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2011年11月 4日 (金)

天皇に対する信長の態度は強圧的ではない?

 

天正六年(1578年)11月4日、毛利輝元本願寺顕如に、織田信長と講和するよう、正親町天皇の勅命が下りました。

・・・・・・・・・

この講和の勅命(ちょくめい・天皇の命令)というのは、元亀元年(1570年)の9月から天正八年(1580年)の3月まで、約10年に渡って繰り広げられた織田信長石山本願寺の、いわゆる石山合戦に対しての講和の勅命という事です。

時期的には・・・
ともに上洛を果たしたものの、信長との関係がギクシャクしはじめた(1月23日参照>>)第15代将軍・足利義昭(よしあき)の呼びかけにより、越前(福井県)朝倉義景北近江浅井長政甲斐(山梨県)武田信玄、そこに本願寺第11代法主・顕如(けんにょ)率いる一向一揆が加わって、まさに信長包囲網とも言える「周囲が敵ばっかり」の状態になった中、

元亀元年(1570年)6月には姉川の戦い(6月28日参照>>)で浅井・朝倉を蹴散らし、翌元亀二年(1571年)9月にはその浅井・朝倉を支援した比叡山延暦寺を焼き討ちして(9月12日参照>>)後、天正元年(1573年)8月には浅井・朝倉に引導を渡して(8月27日参照>>)、さらに、翌天正二年(1574年)9月には本願寺顕如の呼びかけに応じて蜂起した長島一向一揆を破り(9月29日参照>>)、天正三年(1575年)5月には亡き信玄の後を継いだ武田勝頼との長篠の戦いに撃ち勝つ(5月21日参照>>)・・・

という、まさに、信長が敵を一つ一つ潰して行っていた中・・・いよいよ、本願寺の一大拠点=大坂・石山本願寺との直接対決が激化した天正四年(1576年)5月の天王寺合戦(5月3日参照>>)で本願寺を包囲したものの、続く、同年7月の第一次木津川口海戦(7月13日参照>>)では、石山本願寺を支援する毛利村上水軍に翻弄され、まんまと本願寺に兵糧を運びこまれてしまっていました。

この頃には、越後(新潟県)上杉謙信が本願寺と和睦して信長包囲網に参戦し、天正四年10月から天正五年(1577年)9月にかけて行われた、あの七尾城攻防戦(9月13日参照>>)にも気を配らねばならなくなった信長・・・

そして、いよいよ、今回の天正六年(1578年)・・・
信長にとってはラッキーな事(謙信ファンの方ゴメンナサイ)に、この年の3月に越後の大物・謙信が亡くなった(3月13日参照>>)事で、上杉では対・信長どころではない後継者争いが勃発(3月17日参照>>)して北陸方面は何とかなりますが、一方の石山本願寺では、7月に顕如が雑賀衆に鉄砲隊の要請したり(7月8日参照>>)してヤル気満々だし、10月には信長の配下だった有岡城の荒木村重が反旗をひるがえす(5月4日参照>>)・・・

・・・で、ここに来て、天正六年(1578年)11月4日正親町天皇の講和の勅命が、毛利輝元と本願寺顕如に下る・・・

つまり、この講和の勅命は、信長が正親町天皇に頼んだものなわけで・・・

ここで、勅使(ちょくし・天皇の使い)から和睦勧告を受けた石山本願寺ですが、協議の末、すぐには返答せず、逆に「毛利はんにも直接、勅使を派遣しておくなはれ」と要求返し・・・で、結局、毛利への勅使は派遣されないまま、わずか2日後の11月6日第二次木津川口海戦(11月6日参照>>)が勃発するのです。

ご存じのように、この第二次木津川口海戦では、あの鉄甲船(9月30日参照>>)が登場します。

2年前の第一次木津川口海戦で、村上水軍のゲリラ的戦法に悩まされた信長が、その対策として作成した大きな大きな鉄の船・・・上記の通り、9月30日に完成しているのですから、本来なら信長だって更なる合戦をヤル気満々だったわけですが、そんな中で出された講和の勅命は、明らかに「未だ準備万端整ってませんよ」てな、偽りのポーズだった事になります。

なのに、その状況で勅命を下すという事は、正親町天皇が信長寄りだったという事なのでしょうか?

実は、そこに、正親町天皇と信長、そして朝廷のなんやかやが微妙に絡んでくるのです。

以前、正親町天皇の践祚(せんそ・皇位を受け継ぐ事)のページ(10月27日参照>>)にも書かせていただきましたが・・・

もはや有名無実となった室町幕府では地方からの税もままならず、この頃の天皇家は、亡くなった先の天皇の葬式さえ行えないような困窮状態だった中、何とか西国の雄・利の支援によって即位の礼を行えた正親町天皇は、その後、足利義昭を奉じて上洛して来た信長に、皇室御用地や公家の領地回復、紫宸殿や清涼殿の修理、借金返済に困った公家のための徳政令を発布・・・などなど、様々な援助をしてもらいます。

一方の信長も、天正二年(1774年)3月には、例の正倉院の宝物=蘭奢待(らんじゃたい)を削らせてもらったり(3月28日参照>>)天正三年(1575年)11月4日には従三位権大納言の叙任を受けたり・・・そして、ここに来て、何やら信長寄りの勅命だし、天正九年(1581年)には御馬揃(おうまぞろえ)なる軍事パレード(2月28日参照>>)も行って、果ては、正親町天皇に譲位(じょうい・天皇の座を退く)を要求したりなんぞして・・・

なので、上記の蘭奢待削り取りや御馬揃や譲位の要求などを含めて、これらは、武力で以って大きな権力を握った信長の、天皇家や朝廷に対する高圧的な態度として、多くのドラマや小説などに描かれて来ましたが、私個人的には、その蘭奢待や御馬揃のページでも書かせていただいたように、そうでは無いと考えます。

実はこの頃、天皇と公家が一枚岩では無かったのです。

たとえば、上記の蘭奢待削り取り事件・・・この時、正親町天皇は、少々ご立腹なのですが、それは、「蘭奢待を削り取らせて」と言って来た信長に対してではなく、それを勝手に「OK」した関白に対しての怒りなのです。

「氏神の春日大社や氏寺の興福寺やったらともかく、藤原氏の氏長者が、あたかも命令のように天皇家の倉を開かせようとすんのは、ちとオカシイんちゃうん?
こんな重要な事は、独断で決めんと、諸臣と会議を開いて決めなアカンはず・・・
今、せっかく
(信長の進言で)公家一丸となって政務を頑張ろうって言うてる時に、そんな事してくれたら、先が思いやられるわ!」(東山御文庫所蔵史料)
と・・・

一方、同時に、公家は公家で、天皇の悪口を書き残しています。

実は、この蘭奢待削り取り事件のあった天正二年という年は、日照り続きで大干ばつに見舞われた年で、各地の寺社の記録にも、何度にも渡って雨乞いの儀式が行われた事が記録されているのですが、それだけでなく、

3月には「夜な夜な内裏(だいり・天皇の住まい)で怪光が発生し、5~6歳の奇妙な男児が清涼殿の屋根に飛び移るのを見た」とか・・・
11月には、「白犬が内裏殿上に上がり込んで走り回った」とか・・・

現代の私たちから見れば「なんじゃそら!犬も走りたい時あるっちゅーねん」てな感じですが、当時は、これらを「禁中怪異」と言って、良くない事の前触れとして恐れられていた事なのです。

現に、陰陽師頭の土御門久脩(つちみがどひさなが)を呼んで占ってみたところ、最悪の結果が出て、天皇の物忌(ものいみ=ケガレを祓うため、家にこもるなどして身を慎む事)が求められるとともに、諸社への祈祷が命じられています。

そんな中で大納言三条実澄(さんじょうさねずみ)の書いた書状・・・、
「こんだけ禁中怪異が発生してんのに、天皇が油断して態度を慎めへんてどういうこっちゃ!
こんな時だけ神さんに祈ってもムダムダ!
上に立つ人間の考え違いが天下万民に災いをもたらすんやからやってられへん。
天皇が、自分の住んでる空間だけ無事やったら、それでええと思ってるようじゃアカンわ
(醍醐寺文書)
と、痛烈天皇批判です。

なんせ、江戸時代であっても、天変地異や大災害は政治の頂点にいる人の責任って事で、それをきっかけに改元されたりしてましたから、さらに少し前の戦国ならなお更・・・

おそらく、そんな事を思っていたのは三条実澄だけでないでしょうし、一方では、かの正倉院の宝物を関白一人で決めてしまうという事態・・・

つまり、この頃の朝廷には、天皇・廷臣の堕落に対する強い危機意識があった・・・

信長が、正親町天皇に、多大なる支援をする一方で譲位を迫るのは、まさに、この頃なのです。

これに対して正親町天皇は
「後土御門院以来、この御望みにて候つれども、事行き候わで、御沙汰には及ばず候・・・」
と、後土御門(ごつちみかど)天皇以来、譲位をせずに天寿を全うした天皇が続いている事を例に出して、おそらくは、「自分も天寿を全うするまで譲位する気は無い」てな事なのでしょうが、そもそも後土御門天皇は、正親町天皇の曽祖父で、後土御門→後柏原→後奈良(正親町天皇の父)と、乱世に生きた天皇たちは、譲位しようにも、その儀式やら何やらの費用が捻出できない状態だったからしなかったわけで、

古くは平安の昔から、天皇が健在中に譲位して上皇となって院政を行ってたりしていた事も多々あり、ここ何人かの天皇の天寿全うのほうが異例だったわけです。

結局、なんやかんやで。この正親町天皇は、信長亡き後に天下を取った豊臣秀吉が関白となってから、ようやく、孫の後陽成(ごようぜい)天皇皇位を譲るわけですが・・・

こうして見ると、信長の天皇家に対する強圧的な態度とされる様々な事が、実は、そうでは無かったように思うわけです。
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コメント

織田信長は「朝廷のスポンサー」的な役目もしていたんですね。実は父親の代からやっていた事なので、半分当たり前と言う意識があったかもしれないですね。
ザビエルが朝廷に布教活動を申請しようとしたところ、荒れた京都の様子を見て断念した(公家に申請許可の権限がないとも)と言う逸話もあります。
先日の「尾張統一」ですが、1559年説もあります。この説を取ると桶狭間の戦いは「尾張統一後の飛躍への第一関門」とも言えますね。

投稿: えびすこ | 2011年11月 5日 (土) 15時44分

えびすこさん、こんばんは~

>ザビエルが…

そうですね。
なので、後を引き継いだフロイスが、信長が牛耳ってから京都にやってきます。
やはり、それまでは、不況の許可を誰から貰って良いかもわからない状態だったんでしょうね。

投稿: 茶々 | 2011年11月 5日 (土) 22時26分

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