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2011年11月11日 (金)

反乱?内戦?対外戦争?謎多き磐井の乱

 

継体天皇二十二年(528年)11月11日、麁鹿火率いる朝廷軍が、筑紫三井郡にて磐井軍と交戦して勝利・・・磐井の乱が終結しました。

・・・・・・・・・・

古代最大の内乱と言われる磐井(いわい)の乱・・・

日本書紀によれば・・・
『天皇(すめらみこと)大伴連金村(おおとものむらじかねむら)物部大連麁鹿火(もののべのおおむらじあらかひ)許勢大臣男人(こえのおおおみおひと)(ら)に詔(みことのり)して曰(い)はく、「筑紫(つくし)磐井(いわい)(そむ)きて、西戒(せいじゅう)の地を掩有(おそひたも)てり。今 誰(たれ)か将たるべきぞ」とのたまふ』

つまり、「筑紫の磐井が反乱を起こして西方の異民族の土地を占領したので、その征伐に誰を派遣したら良いか?」と、重臣たちに継体(けいたい)天皇が聞いた・・・と、

これに対して、皆が
「そら、麁鹿火がよろしおまっせ!」
と言ったので、天皇は「よっしゃぁ」麁鹿火を派遣する・・・

古事記でも、
『…此の御世に竺紫(つくし)石井(いわい)、天皇の命(みこと)に従わずして、多くの禮(いや=礼)なかりき。故、物部荒甲(あらかい)の大連、大伴金村の連二人を遣(つか)はして、石井を殺したまひき』
と、ほぼ、同じような内容・・・
「筑紫(福岡県西南部)の磐井(石井)が天皇に反発したので討った」というように記されています。

そもそもの起こりは・・・

この頃の朝廷は、朝鮮半島百済(くだら)任那(みまな)と友好関係にあり、その二つの国と敵対していた新羅(しらぎ)とは、やはり対立していたのですが、そんな中で任那が新羅に領有されてしまうという出来事が起こります。

それを復興させようと、継体天皇二十一年(527年)の6月・・・天皇は、近江毛野臣(おうみのけぬのおみ)6万の兵をつけて朝鮮半島に出兵させました。

そこで新羅は、かねてより、朝廷への反発心を持っていた筑紫国造(くにのみやつこ=地方官)筑紫君磐井(つくしのきみいわい)に近づき、モーレツな賄賂攻撃・・・これによって新羅と結んだ磐井が、大軍を動員して、毛野の軍隊の朝鮮半島行きを阻止したのです。

で以って、先に書かせていただいた記紀の記述のように、新たな麁鹿火らの軍を九州に派遣して、その鎮圧に当たった・・・と、

かくして継体天皇二十二年(528年)11月11日筑紫三井郡(現福岡県小郡市・三井郡付近)にて衝突した両者は、激しい戦闘の末、朝廷側の麁鹿火らが勝利・・・磐井は山中に逃げ込んだ後に死んだとされ、その息子・筑紫君葛子(つくしのきみくずこ)は、糟屋屯倉(かすやのみやけ=福岡県東部)朝廷に献上して命乞いをし、何とか殺されずにすんで、めでたしめでたし・・・

以上が記紀に記されている『筑紫国造磐井の反乱』で、あの壬申の乱に並ぶ・・・いや、ひょっとしたらそれ以上の古代史最大の内乱であると言われています。

とは言え・・・この磐井のの乱、様々な議論が飛び交っております。

そもそも、この磐井という人は国造=地方官だったのか?

大和朝廷のもとで国造という役職についていたのなら、確かに中央への反乱です。

しかし、先の毛野の渡海を阻止した時、磐井は、筑紫はもちろんの事、(ひ)(とよ)二つの国の勢力を集めて挙兵したとされています。

火の国とは、後の肥前(佐賀県&長崎県)肥後(熊本県)を合わせた国の事で、豊の国というのは豊前(福岡県東部)豊後(大分県の大部分)・・・おやおや、鹿児島と宮崎以外の九州の大部分じゃありませんか!

しかも、かの日本書紀では、磐井の鎮圧に向かう麁鹿火に対して
『…天皇自ら斧釿(まさかり)を操(と)りて、大連に授けて曰く、「長門より東をば朕(ちん)(と)らむ、筑紫より西をば汝(なんじ)制れ」と…』
と言ったとか・・・

つまり、この時点で、九州の大部分どころか、長門(山口県)より、さらに東にも磐井の勢力が及んでいたという事なのでは?

一地方官が、これだけの勢力範囲を持っていた事は、とても考え難い・・・と言うより、もう、この時点で、中央への反乱ではなく、国VS国の戦いっぽいです。

鎮圧に1年半もかかってますし・・・

そこで登場するのが九州王朝説・・・

もはや神話の世界であるヤマトタケル(日本武尊・倭建命)女装で一突き・・・
あるいは、架空の人物説もある第14代仲哀(ちゅうあい)天皇が、征伐に訪れるも、その矢に当たって亡くなったとか・・・
これまで何度か記紀に登場する熊襲(くまそ・熊曾・球磨囎唹)と呼ばれた人々・・・

6世紀になっても独自の国家を形成していた九州王朝は脈々と受け継がれ、その末裔が磐井君・・・彼こそが九州の王ではなかったのか?という事です。

Iwatoyamakofunsekizin500 ←岩戸山古墳から出土したとされる「石人」(正福寺蔵)
中国や朝鮮半島様式の「蒙古鉢型冑」をかぶっています

 

 

 

しかも、おもしろい事に、磐井の墓とされる岩戸山古墳は、畿内に多い前方後円墳なれど、「別区」と呼ばれる方型区画が東北部分に存在し、畿内の前方後円墳とは明らかに違う形をしているのだとか・・・

やはり、別の国だった九州の王が、ここに来て、新羅と結託して大和朝廷を潰しにかかった、という事なのでしょうか?

また、シュチュエーションは、ほぼ同じでも、少し違った見方もあります。

それは、継体天皇こそが反乱軍であったとする説・・・

継体天皇の皇位継承については、いずれまた、くわしく書かせていただくつもりですが、この継体天皇の先の天皇が第25代武烈(ぶれつ)天皇・・・

この武烈天皇に、子供も後継者もいなかった事から、「このままでは天皇家の血統が絶えてしまう」とばかりに、その血筋を5代前にまでさかのぼって、福井だか滋賀だかで、やっとこさ見つけた応神天皇の血筋(仁徳天皇の弟)の皇子がこの継体天皇、「どうぞ、天皇になってください」と、はじめは渋っていた天皇を、朝廷へお迎えしたという事になってますが、

以前の武烈天皇のページ(12月8日参照>>)にチョコッと書かせていただきましたが、そうやってお迎えしたワリには、継体天皇は20年間も大和に入れなかった・・・これは、非常にオカシイです。

つまり、継体天皇こそが新参者の地方豪族で、大和を制圧した後、西へと勢力を広げようとしたのが、この磐井の乱だったのでは?という事です。

さらに、別の説(古田武彦氏説)では、この磐井の乱自体が無かったという説もあります。

その根拠は、この乱で、筑紫が朝廷の支配下に入ったのであれば、当然の事ながら、その文化は畿内の文化に侵されてしまうわけですが、発掘品などから、そのような変化は、まったく見られないとの事・・・

その説では、この乱自体がもっと後の時代に起こった外国(隋か唐?)勢力との戦いだったにも関わらず、(記紀を編さんする)寸前まで、このような不安定な政権だった事を隠したいがため、何百年も前の出来事のように改ざんしたのでは?という事のようです。

はてさて、この謎が解明される時が来るのかどうか・・・
いや、あくまで歴史を楽しんでいる身としては、解明されないほうがワクワクし続けられるので(*≧m≦*)
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神代・古墳時代」カテゴリの記事

コメント

たしかに、色々な可能性を妄想するとワクワクします。

ところで、仲哀天皇ってヤマトタケルの子供なんですね。
コドモイタノカΣ(゚д゚;)
親子二代で征伐って...統一出来てないな絶対。

>このような不安定な政権だった事を隠したいがため、~
こういった改ざん説を聞くといつも思うのですが、
なぜ無かった事にしないのでしょうね?

投稿: ことかね | 2011年11月12日 (土) 16時11分

ことかねさん、こんばんは~

他の場合は、また調べてみないとわかりませんが、この磐井の乱の場合の古田武彦氏の説では、記紀編さん当時に、九州には一生ものの負傷を負いながらも生き残っていた人が多数いたために、ここで何かしらの戦いがあった事を隠し切れなかったはずで、それらの人たちを「何百年か前に反乱を起こした祟りでそうなった」てな事にしたのでは?という風な見解だったと思います。

古田氏の説を推奨というわけではありませんが、私も、磐井の乱に限らず、記紀に残されている反乱の話は、やはり、それを隠し切れない結果、良いようにわん曲して(主に昔の事として)書いてるんだと思います。

もし、何もないなら、わざわざ天皇家に反乱を起こす者の話を歴史書に書く必要はありませんから、出雲やら吉備やらも、きっと寸前まで反対勢力やら何やらがあったからなのではないか?と思います。

投稿: 茶々 | 2011年11月12日 (土) 18時32分

>6世紀になっても独自の国家を形成していた九州王朝は脈々と受け継がれ、その末裔が磐井君・・・彼こそが九州の王ではなかったのか?という事です。
これ、これがいいです。歴史の教科書に最初に載ってた「わいろを受け取って罰せられた人」って認識でしたが、この説だとなんて壮大でドラマチックなんでしょう。やっぱり私、大陸に近い所に大きな王国があったと思うんです。まつろわぬ神々とされ北へ追われた蝦夷(でしたか?)との関係はどうなのかな・・関係ないのかな、クマソと蝦夷

投稿: Hiromin | 2011年11月13日 (日) 12時47分

Hirominさん、こんにちは~

ホントに…なにやら壮大なドラマを感じますね~

神話の中で、どこが本当でどこがウソなのか?
考え出すとワクワクします。

投稿: 茶々 | 2011年11月13日 (日) 16時49分

>戦いがあった事を隠し切れなかったはずで
ココが疑問点なんですよね。
誰に隠したかったのでしょう?
私は、識字率が低かったであろう当時の庶民ではなく、後世ではなかったかと思うのです。
するとさらに年月が経過してしまうので、隠し切れないこともないかなと。

古田武彦氏は、磐井の乱は無かったと意見を変えているようなので、ご自分でも矛盾を感じていたのかなと思いました。

投稿: ことかね | 2011年11月15日 (火) 10時35分

ことかねさん、こんばんは~

>誰に隠したかったのでしょう?

そうですね~
色々考えていると、頭がコンガラがって来ますね~

日本書紀は漢文で書かれているので、どちらかと言えば海外向け?
古事記は万葉仮名なので、国内向け?
って感じもしないでもありませんが、そんなに単純には行かないかも知れません。

ただ、「正統性を訴える」という事は、その正統性が揺るぐような反対勢力もあったわけで、それらを押さえつけるためだったのかも?

投稿: 茶々 | 2011年11月16日 (水) 02時13分

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