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2011年11月16日 (水)

小牧長久手・決着…信雄の単独講和に退く家康

 

天正十二年(1584年)11月16日、徳川家康が、織田信雄の羽柴秀吉との無断和睦に失望し、陣を撤収して浜松へと向かいました。

・・・・・・・・

織田信長嫡男信忠本能寺の変(6月2日参照>>)に倒れた後、あの中国大返し(6月6日参照>>)の俊足で畿内へ戻って、謀反を起こした明智光秀を仕留め(6月13日参照>>)、織田家内での発言権を高めた羽柴(後の豊臣)秀吉は、続く清州会議(6月27日参照>>)において、嫡孫三法師を後継者に推し、その後見人となって実権を握ろうとしました。

それに反発した信長の三男神戸(かんべ・織田)信孝を推す柴田勝家賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いで破った(4月21日参照>>)秀吉は、信長の次男織田信雄(のぶお・のぶかつ)を味方に取り込んで、その信孝も葬り去ります(5月2日参照>>)

その後、信長の後継者を自負して織田家当主のように振る舞っていた信雄でしたが、秀吉は、そんな信雄と距離を置き、大坂に天下一の城を築いて、信雄へ出仕を求めた事から、彼は反発・・・(3月6日参照>>)本拠の伊勢へと戻り、軍事的に秀吉と対抗できる実力者であった徳川家康と組んで、秀吉に相対した・・・これが、天正十二年(1584年)に起こった小牧長久手(こまきながくて)の戦いという一連の戦いです。

Odanobukatu600 織田家という冠を持つ信雄が、家康という軍事力を手に、次の天下を狙う秀吉と交戦・・・

これは・・・
北陸で起こった末森城の戦い(8月28日参照>>)に代表されるように、全国で、この小牧長久手に連動する小競り合いが頻繁に起こり、地方の武将がどちらに味方するのか?の選択を迫られる状況となった事を見ても、この小牧長久手の戦いは、天下分け目の戦いでもあったわけです。

しかし、上記の4月9日の長久手の戦いで、手痛い敗北を喰らってしまった秀吉・・・その敗戦の知らせが京に届いた4月13日には、「信雄・家康連合軍が上洛する」との噂がたち、いかにも慌ただしい雰囲気だったとか・・・

現地では、5月1日に秀吉が本陣を引き払い、それを見た信雄も5月3日には小牧山の陣を退き、伊勢に戻っています。

ただ、秀吉は、主力部隊を本陣のあった楽田に残したままにして家康方を釘づけにしていおいて、自らは大坂への帰り道に、美濃(岐阜県)にあった信雄傘下の支城である加賀井城(かがのいじょう)竹ヶ鼻城(たけがはなじょう・ともに岐阜県羽島市)奥城(おくじょう・愛知県一宮市)を落として、信雄に脅威を植え付けています。

また、6月15日には、滝川一益(かずます)九鬼嘉隆(くきよしたか)蟹江城(かにえじょう・愛知県海部郡)を攻めさせて(6月15日参照>>)一時占領・・・まぁ、これは、家康によって、すぐに奪回されるのですが・・・

そんなこんなしながら、秀吉が大坂に戻ったには6月28日・・・しかし、休んだのもほんのつかの間、8月16日には、秀吉は再び出陣します。

支城を落として植え付けた脅威が消える前に、たたみかけようというのですが、実は、この頃には、すでに秀吉は、水面下で信雄との講和の交渉を進めていたらしく、9月2日には、一旦、講和が成立するかに見えましたが、結局、決裂・・・

そこで、蒲生氏郷(がもうじさと)に命じて、信雄配下の木造(こづくり)が守る戸木城(へきじょう・三重県津市)を攻撃させます。

何とか抵抗を試みる木造氏でしたが、ついに9月15日に落城・・・おそらく、このあたりで、信雄は心理的にかなり追い詰められた事でしょう。

11月に入って、講和の交渉がグングンと進展して行き、11日にはほぼ決定・・・天正十二年(1584年)11月15日に、桑名付近で行われた信雄と秀吉の会見にて、信雄から秀吉に人質を差し出すとともに尾張(愛知県西部)犬山城河田城(こうだじょう・ともに一宮市)を差し出す事、その代わり、秀吉は北伊勢の4郡を信雄に返還する事を条件に、正式に、講和が成立したのです。

ところで、信雄の呼びかけに応じて戦った家康は???

実は、この講和成立の段階で、まだ、家康は小牧山に陣を敷いていたのです。

つまり、信雄は、家康の知らないところで、勝手に秀吉と講和を結んじゃったって事・・・

これには・・・
家康に相談すると反対する事がわかっていたので、信雄は単独で講和の話を進めたのか?
それとも、反対されたから、単独で講和したのか?
微妙なところですが、「家康自身は講和に反対だった」事は、おそらく間違いないでしょう。

たたし、たとえ信雄が家康にまったく相談しないで講和の話を進めていたとしても、あの家康の事ですから、そんな話し合いが進められている事には気づいていたでしょう。

それでも、正式に信雄の撤収命令が出ていないので、陣をそのままにしおておくしかなかったのでしょうね。

・・・で、講和成立の翌日・・・天正十二年(1584年)11月16日、正式な講和成立を受けて、秀吉と戦う大義名分を失った家康は、陣を撤収・・・浜松へと帰ったのです。

秀吉と家康の間では、家康の次男・於義丸(おぎまる・後の結城秀康)を、秀吉への人質に差しだす事で講和が結ばれ、ここに、小牧長久手の戦いが終結しました(11月21日参照>>)

長久手でも勝った、蟹江城も取り戻した・・・そんな家康にとって、「息子を人質に出して講和」という、なんだか負けたみたいな和睦成立は、「信雄のボケ!何やっとんじゃ!」とでも言いたかった?かも知れませんね~~

もちろん、冒頭に書いた通り、この小牧長久手は、地方の武将も巻き込んだ天下分け目の戦いでしたから、家康以外にも、信雄の単独講和被害に遭った人が・・・

そう、北陸で戦ってた佐々成政(さっさなりまさ)・・・単独講和に驚いた彼は、このすぐ後、真冬の北アルプス・決死の立山越さらさら越えを決行するのですが、そのお話は2007年の11月11日でどうぞ>>
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戦国・桃山~秀吉の時代」カテゴリの記事

コメント

今年の大河ドラマではこの戦いの後、どこかへ行ってしまった感じのする織田信雄ですが、かなり紆余曲折の人生を送ったんですね。彼が本当の意味で「織田家の代表」になるのは関ヶ原の戦いの後ですね。

投稿: えびすこ | 2011年11月16日 (水) 22時15分

えびすこさん、こんばんは~

信雄さん、どこかオモシロイ人です。
今年の大河には、もう、出ないんだろうなぁ

投稿: 茶々 | 2011年11月17日 (木) 02時45分

いつも楽しく拝見させて頂いています。
家康からしてみれば信雄の単独講和は確かに当時は「はぁ?」なんでしょうが結果的には家康にとって美味しい形での幕引きになって
いるような気がします。
秀吉に高く自分を売り込む戦いとなったのではないでしょうか。
そういうのはさすがに天下人になる運命の人なのかなあ~とも思います。

投稿: おりえ | 2011年11月18日 (金) 02時04分

おりえさん、こんばんは~

そうですね。
この後の事を考えると、家康にとっては力を蓄える良い期間が得られたとも言えますね。

だからこそ「鳴くまで待とう」って表現されるのかも…ですね。

投稿: 茶々 | 2011年11月18日 (金) 02時35分

お久しぶりです。ずっと拝見させて頂いてたのですが、仕事が忙しく、なかなかコメント出来ず・・・。さて、戦国武将大好きな私ですが、信雄さんは、好きになれません。何だか弱腰感満載で・・・。ですが、もしかして、彼の内心が「織田の時代は終わった」と感じていたとして、前田家2代目と同じ阿呆を演じていたとしたら?って考えてみたりもします・・・が、やっぱり、戦で華々しくって思ってしまうのは、私の中での彼の父親のイメージが格好良すぎるからですかね。
アンケート企画も毎回楽しみです。他の歴史好きな方の意見を聞くのは、すごく興味があります。いつか「大河ドラマ化して欲しい武将は?」ってものをやって欲しいと思います。
それでは、まだまだ「歴史好き」の私達のために、頑張って下さい。

投稿: 佐賀の田舎モン | 2011年11月18日 (金) 17時58分

佐賀の田舎モンさん、こんばんは~

お久しぶりです。
やはり、偉大すぎる父親持った2代めというのは、ご本人の意図しない苦労も多いでしょうね。

あの乱世に生き残るのも、一つの才能かも知れません。

投稿: 茶々 | 2011年11月19日 (土) 00時10分

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