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2011年11月12日 (土)

長州に尽くします!国司信濃の政治責任

 

元治元年(1864年)11月12日、長州藩・家老の国司信濃が、藩命により切腹しました。

・・・・・・・・・

国司信濃(くにししなの)・・・本名を国司親相(くにしちかすけ)と言い、3年前の同じ日に書かせていただいた福原越後(ふくはらえちご)(2009年11月12日参照>>)とともに切腹を命じられた、長州藩の3人の家老のうちの一人です。

その越後さんのページでも書かせていただきましたが、彼らに切腹の命令が出た理由というのは・・・

それまで、幕末の動乱の中で尊王攘夷(そんのうじょうい・天皇を中心に外国を排除する)の中心となって政界の先頭を走っていた長州藩が、あの八月十八日の政変(8月18日参照>>)で中央から追い出されされたあげく、翌年の池田屋騒動(6月5日参照>>)で藩士を殺害された事から、中央での地位を挽回すべく、大軍を率いて京都の御所に押し寄せた蛤御門(禁門)の変(7月19日参照>>)・・・

この時の戦いで御所に銃弾を撃ち込んでしまった事から、朝敵(国家の敵)となってしまった長州藩には、時の天皇・孝明天皇から長州討伐の勅命(ちょくめい・天皇の命令)が発せられ、それを受けた幕府の大軍が派遣されます・・・これが、第1次長州征伐

このままでは、当然、幕府軍からの攻撃を受けて、長州藩の存続すら危うくなるわけですが、それを回避するための手段が、彼ら=越後と信濃と、もう一人・益田右衛門介兼施(うえもんのすけかねのぶ)という、蛤御門の変で中心人物となっていた3人の家老の首を差し出す事だったのです。

もちろん、中心人物だったとは言え、蛤御門は彼らの独断ではなく、藩の方針であり、藩主の命令も出ていたわけですが、ここは、藩の政策転換をアピールするためにも、彼らを切るしか、長州藩存続の方法が無かったわけです。

今回、その罪を一身に背負って散った家老のうち、越後と右衛門介は永代家老の身分でしたが、信濃は、それこそ実力で掴み取った家老職でした。

Kunisisinano500 もともと、室町幕府の高師直(こうのもろなお)の血筋で安芸国(広島県)に本拠を置いていた国司家は、長州藩では一門八家の次に位置する寄組(よりぐみ)の家系で、藩内ではかなりの身分ではありましたが、わずか21歳での家老昇進は、やはり、聡明で武芸に優れた彼の才能を見込まれての事でしょう。

文久三年(1863年)の赤間関(下関)奉行時代には、あの久坂玄瑞(くさかげんずいらとともに、関門海峡を通る外国船に攻撃を仕掛けた(5月10日参照>>)事もあるバリバリの尊王攘夷派であった信濃・・・

そんな彼が、藩のため、国のため、天皇のため、と思ってやった事で、逆に、死して詫びなければならない結果となったのは、さぞかし無念であった事だろうと思います。

しかし、先の越後同様・・・何一つ、その心情を語ろうとはせず、何一つ弁解する事無く、その命を受け入れ、見事に散っていったと言います。

しかも、信濃は、切腹後の介錯を断わり、開腹後に、自らの手で気管部に刀を当てて喉をかき斬るという凄まじい責任の取り方だったとか・・・

和歌の才能も確かだったと言われる彼の残した辞世の句・・・

♪よしやよし 世を去るとても 我が心
 御国のために なほ尽さばや  ♪
♪君がため つくせやつくせ おのがこの
 命一つを なきものにして  ♪

(天皇)のために、尽くしても尽くしても尽くしきれないこの命を、国のためになら投げ出そう!

そして、死んでもなお、彼の心は国のためを思っていた事でしょう。

元治元年(1864年)11月12日徳山澄泉寺にて、国司信濃・切腹・・・享年22歳の若者でした。

攘夷派佐幕派、どちらが善でどちらが悪なんて事はなく、ともに国の未来を思って戦っていた時代・・・彼のように将来有望な若者が、何人散っていった事でしょう。

近く本朝をうかがうに・・・
tppは平成の開国と言われ、未曽有の災害への対処と経済危機からの脱出が叫ばれる昨今・・・この21世紀の世の中では、なにも死ぬ必要はありませんが、彼らのような熱い思いだけは受け継ぎながら、平成の政治家さんたちには、新たな改革に臨んでいただきたいと願っております。

頼むから、
将来の年金は、まともにチョーダイねm(_ _)m←個人的要望
 .
 

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幕末・維新」カテゴリの記事

コメント

国司信濃さん、高師直の血筋ですか。それにしてもお若いですよね。今なら、リクルート・スーツ着て歩いてる新卒者の年齢です。

古くから中国の武士は律儀者と云われ、毛利家の家老クラスはとくに立派な人が多いですね。吉川経家、清水宗治など…治者の手本とも呼ぶべき…系譜に信濃さんも連なる人でありました。これは教育のなせる技なのか、はたまたDNAなのか?

こういう精神が横溢している国なら、逆に、茶々さまの年金のご懸念も不要と思われるのですが。

投稿: レッドバロン | 2011年11月13日 (日) 13時28分

レッドバロンさん、こんにちは~

日本の歴史を見る限り、国が危うくなった時には、必ず、それを救ってくれるヒーローが登場するもんなんですが…
今回ばかりは、
ヒーローは、まだ眠ってるんでしょうかね?

投稿: 茶々 | 2011年11月13日 (日) 16時52分

thinkうーむ、根底的な疑問!?

封建的電圧不足では ダイヤモンドは育たないという説が有力ですが…。
せめてヒーローを生んだ歴史を記録し、行動様式を踏襲する気分がないといけないのでしょうね。

ヨーロッパの高校生は 今でも キケロやカエサルをラテン語で読んでます。私達が学校で使ったフランス語のアンソロジーは、冒頭がアウステルリッツにおけるナポレオンの演説でした。今でもアチラは、批評家作る教育じゃないんですよね。

投稿: レッドバロン | 2011年11月13日 (日) 19時05分

レッドバロンさん、こんばんは~

>封建的電圧不足では ダイヤモンドは育たないという説が有力

そうなんですか~
別に統計をとったワケでもない、何となくの印象なんですが、蒙古襲来と言い明治維新と言い、いいタイミングで、いい人が出て来てくれるような気がしたのです。

投稿: 茶々 | 2011年11月14日 (月) 02時39分

( ̄▽ ̄)幕末の長州は、あまり地位の高くない人が多く活躍したイメージがありますが、そんなことなかったのですね。

国のため、主のために命を捨てるのはどんな気持ちだったのでしょうか。

地位が高くなっても、傲慢でなく自分の保身にばかり動かない人が今の日本にも増えてほしいです。

もちろん私もそんな人にならなくてはですが
( ̄▽ ̄)

投稿: ティッキー | 2011年11月18日 (金) 15時33分

ティッキーさん、こんばんは~

そうですね。
これからの日本…若い方に頑張っていただかねば!!

投稿: 茶々 | 2011年11月18日 (金) 23時55分

要するに、まだ今はそんなに危機ではないという事では?

アウステルリッツは芸術的な戦だったなあ。

このブログも世界史の軍事をやってほしいです。

正味、日本の戦は低レベルでつまらなく、役に立たないが、世界史の戦は人生にも応用出来ていいんですよ。

投稿: にゃっきー | 2012年1月26日 (木) 02時46分

にゃっきーさん、こんにちは~

私は世界史が好きではないので、この先も、ずっと日本史をカテゴリでやっていきたいと思っております。

低レベルでつまらないとはまったく思いません。

戦いは、皆、命がけ…命をかけてやっている事に芸術的もつまらないも無く、関わった先人の犠牲があればこそ、今という時代が形勢されていると思います。

投稿: 茶々 | 2012年1月26日 (木) 16時57分

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