の最後

 

天正四年(1576年)11月25日、織田信長の意を受けた藤方朝成柘植三郎左衛門滝川雄利らが、北畠具教を伊勢三瀬館に襲って殺害しました。

・・・・・・・・・

北畠具教(きたばたけとものり)伊勢国司北畠家の8代め・・・ご存じ、後醍醐(ごだいご)天皇(8月16日参照>>)建武の新政を支え、その後は南朝の軍事的指導者となった北畠親房(きたばたけちかふさ)(5月10日参照>>)の子孫です。

その親房の三男・顕能(あきよし)が伊勢国司になった事から、伊勢一帯に独自の勢力を誇るようになった村上源氏の流れを汲む名門・・・それが伊勢北畠家でした。

天文二十二年(1553年)に、父・晴具(はるとも)の隠居にともない家督を継いだ具教は、すでに伊勢の南半分に加え、大和(奈良県)宇陀(うだ)をも手中に収めていましたが、ここに来て、伊勢安濃郡を支配していた長野藤定(ふじさだ)へ、次男の具藤(ともふじ)有利な形で養子に送り込む事に成功し、更なる勢力拡大を狙っていたのです。

永禄六年(1563年)には、家督を、嫡男の具房(ともふさ)に譲って隠居しますが、それでも家内の実権は具教が握ったままでした。

ところが、そんなこんなの永禄十年(1567年)・・・あの織田信長が北伊勢に侵攻して来ます。

侵攻を開始した翌年の永禄十一年には、それまで北畠の支配下にあった北伊勢の豪族・神戸具盛(かんべとももり)に、三男信孝養子に送り込む事に成功して、神戸氏を配下に治めた信長は、いよいよ、北畠氏に狙いを定めます。

永禄十二年(1569年)、総勢7万の大軍を率いて具教の本拠・大河内城(おおかわちじょう・三重県松坂市)に攻めよせた信長・・・対する城兵は約8000・・・

8月28日より城攻めにかかる信長軍でしたが、初戦の段階は激しい抵抗に遭い、急攻めでは北畠軍の勝利であったものの、長い籠城戦となれば、多勢に無勢で先は見えています。

やがて兵糧は尽き、もはや万事休す・・・2ヶ月後の10月13日、具教は降伏を決意しました。

その条件は、信長の次男信雄(のぶお・のぶかつ)を具教の養子として迎え入れる事と、大河内城を開城する事・・・

やむなく、この条件を呑んだ具教は、信雄に大河内城を開け渡し、自らの娘・雪姫を信雄の妻とし、具教自身は出家して三瀬(みつせ・三重県多気郡大台町)に隠居しました。

冒頭から、何度か「養子に送り込む」と書いておりますが、「養子に送り込む」とはこういう事・・・相手の息子となって、近い将来、またはすぐにでも家督を継ぐという事で、つまりは、その家を乗っ取るという事です。

しかし、このままでは事は収まりませんでした。

間もなく、あの15代室町幕府将軍・足利義昭(よしあき)と信長の関係がややこしくなりはじめる(1月23日参照>>)と、具教は密かに甲斐(山梨県)武田信玄と連絡を取ったりして、何やら、義昭の求めに応じて形成された信長包囲網の一角に加わろうとしている様子・・・

そんな中で、天正三年(1575年)には、信長の強い押しで、正式に北畠氏の家督が信雄に譲られました。

と、なると・・・
そうです・・・こうして、信雄が伊勢国司家を継いだ以上、もはや北畠の存在は、信長にとって邪魔者以外の何者でもありません。

信長の具教に対する態度も、日に々々冷たくなって来ていた天正四年(1576年)11月25日、信長の命を受けた藤方朝成(ふじかたともなり)柘植三郎左衛門(つげさぶろうざえもん)滝川雄利(たきがわかつとし)らが、具教のいた三瀬館を襲撃したのです。

彼らは3人とも、もともとは北畠の家臣・・・しかし、上記のように、その北畠を信雄が継いだわけですので、現時点では信雄の家臣なわけですが、それこそ、内心は葛藤の嵐だった事は察しがつきます。

しかし、リーダー的存在の朝成などは、この時、父の慶由(よしゆき・6代当主の北畠材親の息子と言われる)が、信雄の居城・田丸城(たまるじょう・三重県度会郡玉城町)に、半ば人質の形で留め置かれていたわけで、命令通りに襲撃を決行しなければ、その父がどうなるかわかりません。

一方、彼らの襲撃を受けた具教・・・実は、あの塚原卜伝(ぼくでん)(2月11日参照>>)奥義・一の太刀を伝授されたと言われる剣豪で、新陰流上泉信綱(かみいずみのぶつな)(9月3日参照>>)にも剣を学び、ともに剣を極める者として柳生石舟斎宗厳(やぎゅうせきしゅうさいむねよし)(4月19日参照>>)とも親交があったと言いますから、かなり熱心に剣を学んでいたのでしょう。

江戸時代の『寛永諸家系図伝(かんえいしょかけいずでん)によれば、この襲撃を受けた時にも、具教一人で、19人を斬り殺し、100人に重軽傷を負わせるほどの抵抗を見せた・・・なんて事も言われますが、

まぁ、それは、多少オーバーだったとしても、かなりの腕前だった事は確か・・・しかし、いくら剣豪と言っても、やはり数の多さには勝てません。

その抵抗も空しく・・・未だ手元にいた息子の徳松丸亀松丸も含め、その場にいた近臣たちのすべてが、ここで、具教とともに殺害されるのです。

具教・・・享年・49歳でした。

しかし、それだけではありませんでした。

北畠材親(たけちか)の子供かも知れない朝成の父がそうであったように、この時、何人かの北畠の一門や主だった家臣が、人質同様に田丸城に置かれていたわけですが、同時に、彼らも皆、その田丸城で殺害されてしまうのです。

ちなみに、一説には、朝成自身は、息子が具教を襲撃した事実を聞いて自刃したとも言われますが・・・

三瀬の変と呼ばれるこの出来事・・・ここに、戦国大名としての北畠氏は滅亡し、完全に織田の配下となったのです。

Tamaruzyoutensyuato800 田丸城・天守跡

なお、具教の嫡男だった具房は、信雄の縁者となる事から、命は取られなかったものの、その後3年間幽閉され、幽閉が解かれた直後に亡くなっています。

また、興福寺の僧となっていた具教の弟という人も、兄の殺害を聞いて還俗(げんぞく・僧となった人が俗世間の一般人に戻る事)して北畠具親(きたばたけともちか)を名乗り、抵抗を試みますが、まもなく鎮圧され、毛利輝元を頼って西国に落ち延びたという事です。
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2011年11月24日 (木)

西園寺公望、パリのカフェで大暴れ

 

昭和十五年(1940年)11月24日、総理大臣を2度経験し、最後の元老として知られる西園寺公望が92歳でこの世を去りました。

・・・・・・・・・・・

精華家(せいがけ・公家の家格で摂家の次)の一つ、徳大寺家の次男として生まれた西園寺公望(さいおんじきんもち)は、4歳の時に、やはり精華家の一つであった西園寺家の養子となって家督を相続します。

Saionzikinmoti600 その血筋としては天皇家の男系子孫で、第113代東山天皇の6世の孫にあたります。

なので、幼い頃は、年齢も近い祐宮(さちのみや=後の明治天皇)様の遊び相手として重宝され、度々召されていたのだとか・・・

 

やがて迎えた動乱の幕末期ですが、この頃には未だ政治的活躍の場が無かったものの、鳥羽伏見の戦い(1月3日参照>>)の頃から徐々に頭角を現しながら、維新後には新潟府知事などを務め、公卿としては始めて散髪をして洋装に身を包むといった外国を強く意識した人であった事から、明治四年(1871年)には官費でフランス留学を果たします。

パリ留学で、彼が身につけた自由主義の思想は、藤原氏の末裔として生まれて皇室と深く関わらねばならない自分の立場とは相反する物でしたが、そこを見事に融和させ、彼なりの落としどころを見つけながら、独特の世界観を作り出して、やがては、他に類を見ない政治家へと成長していきます。

明治二十七年(1894年)に、第2次伊東内閣文部大臣として初入閣を果たした後は、政界の一員として活躍し、明治三十九年(1906年)の第12代、明治四十四年(1911年)の第14代と、2度の総理大臣を経験した頃は、桂太郎と交互に首相の座に就いた事から『桂園(けいえん)時代』と称されたりします。

晩年、大正天皇の即位とともに元老(政府の最高首脳の重臣)となり、彼を最後に、新たな元老が指名される事が無かった事から、最後の元老と称されますが、昭和十二年(1937年)に元老の辞退を申し出た後は、元老辞退そのものは認められなかったものの、政治の表舞台からは姿を消す事になります。

・・・と、まぁ、一気に西園寺さんの生涯を見てみましたが、それこそ、この場では書ききれないほど情報が多数ある有名人ですから、ネット上にも、彼の生涯に関しての書き込みは多く、政治家としてのお話は、それらのほうがずっと詳しいでしょうから、マジメなお話はソチラで見ていただくとして、今回のこのブログでは、そんな西園寺さんの留学時代の、知られざるエピソードをご紹介したいと思います。

・‥…━━━☆

若き日の留学時、日本大使館アルバイトをしながら勉学に励んでいた公望青年・・・どうやら、その収入のほとんどを使ってしまうほどカフェ通いをしていたようで、留学生仲間の中江兆民(ちょうみん)(12月13日参照>>)らはもちろん、後に東洋自由新聞の記者として活躍する光妙寺三郎なんかとも、そのカフェで知り合いになって意気投合して大親友となるといった具合でした。

ある時、そのカフェで泥酔状態となっていた三郎が、ちょっとしたはずみから、あやまって、お店の窓ガラスを1枚割ってしまいました。

慌ててやって来たボーイが
「ちょっとお客さん、弁償して下さいよ~」
と詰め寄ると、
「弁償??? ほな、弁償さえしたら文句ないねんな?」
と念を押す公望・・・

当然、ボーイは
「もちろん」
と答えます。

すると、やにわにステッキを持って、スクッと立ちあがった公望は、あれよあれよと言う間に、そのステッキで店内の窓ガラスを全部、叩き割ってしまったのです。

ぼう然とするボーイ・・・ハタッと我に返り、慌てて、すべての窓ガラスの代金を計算します。

すると公望・・・すかさず、その、全窓ガラスの代金を、全額、キャッシュで支配い
「あぁ~~~スカッとしたわ!!」
と、言いながら、三郎を連れて、悠々と店を出て行ったのだとか・・・

今やったら、大変な問題になりそうですが・・・
大胆な人ですね~
 .

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2011年11月22日 (火)

怨念の松本城~多田加助の貞享騒動

 

貞享三年(1686年)11月22日、10月に、信濃松本藩で起こった百姓一揆の首謀者・多田加助らが処刑されました。

・・・・・・・・・

貞享三年(1686年)という年は、信濃(長野県)安曇野(あずみの)一帯は、かなり不作の年でした。

いや、不作は今年だけでなく、ここ数年続いていたのです。

にも関わらず、松本藩は、米1俵あたりの容量を三斗五升挽きに引き上げて年貢を納めるよう要求して来ました。

1俵の(もみ)から殻を取り除いて玄米にすると、その容量は二斗五升になり、普通は、この二斗五升が1俵として年貢を納めるわけで、近隣諸国は、皆、そうでした。

そこを、この松本藩は、これまで三斗を1俵として年貢を徴収してたので、すでに、他の地方より年貢は高かった事になりますが、それを、この年になって、さらに多く「三斗五升納めよ」と言って来たのです。

しかも、「のぎ磨きをしてから…」という条件つき・・・

脱穀作業もほとんど手作業のこの時代、玄米には「のぎ」と呼ばれる長い毛がついていたのですが、「それを全部取り除いてから俵に納めよ」と言うのです。

もちろん、未納者には厳しい刑罰があるのは当然の事・・・

この無理難題に立ちあがったのが、庄屋だった多田加助(ただかすけ)・・・11名の同志とともに熊野神社にて密議を行い、郡奉行へ直訴する決意をします。

貞享三年(1686年)10月14日、加助たちは、年貢を通常の1俵=二斗五升への減免をはじめとする5カ条の要求をしたためた直訴状を持って、奉行所に訴えたのです。

彼らの行動は、すでに噂として近隣に広まっていて、当日は、約1万人と言われる百姓たちが、蓑(みの)笠に身を固め、鋤(すき)や鍬(くわ)を手に、松本城下に集結・・・奉行所近辺へ押し寄せたのです。

この時、藩主・水野忠直参勤交代のため不在・・・こんな事が幕府に知れたら一大事です。

慌てて、城代家老は、即座に彼らの要求を呑み、ひとまず、事を治めます。

しかし、これは、とりあえず、彼らを引き取らせるためのポーズ・・・すぐに、江戸の藩主に報告するとともに、この約束を反故(ほご=無かった事)にして、加助以下、主要メンバーの捕縛に取りかかるのです。

捕えられたのは、加助と、その一族&同志・28名・・・その中には、加助の参謀役だった小穴善兵衛という者の16歳の娘や、この正月に生まれたばかりの赤ん坊も含まれていました。

こうして貞享三年(1686年)11月22日、捕縛された28名のうち、加助ら、主力メンバー・8名は磔(はりつけ、残りの20名は獄門とされたのです。
(赤ん坊は処刑の前に病死したとも)

その日、松本城を望む高台にて磔柱に上げられた加助は、集まった多くの人に向かって、最後の声を振り絞り、叫びました。

「これで、皆の年貢が下げられるんやから、俺は安心してあの世へ行けるゾ~~」

すると群衆の中から・・・
「残念やけど、覚書は、おまはんが捕まって牢に入れられた時に、役人に取りあげられてしもた」
との声が・・・

がく然とした加助が、
「二斗五升、二斗五升…」
と念仏を唱えるようにくり返しながら、怒りに満ちた目で松本城を睨みつけると、その瞬間、恐ろしい地響きとともに、天守が西に傾いたのだとか・・・

それから40年後の享保十年(1725年)、忠直の孫に当たる第6代藩主・水野忠恒(みずのただつね)が、乱心の末、江戸城・松の廊下で大暴れした事で、水野家は改易処分となりますが(6月28日参照>>)、この事件が「加助の祟り」と恐れられたのは言うまでもありません。

水野家の改易によって支配権が戸田松平家に移った事をキッカケに、加助らの名誉は、少し回復され、多田家で、彼らを祀る事が許されるようになったのだとか・・・

やがて、明治維新後の自由民権運動の中で、彼らの行動が絶賛されるようになり、加助らは義民として、全国に知られるようになりました。

実際には、先の処刑の時の松本城の傾きのお話は、この明治の頃にすでに傾いていた天守を見て、加助らの話と結びつけた物だという事ですが、なにやら、結びつけたくなる話ではあります。

この加助らの事件は、その名をとって「加助騒動」、あるいは年号をとって「貞享騒動(じょうきょうそうどう)と呼ばれています。
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2011年11月21日 (月)

日清戦争~旅順口攻略

 

明治二十七年(1894年)11月21日、日清戦争にて、清軍が要塞を構築していた旅順口への総攻撃が開始されました。

・・・・・・・・・・

これまでの日清戦争の経緯については、コチラのリンクから↓

・‥…━━━☆

もはや国内の混乱を抑えきれない朝鮮に、日本清国(中国)それぞれの思惑を以って介入する事から始まった日清戦争・・・日本が各国の公使に『交戦通告書』を交付した明治二十七年(1894年)7月31日を以って、国際法上にも、日清戦争が成立しました。

まずは、陸軍が朝鮮半島の清国軍をけん制しながら、海軍が、海上に展開している清国海軍を撃破して黄海と渤海(ぼっかい)の制海権を握るという目標を掲げていた日本軍・・・

すでに陸戦を展開していた陸軍は、7月29日には成歓(ソンファン)戦いを制し、9月16日には平壌(ピョンヤン)をも陥落させていました。

一方、なかなか清国艦隊に遭遇できなかった連合艦隊も、9月17日の黄海海戦に勝利し、ようやく制海権を手に入れたのです。

そして、平壌陥落後も、さらに、清と朝鮮との国境線を目指して北上を続けていた陸軍は、国境沿いにある義州(ウイジュ)に全軍を集結させて、10月24日の午前から、鴨緑江(おうりょくこう・清国と朝鮮の国境線となっている川)渡河作戦を実行したのです。

しかし、何たって国境ですから、さすがに、清国軍の防衛もハンパじゃありません。

その数30400の将兵を配置し、90門の大砲を配備して、日本軍の渡河を防ごうとします。

ただ、この30400の中には、先の平壌での負傷兵を含んだ敗走兵が10000人ほどおり、どうやら、彼らの士気は低く、この時、清軍の総指揮をとっていた宋慶(そう けい)采配も、うまく機能していなかったようで・・・

そこにつけ入る隙があったのか?・・・清軍の猛攻撃をかいくぐって進む日本軍は、困難を極めながらも、何とか鴨緑江を渡りきり、鴨緑江北側の高地を占領する事に成功しました。

一方、この間に、上記の陸戦を展開する軍に加え、新たな第2軍の編成を決定した広島大本営・・・遼東半島攻略の使命を帯びたこの第2軍は、10月24日に半島の花園口(かえんこう)から上陸した後、要所である金州(きんしゅう)攻略に向かいます。

やがて11月5日午後・・・乃木希典(のぎまれすけ)少将率いる歩兵第1連隊は、金州郊外の波頭山(はとうざん)にて、清軍との交戦に入りました。

翌早朝からは、金州城外の敵陣の攻撃を開始・・・約30分で、ほぼ、すべての陣地を陥落させた日本軍は、午前9時、さらに突き進んで金州城への砲撃を開始したところ、こちらも、30分ほどで、敵からの攻撃が止んだ事から、城内への突入を開始します。

案の定、すでに、ここの清国兵は逃亡していて、城内はもぬけの殻・・・さらに、翌7日には、やはり、すでに無人となっていた大連湾の砲台場も占拠しました。

これで、残るは、遼東半島の突端部分に位置する旅順口(りょじゅんこう)のみとなったのです。

かくして、明治二十七年(1894年)11月21日未明、金州から前進を続けた日本軍によって、旅順口にある清国の要塞への総攻撃が開始されます

Nissinryozyun850 日清戦争旅順口砲台乗取之図(野田市立図書館蔵)

第1師団砲兵部隊が援護砲撃を加える中、第12旅団歩兵第24連隊が、北から南に向かって進撃を開始・・・一方、左翼からは第14連隊が西から東に向かって前進を開始します。

これによって、正午頃には、日本軍が高台にあった砲台場を制圧し、さらに市街地も制圧・・・これで、旅順の東側を確保した事になります。

翌22日、西海岸に残る砲台場を目指す日本軍でしたが、到着した頃には、砲台場はすでに無人・・・なんせ、季節は冬ですから、夜ともなれば氷点下で、軍服も凍りつくような寒さの毎日であり、しかも、ここのところの天候も悪く、冷たい雨が降り続いていたのです。

また、この場所に駆り出されていた清軍の守備兵は、実戦経験のない若者が多く、もはや、命がけでせ守れなんて言われてもムリな事・・・ここで踏ん張るより、すばやく撤退して後に備えたほうが得策という物です。

こうして、季節の助けもあってなんなく西海岸の砲台も占領した日本軍・・・ここに、旅順口は完全に陥落したのでした。

その後、この旅順攻略に勢いづく大本営は・・・と、この続きのお話は2月2日のページでどうぞ>>
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2011年11月19日 (土)

トンチの帝王・曽呂利新左衛門と豊臣秀吉

毎月19日は、その語呂合わせから、「トークの日」という記念日なのだそうで・・・これまで、いつ書こうかと悩んでいた曽呂利新左衛門のお話を・・・

・・・・・・・・・

曽呂利新左衛門(そろりしんざえもん)は、あの豊臣秀吉御伽衆(おとぎしゅう・殿さまの相談相手)として仕えたとされる人物で、トンチの利いた言い回しで、オモシロ逸話をたくさん残した事から、落語家の祖とも言われ・・・って事で、無理やりな雰囲気ですが、「トークの日」の話題にさせていただきます。

とは言え、笑える逸話的な物が数多くあるものの、正式な記録にはあまり登場せず
「架空の人物かも知れない」
「同時代の僧・安楽庵策伝
(あんらくあん さくでん)(3月17日参照>>)と同一人物かも」
いやいや
「本名は杉森彦右衛門というんだ」
などなど・・・そう言った意味では謎の人物です。

ちなみに、明治の頃に活躍した落語家の2代目・曽呂利新左衛門は、この戦国期の曽呂利新左衛門をもじって、シャレで「二世(ニセ=偽)曽呂利新左衛門」と名乗っていたという事らしいです。

・‥…━━━☆

・・・で、そんな新左衛門さん・・・ある時、秀吉からのお呼びがかかります。

「はてさて?」
と、急いで参上しますと、

秀吉は
「日頃から、お前のトンチで笑わせてもろて・・・おかげで、ワシの心も休まるわ。
せやから、なんか褒美をやろかな~って思て・・・
何か、欲しい物あるか? 何でも言うてみ」

と・・・

しばらく考えた新左衛門さん・・・

「ありがたいこってす。
せやけど、今は、特別に欲しいっちゅーもんも、あらしませんねやけど・・・
かと、言うて、せっかくの殿下のお言葉に背くんもあきまへんさかい・・・
ま、ほな、お言葉に甘えて、紙袋一つに入るくらいの物、何かいただきましょか」

「紙袋一つに入る物???
なんや、そんなんで、ええんかい」

と、スゴイ褒美を要求するかと思っていた秀吉は、拍子抜けしたような雰囲気・・・

しかし、その日以来、10日ばかり、新左衛門の姿を見かけなくなります。

「病気にでもなったんやろか?」
「何か、重大な出来事でも?」

と、少々心配になった秀吉は、新左衛門の屋敷に使者を送り、様子をうかがわせました。

そして、ひととき経って、帰って来た使者が言うには・・・

「新左衛門は病気ではないみたいです。
なんや、知りませんけど、大勢人数を集めて、“紙を張り合わせてる最中やから忙しい”ってな事らしいです」

「紙を・・・?何のために???」
と、不思議がる秀吉・・・

「ようわかりませんけど、なんや、大きな紙袋やそうです」

それを聞いて、ハタと思いだした秀吉・・・
「まさか・・・( ̄○ ̄;)!」

「なんや、先日、太閤殿下と約束をしたとかで、米蔵ごとスッポリ入る紙袋を作るんやそうです」
「しもた~~ヾ(;□;)э」

紙袋に入る物と聞いて、てっきり小さな物だとばかり思っていた秀吉・・・
「こら、一本取られたなぁ」
と苦笑い・・・

もちろん、これは座興で、新左衛門も、本気で米蔵を貰おうなんて思ってるわけではなく、いわゆる、「何日にもまたがった、長~いボケってヤツですな。

さらに・・・
またまた、ある時、新左衛門のオモシロ話に機嫌をよくした秀吉が、
「何か、欲しい物はあるか?」
と、ご褒美をくれる様子・・・

すると新左衛門は
「ご褒美はいりませんので、一日一回、殿下の耳の匂いを嗅がせてもらえまへんか?」
と、まことにもって理解し難いお願い・・・

「変な事、言うやっちゃな?」
と思いながらも、
「新左衛門の事やから、何かあるのかも…」
という期待もあり、
「ええよo(*^▽^*)o」
快諾・・・

その日から、毎日、秀吉の耳の匂いを嗅ぐ新左衛門・・・しかも、そのタイミングは、決まって、諸大名たちが秀吉を訪ねて来ている時・・・

「ちょっと、失礼」
と言って、いつものように耳の匂いを嗅ぎに来て、何やら、訪問中の大名の顔をチラチラ見ながらクンクンクン

そうです。
何も知らない訪問者から見れば、何やら新左衛門が、自分の事について秀吉にコソコソと耳うちして、噂話を報告しているように見えるのです。

それ以来、諸大名たちは、何かと新左衛門の機嫌をとるようになり、彼のもとには贈り物が絶えなかったのだとか・・・

秀吉どころか、多くの大名たちも、新左衛門に一本取られてしまったのですね。

Dscn3055a800 現在、大阪城の南に位置する玉造稲荷神社の東門…この神社の東隣に曽呂利新左衛門は住んでいたと言います。
ちなみに、秀吉時代には、千利休の屋敷もこの周辺にあり、神社の境内の水でお茶を点てていたそうです。

★玉造稲荷神社への行き方は、本家ホームページ:歴史散歩「上町台地」でどうぞ>>

もうひとりの落語の元祖安楽庵策伝(あんらくあんさくでん)については、3月17日【戦乱の世に笑顔を…落語の元祖・安楽庵策伝】のページでどうぞ>>
 .

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2011年11月18日 (金)

吉祥天女と結婚?~古本説話集より~

 

本日は、『古本説話集』より、ちょっと色っぽい昔話をご紹介しましょう。

『古本説話集(こほんせつわしゅう)とは、平安時代末期から鎌倉時代初期あたりに成立したとおぼしき説話集なのですが、長く埋もれた物が昭和十八年(1943年)に発見された時には、すでに表紙が欠落していて、その名前がわからなかった事から、暫定的な呼び名として『古本説話集』という名で呼ばれている物なのです。

同時期の『今昔物語』『宇治拾遺物語(うじしゅういものがたり)との共通の話もあり、紀貫之(きのつらゆき)和泉式部(いずみしきぶ)などの有名人も登場するおもしろい説話がギッシリ詰まっていて、現在は重要文化財に指定されています。

その中から、今回は吉祥天女と結婚する法師のお話=「和泉の国国分寺の住持、吉祥天女にえもいはずたはぶれる事」を・・・

・‥…━━━☆

和泉国(大阪府)国分寺にいた、ある法師・・・鐘をつく事が仕事の彼は、毎日通う、この鐘つき堂にあった吉祥天女(きっしょうてんにょ)の美しさに魅せられ、恋をしてしまいます。

Kisyoutennyozyoururizi600 やがて、鐘をつく合い間に、像に抱きついてみたり、キスのまねごとをしてみたり・・・思いは、どんどんエスカレートしていきます。

すると、ある夜、法師は夢を見ます。

夢の中で、抱きついた吉祥天女が突然動きだし、彼に話しかけます。

「ここ何カ月のお前の思いに、ウチは感激しました・・・
○月○日、播磨印南野
(いなみの・兵庫県加古川市)に来ておくれやす。
そこで、会いましょ❤」

と・・・

夢とは言え、もうドキドキです。

「もしかしたら、本当にその日に・・・」
と思うと、うれしくてうれしくて・・・

ようやく、訪れた約束の日・・・法師は、約束の場所に向かって、半信半疑で歩いていきました。

すると、向こうの方から、この世のものとは思われない美貌の女房が、何枚も重ね着した美しい衣々をまとって歩いて来るではありませんか!

天女って、こんな人なんかなぁ~~(*゚ー゚*)」
と、思っていると、なんと向こうから声かけ・・・

「あら・・・ちゃんと、約束通りに来はったんやね。」
その女性は、本当に吉祥天女だったのです。

「ほな、早速、ウチらの住む家を用意してぇな」
「えぇ!!!!!(゚ロ゚屮)屮」
いきなり、ここで家を・・・って言われても、法師にはどうして良いかわかりません。

「大した事やないですやん・・・さぁ、さっさと始めて!」
「いや・・・無理っすよ。急にそんな事言われても、僕にそんな力ありませんがな」

そんなやり取りを続けていると、そこに一人の男が通りがかり
「ありゃま、こんな美人で、こんな高貴なお姿の女性が、こんな野っ原で・・・」
と、彼女の風貌に似合わぬ場所でのやり取りを不思議がって声をかけてきました。

「このへんに住もうと思ってるんやけど、肝心の家が無いのよ。
頼る人もおれへんし、何とかならんかしら?」

と、これまた、かる~~い雰囲気で、彼女が男に話ます。

「なんや、そんな事なら、まかしときなはれ!」

どうやら、その男は、このあたり一帯に勢力を持っているなかなかの顔役だったようで、彼が一声かけると、何人もの郎党が天から降って来るように集まり、あっと言うまに材料もかき集め、またたく間に、立派な家が完成しました。

やがて、彼女と二人、見事にしつらえられた部屋に入る法師・・・

「ウチは、もう、おまはんの妻になったんやさかい、ウチの事を愛してくれるんなら、他の女と浮気せんとってな・・・おまはんの妻は、ウチ一人やで!」
と・・・

「ははぁ・・・仰せの通りに・・・」
憧れの吉祥天女が言うのですから、もはや、法師は天にも登る気持ちで、彼女の言うがまま・・・

こうして、そこで暮らし始めた法師と天女・・・

「まずは・・・」
と、法師が田んぼを耕せば、わずか1段の田んぼに、その10倍の実りが返ってくる・・・さすがは、天女様であらせられます。

そのうち、法師は、そのあたり一帯では、誰にも負けないくらいの財力を手に入れる事になり、やがては、国守までが、彼に一目置くほどの人物になっていきます。

こうして、何年か経ったある時、法師は、その財力に物を言わせた副業として、多くの者にお金を貸す、金貸し業も営んでいた事で、赤穂にあった、とある村へ、借金の取り立てに行く事に・・・

当然の事ながら、向かった先には、彼のご機嫌をとろうという輩がいるわけで・・・

「この村の○○という者の娘が、それはそれはべっぴんで・・・良かったら、その娘を呼んで、足でも揉んでさしあげますが・・・」
と、法師が数日滞在する事になった村の有力者が誘惑します。

「若い娘が足を揉みに来る」・・・それは、イコール「夜の相手もさせまっせ」って事ですから、「浮気はイヤよ!」と天女から釘をさされている法師は迷いますが、

それはそこ、そう言われちゃぁ、その美人の顔くらい見たくなるのも男の常・・・
「顔見て、足を揉んでもらうだけにしといたら、浮気にはならんやろ。
そこで、ガマンしたらえぇねん」

と自分に言い聞かせて、
「おおきに~o(_ _)oペコッ」
と返事・・・

すると案の定、「こんな村に、こんな娘が!!」と思うくらいの美女がやって来て、彼の足を揉みはじめます。

もちろん、最初は、その娘をそばに置いて、足やら肩やら揉ませているだけで、すぐにどーのという事は無かったわけですが、1日、2日・・・と滞在しているうちに、とうとう、手をつけてしまいました。

とは言え、法師としては、その娘を好きになったわけではないので、「ひょっとして、心を寄せてなかったら浮気やないんちゃうん?」なんて甘い読みもありつつ・・・

やがて、数日の滞在のうちに、取り立てもスムーズに終え、自宅へと戻る法師・・・

しかし、普通の奥さんならまだしも、相手は吉祥天女・・・そう、もう、法師が帰った時には、かの事がバレていて、彼女の機嫌が悪いのなんのって・・・

「あんだけ約束したのに、なんで破ったん?
もう、一緒におられへんわ! ウチ、帰る!」

法師はおろおろして、なんやかんやと言い訳をしますが、もはや彼女は聞く耳持たず・・・

「はい!これ!一緒に暮らしてからの物や!」
と、何やら、白い液体の入った大きな桶を二つ法師に渡して、さっさと、どこかへ姿を消してしまったのです。

もう、法師は、泣いて反省し、後悔しまくりますが、どうにもなりませんでした。

天女が残して行った桶に入っていたのは、なんと、結婚してからこれまでの間、彼女との愛の営み中で、彼が放出したアレを溜めておいた物だったのだとか・・・

その後の法師は、さすがに、もとの寺へ戻るわけにはいかず、どこにも属さない僧として生きたとの事・・・

・‥…━━━☆

って、気になる終わり方しないでヨ(。>0<。)

その後、鐘つき堂の天女像は、どうなったの?(まさかアッカンベーしてたり)

まぁ、これは、日頃の願望に応えて現われてくれた天女との約束を破る事で、すべてが無駄になって、まさに元の木阿弥・・・願望と欲望の空しさを伝え、本来の仏の道の生き方へと誘う事が目的の仏教説話ですから、そんな蛇足の結果より、ここで終わるのも、致し方ないのかも知れません。

むしろ、平安の時代に、このように生き生きとした説話があった事に、なんとなく親しみを感じます。
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2011年11月17日 (木)

「将棋の日」にちなんで将棋の歴史

 

江戸幕府・徳川吉宗の時代に、毎年11月17日に、将軍の御前にて行われる「御城将棋」が制度化された事から、今日、11月17日「将棋の日」という記念日なのだそうです。

・・・・・・・・・・

以前、やはり「いい碁の日」という記念日に書かせていただいた囲碁のお話・・・(1月15日参照>>)

今回の将棋も、おそらくは、同時期の奈良時代に、中国から日本に伝わったのではないか?という説が有力ですが、囲碁ほどはっきりした記録は無く、非常に曖昧です。

と言うのも、古代インドで誕生し、ユーラシア大陸一帯に広がって、それぞれの国で様々な変化を遂げた将棋なので、ルールや形も様々・・・日本には、インドから直接伝わったのは?とおぼしき部分もあり、もはや確定は不可能なようです。

とにもかくにも、あの奈良興福寺からは、天喜六年(1058年)と書かれた木簡とともに将棋の駒が発掘されているので、平安時代にはすでに伝わっていたという事だけは確かでしょう。

発掘された将棋の駒は、簡素な木製ながらも、すでに5角形の形をしていて文字もしっかり書かれていたとか・・・

ただ、この頃は駒数の多い大将棋という物で、しばらくして必勝手順が見つかると、さらに駒を増やしたり、ルール変更したりと非常にややこしいです。

・・・で、やがて、複雑になり過ぎた大将棋から、簡略化された中将棋小将棋が生まれ、ここから、現在の本将棋へとつながるのですが・・・。

『太平記』には、あの楠木正成(まさしげ)鎌倉幕府軍を相手に奮戦する千早城の攻防戦(2月5日参照>>)のシーンで、奇策を用いて押し寄せる大軍をなぎ倒す時の表現として「将棋倒ヲスル如ク、奇手四五百人、圧(おし)ニ討タレテ死ニケリ」と書いていますので、室町時代の初期には、すでに、あの「将棋倒し」なる遊びもあったのでしょう。

(注:人が密集した場所で、次々と折り重なって倒れる事故の表現には、「将棋のイメージが悪くなる」として、最近は使われないようになってます)

さらに、戦国時代には将棋が盛んに行われるようになり、この頃には、あの「相手側から取った駒を自分側の駒として盤上に打って再利用できる(持ち駒)という日本独自のルールも考案され、まさに現在の本将棋となっていきます。

ただし駒台が現在のようになるのは明治以降で、それまでは、取った駒は懐紙の上に置かれてました。

江戸時代には、徳川家康が将棋を好んだ事から、囲碁とともに幕府の公認となって、寺社奉行の管轄下に置かれました。

はじめは碁将棋所として、囲碁の名人・本因坊算砂(ほんいんぼうさんざ)(6月1日参照>>)代表をつとめていたいう事ですが、途中から独立して、将棋の名人は、将棋所(しょうぎどころ)という称号を名乗るようになったのだとか・・・

やがて、この将棋所が毎年1度、江戸城内での公務として御城将棋(おしろしょうぎ)なる対局を行うようになるのですが、それが、毎年11月17日と制度化されるのが8代将軍・徳川吉宗の頃・・・

家元と7段以上の棋士には(給料)が与えられるという待遇の中、この御城将棋が将棋所の唯一の公務であり、本来は将軍の面前での御前試合のような位置づけでありましたから、各棋士はその日に向かって全力投球で、各家元もその日のために研究を惜しまずといった具合でした。

「碁や将棋は親の死に目にもあえぬ」
ということわざがありますが、これは、御城碁や御城将棋の時は、たとえ「親が危篤だ」との知らせを受けても、打ちかけとして帰る事はなく、必ず、その場で打ち終わったという故事から来ているのだとか・・・それだけ、厳しい世界だったと・・・

ただ、最近では、将棋の家元の一つである大橋家に伝わる『大橋家文書』の研究から、一応、タテマエとしては、その日のうちに打ち終えるというしきたりだったものの、メッチャ対局が長くなる事もあり、そこンところは、臨機応変に行われていたという事がわかって来ています。

さらに・・・
そんなプロの対局とは別に、いわゆる縁台将棋と言われる庶民の将棋の世界では、子供向けに、挟み将棋飛び将棋(ウチはかえる飛びんと呼んでました)盗み将棋(同じくお金取りん回り将棋(同じくひょこ回りなどもできて、大変流行しました。

Gundamgunzinsyougi400 日露戦争(2月9日参照>>)の頃には、3人でやる軍人将棋なんてのも生まれ、本将棋をやる前の入門として子供たちを夢中にしましたね・・・まぁ、軍人将棋も、今もありますが・・・

思えば、コンピュータゲームの「信長の野望」なんかのシュミュレーションゲームも・・・

一時、流行った「ファミコンウォーズ」「ファイア・エンブレム」なんか、まんま、将棋ですね。

古代インドに生まれて、形を変えながらも、21世紀の私たちをも夢中にさせる・・・いやはや将棋ってスゴイですね。
 

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2011年11月16日 (水)

小牧長久手・決着…信雄の単独講和に退く家康

 

天正十二年(1584年)11月16日、徳川家康が、織田信雄の羽柴秀吉との無断和睦に失望し、陣を撤収して浜松へと向かいました。

・・・・・・・・

織田信長嫡男信忠本能寺の変(6月2日参照>>)に倒れた後、あの中国大返し(6月6日参照>>)の俊足で畿内へ戻って、謀反を起こした明智光秀を仕留め(6月13日参照>>)、織田家内での発言権を高めた羽柴(後の豊臣)秀吉は、続く清州会議(6月27日参照>>)において、嫡孫三法師を後継者に推し、その後見人となって実権を握ろうとしました。

それに反発した信長の三男神戸(かんべ・織田)信孝を推す柴田勝家賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いで破った(4月21日参照>>)秀吉は、信長の次男織田信雄(のぶお・のぶかつ)を味方に取り込んで、その信孝も葬り去ります(5月2日参照>>)

その後、信長の後継者を自負して織田家当主のように振る舞っていた信雄でしたが、秀吉は、そんな信雄と距離を置き、大坂に天下一の城を築いて、信雄へ出仕を求めた事から、彼は反発・・・(3月6日参照>>)本拠の伊勢へと戻り、軍事的に秀吉と対抗できる実力者であった徳川家康と組んで、秀吉に相対した・・・これが、天正十二年(1584年)に起こった小牧長久手(こまきながくて)の戦いという一連の戦いです。

Odanobukatu600 織田家という冠を持つ信雄が、家康という軍事力を手に、次の天下を狙う秀吉と交戦・・・

これは・・・
北陸で起こった末森城の戦い(8月28日参照>>)に代表されるように、全国で、この小牧長久手に連動する小競り合いが頻繁に起こり、地方の武将がどちらに味方するのか?の選択を迫られる状況となった事を見ても、この小牧長久手の戦いは、天下分け目の戦いでもあったわけです。

しかし、上記の4月9日の長久手の戦いで、手痛い敗北を喰らってしまった秀吉・・・その敗戦の知らせが京に届いた4月13日には、「信雄・家康連合軍が上洛する」との噂がたち、いかにも慌ただしい雰囲気だったとか・・・

現地では、5月1日に秀吉が本陣を引き払い、それを見た信雄も5月3日には小牧山の陣を退き、伊勢に戻っています。

ただ、秀吉は、主力部隊を本陣のあった楽田に残したままにして家康方を釘づけにしていおいて、自らは大坂への帰り道に、美濃(岐阜県)にあった信雄傘下の支城である加賀井城(かがのいじょう)竹ヶ鼻城(たけがはなじょう・ともに岐阜県羽島市)奥城(おくじょう・愛知県一宮市)を落として、信雄に脅威を植え付けています。

また、6月15日には、滝川一益(かずます)九鬼嘉隆(くきよしたか)蟹江城(かにえじょう・愛知県海部郡)を攻めさせて(6月15日参照>>)一時占領・・・まぁ、これは、家康によって、すぐに奪回されるのですが・・・

そんなこんなしながら、秀吉が大坂に戻ったには6月28日・・・しかし、休んだのもほんのつかの間、8月16日には、秀吉は再び出陣します。

支城を落として植え付けた脅威が消える前に、たたみかけようというのですが、実は、この頃には、すでに秀吉は、水面下で信雄との講和の交渉を進めていたらしく、9月2日には、一旦、講和が成立するかに見えましたが、結局、決裂・・・

そこで、蒲生氏郷(がもうじさと)に命じて、信雄配下の木造(こづくり)が守る戸木城(へきじょう・三重県津市)を攻撃させます。

何とか抵抗を試みる木造氏でしたが、ついに9月15日に落城・・・おそらく、このあたりで、信雄は心理的にかなり追い詰められた事でしょう。

11月に入って、講和の交渉がグングンと進展して行き、11日にはほぼ決定・・・天正十二年(1584年)11月15日に、桑名付近で行われた信雄と秀吉の会見にて、信雄から秀吉に人質を差し出すとともに尾張(愛知県西部)犬山城河田城(こうだじょう・ともに一宮市)を差し出す事、その代わり、秀吉は北伊勢の4郡を信雄に返還する事を条件に、正式に、講和が成立したのです。

ところで、信雄の呼びかけに応じて戦った家康は???

実は、この講和成立の段階で、まだ、家康は小牧山に陣を敷いていたのです。

つまり、信雄は、家康の知らないところで、勝手に秀吉と講和を結んじゃったって事・・・

これには・・・
家康に相談すると反対する事がわかっていたので、信雄は単独で講和の話を進めたのか?
それとも、反対されたから、単独で講和したのか?
微妙なところですが、「家康自身は講和に反対だった」事は、おそらく間違いないでしょう。

たたし、たとえ信雄が家康にまったく相談しないで講和の話を進めていたとしても、あの家康の事ですから、そんな話し合いが進められている事には気づいていたでしょう。

それでも、正式に信雄の撤収命令が出ていないので、陣をそのままにしおておくしかなかったのでしょうね。

・・・で、講和成立の翌日・・・天正十二年(1584年)11月16日、正式な講和成立を受けて、秀吉と戦う大義名分を失った家康は、陣を撤収・・・浜松へと帰ったのです。

秀吉と家康の間では、家康の次男・於義丸(おぎまる・後の結城秀康)を、秀吉への人質に差しだす事で講和が結ばれ、ここに、小牧長久手の戦いが終結しました(11月21日参照>>)

長久手でも勝った、蟹江城も取り戻した・・・そんな家康にとって、「息子を人質に出して講和」という、なんだか負けたみたいな和睦成立は、「信雄のボケ!何やっとんじゃ!」とでも言いたかった?かも知れませんね~~

もちろん、冒頭に書いた通り、この小牧長久手は、地方の武将も巻き込んだ天下分け目の戦いでしたから、家康以外にも、信雄の単独講和被害に遭った人が・・・

そう、北陸で戦ってた佐々成政(さっさなりまさ)・・・単独講和に驚いた彼は、このすぐ後、真冬の北アルプス・決死の立山越さらさら越えを決行するのですが、そのお話は下記の関連ページからどうぞ

小牧長久手・関連ページ
3月6日:信雄の重臣殺害事件>>
3月12日:亀山城の戦い>>
3月13日:犬山城攻略戦>>
3月14日:峯城が開城>>
3月17日:羽黒の戦い>>
3月19日:松ヶ島城が開城>>
3月22日:岸和田城・攻防戦>>
3月28日:小牧の陣>>
4月9日:長久手の戦い>>
      鬼武蔵・森長可>>
      本多忠勝の後方支援>>
4月17日:九鬼嘉隆が参戦>>
5月頃~:美濃の乱>>
6月15日:蟹江城攻防戦>>
8月28日:末森城攻防戦>>
10月14日:鳥越城攻防戦>>
11月15日:和睦成立>>
11月23日:佐々成政のさらさら越え>>
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2011年11月15日 (火)

アンケート企画「汚名を晴らしてあげたい歴史上の人物は?」の結果発表

 
今回のアンケート
「汚名を晴らしてあげたい歴史上の人物は?
の投票にご協力いただきありがとうございましたo(_ _)o

なんと!ありがたき事に、全部で138票+αという、大変多くのご投票をいただきました

そのぶんコメントの数も沢山で、そこには、いまだ存じ上げない方のお名前もあり、新たな発見もありで、大変楽しいアンケートとなりました。

実際の数としては「その他」が34票でしたが、やはり「その他」なので、それはそれぞれのコメントでご覧いただくとして、その「その他」と同数で実質的な単独1位となったのは、あの明智光秀さんでした!!( ̄ー ̄)ニヤリ

ではでは、
コメントも含め、本日、このブログ上にて、結果発表をさせていただきますね。

改めて投票募集のページをご覧になりたいかたはコチラからどうぞ>>(別窓で開きます)

・‥…━━━☆ジャ~

1位
34票
明智光秀
やはり人気は衰えませんねぇ~最近はカッコイイ役者さんが演じるのが定番…汚名は払拭されたのでは?
2位
21票
田沼意次
失礼ながら、意外にな人気に驚いてしまいました~
3位
10票
小栗忠順
やはり、この方は惜しい人ですね~維新後も活躍してほしかった…(;ω;)
4位
7票
武田勝頼
豊臣
(三好)秀次
奇しくも、継ぐはずじゃなかったのに継いだ人と継ぐはずだったのに継げなかった人…順風満帆だったら実力を発揮できたでしょうね
5位
6票
蘇我入鹿
飛鳥時代の悪しき事は、皆、この人のせいになってしまっている気が…やはり汚名は晴らしたい!
7位
5票
築山殿
徳川宗春

なにやら、どちらも徳川の大きな壁に押しつぶされて汚名を着せられた感のあるお二人…ですね
9位
4票
徳川忠長
今年の大河では、こましゃくれた変に大人びた子供に描かれてますが、実際の忠長さんは、もっと純粋な方だったと…
10位
2票
武烈天皇
今川氏真
井伊直弼

「もっと評価されてもいいんじゃない?」というお3人が並びましたね
13位
1票
松倉重政
松平忠直
大野九郎兵衛

何と言っても、今回のアンケートは「0票がなし」ってところがウレシイです…この3人さんも、造られた悪人という気がしますね~

と、このような結果となりました~ご協力感謝します。

゜。°。°。°。°。°。°。°。゜。°。°。°。

では続いて、投票コーナーにいただいたコメントを・・・
*いただいた順に表示「青文字」の管理人のコメントもお楽しみください

武田勝頼 かなり優秀な武将だと思います。大河ドラマの主人公にして汚名を晴らしてもらいたい。(男性/30代/千葉)
「勝頼主人公…ぜひ、お願いしたいですね」
その他 越後屋 いつも悪代官の一味とされているが、中には善意に厚い越後屋さんもいたであろう。(男性/40代/愛知)
「越後のちりめん問屋のご隠居は善人なのに…不公平ですよね」
明智光秀 何でか昔から嫌いになれないので(笑)(女性/20代/東京)
「やっぱり、1番人気でしたo(*^▽^*)o」
その他 田中角栄、鈴木宗男、江副浩正、堀江貴文、小沢一郎。東京地検特捜部という大犯罪組織にやられた。
「生存中の方が多数なのでコメントし難いですが、真実はつきとめていただきたい」
豊臣秀次 このところの大河ドラマ(「功名が辻」以降)を見ているとかわいそうな役柄なので。実は有能な政治家では?(男性/20代/千葉)
「晩年の秀吉の犠牲者として描かれますからね~どうしても」
明智光秀 密使が秀吉軍に捕まらずに毛利に伝えることができていたらどうなっていたでしょうか。(男性/60代/東京)
「伝わっていたら秀吉の中国大返しもないわけですからね
井伊直弼 あの当時に、攘夷なんか無理だから。
「攘夷したら、外国からの侵略を受けてたかも知れませんね」
その他 調所笑左衛門広郷。薩摩藩を救った人。という事は薩長連合も無くて下手すりゃ維新も変わった形に。(男性/北海道)
「斉彬さんの影にかくれてしまっているような気がします」
田沼意次 彼が挑んだ改革は評価されるべきでは。(男性/30代/青森)
「やはり、景気回復には、これくらいの人が必要なのかも…ですね」
その他 豊臣秀吉
「確かに、最近のドラマでは変な描き方がされてます…特に晩年の描写はヒドイですよね」
その他 東條英機
「そうですね~あの戦争の責任を一身に背負って逝かれた…(;ω;)」

築山殿

いつもアンケート企画楽しみにしてます!息子に会いに行く途中で…というのがかわいそうだから選びました。(女性/10代/千葉)
「ありがとうございますm(_ _)m
築山殿は、なんだか都合良く悪女にされたって感じですね」
明智光秀 石田三成、 佐々成政、 井伊直弼も・・一人選ぶのは難しいです(女性/50代/福井)
「悩んだ末、光秀さんにして下さったんですね…ありがとうございます」
武田勝頼 武田信玄と比べられてかわいそうですよね 本当は優秀だと思います(女性/10代/神奈川)
「カリスマ父を持つ2代めの宿命ですね~父の代からの家臣が、まだいるだけにツライです」
小栗忠順 迷いましたがこの人はやっぱり生き延びて欲しがった(女性)
「そうですね~維新後の活躍が見てみたかったです」
徳川宗春 本音全員、でも名古屋出身なので(((^^;)今の時代こそ宗春政策を!(男性/40代/東京)
「宗春さんは名古屋では大人気らしいですね~やはり名君なんでしょう」
田沼意次 彼の政権が続けば、樺太もひいては沿海州も平和裏に日本の国土となっていたかもしれません。(男性/50代/千葉)
「今の政府に交渉の能力があるんでしょうか?心配です」
その他 黒田先生のそれ見たんだろ!彼すごいよな。レベルは普通なんだろうけどそれを津紅うpしてるのがすげ!
「ゴメンなさいo(_ _)oちょっとわかりません…どなたかのアンケートと似ているという事でしょうか?“黒田先生のそれ”は見ていないので何がなんだか??…捕捉情報ヨロシク」
今川氏真 光秀や勝頼は再評価が進んでると思うので、あえて氏真で。じつは剣の達人ですし。(男性/20代/岡山)
「確かに…光秀や勝頼は名誉挽回しつつありますね~」
その他 石田三成 家康相手に19万石の武将にあれだけの大名、武将が味方になったのは、彼が愚将でない証拠。(男性/30代/兵庫)
「開戦前はほぼ同数を味方につけてますから…大したもんです」
その他 吉良上野介(男性/40代)
「やっぱりお芝居のイメージが強いですからね~地元では名君ですよね」
その他 いわゆる「A級戦犯」。法律上では尊厳回復しているが、戦後日本人個々の意識の中ではまだ程遠い(男性/30代/神奈川)
「この国のために戦ってくれた方々ですから…
築山殿 山岡荘八の小説家康で酷い書かれ方をしていたので本当だと思ってしまったので汚名晴らしたい。(女性/60代/石川)
「築山殿のページで書いた『家康を主人公として描く以上、彼に殺された妻を悪女にしないと、殺した家康が悪人になってしまう』という事をおっしゃる作家さんというのは山岡荘八さんです…歴史を熟知した作家さんの創作には、つい引き込まれますから…」
その他 昭和の軍人さん みな命がけで戦ったのになんだろう今のこの扱いは(男性/30代/長崎)
「そうです…彼らあってこその、今の平和です」
その他 平将門。成り行きで新皇を名乗ってしまったが、義に生きた天下第一の武将。(男性)
「ただ強かっただけで恐れられてしまった感じがします」
その他 長屋王です!!もし長屋王が生きていたら、あの時代の日本はどう変わっていたのでしょうか。(女性/20代/和歌山)
「彼もハメられた…って感じですね~」
武田勝頼 どうしても信玄とくらべられるので(男性/20代/滋賀)
「デキる武将だったと思います」
田沼意次 田沼の政策が継承されていれば、不平等条約もなかったかも。(男性/40代/神奈川)
「強気の政策…今も言えますね」
その他 敗戦したために戦犯にされた日本人。死して尚の英霊たち。戦争時に自国の為に戦うのはどの国でも当たり前。
「♪兵隊さんのおかげです♪という歌がありましたね…忘れてはいけません」
その他 淀殿ですかね。本当は世話焼きで優しい面のある美人さんだったと思います。(女性)
「ドラマでは、結局、大坂の陣が淀殿のプライドのせいになってるとこが許せませんね~」
小栗忠順 その活躍には目をみはるものがあるのに、知名度はかなり低いと思う。もっと評価されるべき人物(女性/10代/千葉)
「はい、この人は評価されるべきです」
徳川忠長 個人的に好きだし、非が感じられないと思います。(女性/10代/埼玉)
「結局、誰が見ても家光より優秀だったから怖かったって事なのでしょう」
明智光秀 このような命懸けの政治家が、現在皆無!(男性/30代/東京)
「現在の政治家さんには頑張ってもらいたいですが…
その他 東条英機 この人がいなければ悲惨結果は免れた、わけがない。歴史のスケープゴートは必ず必要。(女性/40代/東京)
「我々が味方しなくて誰がする…って感じます」
その他 後のものに本当の事は分からない(愛知)
「まぁ、そうなんですが…(゚ー゚;」
蘇我入鹿 鞍作様ファンです。(女性/50代/兵庫)
「絶対、偉大な人だと思いますです」
その他 興亜観音に御参りに行きましょう。(男性/40代/神奈川)
「敬意を払わなければいけませんね」
その他 石田三成:30年くらい前に加藤剛主演の「関が原」を見ました。(男性/50代/石川)
「おぉ、その頃から、カッコイイ人が演じておられたんですね~」
その他 小早川秀秋にはある意味同情する。どちらについてもスケープゴートにされ裏切り者呼ばわりだろうな!(男性)
「彼に、太閤さんの親せきと小早川の後継ぎは重荷だったのかな?」
その他 豊臣秀吉。立志出世よりも女好きがどうの成り上がりがどうのとゴシップばかりに目を向けられてる気がします(女性/20代/岐阜)
「道三も父子2代、早雲も公家がらみとなると、まさに歴史上の成り上がりは彼一人ですもんね」
明智光秀 きっと何か裏があると思うので(男性/30代/新潟)
「インタビューしたいですね~光秀さんに…」
田沼意次 「剣客商売」ファンには田沼意次を悪く思う人はいないはず(笑)(男性/40代/群馬)
「スンマセンm(_ _)m見逃してます…意次さんはイイ役なんですか?」
その他 陸軍大将 松井石根。(男性/40代/神奈川)
「やはり英霊の一人ですね」
田沼意次 むしろ善玉扱いの松平定信の方がよっぽどのクズ
「クリーンでも何もできないなら、ちょっと黒くてもデキるほうがイイ!ですね」
徳川忠長 「歴史は、基本的に勝者による記録」といわれますよね。この言葉から考えると…100%ぬれぎぬかも。(女性/40代/兵庫)
「徳川の記録ですからね~」
明智光秀 真実が知りたい
「私も知りたいです」
明智光秀 コーコーコー座で、オワダ先生が謀反の理由を言いかけたところで終わっちゃいました。(女性/40代/静岡)
「それは気になる…続きの講座はないんですか?」
明智光秀 この人にの今の日本の政治をおまかせしたいです(女性/50代/大阪)
「やらせてみたい気がします」
田沼意次 田沼の経済改革が否定されたことで幕府の財政は疲弊してしていくのです(男性/40代/岡山)
「彼の失脚は痛いです」
田沼意次 それもそうだけど、「麻生太郎」も入れてあげてくださいな。(男性/30代/東京)
「なんで、あの時マスコミはミンスを推したんでしょうか?」
徳川宗春 吉宗の政策よりも明らかに優れていた。(男性/40代/愛知)
「倹約だけでは解決しませんよね~」
その他 中川昭一
「そうですね」
その他 東条英機元首相 戦争犯罪犯とした東京裁判自体がインチキだ東條さんは良かった。野田は手ぬぐいをかぶって
「この国のために頑張られた人ですから…」
その他 宇都宮国綱でしょう!(男性/20代/東京)
「なんか、理不尽ですよね~」
徳川宗春 ただしバブルになった時どうしたかは知らないが。(男性/30代/愛媛)
「さらにノリノリになったかも知れません」
明智光秀 彼にも言い分はある。歴史は中立の立場から見なければならない。(男性/50代/東京)
「ホント、理由を聞きたいです」
築山殿 真実はわからないけど悪役を押しつけられて憐れすぎます。(女性/40代/大阪)
「女性に押し付けるのは卑怯だと思います」
明智光秀 興味の尽きない人物です。(^ァ^)(男性/50代/千葉)
「ホント気になります」
その他 近藤長次郎
「確かに…この人も、ずっと海援隊にいてほしかった」
築山殿 女性の汚名って、なかなか返上されることがないと思うので・・・。(女性/30代/静岡)
「たぶん、何もしてないと、私も思います」
その他 A級戦犯と不名誉な汚名をなくして、日本の国防のために命を捧げた英霊として感謝を示すのはどう?(20代/大阪)
「私たちが、何としても汚名を晴らして差し上げなければ…」
その他 白人による搾取植民地支配の終焉動機を作った誇り高き正義の日本軍!日本の統治地>人口&識字率up近代化(東京)
「インドネシアとかでは感謝されてるんですが、肝心の日本で…」
その他 アドルフ・ヒトラー(男性/50代)
「苦手な世界史に苦手な近代史で、より苦手ですが、なんだか異説もあるようですね」
その他 徳田球一
「すみません…初めて知りました」
小栗忠順 勝海舟より優秀で筋が通っているから。石田三成もしかり。
「ホント惜しい人ですね~」
その他 加波山事件・秩父事件などで処刑された主に自由党幹部たち(男性/30代/神奈川)
「今度、くわしく調べてみたいと思います」
その他 石田三成 眼下に無常の裏切り。さぞや悔しかったことでしょう(女性/40代/奈良)
「タヌキ相手に頑張りました」
その他 吉川広家(男性/10代/奈良)
「毛利の行く末を決めた感じでしたね」
蘇我入鹿 天皇の御前で、不意打に合い切り殺されるとは、なんと無念だったことか。(男性/50代)
「殺されなければ、もっと活躍したでしょうね」
武烈天皇 サッカー天才
「蹴鞠をやってたのかな?」
田沼意次 商人に目をつけたのがすごい!!(女性/10代/神奈川)
「景気回復、懇願」
田沼意次 やることはきちんとやっていたから。今の政治家のお偉いさんとは大違い!(女性)
「不景気のトンネルを早く抜けだしたい!」
その他 朝倉義景(男性/20代/東京)
「意外に内政はしっかりしてたと聞きます」
ここからは ブログにいただいた投票&コメントです
その他 大東亜戦争敗戦で連合軍から一方的に断罪され、謂われの無い汚名を着せられた、A級戦犯の方々の名誉を回復してあげたいですね。(マー君)
「やはり、この国の人間として守らねばならないでしょう」
その他 小早川秀秋に一票(エピタフ )
「若者には、ちょっと大変だったかも知れませんね~
豊臣秀次 豊臣秀次に一票。秀次、忠長、小栗さん辺りは濡れ衣もいいとこで、五年後にはリスト消えていることを願います。
光秀さんは 茶々さまのブログにある通り、突発的蜂起をどう評価するか、難しいですね。一応、親戚筋なので迷いましたが。
その割に明智家のブランドイメージが良いのが気になっています。明智小五郎なんてのも いますし…。(レッドバロン)
「明智さんは名誉が回復されてるような気がします
小栗忠順 私は小栗さんに一票、母は明智さんに一票いれさせていただきました。一般的にアンケートのひとたちは、まだまだ、ダメな人や悪者扱いされることが多いですから早く汚名返上されてほしいです。(ティッキー)
「早く汚名返上を…ホントですね~ぜひドラマの主役に」
明智光秀 築山御前と迷いに迷った末、惟任日向守に一票を。(^^ゞ
関連エントリー「本能寺の変~数時間のタイム・ラグを埋める物は・・・?」読み応えありました。 どこまでいっても興味が尽きませんね。
NHK大河など、いったいどの役者さんが光秀を演じるのかが、いつも楽しみなのです。(^ァ^)もとよし
「最近はカッコ良く描かれてますね(*゚ー゚*)」

・‥…━━━☆

以上、投票、ならびに、楽しいコメントをありがとうございました~

これからも、不定期ではありますが、オモシロイ投票のお題を思いつきましたら、投票コーナーを設けてみたいと思いますので、その時は、ぜひぜひご協力いただけますよう、よろしくお願いします。
 .

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2011年11月14日 (月)

しこのますらを・舎人親王のカッコイイ生き方

 

天平七年(735年)11月14日、天武天皇の第五皇子で、日本書紀を編集指揮した事で知られる舎人親王が60歳でこの世を去りました。

・・・・・・・・・・

♪丈夫(ますらを)や 片恋せむと 嘆けども
 
(しこ)の益卜雄(ますらを) なほ恋ひにけり  ♪
「男たる者、惚れさせてナンボや、片思いなんかするかい!…て思うんやけど、やっぱ、好きなもんは好っきゃねん。カッコ悪い男やなぁ~俺…」

万葉集に残る舎人(とねり)親王の歌です。

なんか、いいですね~
恋する者の気持ちは、今も昔も変わりなく・・・1300年も前の人に親しみを感じてしまいます。

・・・で、その片思いのお相手の返事は???

♪嘆きつつ 丈夫(ますらおのこ)の 恋ふれこそ
  我が結ふ髪の 漬ちてぬれけれ ♪

「カッコ悪いとか言いながら、ええ男が告って来るもんやさかい、私の髪の毛も濡れてしなやかになってもたやんか」

もちろん、濡れてしなやかになったのは、彼女の髪じゃなく、彼女の心・・・舎人親王さん、見事、射止めましたね。

ところで、この舎人親王の舎人という名前・・・

実際に、生存中にそう呼ばれていたのか?記録として残されただけなのか?よくわかりませんが、とにかく、ご存じのように舎人というのは、殿(との)入りが変化した物とも言われ、古代の天皇や皇族の身辺で御用を勤めた従者の事ですから、そんな名前を、天皇の皇子である親王につけるのか?
って、ちと疑問に思ってしまいますが、

おそらくは、舎人親王の舎人は、その役職からではなく、舎人氏という豪族からの由来と思われます。

この舎人氏というのは、朝鮮半島百済(くだら)からの帰化人の家系と言われながらも、くわしい事はわからないのですが、当時、皇室と近しい関係にあった豪族だとされるので、ひょっとしたら、舎人親王の乳母=養育係を務めていた家柄なのかも知れません。

舎人氏の一族が、養育&後見となっている親王という意味で、舎人親王・・・って事なのかも知れませんね。

また、彼が思いを寄せ、そして、上記の歌で、おそらく「OK」の返事を返した女性の名も、舎人娘子(とねりのおとめ)・・・

たぶん、舎人一族の女性なのでしょう・・・って事は、舎人親王とは乳兄弟で、ひょっとしたら、親王の初恋なのかも・・・( ̄ー ̄)ニヤリ

それはさておき、この舎人親王・・・

親王とつくからには、天皇の息子であり、あわよくば皇位につく可能性のあった人なわけですが、彼自身は、その事をどのように思っていたのでしょう?

もちろん、本当の事は彼に聞くしかありませんが・・・

舎人親王の父である天武天皇は、9人の奥さんとの間に10男7女をもうけていますが、その奥さんにも、皇后夫人(ひん)・・・と身分の差があって、だいたい、身分の高い奥さんの子から順番的に、皇位継承の優先権がある事になりますが、

このうち嬪以下の奥さんは、地方豪族の娘が宮廷で働く中で天皇に見染められて・・・というケースが多いので、身分は低い・・・

夫人は、天武天皇の場合は3人で、藤原鎌足(ふじわらのかまたり)の娘が二人と蘇我赤兄(そがのあかえ)の娘が一人・・・いずれも臣下の者の娘という事。

で、妃の3人=大田皇女(おおたのひめみこ)大江皇女(おおえのひめみこ)新田部皇女(にいたべのひめみこ)は、いずれも、天武天皇の兄である天智天皇の娘・・・さらに、皇后である鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ・後の持統天皇)も、天智天皇の娘です。

舎人親王は、そんな中の新田部皇女の息子ですから、年齢的には若いものの、身分としては申し分なく皇位につける立場でした。

しかし、つかなかった・・・というよりも先に、未だ彼が幼い頃に一度事件が起きています。

そう、あの大津皇子の事件です(9月24日参照>>)

大津皇子は、鸕野讃良皇女の姉の大田皇女の息子で、鸕野讃良皇女の実子である草壁皇子とは1歳違いの優秀な人物で皇位継承を巡っての草壁皇子のライバルと言うべき人でした。

しかし、父の天武天皇が亡くなった時には、すでに母の大田皇女も亡く、姉の大伯皇女(おおくのひめみこ)も伊勢の斎宮として奉仕していたので、そばにはおらず・・・

結局、大津皇子は謀反の疑いをかけられて処刑されるのですが、それが、天武天皇の死から、わずか半月後のスピード処刑・・・そこには、我が子に皇位を継がせたいと願ってライバルを抹殺した鸕野讃良皇女の影が、どうしても見え隠れしてしまいます(1月18日参照>>)

この事件が舎人親王11歳の時・・・彼は、どのような思いで、事件を見ていたのでしょうね?

しかし、その草壁皇子は、事件のわずか3年後に、皇位を継ぐ事無く病死してしまいます。

期待していた我が子を失った鸕野讃良皇女・・・「それならば…」と、その草壁皇子の息子である軽皇子(かるのみこ・後の文武天皇)皇位を継承してもらいたいと願うわけですが、その軽皇子は未だ7歳。

やむなく、「軽皇子が成長するまで…」という雰囲気で、鸕野讃良皇女自身が即位して持統天皇となったわけです。

この時、舎人親王は15歳・・・多感な少年時代に起きた一連の流れを、優秀な彼は、一歩退いた場所で冷静に観察していたのかも知れません。

というのも、持統天皇が、亡き夫=天武天皇の遺志を継いで(2月25日参照>>)、日本初の都市計画に基づく本格的な都=藤原京の造営や、律令国家の形成、中央集権に奔走する(12月6日参照>>)中で、舎人親王は、もう一つの天武天皇の遺志であった天皇の正統性を伝える歴史書=日本書紀の編さん(3月17日参照>>)に身を投じる事になるからです。

皇位継承を争うのではなく、皇室の一員として現天皇に協力する事で生き残りを賭けた・・・さらに、かの日本書紀の内容を見る限り、彼は、かなり藤原氏寄りでもあります。

現に、後に、自分とこの血を引く聖武天皇が即位して、もはや天皇家をしのぐ勢いとなった藤原氏が、おそらく、目ざわりとなった天武天皇の孫=長屋王(ながやのおう)(2月12日参照>>)を抹殺しようとしたとおぼしき長屋王の変で、舎人親王は率先した協力体制をとっています。

かと言って、舎人親王にまったく皇位につく意思が無かったか?と言えば、そうではないような気もします。

万葉集には
♪冬こもり 春へを恋ひて 植えし木の
 実になる時を 片待つ我れぞ  ♪

「冬の寒い時に、春になったら…と期待して植えた木に、実がなるのを、俺はひたすら待ってんねんで~」
という歌が残っています。

もちろん、上記の言葉通りの歌の意味なのかも知れませんが、彼が待っていたのは、「果実」ではなく、皇位を継ぐべき「時」であったような気がしてなりませんね。

しかし、冷静な彼だからこそ、血気にはやる事なく判断し、結局は、聖武天皇の皇后となった光明子(8月10日参照>>)の兄たちである藤原四兄弟に協力する立場を取り続けた・・・って事なのかも・・・

Dscn2599b800 舎人親王が養老二年(718年)に『日本書紀』編纂事業の完成と、42歳の厄除けを祈願して建立したと伝えられる日本最古の厄除け寺・松尾寺
松尾寺への行き方は本家ホームページ:
奈良歴史散歩「いかるがの里」でどうぞ>>

こうして、舎人親王は、聖武天皇の補佐をしながら、最終的には知太政官事(ちだじょうかんじ)にまで昇りつめ、政界の長老のような立場となったと言います。

天平七年(735年)11月14日60歳で亡くなった時には、即日、太政大臣(だいじょうだいじん・だじょうだいじん)に昇進し、後に、息子の大炊王(おおいおう)淳仁(じゅんにん)天皇(10月23日参照>>)となった時には、天皇の父として崇道尽敬皇帝(すどうじんけいこうてい)という追号も贈られました。

反発精神を持ちながらも、時の権力者に協力して生き残る事を選んだ舎人親王・・・

悪く言えば、「長い物に巻かれる」「寄らば大樹の陰」事無かれ主義に走ったと言えるかも知れませんが、だからこそ、皇位継承の嵐渦巻く中で、60歳という、当時としては長寿を全うできたとも言えるわけで・・・

男としては、ちとカッコ悪い=醜の益卜雄(しこのますらを)的な生き方だったかも知れないけれど、それこそが舎人親王の真髄・・・優秀だからこその賢い選択だったと言えるかも知れません。
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2011年11月12日 (土)

長州に尽くします!国司信濃の政治責任

 

元治元年(1864年)11月12日、長州藩・家老の国司信濃が、藩命により切腹しました。

・・・・・・・・・

国司信濃(くにししなの)・・・本名を国司親相(くにしちかすけ)と言い、3年前の同じ日に書かせていただいた福原越後(ふくはらえちご)(2009年11月12日参照>>)とともに切腹を命じられた、長州藩の3人の家老のうちの一人です。

その越後さんのページでも書かせていただきましたが、彼らに切腹の命令が出た理由というのは・・・

それまで、幕末の動乱の中で尊王攘夷(そんのうじょうい・天皇を中心に外国を排除する)の中心となって政界の先頭を走っていた長州藩が、あの八月十八日の政変(8月18日参照>>)で中央から追い出されされたあげく、翌年の池田屋騒動(6月5日参照>>)で藩士を殺害された事から、中央での地位を挽回すべく、大軍を率いて京都の御所に押し寄せた蛤御門(禁門)の変(7月19日参照>>)・・・

この時の戦いで御所に銃弾を撃ち込んでしまった事から、朝敵(国家の敵)となってしまった長州藩には、時の天皇・孝明天皇から長州討伐の勅命(ちょくめい・天皇の命令)が発せられ、それを受けた幕府の大軍が派遣されます・・・これが、第1次長州征伐

このままでは、当然、幕府軍からの攻撃を受けて、長州藩の存続すら危うくなるわけですが、それを回避するための手段が、彼ら=越後と信濃と、もう一人・益田右衛門介兼施(うえもんのすけかねのぶ)という、蛤御門の変で中心人物となっていた3人の家老の首を差し出す事だったのです。

もちろん、中心人物だったとは言え、蛤御門は彼らの独断ではなく、藩の方針であり、藩主の命令も出ていたわけですが、ここは、藩の政策転換をアピールするためにも、彼らを切るしか、長州藩存続の方法が無かったわけです。

今回、その罪を一身に背負って散った家老のうち、越後と右衛門介は永代家老の身分でしたが、信濃は、それこそ実力で掴み取った家老職でした。

Kunisisinano500 もともと、室町幕府の高師直(こうのもろなお)の血筋で安芸国(広島県)に本拠を置いていた国司家は、長州藩では一門八家の次に位置する寄組(よりぐみ)の家系で、藩内ではかなりの身分ではありましたが、わずか21歳での家老昇進は、やはり、聡明で武芸に優れた彼の才能を見込まれての事でしょう。

文久三年(1863年)の赤間関(下関)奉行時代には、あの久坂玄瑞(くさかげんずいらとともに、関門海峡を通る外国船に攻撃を仕掛けた(5月10日参照>>)事もあるバリバリの尊王攘夷派であった信濃・・・

そんな彼が、藩のため、国のため、天皇のため、と思ってやった事で、逆に、死して詫びなければならない結果となったのは、さぞかし無念であった事だろうと思います。

しかし、先の越後同様・・・何一つ、その心情を語ろうとはせず、何一つ弁解する事無く、その命を受け入れ、見事に散っていったと言います。

しかも、信濃は、切腹後の介錯を断わり、開腹後に、自らの手で気管部に刀を当てて喉をかき斬るという凄まじい責任の取り方だったとか・・・

和歌の才能も確かだったと言われる彼の残した辞世の句・・・

♪よしやよし 世を去るとても 我が心
 御国のために なほ尽さばや  ♪
♪君がため つくせやつくせ おのがこの
 命一つを なきものにして  ♪

(天皇)のために、尽くしても尽くしても尽くしきれないこの命を、国のためになら投げ出そう!

そして、死んでもなお、彼の心は国のためを思っていた事でしょう。

元治元年(1864年)11月12日徳山澄泉寺にて、国司信濃・切腹・・・享年22歳の若者でした。

攘夷派佐幕派、どちらが善でどちらが悪なんて事はなく、ともに国の未来を思って戦っていた時代・・・彼のように将来有望な若者が、何人散っていった事でしょう。

近く本朝をうかがうに・・・
tppは平成の開国と言われ、未曽有の災害への対処と経済危機からの脱出が叫ばれる昨今・・・この21世紀の世の中では、なにも死ぬ必要はありませんが、彼らのような熱い思いだけは受け継ぎながら、平成の政治家さんたちには、新たな改革に臨んでいただきたいと願っております。

頼むから、
将来の年金は、まともにチョーダイねm(_ _)m←個人的要望
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2011年11月11日 (金)

反乱?内戦?対外戦争?謎多き磐井の乱

 

継体天皇二十二年(528年)11月11日、麁鹿火率いる朝廷軍が、筑紫三井郡にて磐井軍と交戦して勝利・・・磐井の乱が終結しました。

・・・・・・・・・・

古代最大の内乱と言われる磐井(いわい)の乱・・・

日本書紀によれば・・・
『天皇(すめらみこと)大伴連金村(おおとものむらじかねむら)物部大連麁鹿火(もののべのおおむらじあらかひ)許勢大臣男人(こえのおおおみおひと)(ら)に詔(みことのり)して曰(い)はく、「筑紫(つくし)磐井(いわい)(そむ)きて、西戒(せいじゅう)の地を掩有(おそひたも)てり。今 誰(たれ)か将たるべきぞ」とのたまふ』

つまり、「筑紫の磐井が反乱を起こして西方の異民族の土地を占領したので、その征伐に誰を派遣したら良いか?」と、重臣たちに継体(けいたい)天皇が聞いた・・・と、

これに対して、皆が
「そら、麁鹿火がよろしおまっせ!」
と言ったので、天皇は「よっしゃぁ」麁鹿火を派遣する・・・

古事記でも、
『…此の御世に竺紫(つくし)石井(いわい)、天皇の命(みこと)に従わずして、多くの禮(いや=礼)なかりき。故、物部荒甲(あらかい)の大連、大伴金村の連二人を遣(つか)はして、石井を殺したまひき』
と、ほぼ、同じような内容・・・
「筑紫(福岡県西南部)の磐井(石井)が天皇に反発したので討った」というように記されています。

そもそもの起こりは・・・

この頃の朝廷は、朝鮮半島百済(くだら)任那(みまな)と友好関係にあり、その二つの国と敵対していた新羅(しらぎ)とは、やはり対立していたのですが、そんな中で任那が新羅に領有されてしまうという出来事が起こります。

それを復興させようと、継体天皇二十一年(527年)の6月・・・天皇は、近江毛野臣(おうみのけぬのおみ)6万の兵をつけて朝鮮半島に出兵させました。

そこで新羅は、かねてより、朝廷への反発心を持っていた筑紫国造(くにのみやつこ=地方官)筑紫君磐井(つくしのきみいわい)に近づき、モーレツな賄賂攻撃・・・これによって新羅と結んだ磐井が、大軍を動員して、毛野の軍隊の朝鮮半島行きを阻止したのです。

で以って、先に書かせていただいた記紀の記述のように、新たな麁鹿火らの軍を九州に派遣して、その鎮圧に当たった・・・と、

かくして継体天皇二十二年(528年)11月11日筑紫三井郡(現福岡県小郡市・三井郡付近)にて衝突した両者は、激しい戦闘の末、朝廷側の麁鹿火らが勝利・・・磐井は山中に逃げ込んだ後に死んだとされ、その息子・筑紫君葛子(つくしのきみくずこ)は、糟屋屯倉(かすやのみやけ=福岡県東部)朝廷に献上して命乞いをし、何とか殺されずにすんで、めでたしめでたし・・・

以上が記紀に記されている『筑紫国造磐井の反乱』で、あの壬申の乱に並ぶ・・・いや、ひょっとしたらそれ以上の古代史最大の内乱であると言われています。

とは言え・・・この磐井のの乱、様々な議論が飛び交っております。

そもそも、この磐井という人は国造=地方官だったのか?

大和朝廷のもとで国造という役職についていたのなら、確かに中央への反乱です。

しかし、先の毛野の渡海を阻止した時、磐井は、筑紫はもちろんの事、(ひ)(とよ)二つの国の勢力を集めて挙兵したとされています。

火の国とは、後の肥前(佐賀県&長崎県)肥後(熊本県)を合わせた国の事で、豊の国というのは豊前(福岡県東部)豊後(大分県の大部分)・・・おやおや、鹿児島と宮崎以外の九州の大部分じゃありませんか!

しかも、かの日本書紀では、磐井の鎮圧に向かう麁鹿火に対して
『…天皇自ら斧釿(まさかり)を操(と)りて、大連に授けて曰く、「長門より東をば朕(ちん)(と)らむ、筑紫より西をば汝(なんじ)制れ」と…』
と言ったとか・・・

つまり、この時点で、九州の大部分どころか、長門(山口県)より、さらに東にも磐井の勢力が及んでいたという事なのでは?

一地方官が、これだけの勢力範囲を持っていた事は、とても考え難い・・・と言うより、もう、この時点で、中央への反乱ではなく、国VS国の戦いっぽいです。

鎮圧に1年半もかかってますし・・・

そこで登場するのが九州王朝説・・・

もはや神話の世界であるヤマトタケル(日本武尊・倭建命)女装で一突き・・・
あるいは、架空の人物説もある第14代仲哀(ちゅうあい)天皇が、征伐に訪れるも、その矢に当たって亡くなったとか・・・
これまで何度か記紀に登場する熊襲(くまそ・熊曾・球磨囎唹)と呼ばれた人々・・・

6世紀になっても独自の国家を形成していた九州王朝は脈々と受け継がれ、その末裔が磐井君・・・彼こそが九州の王ではなかったのか?という事です。

Iwatoyamakofunsekizin500 ←岩戸山古墳から出土したとされる「石人」(正福寺蔵)
中国や朝鮮半島様式の「蒙古鉢型冑」をかぶっています

 

 

 

しかも、おもしろい事に、磐井の墓とされる岩戸山古墳は、畿内に多い前方後円墳なれど、「別区」と呼ばれる方型区画が東北部分に存在し、畿内の前方後円墳とは明らかに違う形をしているのだとか・・・

やはり、別の国だった九州の王が、ここに来て、新羅と結託して大和朝廷を潰しにかかった、という事なのでしょうか?

また、シュチュエーションは、ほぼ同じでも、少し違った見方もあります。

それは、継体天皇こそが反乱軍であったとする説・・・

継体天皇の皇位継承については、いずれまた、くわしく書かせていただくつもりですが、この継体天皇の先の天皇が第25代武烈(ぶれつ)天皇・・・

この武烈天皇に、子供も後継者もいなかった事から、「このままでは天皇家の血統が絶えてしまう」とばかりに、その血筋を5代前にまでさかのぼって、福井だか滋賀だかで、やっとこさ見つけた応神天皇の血筋(仁徳天皇の弟)の皇子がこの継体天皇、「どうぞ、天皇になってください」と、はじめは渋っていた天皇を、朝廷へお迎えしたという事になってますが、

以前の武烈天皇のページ(12月8日参照>>)にチョコッと書かせていただきましたが、そうやってお迎えしたワリには、継体天皇は20年間も大和に入れなかった・・・これは、非常にオカシイです。

つまり、継体天皇こそが新参者の地方豪族で、大和を制圧した後、西へと勢力を広げようとしたのが、この磐井の乱だったのでは?という事です。

さらに、別の説(古田武彦氏説)では、この磐井の乱自体が無かったという説もあります。

その根拠は、この乱で、筑紫が朝廷の支配下に入ったのであれば、当然の事ながら、その文化は畿内の文化に侵されてしまうわけですが、発掘品などから、そのような変化は、まったく見られないとの事・・・

その説では、この乱自体がもっと後の時代に起こった外国(隋か唐?)勢力との戦いだったにも関わらず、(記紀を編さんする)寸前まで、このような不安定な政権だった事を隠したいがため、何百年も前の出来事のように改ざんしたのでは?という事のようです。

はてさて、この謎が解明される時が来るのかどうか・・・
いや、あくまで歴史を楽しんでいる身としては、解明されないほうがワクワクし続けられるので(*≧m≦*)
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2011年11月10日 (木)

京都御所?皇居?大正・昭和・平成の大礼

 

大正四年(1915年)11月10日には、京都御所で大正天皇の即位礼が…
昭和三年(1928年)11月10日には、同じく京都御所で昭和天皇の即位礼が挙行されました。

・・・・・・・・・・・

そもそもは神代の昔から、明治二十二年(1889年)に大日本帝国憲法とともに旧皇室典範が成立するまで、皇位継承に関する成文化された法律は、日本には無かったのです。

もちろん慣習的に様々な決め事は存在しましたが、あえて(あえてかどうかはワカランが)成文法を制定しなかったおかげで、その時代によって変幻自在な皇位継承が成されて来たわけです。

古代では一般的だった終身制がいつの間にやら譲位制に代わって、奈良時代には文武天皇から元明天皇へと・・・なんと、息子から母への皇位継承なんてのもありました。

まぁ、この時代は医療も発達しておらず、子供の死亡率も高かったし、生まれた子が必ず成人して、永く皇位につくという補償もなかったでしょうから、それだけ柔軟な皇位継承が求められていたのでしょう。

しかし、世が明治維新となって、一気に近代化に進む中、憲法の制定とともに、皇室に関するモロモロの決めごとも含め、明確な成文法の成立が求められたのです。

最近、何かと話題の・・・
皇位継承権を男系男子・嫡長に限定して女系を認めないというのも、この明治の時に決められましたが、それこそ、昼夜を問わず議論を重ね、何度も草案を書きなおしながらの制定だったのです。

そもそも、皇室典範という名称でさえ議論の対象となっていたのですから・・・。

・・・で、この時の皇室典範によって、終身在位の原則が定められるとともに、「天皇(先帝)が崩御されたら皇嗣(こうし・皇太子)が直ちに皇位を継承(旧皇室典範では践祚・新皇室典範では即位)する」事も定められました。

ただ、それに伴う様々な儀式については、もう少し遅く、明治四十二年(1909年)に交付された登極令(とうきょくれい)及び付式によって規定されました。

登極というのは極位=皇位に登る事で、つまりは継承・・・んで以って、それに伴う儀式の事を一括して大礼と言いますが、具体的には・・・
●践祚(せんそ)の式
●改元の儀
●即位の礼
●大嘗祭
(だいじょうさい)
●大饗(だいきょう)
の5種類で、登極令と付式には、それをいつやるとか、どこでやるとかの儀式次第が詳しく定められているわけです。

これに基づいて、大正天皇昭和天皇の2代に渡って、践祚式は東京の皇居で行われ、冒頭に書かせていただいた通り、即位の礼は京都御所にて大嘗祭とともにとり行われたのです。

しかし、あの太平洋戦争後、かの登極令が、他の皇室令とともに廃止され、新しい皇室典範では、皇位継承の儀式については「即位の礼を行う」と定められているだけで、事細かな事は一切なし・・・なので、昭和から平成の変わりめに行われた今上天皇の皇位継承は、これまでの大礼を参考にしながらも、様々な工夫を加えてとり行われたのです。

明治の頃の成文法の制定も大変だったでしょうが、そこから180度転換された戦後初めての即位の礼も、さぞかし大変だった事でしょう。

今上天皇の場合・・・
昭和天皇の崩御を受けて、昭和六十四年(1989年)1月7日の朝を以って直ちに125代天皇となられた後、午前10時から行われた践祚式・・・新典範には規定がないものの、現在の皇室経済法の中に「高位とともに伝わるべき由緒あるものは、皇位とともに皇嗣がそれを受ける」という一文があった事で、宮中三殿賢所(かしこどころ)での礼拝や奏告、祖宗の神器の承け継ぎなど、践祚式における儀式はスムーズに行われましたが、あくまで、この践祚式は内々の儀式・・・

より大変だったのは、やはり即位の礼でしょうね。

そもそも、京都に住むお年寄りが、いまだに、
「天皇さんは、ちょっと東京に行幸してはるだけ・・・また、帰って来はる」
なんて事を言う・・・と、まことしやかな都市伝説もありますが、実際に正式な(みことのり)が発せられているわけではないので、厳密には日本の首都は未だ京都という考えもあわけで、

これまで、京都御所で行われていた即位の礼を東京の皇居で行うという事には、紆余曲折の様々な意見があったようですが、最終的には、平成元年当時には、未だ京都迎賓館もなく、関西空港も無かった事から、外国のお客様を迎えるに当たっての警備の問題もあり、東京での即位の礼となったとの事(←あくまで、そう聞いたという理由ですが)

その代わり・・・と言ってはなんですが、東京での一連行事を終えられた天皇陛下は、まずは近畿への行幸を行われ、伊勢神宮桃山御陵の参拝をされた後、京都御所に近畿圏の各界の関係者・800人を招いて、大きな茶会を催されたとの事・・・

初めての試みに、さぞや関係者の方はお忙しかった事でしょうね。

Gosuotakamikuta800 京都御所・紫宸殿の高御座

ちなみに、東京での即位の礼のために京都御所から皇居に運ばれた高御座(たかみくら・玉座)御帳台(みちょうだい・皇后の御座所)などの品々は、その後、再び京都御所の紫宸殿に戻され、その年の12月15日から9日間、京都御所で一般公開されました。

おそらく、関係者の皆さまは、このあたりで、やっと一連の儀式を終えたというゆったり感を味わわれた事でしょうね。
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2011年11月 9日 (水)

島原の乱~原城総攻撃に散る板倉重昌

 

寛永十四年(1637年)11月9日、江戸幕府が、島原の乱の鎮圧のために、板倉重昌らを派遣しました。

・・・・・・・・・

この年の10月・・・神の予言した救世主と称され、後に天草四郎と呼ばれる事になる益田四郎時貞(ますだしろうときさだ)を旗印に掲げて勃発した、ご存じ、島原の乱・・・

キリシタン仲間の農民が代官に捕えられた事をキッカケに始まった農民一揆・・・ここにに、先の関ヶ原で負けて没落していた小西行長の旧臣たちが加わって、その勢力は拡大します。

やがて、島原半島南部にあった古城・原城を拠点として、島原城富岡城を攻め立てる一揆勢でしたが、さすがにプロの戦闘集団=武士相手の城攻めは、一揆勢には荷が重く、いくら攻めても城を落とすまでには至りませんでした。

そこで、12月頃からは、一揆勢は討って出る作戦を小休止し、原城にて籠城の構えを見せ始めます(10月25日参照>>)

一方、江戸の幕府に、この一揆のニュースが届いたのは寛永十四年(1637年)11月9日・・・

Itakurasigemasa400_2 これを受けた幕府老中たちは、早速、三河(愛知県東部)深溝(ふこうず)藩主・板倉重昌(いたくらしげまさ)と、目付・石谷貞清(いしがいさだきよ)の両名を、上使(将軍の命令を諸大名に伝える使者)として、島原に派遣する事を決定します。

彼らが江戸を出立した11月12日には、すでに天草でも一揆の蜂起があったという一報が伝えられますが、幕府としては、おそらく、板倉と石谷の派遣によって、ほどなく乱は鎮圧されるであろうとの読みがありました。

11月26日、豊前(福岡県東部)の小倉に到着した重昌らは、早速、熊本藩細川家を、新たに蜂起した天草へ向かわせますが、すでに、ここには一揆勢はいませんでした。

そう、冒頭に書いたように、もう彼らは原城での籠城の準備に入っていたのです。

そこで、重昌らは、島原へと進み、原城近くで陣を構えます。

一方、上記の通り、ほどなく乱が鎮圧されると判断していた幕府は、鎮圧後の後始末をするための追討上使として、老中・松平信綱美濃(岐阜県)大垣城主戸田氏鉄(とだうじかね)両名も派遣する事に・・・

ところが…です。

この原城は、島原半島南部に突き出た高さ31mほどの丘の上に構築された城で、北・東・南の3方が海に突き出た高い崖となっている天然の要害・・・さらに、たった一つの攻め所である西側も沼地と、攻め難さは第1級です。

しかも、そこに島原だけでも2万7000人・・・そこに天草のメンバーをくわえて4万人近くにも膨れ上がった籠城の人数がいるのです。

確かに、籠城する者の中には女子供が含まれていますから、実際に戦闘に参加できる者は、それよりは少ないわけですが、固い信仰で結ばれた彼らが、徹底抗戦を決意したとなると、やはり、なかなか手ごわいです。

ある時には、重昌らが、本陣からさらに近くに、敵目前の陣を構築しようと試みたりなんぞしますが、準備を始めた途端に鉄砲の雨あられが降りかかり、それを断念せざるを得ない・・・なんて事もありました。

しかし、だからと言って、何もしないわけにもいかず・・・やがて、筑後(福岡県西南部)立花忠茂(ただしげ・宗茂の息子)有馬忠頼(ただより・豊氏の息子)らが援軍として重昌らの幕府軍に加わったのをキッカケに、その12月19日の夜(20日)、彼らは、夜陰にまぎれて原城に攻めかかります。

しかし、一揆勢の抵抗が激しく、500人近く死傷者を出してしまった幕府軍は、一旦占領した天草丸(松山丸)を放棄して、やむなく退却・・・

でも、なんとか城を落としたい重昌・・・「おそらく、元旦の朝なら、敵も少しは油断しているかも知れない」と、来たる1月1日に総攻撃を仕掛ける決意をするのです。

かくして寛永十五年(1638年)が開けた1月1日・・・未だ夜が明けないうちに、幕府軍が一気に攻めかかります。

ところがドッコイ・・・一揆勢の守備は万全で、近づくなり槍に鉄砲、石投げの猛カウンターパンチ!!!

そうですよ、重昌さん・・・残念ながら、キリシタンに元旦は関係なかったんですよね。

だからって、クリスマスなら油断してたってワケでもないでしょうが、とにかく、一揆勢の猛防御に攻めあぐね、もはや我慢できなくなった重昌は、自ら陣の外に出て決死の突進!

そんな最前線の城壁に喰らいついた重昌に、雨ように浴びせかけられる銃弾・・・そのうちの一発に撃ち抜かれ、重昌は命を落としてしまうのです。

もちろん、重昌だけではありません。

この日の幕府軍の死者は612人、負傷者は3213人というとんでもない数・・・その負傷者の中には、重昌とともにやって来た石谷貞清も・・・(ちなみに、あの宮本武蔵も一揆勢の投石を受けで負傷してます)

どうやら、一揆勢は、この日に総攻撃がある事を事前に察知していたようで、完全なる幕府軍の敗北となってしまいました。

ただ、少しばかり重昌さんの味方をさせていただくならば・・・

おそらく、彼には、鎮圧後の後始末をするための追討上使として派遣された松平信綱と戸田氏鉄の事が重くのしかかっていたものと思われます。

「彼らが到着する前に、何とか一揆勢を潰しておきたい」
それは、鎮圧を任された武士の責任であり、意地だったのかも知れません。

追討上使の彼らが、ここ島原にやって来るのは、2日後の1月3日・・・この現状を目の当たりにした信綱は、九州の大名を総動員しての長期戦に切り替える事になります。

*4年前のページなので前半分がかぶってますが2007年2月28日参照>>
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2011年11月 8日 (火)

万葉集に残された遣新羅使・雪連宅満

 

天平八年(736年)11月8日、遣新羅使として派遣された雪連宅満が、途中に立ち寄った壱岐で亡くなりました。

・・・・・・・・・・・

続日本紀によれば・・・
聖武天皇が天平八年2月、従五位下の阿倍朝臣継麿(あべのあそみつぎまろ)大使、従六位下の大伴宿禰三中(おおとものすくねみなか)副使として、40数人の使節団を遣新羅使として任命し、彼らは6月に難波を出発・・・翌年の天平九年正月に帰国した」
とあります。

今回の、雪連宅満(ゆきのむらじやかまろ・宅麿)という人物は、壱岐(いき・伊伎)島の出身で、卜占を得意とした・・・つまり、外交官というよりは、占い師として遣新羅使に同行したという事でしょうか。

占いといっても、ただ吉凶を漠然と、当たるも八卦当たらぬも八卦で占うのではなく、その日の天候や風を読みながら航海の無事を占い、その先を指導する・・・今で言うところの気象予報士か航海士のような役割だったと思われます。

ところで、この聞きなれない「雪」という姓・・・

それについては、
もともと壱岐で卜占を扱っていたのは壱岐氏である事、
また、宅満の家系が代々に渡って卜占の特技を持っていたであろうと思われる事、
さらに、彼の父である伊伎連古麿(いきのむらじこまろ)なる人物が別の文献に登場する事から、
おそらく、宅満も、本当は壱岐という姓であったであろうと言われています。

それを、新羅の朝廷向けにわかりやすいよう、漢字一文字の姓=雪にしたのであろうというのが、研究者の見方だそうで・・・成龍がジャッキー・チェンみたいなもんか(゚ー゚;

Kentousisen600 とにもかくにも天平八年(736年)6月、多くの人に見送られながら、意気揚々と難波津(なにわづ)を出港した彼ら・・・

とは言え、ここ最近、朝鮮半島一帯に勢力を広げた新羅(しらぎ)と日本とは、少し緊張関係にありました。

そんな中で、有利に外交交渉を進めねばならない責任は、彼らに重く圧し掛かっていた事でしょう。

しかも、現代と違って、その行程も命がけですから・・・

難波を出港した船は、何日もかけて、いくつもの港に立ち寄りながら、瀬戸内海を西へ西へと進みますが、現在の山口県の沖合・周防(すおう)に差し掛かった頃、船を台風が襲います。

一晩中、暴風雨にもてあそばれた彼ら・・・船はところどころ破損したものの、何とか分間(わくま)の浦(大分県)に到着し、ここで、船の修理をする事に・・・

オイオイ!気象予報士の宅満ちゃん・・・思いっきり台風に遭遇して大丈夫かいな?

と思う間もなく、彼らは修理を終えた船とともに筑紫(福岡県)へ・・・

しかし、さらに、何度かのトラブルを踏み越えながらの航海は予定よりも大幅な遅れを産み、何とか志賀の浦(博多湾)へと入った時には、すでに、季節は秋となっていました。

ここで大宰府のおエライさんへの挨拶を済ませ、いよいよ、北へ向かって・・・と行きたいところだったのですが、実は、ここ九州では、この時、天然痘が大流行していたのです。

不運にも、遣新羅使のうちの何人かが天然痘にかかってしまいます。

そう、実は宅満も・・・

それでも、再び船に乗り込んで出航した彼らでしたが、壱岐にたどりついた時、すでに病が重くなっていた宅満・・・懐かしい故郷の風景を見た事で、その緊張の糸がプッツリと切れたのでしょうか・・・

天平八年(736年)11月8日宅満は、ここ壱岐で息をひきとりました。

♪大君の 命恐(みことかしこ)み 大船の
 行きのまにまに 宿りするかも ♪
「命に従って、厳しい日程に振り回されてもた」

この時の遣新羅使たち・・・実は、大使の継麿も天然痘にかかって対馬にて死亡、復使の三中は何とか大役を終えて帰京しますが、彼も途中で感染していて、無事だったメンバーより、かなり遅れての帰還となっています。

しかも、相手の新羅は、これまでの儀礼を無視して、使節との交渉をまったく受け入れなかったのだとか・・・

命がけの航海をして、命がけの交渉に向かった彼ら・・・なのに、実りの無かった遣新羅使たち・・・

しかし、古代の外交官が、その使命を全うすべく挑んだその心意気は、高く評価されるべきでしょう。

そして、もう一つ・・・

先の♪大君の…♪の歌は、あの万葉集に雪連宅満の歌として残されている歌なのですが、万葉集には、その歌に続いて、彼への挽歌が9首、納められています。

天皇や有名人ならともかく、地方の一占い師に9首というのは、異例だと聞きました。

宅満の人となりなど、記録に残るはずもありませんから、どんな人だったのかは想像するしかありませんが、この挽歌の数を見る限り、おそらく、他人に好かれる、とても良い人だった事でしょう。

♪石田野に 宿りする君 家人の
 いづらと我れを 問はばいかに言はむ ♪

♪世間は 常かくのみと 別れぬる
 君にやもとな 我が恋ひ行かむ ♪

ある人は、
「宅ちゃんは、今、どこにおるん?と聞かれたら、何て答えたらええんや?」と問いかけ、
ある人は、
「別れはいつもこういうもんやと言うとったけど、やっぱ、君の事思うとツライねん」と嘆き・・・

♪はしけやし 妻も子どもも 高々に
 待つらむ君や 山隠れぬる  ♪

♪新羅へか 家にか帰る 壱岐の島
 行かむたどきも 思ひかねつも  ♪

「嫁はんと子供が待っとるっちゅーのに、なんで、山になんか隠れるんや!」と怒る人もいれば、
「新羅へ行こか家に戻ろか…これから、どうしたらええんや!」と戸惑う人も・・・

遣唐使は登場しても、ほとんど教科書にも登場しない遣新羅使・・・

しかし、万葉集に残されたこれらの歌は、
その時代に、雪連宅満という人が確かに生きていたという事、
友人の死を見送る者の悲しさが古代の昔から変わらない事を、
1200年の時を越えて、現在の私たちに伝えてくれているのですね。
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2011年11月 7日 (月)

祝!80周年 昭和の大阪城天守閣・復興

 

昭和六年(1931年)11月7日、江戸時代の焼以来、失われていた大阪城天守閣が再建され、竣工式が行われました

・・・・・・・・

今年は、昭和の時代に再建された、現在の大阪城天守閣・復興80周年!!

それを記念して、大阪城では様々なイベントが催されています

たとえば、今日は、「天守閣の入城が無料!!」とか…

かくいう私も、何度か記念イベントに参加させていただいてますが・・・

以前書かせていただいたように(8月18日参照>>)、寛文五年(1665年)の豊臣秀吉の命日の日に、落雷とともに炎に包まれた大坂城は、以来、徳川幕府によって再建される事なく明治を迎え、維新後は明治政府によって陸軍の本拠地が置かれて東洋一の軍事施設となっていました。

Oosakazyoufukkou600 そんな中、郷土の誇りとして再建される事になった大阪城天守閣・・・

昭和五年(1930年)5月6日に地鎮祭が行われ、翌昭和六年4月24日に棟上式・・・その後、関係者の努力もあって工事は進み、10月30日に工事完了、

 

昭和六年(1931年)11月7日竣工式が行われたのです。

・‥…━━━☆

そもそもは、大正十四年(1925年)4月…

大阪市が隣接する東成&西成両郡の町村を合併して、人口200万人を超える、当時、日本一の大都市になった事を記念して、毎日新聞社の主催で、天王寺公園と大阪城の二つの会場を舞台に「大大阪記念博覧会」というイベントを開催したそうです。

当時の大阪城は、徳川から新政府へと開け渡された明治維新の頃そのままの東洋一の軍事基地でしたから、市民に開放されるのは、出入り口の大手門と、そこから入って、桜門を通っていく天守閣広場・・・

そして天守閣の北側にある山里曲輪(やまさとくるわ・山里丸)だけで、現在の内堀の中だけというかなり狭い物でした。

とは言え、せっかくの博覧会なのだから…とはりきって、天守台部分に「豊公館」と名づけた桃山様式の2階建ての建物を設置して、この内部には秀吉ゆかりの資料を展示したのだそうです。

すると、これが市民に大評判!!

…と、ちょうどその時、この博覧会会場を訪れた後藤新平が、イベント会場の活気あふれる姿に感動!!

その場で、東京市議会議員宛てに
「本日大阪記念博覧会に臨み市民生活に刺激を与ふるところの一大教訓を得たり。
実に東京においては見る能はざる学俗接近の臨時機関たり。
特に市議会議員諸君に観光団として来遊せられんことを勧告す。
東京市民の為に深厚なる福音たるべし」

と打電したのだそうです。

その後、そばにいた関係者に・・・
「今、この豊公館を見て思ったんやけど、大阪の歴史を記念するためにも、市民のためにも、築城当時の建築構造を研究して常設の天守閣なんかを建てて、展示会の会場(今で言う博物館)にあてたらどうやろ?
東京とか、その他の府県市議会議員らも、しょーもない事で議論ばっかりしてるよりは、一回、この博覧会、見に来たらええねん!」

と言い、その日のうちに大阪市長・関一と面談して、その事について語り合ったのだそうです。

とは言え、実はそれまでも、大阪城内に仁徳天皇を祀る浪速神宮の建立の話なんかが出ていたのですが、交渉相手の大阪市教育部などに、陸軍が法外な移転費用と提示してくるもんで、なかなか話が進んでいなかったのです。

そこを、後藤新平に触発された関一の「鶴のひと声」をきっかけに動いた大阪市議会が、大阪城天守閣復興を全員一致で可決・・・陸軍の移転費用を100万から80万にねぎって、話が進められて行きます。

ちょうど、昭和四年(1929年)に、それまで古社寺限定だった国宝保存法が改訂され、翌年に、名古屋城が城郭として全国初の国宝に指定された事も大きかったでしょう。

それまで無用の長物として歴史的価値が無いとされていた城郭に、文化財としての価値を認める風潮が高まって来たのです。

建設費用の150万円は、全額、市民の寄付によって賄われる事になりますが、上は住友吉左衛門氏の25万から、下は10銭の一般市民まで合計78250件、わずか半年で集まったのだとか・・・大阪市民が、いかに天守閣の復興を願っていたかがうかがえますね~。

その後、完成した大阪城天守閣は、戦後に次々と復興された天守閣のモデルケースとして注目を集める事になります。

・‥…━━━☆

ところで、もはや史料が少なく、おそらくは、戦国や江戸時代の姿を復元する事は不可能と思われる城跡に、現代人が新たな天守閣を建ててしまう事に違和感を持たれる方もおられるでしょう。

たとえば、この大阪城も・・・
ご存じのように、現在の大阪城の石垣は徳川時代の物・・・そこに、秀吉時代のデザインの天守閣を建てているわけですから、極端に言えば、それは、戦国でも江戸でも無い時代の空想の産物なわけです。

無くなった物は無くなったまま・・・自然のままの姿で保護していくのがベストという考えも一理あります・・・というより、平成の今では、その方が主流かも知れません。

しかし、天守閣が復興された昭和の初めという時代は、また、現在とは違った価値観があったのです。

たとえば・・・
大阪城に来られた事のある方・・・天守閣北側の山里曲輪にある「秀吉・淀殿 自刃の地」石碑の後ろの石垣に階段があるの、ご存じですか?

Oosakazyouyamasatokuruwakaidan800 (写真:の部分が階段です)

実は、コレ、その大正14年4月に開催された博覧会が行われた時に造られた階段なのです。

その時、山里曲輪には、子供が遊べるちょっとした遊具が設置されたそうなんですが、当時は、まだ、極楽橋から北へ抜けるルートが無く、入った人は、また天守閣の方へ戻って帰るしかなかったわけですが、その山里曲輪と天守閣とをつなぐ通路が一本だけだったので、そのままだと行く人と帰る人がゴッチャになってややこしいから、「グルリと一回りできるように」と、石垣をぶっ壊して作った帰り道用の通路(地下道)なのだそうです。

Dscf0032a600 博覧会のために、江戸時代の石垣をぶっ潰してしまうという発想は、それこそ平成の世にはない発想です。

しかし、そんな当時の発想を物語っているのが、上記の後藤新平の言葉・・

「東京においては見る能はざる学俗接近の臨時機関たり」です。

そう、それまで、神社仏閣などで保管されている宝物や、発掘現場で発見発掘されたような貴重な品々は、一部の有識者のみが見る事ができるだけで、それらの品々に一般市民が触る事は、ほとんど無かったわけです。

まぁ、神社仏閣の秘仏の御開帳などはあったでしょうが、それは文化財というより信仰の意味での一般公開ですから・・・

後藤新平が博覧会の会場で見た光景に感動したのは、まさに、そこです。

老若男女・・・老いも若きもが一団となって、貴重な展示品を喰い入るように見つめ、その品についての由緒や歴史についての説明を聞き、普通の一般市民が学識を深める・・・未だ、当時の日本には無かった、そんな場所が必要だという事なのです。

時代が変われば価値観も変わる・・・今となっては大正から昭和にかけてのその時代の価値観も、大切な歴史の一つではないでしょうか?

現在の大阪城天守閣・・・

全国各地の多くの復興天守閣が長期的な入城者の減少に悩む中、大阪城は毎年120万人前後という安定した入城者数を保っているそうです。

それは、今もなお復興当時の昭和の初めの「貴重な遺産と触れあいながら市民の学識を高める」という目標を実践すべく、日々の研究に余念のない学芸員さんを配置し、常に高度な学術的価値のある展示を心がけておられる大阪城天守閣関係者の方の努力があるからなのでしょう。

徳川時代の石垣に、昭和の大阪市民が建てた、豊臣時代の天守閣・・・

時空を越えた夢のコラボ天守閣は、今も、そしてこれからも、大阪のシンボルであり続ける事でしょう。

80歳の誕生日おめでとう!

以上、大阪城のそばで生まれ育ち、
大阪城大好きの茶々でした(*´v゚*)ゞ

*山里曲輪の地下道への行き方は、本家ホームページ:大阪歴史散歩「秘密の大阪城・石垣めぐりと太閤下水」のページで紹介しています>>(コラムの内容が、このページとかぶっていますがスンマセン)
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2011年11月 5日 (土)

大坂の陣直前!平野焼き討ちと「みしかよの物かたり」

 

慶長十九年(1614年)11月5日、大坂方の薄田隼人らが、徳川方に味方した平野郷を焼き討ちし、末吉吉康一族を捕えました。

・・・・・・・・・・

3年前、それを見学させていただいた際に、ブログにも書かせていただいた大阪城天守閣所蔵の大坂夏の陣屏風・・・(4月24日参照>>)

Oosakanatunozinzu1000hirano 武士に襲われる人々「大坂夏の陣図屏風」部分(大阪城天守閣蔵)

以前、NHK「その時歴史が動いた」という番組で、この屏風が「日本のゲルニカ」と称して紹介された事が評判を呼んだので、もう、皆様すでにご承知の事とは思いますが、この大坂の陣は、市街戦となった事で多くの一般市民が巻き込まれた悲惨な戦いになりました。

ただ、これも・・・
以前の【魔王の殺戮か?天下人の完全主義か?価値観の相違】というページ(9月12日参照>>)でお話させていただいたように、この一般市民というくくりも、現代の私たちが想像するくくりとは違う戦国独特のくくりであって、一般市民の全員が、まったく戦闘に無関係の一般市民かと言えば、決してそうではないわけで、それぞれの村や集落単位で、大坂方につくか、徳川方につくかを話し合い、密かに、それぞれの武将のために働いた一般市民も多くいたわけです。

そんな中で、今回の平野郷・・・

ここは、現在の大阪市の、その名も平野区のあたりなわけですが、平安時代に、あの蝦夷征伐で有名な坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)の次男である廣野麿(ひろのまろ)この地を賜って開発に着手、その息子が建立した杭全(くまた)神社を中心に発展し、やがて融通念佛宗の総本山・大念佛寺もでき、戦国時代には、壕と土塁で地域を囲んだ環濠集落(7月4日参照>>)となり、町人たちの協議による掟によって自治・自衛が成された自由都市となっていました。

坂上氏の子孫からなる「七名家」が中心となって、積極的に行われた商業活動によって、戦国時代の平野郷は、あの堺と肩を並べる一大商業都市に発展していたのです。

そんな七名家の筆頭である末吉家は、特に、織田信長豊臣秀吉から保護され、密接な関係を築いていましたし、七名家の一つの成安家の出身である成安道頓(なりやすどうとん・一説には安井道頓)が中心となって、あの道頓堀を開墾した話をご存じの方も多いでしょう。

しかし、この大坂の陣の時、末吉家の支流西末吉家の当主・末吉吉康(すえよしよしやす)は、徳川軍の道案内をした・・・そう、彼らは徳川家康についたのです。

その事が明るみに出た慶長十九年(1614年)11月5日、大阪方の薄田隼人(すすきだはやと・兼相)らの豊臣勢が平野郷を焼き討ちし、当主の吉康以下、一族をことごとく捕え、人質として大坂城に連行したのです。

幸いな事に、この時、未だ大坂城にいて、織田の血筋の者として重きをなしていた織田有楽斎(うらくさい=信長の弟・長益)(12月13日参照>>)のはからいで、2~3日の拘留だけで済み、全員無事に釈放されています。

・・・で、その時、吉康とともに拘束されたのが、末吉家の嫡流に当たる東末吉家の2代め当主・末吉増重(ますしげ)・・・

この増重は、吉康とともに一貫して徳川方に味方をする行動をとっていた人ですが、どうやら、この大坂の陣の後に、お互いの意見の食い違いがあったようで・・・

吉康は、そのまま平野郷の復興に尽力し、その子孫も江戸時代を通じて繁栄を極め、かの七名家とともに日本で最初となる私学校「含翠堂」を創設したりなんぞして、その後も明治維新を迎えてもなお、平野の繊維業の発展に努めるわけですが・・・

こちらの増重は、平野を出て、一時、大和(奈良県)吉野引き籠りの生活を送るという別の道を歩みます。

その代わり・・・と言っては何ですが、その吉野での引き籠り時代に、一般庶民からの目線から見た、かの大坂の陣についての記録を残してくれています。

それが、あの「その時歴史が動いた」の番組の中で、冒頭のナレーションとして語られていた『みしかよの物かたり』です。

Misikayono 「みしかよの物かたり」部分

「ときに、きゃうちゃう(慶長)十九廿(はたち)ふたとせ(二年)の世のみたれ(乱れ)、いくさのおこりはいさし(知)らす、江(江戸)とするか(駿河)の両 御所さま、御馬をいたさせ給ひしにより、日の本の弓とりたち残らず、夜ひるのたゝちもなく、いそ(急)きミやこ(都)へと上りける」
で始まる、この物語・・・へたくそですが要約します(゚ー゚;。

ほんで、山城・大和・河内・和泉のあたりには、ところ狭しと軍勢が満ちあふれたかと思うと、ほどなく、大坂城へと押し寄せて、豊臣秀頼らが父子ともども自刃すると、お城の中の、日頃は(すだれ)の内にいて、そのお顔すら見る事のない美しいお局(つぼね)様から、お女中たちや下働きの者まで、炎と煙の中にむせびながら亡くなっていきはりました。

壕の内外では、侍や与力などが残らず殺され、もはや、その数も数えきれません。

惣構(そうがまえ)にあった屋形御殿やいくつかの街並みはもちろんやけど、難波津三津の津住吉天王寺平野まで、百年以上の歴史のある家々も、そこに伝えられていた大事な宝物も、堂塔や寺も、ことごとく焼き払われてしもて、金持ちも雇われ者も貧乏な者も、皆、とるもんもとりあえず、ぬかるみに着物の裾をよごしながら、荒れまくってる田んぼのあぜ道を必死で逃げたがな。

皆、涙流しながら、もはや裸足になってヨロヨロと、行き先もわからん落人のようにさ迷うてると、敵か味方かもわからん情け無用の武士たちに遭遇して、持ってる物は取られて・・・
「おとこ、をんなのへたて(隔て)なく、老いたるものも、みとり(緑)子も、まのあたりにて、さしころし、あるいは、親をうしなひ(失い)、子をとられ、めをと(夫婦)の中もをのつから(自ら)はなれ〱(離れ離れ)になりゆく事のあはれ(哀れ)さ、」

これまでも、昔の合戦の哀れさを伝え聞いてたけど、世も末やと思うような光景を目の当たりにして、愚かやなと思うしかないわ。

♪つら(連)なりし えた(枝)のは(葉)
 その木末まで ちり
(散り)〱になる ゆくゑかな(悲)しも
 千年ふ
(経)る平野の松のえた(枝)朽て
 薪となるそ かな
(悲)しかりける
 ゆ
(行)き帰り 古す(巣)尋てつはくらめ(燕)
 昔の春や 恋しかるらん  ♪

*上記の「」部分♪~♪部分は、原文の釈のままにさせていただきました。

徳川に味方したとは言え、武将でもなく僧侶でもない一般人の末吉増重が見た大坂の陣・・・

もし、戦国の歴史ドラマ内で、合戦の空しさを伝えるとしら、主人公が何度も「戦はいやじゃ」と叫ぶよりも、この光景を、できうる限りの映像で再現されたほうが、よほど見ている側に伝わると思うのですが、日曜の家族団欒の時間帯という、一視聴者にはわからない誓約もあるのでしょうね。

もちろん、この悲惨な戦いがあればこそ、その後の平和が造られた事も忘れてはなりませんが・・・
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2011年11月 4日 (金)

天皇に対する信長の態度は強圧的ではない?

 

天正六年(1578年)11月4日、毛利輝元本願寺顕如に、織田信長と講和するよう、正親町天皇の勅命が下りました。

・・・・・・・・・

この講和の勅命(ちょくめい・天皇の命令)というのは、元亀元年(1570年)の9月から天正八年(1580年)の3月まで、約10年に渡って繰り広げられた織田信長石山本願寺の、いわゆる石山合戦に対しての講和の勅命という事です。

時期的には・・・
ともに上洛を果たしたものの、信長との関係がギクシャクしはじめた(1月23日参照>>)第15代将軍・足利義昭(よしあき)の呼びかけにより、越前(福井県)朝倉義景北近江浅井長政甲斐(山梨県)武田信玄、そこに本願寺第11代法主・顕如(けんにょ)率いる一向一揆が加わって、まさに信長包囲網とも言える「周囲が敵ばっかり」の状態になった中、

元亀元年(1570年)6月には姉川の戦い(6月28日参照>>)で浅井・朝倉を蹴散らし、翌元亀二年(1571年)9月にはその浅井・朝倉を支援した比叡山延暦寺を焼き討ちして(9月12日参照>>)後、天正元年(1573年)8月には浅井・朝倉に引導を渡して(8月27日参照>>)、さらに、翌天正二年(1574年)9月には本願寺顕如の呼びかけに応じて蜂起した長島一向一揆を破り(9月29日参照>>)、天正三年(1575年)5月には亡き信玄の後を継いだ武田勝頼との長篠の戦いに撃ち勝つ(5月21日参照>>)・・・

という、まさに、信長が敵を一つ一つ潰して行っていた中・・・いよいよ、本願寺の一大拠点=大坂・石山本願寺との直接対決が激化した天正四年(1576年)5月の天王寺合戦(5月3日参照>>)で本願寺を包囲したものの、続く、同年7月の第一次木津川口海戦(7月13日参照>>)では、石山本願寺を支援する毛利村上水軍に翻弄され、まんまと本願寺に兵糧を運びこまれてしまっていました。

この頃には、越後(新潟県)上杉謙信が本願寺と和睦して信長包囲網に参戦し、天正四年10月から天正五年(1577年)9月にかけて行われた、あの七尾城攻防戦(9月13日参照>>)にも気を配らねばならなくなった信長・・・

そして、いよいよ、今回の天正六年(1578年)・・・
信長にとってはラッキーな事(謙信ファンの方ゴメンナサイ)に、この年の3月に越後の大物・謙信が亡くなった(3月13日参照>>)事で、上杉では対・信長どころではない後継者争いが勃発(3月17日参照>>)して北陸方面は何とかなりますが、一方の石山本願寺では、7月に顕如が雑賀衆に鉄砲隊の要請したり(7月8日参照>>)してヤル気満々だし、10月には信長の配下だった有岡城の荒木村重が反旗をひるがえす(5月4日参照>>)・・・

・・・で、ここに来て、天正六年(1578年)11月4日正親町天皇の講和の勅命が、毛利輝元と本願寺顕如に下る・・・

つまり、この講和の勅命は、信長が正親町天皇に頼んだものなわけで・・・

ここで、勅使(ちょくし・天皇の使い)から和睦勧告を受けた石山本願寺ですが、協議の末、すぐには返答せず、逆に「毛利はんにも直接、勅使を派遣しておくなはれ」と要求返し・・・で、結局、毛利への勅使は派遣されないまま、わずか2日後の11月6日第二次木津川口海戦(11月6日参照>>)が勃発するのです。

ご存じのように、この第二次木津川口海戦では、あの鉄甲船(9月30日参照>>)が登場します。

2年前の第一次木津川口海戦で、村上水軍のゲリラ的戦法に悩まされた信長が、その対策として作成した大きな大きな鉄の船・・・上記の通り、9月30日に完成しているのですから、本来なら信長だって更なる合戦をヤル気満々だったわけですが、そんな中で出された講和の勅命は、明らかに「未だ準備万端整ってませんよ」てな、偽りのポーズだった事になります。

なのに、その状況で勅命を下すという事は、正親町天皇が信長寄りだったという事なのでしょうか?

実は、そこに、正親町天皇と信長、そして朝廷のなんやかやが微妙に絡んでくるのです。

以前、正親町天皇の践祚(せんそ・皇位を受け継ぐ事)のページ(10月27日参照>>)にも書かせていただきましたが・・・

もはや有名無実となった室町幕府では地方からの税もままならず、この頃の天皇家は、亡くなった先の天皇の葬式さえ行えないような困窮状態だった中、何とか西国の雄・利の支援によって即位の礼を行えた正親町天皇は、その後、足利義昭を奉じて上洛して来た信長に、皇室御用地や公家の領地回復、紫宸殿や清涼殿の修理、借金返済に困った公家のための徳政令を発布・・・などなど、様々な援助をしてもらいます。

一方の信長も、天正二年(1774年)3月には、例の正倉院の宝物=蘭奢待(らんじゃたい)を削らせてもらったり(3月28日参照>>)天正三年(1575年)11月4日には従三位権大納言の叙任を受けたり・・・そして、ここに来て、何やら信長寄りの勅命だし、天正九年(1581年)には御馬揃(おうまぞろえ)なる軍事パレード(2月28日参照>>)も行って、果ては、正親町天皇に譲位(じょうい・天皇の座を退く)を要求したりなんぞして・・・

なので、上記の蘭奢待削り取りや御馬揃や譲位の要求などを含めて、これらは、武力で以って大きな権力を握った信長の、天皇家や朝廷に対する高圧的な態度として、多くのドラマや小説などに描かれて来ましたが、私個人的には、その蘭奢待や御馬揃のページでも書かせていただいたように、そうでは無いと考えます。

実はこの頃、天皇と公家が一枚岩では無かったのです。

たとえば、上記の蘭奢待削り取り事件・・・この時、正親町天皇は、少々ご立腹なのですが、それは、「蘭奢待を削り取らせて」と言って来た信長に対してではなく、それを勝手に「OK」した関白に対しての怒りなのです。

「氏神の春日大社や氏寺の興福寺やったらともかく、藤原氏の氏長者が、あたかも命令のように天皇家の倉を開かせようとすんのは、ちとオカシイんちゃうん?
こんな重要な事は、独断で決めんと、諸臣と会議を開いて決めなアカンはず・・・
今、せっかく
(信長の進言で)公家一丸となって政務を頑張ろうって言うてる時に、そんな事してくれたら、先が思いやられるわ!」(東山御文庫所蔵史料)
と・・・

一方、同時に、公家は公家で、天皇の悪口を書き残しています。

実は、この蘭奢待削り取り事件のあった天正二年という年は、日照り続きで大干ばつに見舞われた年で、各地の寺社の記録にも、何度にも渡って雨乞いの儀式が行われた事が記録されているのですが、それだけでなく、

3月には「夜な夜な内裏(だいり・天皇の住まい)で怪光が発生し、5~6歳の奇妙な男児が清涼殿の屋根に飛び移るのを見た」とか・・・
11月には、「白犬が内裏殿上に上がり込んで走り回った」とか・・・

現代の私たちから見れば「なんじゃそら!犬も走りたい時あるっちゅーねん」てな感じですが、当時は、これらを「禁中怪異」と言って、良くない事の前触れとして恐れられていた事なのです。

現に、陰陽師頭の土御門久脩(つちみがどひさなが)を呼んで占ってみたところ、最悪の結果が出て、天皇の物忌(ものいみ=ケガレを祓うため、家にこもるなどして身を慎む事)が求められるとともに、諸社への祈祷が命じられています。

そんな中で大納言三条実澄(さんじょうさねずみ)の書いた書状・・・、
「こんだけ禁中怪異が発生してんのに、天皇が油断して態度を慎めへんてどういうこっちゃ!
こんな時だけ神さんに祈ってもムダムダ!
上に立つ人間の考え違いが天下万民に災いをもたらすんやからやってられへん。
天皇が、自分の住んでる空間だけ無事やったら、それでええと思ってるようじゃアカンわ
(醍醐寺文書)
と、痛烈天皇批判です。

なんせ、江戸時代であっても、天変地異や大災害は政治の頂点にいる人の責任って事で、それをきっかけに改元されたりしてましたから、さらに少し前の戦国ならなお更・・・

おそらく、そんな事を思っていたのは三条実澄だけでないでしょうし、一方では、かの正倉院の宝物を関白一人で決めてしまうという事態・・・

つまり、この頃の朝廷には、天皇・廷臣の堕落に対する強い危機意識があった・・・

信長が、正親町天皇に、多大なる支援をする一方で譲位を迫るのは、まさに、この頃なのです。

これに対して正親町天皇は
「後土御門院以来、この御望みにて候つれども、事行き候わで、御沙汰には及ばず候・・・」
と、後土御門(ごつちみかど)天皇以来、譲位をせずに天寿を全うした天皇が続いている事を例に出して、おそらくは、「自分も天寿を全うするまで譲位する気は無い」てな事なのでしょうが、そもそも後土御門天皇は、正親町天皇の曽祖父で、後土御門→後柏原→後奈良(正親町天皇の父)と、乱世に生きた天皇たちは、譲位しようにも、その儀式やら何やらの費用が捻出できない状態だったからしなかったわけで、

古くは平安の昔から、天皇が健在中に譲位して上皇となって院政を行ってたりしていた事も多々あり、ここ何人かの天皇の天寿全うのほうが異例だったわけです。

結局、なんやかんやで。この正親町天皇は、信長亡き後に天下を取った豊臣秀吉が関白となってから、ようやく、孫の後陽成(ごようぜい)天皇皇位を譲るわけですが・・・

こうして見ると、信長の天皇家に対する強圧的な態度とされる様々な事が、実は、そうでは無かったように思うわけです。
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2011年11月 2日 (水)

御三家を相手にした江戸町奉行・大岡越前守忠相

 

寛延四年(1751年)11月2日、大岡忠相が病気を理由に、寺社奉行の辞任を申し出・・・ひと月半後の12月19日に亡くなりました。

・・・・・・・・・・

未だパナソニックの字も無かった頃のナショナル劇場での加藤剛竹脇無我の名コンビ・・・

もしくは、暴れん坊でサンバ好きな健さんのもとで活躍した横内正田村亮大和田伸也格さんコンビに挟まれた猛やん(どてらい男)の親友・・・と、

世代によって、強く印象に残る名俳優さんが演じた事で、もはや超有名な名奉行大岡越前こと大岡忠相(おおおかただすけ)さん・・・

家系図では藤原姓九条教実(のりざね)の末裔となっている大岡家は、三河(愛知県東部)以来の徳川家・譜代の家臣・・・

忠相さんは、そんな大岡一族の中の1700石取りの旗本・大岡忠高の四男として江戸屋敷に生まれましたが、9歳になった貞享四年(1686年)、同族の大岡忠真(ただざね)に後継ぎとなる子供がいなかった事から、求められて養子となり、その養父の死後、家督と遺領を継ぎました。

5代将軍・徳川綱吉の時代の元禄十五年(1702年)に書院番(しょいんばん・将軍の親衛隊)になったのを皮切りに、元禄大地震の復興仮奉行徒頭(かちがしら・下士官クラス)使番(つかいばん・監察役)目付(めつけ・政務全般の監察役)と、奉行への道まっしぐらの出世コースを順調に進み、幕府官僚として成長していきます。

そんな彼の運命を変える事になるのが、6代将軍・徳川家宣(いえのぶ)時代の正徳二年(1712年)に就任した山田奉行・・・

この山田奉行というのは、遠国(おんごく)奉行の一つで、幕府の天領である伊勢(三重県)山田を統治するために、中央幕府から現地に派遣される役人・・・

と、この伊勢山田(伊勢市)の隣にあったのが、徳川御三家の一つ=紀州徳川家の領地・松坂(松坂市)・・・

実は、ここは、この山田と松坂の境界線を巡って、これまで何度も農民同志の抗争が起きていた場所なのですが、歴代の山田奉行は、その都度、紀州徳川家に遠慮した裁定しか出来ず・・・そのために、一旦納まっても、ほとぼりが冷めたら、またぞろ抗争が起きるという事をくり返しだったのです。

そこを、ビシッと公平に、双方の意見を汲みつつ、見事なまでの裁定を下したのが忠相だった・・・と、

これまでは、紀州家に遠慮した采配だったのをピシッと・・・って事は、おそらく、紀州家にとっては不利な裁定であったはずなのですが、そこを、「道理のある裁定」として納得させた・・・

これが、「御三家の威光を恐れない骨のある男」として紀州家には見えた???

実は、この時の紀州徳川家の藩主が、後に将軍となって(8月13日参照>>)、忠相を江戸町奉行に大抜擢するあの徳川吉宗だったのです。

まさに、抗争を繰り返す不良グループのリーダー同志がタイマンを張って、お互いの強さを知り、理解し合った後に、さらに大きな敵に向かって一つになる・・・まるで、学園ドラマの王道を行くような展開・・・

やはり、この逸話に関しては、「後世の創作である」との見方をされる専門家も多いとか・・・(未だ、結論は出てませんが)

確かに、忠相は山田奉行での一件がなくとも、順調に出世コースを歩んでいたわけですから、そのままマジメに職務をこなしているだけで、いずれは町奉行になる事は決まっていたような物なわけですが、彼が、将軍に就任した吉宗のもとで南町奉行になるのが享保二年(1717年)の41歳の時・・・

それまで、60歳前後の旗本が町奉行に就任していた例を踏まえると、やっぱり異例の大抜擢と考えられるわけで、そこに、吉宗×忠相の何らかの接点があると思われるわけで・・・

「ひょっとして、隣国同志だった山田奉行の時に何かあったのでは?」
と、ついつい考えてしまうわけです。

ついつい考えてしまうと言えば、あの大岡名裁き・・・

Tenitibouoookaseidanbando あの天一坊(てんいちぼう)事件(4月21日参照>>)に代表される『大岡政談』の数々ですが、そのページでも書かせていただいたように、それらは、ほぼ創作です。

そもそも『大岡政談』とは、1冊の本のタイトルではなく、大岡忠相を主人公として、その事件解決に至る名采配を楽しむ戯曲や読本、講談や歌舞伎の総称なわけで、最初っから「お客さん(読者)が見て楽しむ物」というスタンスのもの・・・

なので、決して「密着!警察24時」ではなく、あくまで「サスペンス劇場」なのですよ。

とは言え、すべてが創作なのではなく、実際に忠相が行った功績というのも、しっかりとあります。

町火消し「いろは組」(3月4日参照>>)の創設に代表される防火対策の強化小石川養生所の設置などの下層民対策青木昆陽(こんよう)(3月9日参照>>)書物御用達に任命して飢饉対策の作物としてのサツマイモの栽培を促進、株仲間を公認しての物価安定策などなど・・・

享保の改革(6月18日参照>>)を実施した吉宗のもと、忠相は庶民のための政策の数々を打ち出しています。

こうして町奉行として活躍した後は、寺社奉行を務めながら、晩年の寛延元年(1748年)には、三河国西大平(岡崎市)に1万石の領地を賜って正式に大名となり、初の「奉行から大名になった人物」となった忠相さん・・・

しかし、寛延四年(1751年)の6月に、かの吉宗が亡くなると、にわかに体調を崩しはじめ・・・

結局、寛延四年(1751年)11月2日、その病気を理由に寺社奉行を退職した忠相は、同じ年の12月19日、75歳の生涯を閉じたのです。

奇しくも、その吉宗の葬儀担当をした事が、彼が行った最後の仕事となりました。

そこにも、何やら不思議なエニシを感じる吉宗と忠相ですね。
 

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2011年11月 1日 (火)

信長の前に散る尾張上四郡守護代・織田信賢

 

永禄五年(1562年)11月1日、織田信長が織田家本宗の一つである岩倉城の織田信賢攻めて追放・・・尾張一国を統一を果たしました。

・・・・・・・・・・・・

注:日づけはもちろん、年号にも諸説ある信長の尾張統一ですが、とりあえず、本日書かせていただきます。

あの桶狭間(おけはざま)の戦い(5月19日参照>>)で、海道一の弓取りと言われた今川義元を倒した事で、一躍全国ネットに躍り出た感のある織田信長ですが、ご存じのように、その実は、未だ尾張(愛知県西部)一国を統一したかしないかの一武将でした。

そもそもは、父・信秀の死を受けて、清州三奉行・織田家の家督を継いだ天文二十年(1551年)、未だ18歳の信長を取り囲む尾張国内では、織田一族の中で誰が敵で誰が味方なのかも刻々と変化する混沌とした状況・・・

そんな中で信長は、天文二十一年(1552年)に、叔父の織田信光(11月26日参照>>)と協力して尾張下四郡の守護代織田信友の家臣だった坂井大膳(だいぜん)を破り、3年後の弘治元年(1555年)には、その信友を殺害して清州城を奪いました。(4月20日参照>>)

さらに、すでに名ばかりとなっていた守護斯波義銀(しばよしかね)も追放した信長・・・しかし敵は外にばかりいるとは限りません。

弘治三年(1557年)には、織田家の後継者を巡って、度々対立していた弟・信行の謀反の企てを知り、自ら殺害しました(11月2日参照>>)

そんなこんなの永禄元年(1558年)頃・・・尾張上四郡の守護代織田信安(のぶやす)一族内で問題が起こります。

この信安という人は、信長の従兄弟に当たるので、幼い頃は、二人とも仲良くしていたようですが、長じてからは所領問題でゴチャゴチャし始めたうえ、信長に通じたとして、信安が家老の一人を殺害したり、美濃(岐阜県)斉藤義龍(よしたつ)と手を組んだりした事で、ここのところは両者の関係が悪化していて、かの弟・信行の一件でも、信安は信行側についたりしてました。

そんな信安が、ここに来て、自らの嫡男・信賢(のぶかた)を嫌い、次男の信家(のぶいえ)後を継がせようとしたのです。

当然の事ながら反発する信賢は、逆に、父と信家を、居城の岩倉城から追放して実権を握ってしまいました

この内紛を好機と見た信長・・・やはり信長の従兄弟で、信安の後見人だった犬山城主の織田信清(1月17日参照>>)に自分の妹(もしくは姉)を嫁がせて仲間に引き入れて準備完了!

こうして、約2000を率いる信長と約3000を率いる信賢は、尾張浮野(うきの・一宮市)にて激突したのです。

最初はやや劣勢だった信長軍でしたが、途中で信清の援軍が到着・・・形勢は一気に逆転となり、壊滅状態となった信賢軍は脱落者の嵐となり、大将の信賢も、岩倉城へと逃げ帰りました。

浮野の戦いと呼ばれるこの合戦の後、岩倉城にて籠城を続けていた信賢でしたが、やがて信長に降伏・・・

かくして永禄五年(1562年)11月1日・・・
ここまで、尾張守護の斯波を追放し、下守護代の信友を殺害し、ここに上守護代の信賢が降伏したのですから、ようやく信長の尾張統一が完成したというわけです。

ちなみに、かの浮野の戦いが弘治三年(1557年)で、岩倉落城は永禄元年(1558年)または永禄二年(1559年)とする説もあります。

また、この岩倉城陥落によって死んだとされる信賢ですが、あの山内一豊(かずとよ)の父・盛豊が、この信賢に仕えていた関係からか、一説には、この後も生き長らえ、一豊が土佐(高知県)の領主となってから、土佐にて200石を賜って暮らしていたという話もあります。

Dscn8539a800 見寺・仁王門

ところで、この信賢に追放された父・信安と次男の信家ですが・・・追放された後、斉藤氏を頼って、さらに信長に敵対していた父子でしたが、その斉藤氏が信長に滅ぼされた(8月15日参照>>)ために京都に逃走・・・

その後、同族のよしみから罪を許され、父・信安は安土城郭内に建立された見寺(そうけんじ=摠見寺)住職に・・・

次男の信家は信長の家臣となって働き、なんと!あの前田利家が元服する時には、その烏帽子親(えぼしおや)(元服の歴史参照>>)になったのだとか・・・フムフム、利家の「家」は、信家の家なのね(*^m^)

「諸説あります」とか「一説には…」とかの記述が多い今回のお話ですが、さすがの信長さんも出世前の事に関しては、記録も曖昧・・・という事でお許しをo(_ _)oペコッ

ちなみに、この尾張統一の前後に、信長は初めての上洛を試みていますが、そのお話は昨年の11月1日のページでどうぞ>>
 

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