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2011年11月 5日 (土)

大坂の陣直前!平野焼き討ちと「みしかよの物かたり」

 

慶長十九年(1614年)11月5日、大坂方の薄田隼人らが、徳川方に味方した平野郷を焼き討ちし、末吉吉康一族を捕えました。

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3年前、それを見学させていただいた際に、ブログにも書かせていただいた大阪城天守閣所蔵の大坂夏の陣屏風・・・(4月24日参照>>)

Oosakanatunozinzu1000hirano 武士に襲われる人々「大坂夏の陣図屏風」部分(大阪城天守閣蔵)

以前、NHK「その時歴史が動いた」という番組で、この屏風が「日本のゲルニカ」と称して紹介された事が評判を呼んだので、もう、皆様すでにご承知の事とは思いますが、この大坂の陣は、市街戦となった事で多くの一般市民が巻き込まれた悲惨な戦いになりました。

ただ、これも・・・
以前の【魔王の殺戮か?天下人の完全主義か?価値観の相違】というページ(9月12日参照>>)でお話させていただいたように、この一般市民というくくりも、現代の私たちが想像するくくりとは違う戦国独特のくくりであって、一般市民の全員が、まったく戦闘に無関係の一般市民かと言えば、決してそうではないわけで、それぞれの村や集落単位で、大坂方につくか、徳川方につくかを話し合い、密かに、それぞれの武将のために働いた一般市民も多くいたわけです。

そんな中で、今回の平野郷・・・

ここは、現在の大阪市の、その名も平野区のあたりなわけですが、平安時代に、あの蝦夷征伐で有名な坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)の次男である廣野麿(ひろのまろ)この地を賜って開発に着手、その息子が建立した杭全(くまた)神社を中心に発展し、やがて融通念佛宗の総本山・大念佛寺もでき、戦国時代には、壕と土塁で地域を囲んだ環濠集落(7月4日参照>>)となり、町人たちの協議による掟によって自治・自衛が成された自由都市となっていました。

坂上氏の子孫からなる「七名家」が中心となって、積極的に行われた商業活動によって、戦国時代の平野郷は、あの堺と肩を並べる一大商業都市に発展していたのです。

そんな七名家の筆頭である末吉家は、特に、織田信長豊臣秀吉から保護され、密接な関係を築いていましたし、七名家の一つの成安家の出身である成安道頓(なりやすどうとん・一説には安井道頓)が中心となって、あの道頓堀を開墾した話をご存じの方も多いでしょう。

しかし、この大坂の陣の時、末吉家の支流西末吉家の当主・末吉吉康(すえよしよしやす)は、徳川軍の道案内をした・・・そう、彼らは徳川家康についたのです。

その事が明るみに出た慶長十九年(1614年)11月5日、大阪方の薄田隼人(すすきだはやと・兼相)らの豊臣勢が平野郷を焼き討ちし、当主の吉康以下、一族をことごとく捕え、人質として大坂城に連行したのです。

幸いな事に、この時、未だ大坂城にいて、織田の血筋の者として重きをなしていた織田有楽斎(うらくさい=信長の弟・長益)(12月13日参照>>)のはからいで、2~3日の拘留だけで済み、全員無事に釈放されています。

・・・で、その時、吉康とともに拘束されたのが、末吉家の嫡流に当たる東末吉家の2代め当主・末吉増重(ますしげ)・・・

この増重は、吉康とともに一貫して徳川方に味方をする行動をとっていた人ですが、どうやら、この大坂の陣の後に、お互いの意見の食い違いがあったようで・・・

吉康は、そのまま平野郷の復興に尽力し、その子孫も江戸時代を通じて繁栄を極め、かの七名家とともに日本で最初となる私学校「含翠堂」を創設したりなんぞして、その後も明治維新を迎えてもなお、平野の繊維業の発展に努めるわけですが・・・

こちらの増重は、平野を出て、一時、大和(奈良県)吉野引き籠りの生活を送るという別の道を歩みます。

その代わり・・・と言っては何ですが、その吉野での引き籠り時代に、一般庶民からの目線から見た、かの大坂の陣についての記録を残してくれています。

それが、あの「その時歴史が動いた」の番組の中で、冒頭のナレーションとして語られていた『みしかよの物かたり』です。

Misikayono 「みしかよの物かたり」部分

「ときに、きゃうちゃう(慶長)十九廿(はたち)ふたとせ(二年)の世のみたれ(乱れ)、いくさのおこりはいさし(知)らす、江(江戸)とするか(駿河)の両 御所さま、御馬をいたさせ給ひしにより、日の本の弓とりたち残らず、夜ひるのたゝちもなく、いそ(急)きミやこ(都)へと上りける」
で始まる、この物語・・・へたくそですが要約します(゚ー゚;。

ほんで、山城・大和・河内・和泉のあたりには、ところ狭しと軍勢が満ちあふれたかと思うと、ほどなく、大坂城へと押し寄せて、豊臣秀頼らが父子ともども自刃すると、お城の中の、日頃は(すだれ)の内にいて、そのお顔すら見る事のない美しいお局(つぼね)様から、お女中たちや下働きの者まで、炎と煙の中にむせびながら亡くなっていきはりました。

壕の内外では、侍や与力などが残らず殺され、もはや、その数も数えきれません。

惣構(そうがまえ)にあった屋形御殿やいくつかの街並みはもちろんやけど、難波津三津の津住吉天王寺平野まで、百年以上の歴史のある家々も、そこに伝えられていた大事な宝物も、堂塔や寺も、ことごとく焼き払われてしもて、金持ちも雇われ者も貧乏な者も、皆、とるもんもとりあえず、ぬかるみに着物の裾をよごしながら、荒れまくってる田んぼのあぜ道を必死で逃げたがな。

皆、涙流しながら、もはや裸足になってヨロヨロと、行き先もわからん落人のようにさ迷うてると、敵か味方かもわからん情け無用の武士たちに遭遇して、持ってる物は取られて・・・
「おとこ、をんなのへたて(隔て)なく、老いたるものも、みとり(緑)子も、まのあたりにて、さしころし、あるいは、親をうしなひ(失い)、子をとられ、めをと(夫婦)の中もをのつから(自ら)はなれ〱(離れ離れ)になりゆく事のあはれ(哀れ)さ、」

これまでも、昔の合戦の哀れさを伝え聞いてたけど、世も末やと思うような光景を目の当たりにして、愚かやなと思うしかないわ。

♪つら(連)なりし えた(枝)のは(葉)
 その木末まで ちり
(散り)〱になる ゆくゑかな(悲)しも
 千年ふ
(経)る平野の松のえた(枝)朽て
 薪となるそ かな
(悲)しかりける
 ゆ
(行)き帰り 古す(巣)尋てつはくらめ(燕)
 昔の春や 恋しかるらん  ♪

*上記の「」部分♪~♪部分は、原文の釈のままにさせていただきました。

徳川に味方したとは言え、武将でもなく僧侶でもない一般人の末吉増重が見た大坂の陣・・・

もし、戦国の歴史ドラマ内で、合戦の空しさを伝えるとしら、主人公が何度も「戦はいやじゃ」と叫ぶよりも、この光景を、できうる限りの映像で再現されたほうが、よほど見ている側に伝わると思うのですが、日曜の家族団欒の時間帯という、一視聴者にはわからない誓約もあるのでしょうね。

もちろん、この悲惨な戦いがあればこそ、その後の平和が造られた事も忘れてはなりませんが・・・
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