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2011年12月30日 (金)

2011年歴史は動いた~歴史の新発見・総まとめ

 

今年も、残すところ、あとわずか・・・

本日は、今年、気になった歴史ニュースを振り返ってみましょう。

・‥…━━━☆

とは言え、関西在住の私ですので、話題になった場所によっては、知り得ない情報もあり、あくまで個人的な主観による総まとめとなってしまいます事をご了承くださいo(_ _)oペコッ

そんな中で、やはり、最初に出て来るのは、戦国好きの心をくすぐった「信長、平氏にあらず」の見出しが躍った福井県での発見ですね~

2011年11月・・・福井県越前町法楽寺で、織田信長の先祖とされる親真(ちかざね)を供養した五輪塔が見つかりました。

江戸時代に書かれた『信長記』などによれば、この親真は、平清盛の孫にあたる資盛(すけもり)の子として生まれますが、平家滅亡とともに資盛が亡くなったので、その後、織田氏が神職を務めていた劔神社の養子になったとされ、織田氏の祖と言われる人物です。

なので、信長の(かばね)「平」・・・正式には平信長(たいらののぶなが)となります。

ただし、このお話・・・以前、秀吉が豊臣の姓を賜るところ(12月19日・真ん中あたり参照>>)でもお話させていただいたように、信長は、それ以前に、藤原氏の末裔だと言って、藤原信長を名乗っていた事もあって、かなりアヤシイ・・・

そんな中、今回、福井で発見された五輪塔の側面には
「喪親真阿聖霊(あしょうりょう)正應三年庚刀(かのえとら)二月二十九日未剋」
と、親真が正応三年(1290年)2月29日に亡くなったと刻まれています。

上記の通り、通説では資盛は、壇ノ浦の合戦(2008年3月24日参照>>)で亡くなっていますので、その子供である平親真(たいらのちかざね)なら、少なくとも、その年には生まれていた事になるわけで、そこから計算すると、最低でも105歳くらいまで生きた事になり、当時としては、考え難い長寿という事になってしまうわけです。

・・・で、一般的に考えれば、清盛の孫である平親真と、信長の祖とされるお墓の主=織田親真は別人となるわけで、理論的には「信長は、平氏にあらず」となるわけです。

ただし、以前書かせていただいたように、この資盛には、別働隊の大将となって、あの安徳天皇を守って逃げたという生存伝説があり(2010年3月24日参照>>)、もし、その伝説が本当なら、壇ノ浦当時は、まだ25歳の若者だった資盛さんですから、息子の親真は、もっともっと後に生まれている可能性もあるわけで・・・

こうなると、源平&戦国を巻き込んだ壮大なロマン・・・更なる発見に期待したいところです。

また、同じ11月に、もう一つ、これまでの定説をくつがえす発見がありました。

それは、奈良の平城宮跡(2月15日参照>>)朱雀門から南東約1kmほどの所にある県営プールの跡地の発掘調査で見つかった物ですが、それほど広くない場所に、ほぼ4㎡四方に区切られた10棟分の住居跡とともに、7つの井戸跡が発見されたのです。

井戸から出土した土器の年代や、建物の構造から推測すると、それは、奈良時代後半の下級役人の住居跡と考えられ、当時は、ここに、下級役人の住居が密集して建っていたと思われます。

しかも、そこは、それ以前にも、それ以後の時代も、何の痕跡も見つからず、それまでは空き地だった場所に、奈良時代後半に住居を建てたものの、平安遷都後には、そのまま、忘れ去られた存在となった場所である事もわかりました。

・・・で、何が定説をくつがえす発見なのか?と言いますと・・・
今回、下級役人の住居と思われる場所が、あの長屋王(ながやのおう)(2月12日参照>>)の住居跡から南東約300m藤原仲麻呂(9月11日参照>>)の住居跡から北へ約150mという近さにある事・・・

つまり、これまでは、当時の権力者である長屋王や仲麻呂の邸宅があった事から、そのへん一帯は、平城京の一等地であったと考えられていたわけですが、その中間に位置する場所に、下級役人の、それこそ長屋のような住居があったという事・・・

発掘を担当された橿原考古学研究所によれば・・・
「このあたりは佐保川に近くて水はけも悪く、洪水の心配もあったので、奈良時代前半には、建物が建てられる事が無かったものの、奈良時代後半には人口が増加したため、やむなく、下級役人の住居地として造営されたのではないか?」
との事・・・

つまり、これまで、奈良の都の一等地とされて来た場所は、「そうでは無かった(かも?)」って事なのですね。

こちらも、更なる調査が楽しみです。

また、つい2~3日前には、大阪城の山里丸(くわしい場所は本家HPでご確認ください>>)から、巨大な排水システムが発見されたというニュースも飛び込んで来ましたね~

これは、雨水などを一旦、排水溝に溜めて、泥やゴミを沈殿させた後、上澄みの水だけを排水溝から流して内堀の水が汚れないように工夫された石組で、これまで、大阪城で発見された排水溝の中でも最大規模の物でした。

Dscn8017a800 大阪城・山里丸

いやはや、あれだけ発掘調査が行われている平城宮跡や大阪城でも、まだまだ新発見があるのですから、まさに、歴史は日々書き換えられている・・・って事ですね。

このブログも、来年は6周年を迎えます。

たまに、思い返して昔のページを見ると、書いた本人が「ありゃりゃ…( ̄○ ̄;)!」と思う事もしばしば・・・そのンところは、読んでくださっている皆様方に「コイツも日々書き換えられているのだ」と大目に見ていただくとして、来年も「今日は何の日?徒然日記」をご愛好のほど・・・o(_ _)oペコッ

それでは、まだまだ書き足りない今年の新発見はたくさんあるのですが、ページの領域も限りある事ですし、本年はこのへんで・・・

皆様、良いお年をお迎えくださいm(_ _)m
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2011年12月28日 (水)

「宗教法人令」施行で廃止された神社の社格

 

昭和二十年(1945年)12月28日、旧「宗教団体法」が廃止され「宗教法人令」を公布・施行・・・これにより、信教の自由が保障され、宗教法人と認められた団体は自由に布教活動が可能になりました。

・・・・・・・・・・

第二次世界大戦後に日本に進駐していたGHQによって、これまでの国家機関によって統制する「宗教団体法」の廃止命令が出た事を受けて、日本政府は、昭和二十年(1945年)12月28日の勅令を以って、これを廃止しする事とし、認可制だった宗教法人を届出制にして宗教法人の設立や規則変更、解散などを自由に行なえる「宗教法人令」を即日施行したのです。

ただし、この時の「宗教法人令」は、はなから平和条約の発効により廃止される期限付きの物だったので、その後、昭和二十六年(1951年)4月3日に、新しく「宗教法人法」を公布して即日施行される事になりました。

おかげで、戦後には様々な新興宗教法人が相次いで誕生・・・自由な信仰も保障されたわけですが、一方では、一度、宗教法人として認証された後は所管庁のチェックが甘い事から、色々な問題もはらみつつ現在に至っているのは、皆さまもご存じの通り・・・

・・・とは言え、近代史にウトイ私ですので、そこンところは、もう少し勉強してからお話するとして、本日は、ちょうど2日前に書かせていただいた『「延喜式」の誕生』のページ(2011年12月26日参照>>)に書ききれなかった、神社の社格のお話についてご紹介したいと思います。

そうなんです。
その『延喜式』に端を発する神社の社格が廃止され、神社も宗教法人となるのが、今回の「宗教法人令」の公布・施行・・・という事ですのでね。

・‥…━━━☆

そもそもは、大宝元年(701年)8月3日に、あの『大宝律令』(8月3日参照>>)が誕生した際、朝廷より奉幣する官社というのを定め、それ以外の神社と区別したのが社格の始まりとされます。

つまり、律令制によって、朝廷による国家統制がなされる中で、国家のために霊験あらたかな神社を制定し、それらの神社の祈年祭などに神祇官を派遣して奉幣が行われるなど、国家事業として、神社への礼遇が行われたわけです。

奈良時代に入ると、その数はグンと増えます。

しかし、そうなると、都から近い所へは、なんとか神祇官を派遣できるものの、遠方となると、直接神祇官が奉幣する事もなかなか難しく・・・

そこで、平安時代になってからは、これらの遠方の神社には、それぞれの地に派遣された国司(こくし・くにのつかさ=地方行政官)が代わって奉幣する事となり、ここに官幣の神社と国幣の神社が区別される事となります。

『延喜式』の神名帳によれば、全国の推定3万余もの神社の中から、
●官幣大社=304社
●官幣小社=433社
●国幣大社=188社
●国幣小社 =3207社

合計:4132社が選出されています。

原則として五畿内(大和・山城・和泉・摂津河内)にある神社は官幣の大&小社とし、その他の諸国は国幣の大&小社としていましたが、もちろん例外はあり・・・特別に由緒のある神社は、地方でも官幣の大社に名を連ねる事もありました。

ちなみに、この『延喜式』に選出されている神社を「延喜式内社」と呼びます。

やがて、平安時代も末期になると、神社の中でも特に国家が尊敬した神社22社が号する神宮や、各国に置かれた総社・一の宮二の宮三の宮などの社格も誕生しました。

各地方に派遣された国司は、現地に赴任すると、まずは、吉日を選んで、その地方の主だった神社を巡って参拝し、それが終わってからはじめて、政務を行うのが通例となっていましたが、この時に、最初に詣でるのが一の宮、次いで二の宮・・・と巡るのです。

総社というのは、その国司が一の宮やら二の宮やらを合祀して国府の近くに置いた神社の事・・・ちなみに一の宮のほとんどが国幣大社に選ばれていました。

・・・で、これらの通例が一変されるのが、例の明治維新・・・明治四年(1871年)の太政官布告によって神官の世襲が廃止されるとともに、神社への補助金制度や神官職などの神社規定などが、『延喜式』以来の信仰度合いに基づいて、

神祇官管轄の「官幣大社・中社・小社」と地方官管轄の「国幣大社・中社・小社」に分けられ、それ以外は諸社と呼び、それぞれの地方が管轄する府県社としました。

また、府県社の下には、その土地で多くの信仰を集めている神社を郷社とし、その次が村社、さらに、村社に至らない神社を無格社としました。

そんな中では、明治五年(1872年)に明治天皇勅旨(ちょくし=天皇の命令書)で以って創建された湊川神社(兵庫県神戸市)別格官幣社(人臣を祭神とする準官幣小社)とするなど、ちょいと政治色の強い物もありました。

まぁ、湊川神社の祭神は天皇家の英雄・楠木正成(5月25日参照>>)ですからねぇ( ´,_ゝ`)

ただし、こうして決められた後も、合併統合されたり、逆に村社から郷社、さらに府県社へ昇格する神社が出てきたりなどを繰り返しながら、やがて、冒頭の昭和二十年(1945年)12月28日の廃止となるわけですが・・・

ちなみに、この時、廃止された社格別神社数としては・・・
●官幣大社=62社
●官幣中社=26社
●官幣小社=5社
●別格官幣社=28社
●国幣大社=6社
●国幣中社=47社
●国幣小社=44社
●府県社=1148社
●郷社=3633社
●村社=44934社
●無格社=59997社

と、合計10万以上が記録されています。

Dscf0142a800 伊勢神宮にて…

なんだか、種類分けと数字の多い記事になってしまいましたが、史跡めぐりで訪れる神社の由緒には、今も「この神社は『延喜式』では○○に属していて・・・」と書かれていたりするくらい、神社側にとっては重要な社格・・・

今もなお、延喜式での社格の高さは神社のアピールポイントなので、神社巡りの際に、ふと、今回のお話を思い出していただければ幸いです。
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2011年12月27日 (火)

新選組・野口健司の切腹

 

文久三年(1863年)12月27日、水戸藩出身の新選組副長助勤野口健司が切腹をしました。

・・・・・・・・・・・・

幕末当時、開国攘夷(じょうい・外国を排除)かに揺れる中、幕府は、第14代将軍・徳川家茂(いえもち)と、孝明天皇の妹・和宮(かずのみや)との結婚(8月26日参照>>)を実現させて公武合体(朝廷と幕府が協力)政策をはかり、文久三年(1863年)の3月には、家茂の上洛を決定します。

しかし、その頃の京都は、過激な尊王攘夷派「天誅(てんちゅう)と称して、佐幕派(幕府を応援)や公武合体派を暗殺するという事件が多発していて、治安の悪き事このうえない状態・・・

そこで、幕府は京都の治安を守るための京都守護職に会津藩主・松平容保(かたもり)を任命・・・さらに、庄内藩・郷士出身の清河八郎の提案によって、京都で将軍の身辺警護を担当する武闘集団=浪士組を結成する事になり、江戸にて、その隊士を広く募集しました。

採用されれば、1人=十両の一時金を貰ったうえに米一升が毎日支給されるし、万が一、大活躍してエライさんの目に止まれば幕臣に取り立てられる事も夢じゃない!・・・とあって、腕に覚えのある多くの若者が集まります。

その中の1人が天保十四年(1843年)に水戸に生まれた野口健司でした。

やがて、文久三年(1863年)2月8日、清河の扇動のもと、野口たち、採用された隊士らが連れだって京都に向かったわけですが、京都に着いた途端、かの清河が豹変し、「この度の上京は、尊王攘夷の先鋒となるための上京である!」と宣言したため、驚いた老中・板倉勝静(かつきよ)から、「すぐに江戸に帰還せよ」との命令が出されます。

多くの者が、清河とともに江戸に帰還する中、そんな清河の豹変に納得しなかったわずかな者が京都に残り、京都守護職の容保の下で「会津藩お預かり」となって京都の治安維持の役目を担う事に・・・

これが、後の新撰組・・・この時、京都に残ったのは、天然理心流(てんねんりしんりゅう)の剣術道場・試衛館(しえいかん)を開いていた近藤勇とその仲間たち:8人と、水戸の脱藩浪士だった芹沢鴨(せりざわかも)とその仲間たち:5人わずか13人でした。

そう、水戸出身の野口は、この芹沢の仲間だったわけです。

・・・と言っても、どうやら、この野口さんは、同じ水戸藩出身という事で、芹沢たちと行動をともにしてはいましたが、その思想や考え方には、少し距離があったみたいで、一方では近藤たち・試衛館仲間とも仲良くやっていたようです。

それには、近藤仲間の1人だった永倉新八(ながくらしんぱち)の存在・・・実は、野口が免許皆伝?とも言われるほどの腕を磨いた神道無念流の道場・百合元昇三道場に永倉も通っていて、浪士隊になる前から、すでに二人は知り合いだったからです。

しかし、ご存じのように、誕生したばかりの新撰組・・・もともと浪人集団の寄せ集めだった彼らは、いつしか、近藤派芹沢派に分かれ、その溝は大きくなるばかりで、結局、その派閥抗争は、近藤たちが芹沢らを暗殺する(9月18日参照>>)という展開となります。

この時、殺害されたのは芹沢派5人のうち、芹沢本人と平山五郎の二人・・・その間に、騒ぎを知った平間重助(ひらまじゅうすけ)は逃亡し、新見錦(にいみにしき)は、乱行がヒドすぎるとして、すでに5日前=9月13日に切腹させられています。

つまり、この時、芹沢派で残ったのは野口1人だけという事・・・彼は、この夜、京都・島原花街にある角屋(すみや)にいて難を逃れたのですが、実は、これも、仲良し永倉の配慮で、「野口だけを現場に居合わせないようにした」とも言われており、おそらく、野口自身は、芹沢たちを殺害した犯人が誰かという事も知らなかったのだろうと推測されます。

現に、野口は、この事件の後でも逃亡する事もなく、普通に居残り、近藤組長新体制のもと隊務をこなしています。

しかし、その運命は急展開・・・芹沢の死から、わずか3ヶ月後の文久三年(1863年)12月27日野口は突然切腹を命じられ、その21歳の若き命を散らせたのです。

その理由は、明治の後も生き残った隊士の証言でも「ささいな事」と表現されるだけで、真相はわかりません。

一説には、近江国中羽田村で起こった村騒動(新撰組を名乗る者が七里村に出没し、村人を混乱させた)の責任を取らされたとも言われますが、それはまったくの濡れ衣という意見もあり、もはや藪の中です。

Dscn2966a800 京都にある旧前川邸…綾小路通に面した出格子窓のある部屋(写真の右手前です)で、野口は切腹しました。
旧前川邸への行き方は、本家ホーページ:京都歴史散歩
「東寺から二条城へ…」でどうぞ>>

いずれにしても、記録に残る京都で死亡した隊士・50人のうち、その半数が粛清された同志だったという新撰組・・・

もともと、武士ではない者か、あるいは食いぶちにありつけない浪人の集まりだった彼らですから、法度に違反した時は、情け容赦のない粛清を行わなければ、それこそ、無法者の殺人集団になってしまうわけで・・・

中には、記録に残る事すらなく散って行った隊士たちもいるという事なので、野口さんは、その名を残せただけでも、少しは心安らか?なのかも知れません。
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2011年12月26日 (月)

『延喜式』ってどんな物?

 

延長五年(927年)12月26日、醍醐天皇の命で、藤原時平によって編さんが開始された『延喜式』が完成しました。

・・・・・・・・・・・

『延喜式(えんぎしき)とは、朝廷の儀式・作法・事務手続きなどの格式(きゃくしき=律令制における法令)で、平安初期の制度を知る事の出来る重要な文献です。

  • 1巻~10巻神祇官(じんぎかん)関係
    神社の社格や祭祀神事とそれに従事する神官に関する法令
  • 11巻~40巻太政官(だいじょうかん=司法・行政・立法を司る最高国家機関)の各省庁に関する法令
  • 41巻~49巻その他の官司(かんし=官庁・官人組織・人事)に関する法令
  • 50巻=上記のどれにも当てはまらない雑格・雑式に関する法令

以上の50巻で構成されています。

もちろん、これまでも、あの『大宝律令』(8月3日参照>>)に始まる律令制度の骨格となる様々な法令集が出されていたわけですが、ここに来て『延喜式』という集大成的な物が編さんされる・・・

実は、この時期、『続日本紀』『日本後紀』『続日本後紀』など、奈良時代に『大宝律令』が生まれるのとほぼ同時期に『古事記』『日本書紀』が編さんされたのと同様に、国の歴史に関する事も、やはり新たに綴られています。

そうです。
この時代は、後に「延喜の治」と呼ばれる誉れ高き天皇中心の時代・・・第60代・醍醐天皇が、摂関を置かず、天皇親政による理想の政治を行ったと評価されている時代です。

後に、足利尊氏らとともに鎌倉幕府を倒して、天皇中心の世を理想とした後醍醐天皇(8月16日参照>>)は、生前、自ら、後醍醐という号を希望していたと言われますが、それは、この醍醐天皇の時代を夢見ていたからです。

とは言え、この醍醐天皇の時代は、これまでの律令がやや崩れ始めていた時代でもありました。

現に、醍醐天皇の前代の宇多天皇は、権門(有力貴族・寺社)を抑制し、小農民を保護する方向への回帰を強く願ってしました。

すでに、班田収受法も延喜三年(904年)の伊勢国での記録を最後に実施される事も無くなっていたようですから、もう、崩れてしまっていたのでしょう。

つまり『延喜式』は律令制復活の最後の試みとして行われた法令編さんだったのです。

・・・と、最後と書いてしまいましたが・・・

Fuziwaranotadahira600 実は、醍醐天皇の命を受けた藤原時平(4月4日参照>>)によって編さんが開始されたこの『延喜式』・・・その時平が若くして亡くなってしまうので、弟の藤原忠平がその後を継ぎ、延長五年(927年)12月26日完成をみるのですが、結局は、その忠平と醍醐天皇の次代・朱雀天皇の治世では、律令制支配は完全に放棄されてしまう事になるのです。

たとえば、班田収受法の場合、戸籍・計帳に基づいて、政府から人民へ田が班給され、死亡者の田は政府へ収公されるわけですが、すでに、多くの貧困農民と少数の富裕層の間に生まれた格差は広がる一方で、そうなると税から逃れるために貧困層は偽籍・逃亡をはかり、個人を把握できなくなってしまい、人民支配による租税収取が不可能となってしまうわけで・・・

そこで、人ではなく、土地そのものへ課税する形へと移行するわけで、これまでの班田図に代わって、新たに、土地の台帳となる基準国図が作成され、それを監視して租税収取する国司を中央から派遣するわけですが、この国司が、税だけでなく、祭祀・行政・司法・軍事などの権限も持っていますから、管内では絶大な力を持つ事ができたわけです(11月8日参照>>)

もはや王朝国家体制となって、藤原一族に独占されてしまった中央政界からはじかれた者が現地で、あるいは、地方へ行くのがイヤだからという者に全権を任された現地の豪族が・・・国司として、その絶大な力を持つとともに武装し、やがて武士の時代へ・・・という流れになります。

そもそもは、律令体制の回帰を目的として編さんされた『延喜式』ですが、皮肉な事に、それが最後のあがきとなって律令体制は崩壊していく事になりました。

・・・と、今回は、『延喜式』誕生の流れについて書いてるうちに、その内容に触れる事ができませんでしたが、また、別の機会に、その内容についても紹介させていただきたいと思いますのでお許しを・・・・
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2011年12月24日 (土)

第46回・京の冬の旅~非公開文化財特別公開へ行こう

 

今年も、やって来ました!この季節・・・

毎年書かせていただいておりますが、冬の京都は、一番観光客が少ない季節という事で、京都市観光協会さんを中心に、京都市を挙げての一大キャンペーンをうち出してくれはります。

それが「京の冬の旅」というイベントで、観光バスの特別コースを用意したり、京都の伝統文化を身近に感じられるイベントを開催したりしてくださるわけですが、中でも、私が、毎年利用させていただいているのが「非公開文化財特別公開」です。

普段は非公開のお寺を、統一の拝観料で一般公開していただけるのですから、歴史好きとしては、たまらないイベントなのです。

かく言う私も、毎年、その期間中に何ヶ所かの史跡を拝見させていただいております。

今回も、おそらく、どこかに行かせていただくつもりではありますが、まずは、とりあえず、今回の非公開文化財特別公開に参加される寺院と、その見どころを、本日、ご紹介させていただきたいと思います。

冬の京都観光の参考にしていただけたなら幸いです。

・‥…━━━☆

今年の第46回は、大河ドラマ「平清盛」の放映と、「辰年」であるを記念して、「清盛ゆかり」や、「龍」に関連する寺院の文化財を中心に公開されます。

期間:平成24年(2012年)1月7日~3月18日
時間:10時~16時
料金:1ヶ所=600円
(東寺五重塔は800円)

  • 相国寺 法堂・開山堂
    Dscn6372a800 室町幕府・第3代将軍の足利義満が建立した相国寺はあの応仁の乱の戦場(10月3日参照>>)となってしまったためにほとんどの伽藍が焼失してしまったわけですが、その後、豊臣秀頼によって再建された法堂は、それでも日本最古の法堂で、天井に描かれている蟠龍図「鳴き龍」として有名…「鳴き龍」とは堂内のある場所で発せられた音(手を打って体験できます)が反響して自分に帰って来る現象が、まるで龍の鳴き声のようだって事なのですが、是非とも、これはご自身で体験しないと…です(体験談は2007年2月18日参照>>)
  • 相国寺・大光明寺
    伏見宮家や第9代将軍・足利義尚(よしひさ)の菩提所として知られる相国寺の塔頭で、本尊・普賢菩薩像は、平成24年の干支「辰」年の守り本尊で、福をもたらし命を延ばすとされてますから、是非とも、この年に訪れておきたいところ・・・他にも美しい枯山水の庭園が二つ、江戸期の画家・伊藤若冲筆の絵画や、足利家ゆかりの寺宝などが特別展示されます。
  • 長楽寺
    Antoku 時宗の祖・一遍上人(8月23日参照>>)や美しい書院庭園が残るお寺ですが、何たって来年の主役・平清盛の娘である建礼門院徳子が出家した寺として有名で、境内には遺髪を納めた供養塔があり、あの有名な安徳天皇画像(写真)建礼門院画像安徳天皇の衣で作った仏具など、源氏の目をはばかりながら隠し伝えられたお宝が、今回、特別公開されます。
  • 長講堂
    平清盛と同時代を生き、おそらくは来年の大河でも重要な役どころをしめると思われる後白河法皇(10月26日参照>>)が建立したお寺・・・珍しい姿をした法皇の臨終仏・阿弥陀三尊像や、毎年法皇忌にのみ公開される後白河法皇坐像が、今回、特別開扉・・・他にも、清盛・義経・法皇ゆかりの品々が特別展示されます。
  • 平等寺
    後白河法皇の皇子で、建礼門院徳子が入内する高倉天皇が命名されたお寺で、創建当初から伝わる本尊・薬師如来立像、鎌倉時代の清凉寺式釈迦如来立像、優美な如意輪観音像不動明王像など・・・中でも高倉天皇が寵愛し、「峰の嵐か松風か」で有名な小督(1月14日参照>>)、小督の髪で作ったと言われる毛髪織込光明真言が京都冬の旅・初公開です。
  • 妙心寺・三門
    Dscn6671a600 臨済宗妙心寺派大本山で、ご存じ京都最大の禅寺・・・約10万坪の境内に一直線に建ち並ぶ典型的な禅宗伽藍のなかでも、ひと際鮮やかな朱塗りの三門が、今回、特別公開され、その楼上は観音菩薩像や十六羅漢像が安置され、天井にある天女や飛龍が美しいらしいです。
  • 妙心寺・隣花院
    賤ヶ岳の七本槍(4月21日参照>>)で有名な脇坂安治が創建した妙心寺の塔頭で、桃山・江戸期の長谷川等伯・狩野永岳の見事な障壁画が、金地極彩色の鮮やかに、200年前の濃密で華麗な色彩がそのままに残る状態で保存されています。
  • 妙心寺・玉鳳院
    花園法皇が伽藍の傍に建てた山内最古の塔頭寺院・・・方丈には狩野益信・永真筆の襖絵開山堂は山内最古の建物で、室町時代の見事な唐様建築を残しています。
    他にも見事な枯山水庭園や井戸、豊臣秀吉の子・鶴松の霊屋が残ります。
  • 泉涌寺・雲龍院
    後光厳天皇(1月29日参照>>)によって創建された泉涌寺は、ご存じのように皇室と密接な関わりを持つ寺院ですが、なかでも、今回は、平成22年10月に奉納された水墨画家・堂野夢酔筆の襖絵・双龍風雷図京の冬の旅で初公開されます。
  • 東福寺・三門
    紅葉で有名な東福寺ですが、今回、内部が公開される三門は、室町時代再建の禅宗三門としては日本最古で最大の門・・・高さ約22メートルから市内一望の楼上には宝冠釈迦如来像十六羅漢像が鎮座され、宋・元風の彩色文様が施された柱や梁、極彩色の天井画が魅力的です。
  • 東福寺・龍吟庵
    東福寺の塔頭・龍吟庵は、東福寺第三世住持・大明国師の住居跡で、最古の方丈は書院造と寝殿造の名残をとどめた優美な建物・・・さらに、それを囲む枯山水庭園の中でも寺名にちなんだ西庭・龍の庭は、龍が海中から黒雲に包まれ昇天する姿を石組で表現した物・・・。
  • 東寺・五重塔
    世界遺産にも指定されているご存じの東寺ですが、4度の火災に遭い、現在の五重塔は江戸幕府3代将軍・徳川家光が再建した物・・・特別公開される極彩色の内部には大日如来に見立てた心柱を囲むように金剛界四仏が安置されています。
  • 東寺・観智院
    東寺の塔頭である観智院・・・違棚や帳台構えを備えた武家風書院造の客殿には、剣豪・宮本武蔵(4月13日参照>>)筆と伝わる水墨画「鷲の図」「竹林図」が残ります。
    また、弘法大師の唐への船旅を描いた庭園や茶室なども拝観できます。

と、以上の13寺院が、今年のキャンペーンに参加してくださっています。

ただし、各寺には、それぞれ、法要などで見られない日があったりします・・・その情報については、こちらの定期観光バス情報のページ>>(別窓で開きます)がくわしいですので、ここで最新情報をゲットしてくださいね。

もちろん、私も(おそらく、どこかに)行きますし、行ったら報告させていただきますが、歴史好きの方は、この機会にぜひどうぞ♪(o ̄∇ ̄)/
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2011年12月22日 (木)

家康の影武者となって討死…夏目吉信in三方ヶ原

 

元亀三年(1572年)12月22日、浜松城の近くを通った遠征中の武田信玄に、徳川家康が挑んだ三方ヶ原の戦いがありました。

・・・・・・・・・・・・

果たして、この時の武田信玄上洛の意図があったのか?否か?については3年前の武田信玄・上洛~その真意と誤算】で>>
三方ヶ原の戦いの経緯については5年前の【家康惨敗・三方ヶ原の戦い】で>>

古い記事ではありますが、よろしければ見ていただくとして、本日は、その三方ヶ原の戦いで、徳川家康の影武者となって討死する家臣夏目吉信(なつめよしのぶ)について・・・

とは言え、この夏目さんが討死したとされる場所が、このすぐ後に再びぶつかる犀ヶ崖(さいががけ)付近(12月23日参照>>)とされ、合戦中に家康と遭遇したとされる場所からは少し離れている事から、「この逸話は後に創作された物では?」疑問視されるエピソードではありますが、それも踏まえて、あくまで「そう伝えられている」というテイでお聞きください。

ちなみに、本日の夏目さん・・・あの文豪・夏目漱石のご先祖様です。

・‥…━━━☆

夏目吉信は、家康に古くから仕える家臣で、この三方ヶ原の戦いでは、、浜松城の留守役を命じられておりました。

しかし、いざ合戦が始まった時、櫓の上から戦場の様子を見ていた彼は、味方の劣勢にいても立ってもいられず、一目散に戦場へと駆けて行ってしまったのです。

実は、彼には、主君・家康に対して、忘れられない、ある出来事があったのです。

それは、この三方ヶ原をさかのぼる事9年前・・・永禄六年(1563年)の秋に起こった三河一向一揆です(9月5日参照>>)

そのページにも書かせていただきましたが、これは、当時、曹洞宗の勢力が強かった三河東部を除いた地域で、本證寺空誓(蓮如の孫)を中心に、一向宗門徒が領主である家康に抵抗した約半年間の一揆なのですが、9月5日の、この夏目吉信の投降を機に家康が本格的な鎮圧に乗り出して、何とか収めた・・・

そのページでは、「永禄六年(1563年)9月5日、突如として(吉信が)徳川方へ投降・・・」とだけ書かせてしただきましたが、実は、そこに、少しばかりのドラマがあったのです。

その日、砦に籠城していた吉信らは、松平伊忠(これただ)隊に不意に攻め寄せられ、木戸を突破された後、やむなく、彼らは金蔵に隠れますが、もちろん、すぐに包囲され、もはや逃げ道もなく、風前の灯に・・・このまま一気に!!とはやる伊忠を止めたのが、その話を聞いた家康でした。

「そんな状態で殺すやなんて、籠の中の鳥を殺すような物・・・もう、助けたりぃや」
と・・・

伊忠は・・・
「クソッ!殺してから報告したら良かったわ!」
と、捨てゼリフを残して兵を退き、その場を立ち去ったのだとか・・・

以来、吉信は、家康に背いた自分自身を悔しがり、毎夜、岡崎の方角に向かって手を合わせながら、
「もし、この命捨てる時あらば、殿のためにこそ捨てる事ができるように・・・」
と祈っていたのだそうな・・・

かくして訪れた元亀三年(1572年)12月22日三方ヶ原・・・

殿の危険を目の当たりにして、戦場へと躍り出た吉信は、討死覚悟の奮戦で先へと進み、やがて家康の姿を見つけます。

混乱の中、すでに馬廻りの者も少なくなったにも関わらず、まだ、馬を向けようとする家康に、吉信が声をかけます。

「ここは、未だ、殿の死に場所ではありません!城へとお戻り下さい」
と言いながら馬副(うまぞい)の者に、馬の口を浜松の方角へ向けるよう指示します。

しかし、家康は
「自分の城下で負けては、命があっても、どないもならん!」
と言って、馬副の者に
「馬の口を放せ!」
と・・・

「いや!放すな!」
と、強い口調で命令し、馬を飛び降りた吉信は、
「私に、殿の諱(いみな)を下され」

家康の名を貰う・・・それは、家康の身代わりとなって、この場で討死するという事・・・

そう言って、自らの槍の柄でもって、馬の尻を3度叩きました。

馬が、家康を乗せたまま、一目散に浜松城に向かって走り去るのを見届けた吉信は、十文字の槍を取り、
「我こそは、徳川家康!!」
と叫びながら、敵の真っただ中に突入し、槍が折れるほどの力戦のうえ、壮絶な討死を遂げたのです。

Ieyasusikamizou600 こうして危機一髪を脱し、約7km後方の浜松城まで、無事に生還した家康・・・まぁ、皆さまご存じのように、下半身の危機一髪(しかも大)は脱する事はできなかったわけですが・・・
(再び【家康惨敗・三方ヶ原の戦い】参照>>

 

その時、絵師に描かせた、敗戦の屈辱に満ちた「顰(しかみ)像」を、家康は生涯の教訓としたのですから、身代わりとなった吉信も、さぞかし本望だった事でしょう。
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2011年12月21日 (水)

芝居がお家の衰退に…肝付良兼のウソ合戦

永禄四年(1561年)12月21日、交戦中だった島津氏と肝付氏の間に、一旦、和議が成立しました。

・・・・・・・・・・・・・・

ご存じのように、戦国時代の南九州と言えば、薩摩(鹿児島県西部)島津氏と、日向(宮崎県)伊東氏という大きな存在が、その領有権を巡って争いを繰り返していたわけですが、その両者の真ん中に位置する大隅(鹿児島県東部と奄美群島の一部)を支配していたのが肝付(きもつき)・・・

・・・で、この3者に関係するお話で、その日づけがわからず、これまで、いつ書こうかと迷っていたお話を今日はさせていただきますね。

・‥…━━━☆

そんな肝付氏の17代当主となっていたのは肝付良兼(よしかね)・・・当時は、島津の当主が島津貴久(たかひさ)(6月23日参照>>)、伊東氏の当主が伊東義佑(よしすけ)(8月5日参照>>)だったのですが、ただでさえ、上記の通りに間に挟まれてる肝付氏なのに、この良兼さんの場合は、さらに、ややこしい立場にありました。

・・・というのも、良兼の父=肝付兼続(かねつぐ)の時代は、隣国の島津とは良好な関係にあり、島津忠良(しまづただよし=貴久の父)の娘・御南正室として娶っており、大隅における肝付氏の勢力も一番元気な時代だったのですが、その父が息子である良兼に家督を譲った頃から、両者の関係が微妙になって来ます。

・・・と言っても、良兼自身が島津を嫌ったわけではなく、隠居してもなお実権を握ったままの兼続が、自ら島津との関係を崩し、伊東氏と関係を結ぶようになったからなのです。

その証として良兼は、伊東義佑の娘・高城を正室に迎えています。

つまり良兼は、島津貴久が叔父であり、伊東義佑が義父・・・という立場だったわけです。

やがて永禄九年(1566年)に、父が亡くなり、名実ともに肝付氏の当主となった良兼でしたが、そんな微妙な立場ゆえ、たびたびの合戦でも日和見する事が多々ありました。

しかし、そうして日和見ばかりしていると、どちらからも、その忠誠心を問われる事になわけで・・・

ある時、島津から、その忠誠の証として、「伊東と一戦交えてみろ!」と迫られた良兼・・・

困った良兼は、密かに伊東氏に使者を送り、見た目には合戦をしているように見せかけて、実は、そのフリだけ・・・という「見せかけの合戦をやろう」と持ちかけます。

「血で血を洗う戦国に、そんなアホな!!」
と思いますが、実はコレ・・・けっこうあるのです。

ご存じ、室町時代はじめの、あの建武の新政(6月6日参照>>)が行われた時に掲げられた、有名な『二条河原の落書』というのがありますが・・・

「此頃都ニハヤル物 夜討 強盗 謀綸旨(にせりんじ)…」
と、都に流行る物が続く中で
「安堵 恩賞 虚軍(そらいくさ)
と出て来ます。

この虚軍というのが、ソレです。

なんせ、合戦には、武器弾薬などの物資の調達や、その運搬・・・他にも膨大な費用がかかりますし、なんたって、おびただしい血が流れ、多くの命が奪われるわけで、今更、ドラマの中で、大人に見える10歳前後の姫たちに「戦はいやじゃ!」(by大河ドラマ「江」)と言われなくとも、できるなら、合戦を、やらずに済むに越した事ない事は、戦国武将なら、誰もがご存じ・・・

「百戦百勝 善の善にあらず
 戦わずして人の兵を屈するは
 善の善なるものなり」

と、戦国武将のバイブルである『孫子』も、ず~っと前から
「戦わないで勝つのがベスト」
と言ってます。
(くわしくは、本家HP:京阪奈ぶらり歴史散歩「孫子の兵法・金言集」>>を見てネ(*^-^))

戦国武将と言えど、好きで合戦をやってるわけではなく、例え一触即発という状況になっても、何らかの形で合戦を回避する方法があるなら、あきらめずに模索する・・・というのが、当たり前なのです。

そんな中では、形ばかりの合戦ごっこをやって、人的・物的損失を最小限に抑えようという事も、当然あったわけで・・・

ただし、今回の良兼の場合・・・それが、島津にわかってしまってはマズイわけで・・・

それこそ、この密約の事は、ごくごく少数の上の者だけにしか知らせずにいました。

こうして始まった肝付VS伊東の合戦・・・

主だった者たちは、皆、芝居という事を知っていますから、とりあえず形ばかりの士気の盛り上げをやって、戦場を見下ろせる高所に陣を敷き、文字通りの高みの見物とシャレ込みます。

ところがドッコイ・・・うとは知らない雑兵たちが、意外にガンバッちゃったもんだから、状況は思わぬ方向に行ってしまいます。

真剣に矢を射かけ、真剣に斬り込む肝付軍・・・形勢は断然有利になります。

すると、とうとうたまりかねた伊東軍から
「オイ!肝付は本気やぞ!ホンマに合戦せぇー」
と、エライさんからのゲキが飛びます。

もともと、この頃の伊東氏は佐土原城(さどはらじょう・宮崎市)を本拠地に、伊東惣四十八城と呼ばれる48の支城を日向国内に配置して全盛を誇っていた頃・・・芝居とは言え、ここに動員した兵の数も、肝付のソレとは明らかに違い、数の上では伊東方のほうが圧倒的に有利なのですから・・・

そうなると、たちまちのうちに肝付軍は討ち負かされ、なんと、大将クラスの大物まで命を落とす事に・・・

残念ながら、これが、肝付氏の運の尽きはじめとなってしまいました。

元亀二年(1571年)・・・良兼の死を受けて、第18代当主となった弟の肝付兼亮(かねあき)でしたが、元亀四年に島津との合戦に敗れた事で、有力家臣が続々と島津へ鞍替え・・・

もはや、その衰退を止める事ができず、やがて、わずかに残っていた本拠地・高山城(こうやまじょう・鹿児島県肝属郡肝付町)も島津に召しあげらて、戦国大名としての肝付氏は滅亡・・・以後は、島津の家臣として生きる事になってしまいました。

国という大きな組織・・・しかも、相手のいる合戦ですから、ちょっとした手違いから、大きな誤算を生んでしまう事も多々あり・・・もちろん、彼らもふざけて合戦ごっこをやったわけではなく、先に書いた通り、こうして戦争を回避するのも、一つの手だったわけですが、何とも残念です。

ただし、島津から、家臣としては重用された肝付家は、江戸時代にはなかなかの隆盛を誇り、幕末には、維新の立役者の一人・小松帯刀(こまつたてわき・清廉)(10月6日参照>>)を輩出するのですから、大したもんです。

ちなみに、「ドラえもん」スネ夫の声や「お母さんといっしょ」じゃじゃ丸の声でお馴染の、声優肝付兼太さんも、末裔らしいです。
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2011年12月20日 (火)

アンケート企画「スポットを当てたい歴史上の人物は?」の結果発表

 

 
今回のアンケート
スポットを当てたい歴史上の人物は?
の投票にご協力いただきありがとうございましたo(_ _)o

予想通り、「その他」がダントツではありましたが、それこそ、思い入れのある歴史人物は人それぞれなわけで、当然の結果であります。

また、いつものようにコメントも沢山いただき、大変楽しいアンケートとなりました。

ではでは、
コメントも含め、本日、このブログ上にて、結果発表をさせていただきますね。

改めて投票募集のページをご覧になりたいかたはコチラからどうぞ>>(別窓で開きます)

・‥…━━━☆ジャ~

1位
13票
立花宗茂
意外な人気にビックリ…人気というよりは、「この方&周辺の人たちのドラマを見てみたい」って事なのかも知れませんね。
2位
8票
北条早雲
やっぱり人気の北条早雲…戦国と言えば、信長あたりからのドラマばかりなので、もそっと前の時代を見てみたいですね。
3位
6票
在原業平
武田勝頼
井伊直虎
大塩平八郎

イケメンに滅びの美学に男装の麗人に難波のヒーロー…やっぱりスポット当てたいですね。
7位
3票
阿弖流為
平重衡&藤原輔子
天狗党

高松凌雲
小栗忠順

どなたも感動の涙を流せる逸材ですね~なんで、あまり描かれないのかが不思議なくらいです。
12位
2票
細川政元
弥介

ドラマとして見るなら、どちらも、今までとは違う戦国物が描けそうです。
14位
1票
山川(大山)捨松
栗本鋤雲

今回は1票しか入らなかったですが、個人的には、この方たちのドラマを見てみたいです。幕末維新は周囲の人材も豊富ですから…
その他

34票:下記のコメントでご確認を…

と、このような結果となりました~ご協力感謝します。

゜。°。°。°。°。°。°。°。゜。°。°。°。

続いて、投票コーナーにいただいたコメントを・・・
*いただいた順に表示「青文字」の管理人のコメントもお楽しみください

その他 松永安左衛門(男性/40代/長野)
「知りませんでした(゚ー゚;近代の人だったんですね~名前から江戸時代の人かと思ってしまいました~」
その他 酒井玄蕃 イケメンで優しくて頭がいいなんて三拍子そろってます!(女性/20代/石川)
「東北の戊辰戦争は、再来年の大河で描かれるかも…たのしみですね」
その他 本願寺 顕如
「ドラマになるなら苦労時代からじっくり描いていただきたいですね。」
天狗党 避けてはいけない事実。彼らの大きな犠牲のもとに明治維新があり今の世があることは忘れてはいけませんね。(女性/50代/福井)
「天狗党を主役にしたドラマなら、絶対イケると思います!」
その他 藤原薬子に一票
「娘のお見合いについてって、相手に惚れられる母…妖艶な女優さんに演じてもらいたいです。」
その他 小栗さんか捨松さんか迷いましたが、あえて中島三郎助さんで。彼の人生は結構波乱万丈だと思います。(女性/10代/千葉)
「ヒストリアで取り上げられてた人ですね…この方のドラマも見てみたいです。
その他 保科正之 実は家光の弟・自分を育ててくれた保科氏の事を忘れずに、徳川に尽くすところかなぁ。(女性/60代/石川)
「あぁ~~選択技の15人に入れてなかった~~(p_q*)江&秀忠より、こっちがおもしろいです。きっと」
平重衡 『義経』で細川茂樹さんがカッコよく、輔子もステキでした。ミーハー気味でスミマセン。(女性/20代/大阪)
「細川さん、カッコ良かったですね~今度は、彼をメインに…」
その他 南方熊楠(男性/40代/和歌山)
「地元の和歌山ならイチ推しの人ですね~裸の大将は、むしろコッチかも」
平重衡 参照ページをみて。(男性/30代/千葉)
「ありがとうございますm(_ _)m思いのたけを込めて書いたので、そう言っていただけるとウレシイです。」
その他 吉田松陰。現在の日本を見たら何とゆうか。
「吉田松陰が主役のドラマ…あったかも知れませんが、そう言えば思い出せませんね。見たいです。」

その他

木村重成 大河ドラマ「江」に出てきて欲しかった。大坂の陣での活躍は、もっと知られてもよいと思います。(男性/30代/新潟)
「大坂の陣は、もっとそれぞれの武将にスポットを当てた描き方をしていただきたいですね~なんか、結局、いつも同じような感じになってしまいます。」
その他 志村光安 戸田勝成 遠藤直経 マニアックだけど名将だと思う。(男性/30代/埼玉)
「戦国時代は人気なのに、なぜか同じ人たちばかりにスポットが当たりますね~マニアックな方の群像劇みたいなのも、たまにはアリなのでは?」
その他 大鳥圭介に一票 高松凌雲や荒井郁之助と迷いましたが維新後の活躍にスポットを!(女性/10代/栃木)
「そうですね~あれだけ活躍しているのに、未だに、この方の名前を言うと“ポテチン”と返されます(大阪だけやと思いますが…)もっとスポットを…」
阿弖流為 アニメ映画「アテルイ」のお手伝いをしたので(((^^;)(男性/40代/東京)
「東北の元気復活に一役を担える方だと思います。」
その他 山田方谷と河井継之助(男性/40代)
「幕末は逸材が多いですね~」
その他 「徳子~姫たちの花の生涯」 こんなん、大河でやってください^^い(女性/40代/奈良)
「来年はステキな女性に描かれるでしょうか???楽しみですね。」
武田勝頼 従来とは違った目線で歴史を語ってほしい。(男性/40代/愛知)
「お父さんばかりがヒーローでは気の毒ですね。」
武田勝頼 ドラマでは偉大な父親と家臣との葛藤を描いてほしいですね。(男性/30代/千葉)
「父との葛藤を描きながら成長していく勝頼を見たいです。」
その他 藤原経宗 平治の乱の影の張本人、後白河院と対立して流刑となるも政界のリーダーへと復活(女性/40代)
「また浮かび上がって来るところがイイですね~来年は登場するのでしょうか?」
その他 調所笑左衛門広郷。彼がいなかったら維新当時の薩摩藩は存在しなかったでしょう。
「一つ前の“汚名を晴らしたい”のアンケートでも広郷さんの名前が挙がりましたね~やはり重要人物ですね」
その他 北畠顕家 「破軍の星」読み返したところです(男性/50代/埼玉)
「大河での後藤久美子にはちょっと驚きましたが、北畠家は主役にしてほしい家柄ですね
その他 松永久秀。 大悪党な主役を見たい。ぜひ。(男性/40代/新潟)
「あの信長に悪党呼ばわりされた人ですからね~濃いドラマを期待」
その他 佐々木道誉。 婆沙羅大名の生き様にスポットを是非(男性/30代/東京)
「太平記の陣内さんも、ノリノリの雰囲気でしたが、さらに婆沙羅っぽく!!」
その他 近衛前久。公家の代表として三英傑と渡り合った力量は、現代の政治家の参考になる?(男性/20代/千葉)
「戦国ドラマに出て来るお公家さんは、なんとなく扱いが悪い気が…もっとカッコ良くしてほしいです」
在原業平 日本のプレイボーイの元祖、歌の勉強にもなること請合いですね。(男性/60代/東京)
「主役は超イケメン俳優を希望(。・w・。 )」
武田勝頼 天目山で自刃する時の心情を慮ると切ない想いに駆られます。(男性/50代/大分)
「もっと主役になってほしい人です。」
在原業平 絶対色男だと思うんです(笑)(女性/20代/東京)
「ウンウンo(*^▽^*)o絶対ステキです!」
天狗党 阿部正弘に水戸の三田、諸生党を絡ませる群像劇として(男性/50代/静岡)
「それぞれが主役の群像劇がイイですね」
阿弖流為 東北魂の源?渡来系より古くから日本にいる日本人の祖に注目(女性/40代/東京)
「今まで描かれた事無いドラマを見てみたいですね~」
その他 鎌倉幕府4代将軍 藤原頼経 お飾り将軍だったが北条家との戦いにもっとスポットを!(女性/10代/埼玉)
「お飾りじゃないゾ!というところを見てみたいです。」
その他 原敬(男性/40代/東京)
「日記が残っているようなので、詳細な心理を描いてほしいですね」
在原業平 この前古文で伊勢物語をやったばかりで、とても興味がありました!!以前の記事為になります!!(女性/10代/東京)
「ありがとうございますヽ(´▽`)/ちょっとでもお役にたってウレシイです
その他 真田信幸 弟ばかり有名ですが、お兄ちゃんも立派な大名!!(女性/30代/東京)
「そうです。そうです。幸村は好きですが、ばっかりではいけませぬ…是非ともお兄ちゃんにスポットを…」
北条早雲 やっぱり伊勢新九郎でしょ!!(男性/10代/愛知)
「グングン出世していくところを豪快に!!」
立花宗茂 確かに周りが有名だけど、この人も十分に鬼。人生が波乱万丈なのでドラマも面白そう!(男性/20代/東京)
「きっとおもしろいドラマになると思います。」
井伊直虎 天海祐希さんに演じてもらいたい!!(女性/10代/千葉)
「ですよね~~ヽ(*≧ε≦*)φ」
その他 大坂の陣での、真田信繁(幸村)以外の譜代衆と浪人衆の皆さん。(女性/20代/岐阜)
「なんか、いつも幸村しかいないような設定になっているのは…ちょっと(;ω;)徳川の記録に惑わされてはいけませぬ」
立花宗茂 ミスターパーフェクト!人生自体もものすごく面白いです。
「完全に1年もちます!ぜひ大河で…」
小栗忠順 もし、彼が明治まで生きていたら(男性/40代/広島)
「あれだけ幕末が描かれているのに、あまり知られていない忠順さんにスポットを!」
その他 山県昌景:赤備えから苛烈な印象がありますが内政や外交の手腕等、風林火山を体現した一人と思います。(男性/20代/大阪)
「武田四天王ですね…元祖赤備えを見ていみたい!」
井伊直虎 徳川&四天王の現ご当主によるシンポジウムが浜松で開かれましたよ(萌)(女性/40代/静岡)
「そのような場所では、やはり有名なのでしょうか?」
その他 藤原通憲(信西):黒衣に野望を秘めた大学者って格好良い!です。来年の大河では少し出番がありそう!(女性/30代/大阪)
「来年は阿部サダヲさんですね~良い役者さんなので楽しみです。」
天狗党 「早すぎた尊王攘夷」 大きく時代が変わろうとしている時期早すぎた水戸藩の政策・・・しびれます(男性/40代/東京)
「ハイ!しびれますね~是非見たいです」
その他 日教組的教科書推進論者の誘導アンケート
「このアンケートがですか??教科書に出て来るような人は、選択技の中にそんなにいないと思いますが…残念ながら、私は推進論者ではなく、どちらかと言うと右寄りです
武田勝頼 どうにもならない跡継ぎ問題から、長篠の戦いで過剰に過小評価されてますので是非とも。(男性/20代/大阪)
「ですよね~~過小評価されすぎです…デキる息子なのに(ノ_-。)」
立花宗茂 彼だけでなく、立花家で何かドラマを作って欲しいですね(女性)
「周囲にスターがいっぱいいますからね…父ちゃんもカッコイイ」
立花宗茂 むしろ、女大名の奥方に1票(男性/60代/岡山)
誾千代さんですか~両方主役もイイですね~
その他 石原莞爾(男性/30代/埼玉)
「重厚なドラマになるでしょうね」
その他 亀井茲矩。一介の牢人から大名、槍の達人で単身上月城に潜入とドラマのようなお方。鳥取城攻めはスルーで。(男性/40代/神奈川)
「スルーはできませぬ( ´艸`)…戦国を豪快に生きた感じで」
井伊直虎 大河でやったら、いろいろ創作できる部分が多そうです。(女性/30代/東京)
「今年くらい創作して良いのなら、絶対におもしろくなります!」
その他 南朝の義将・多田頼貞か早島町に来訪されてた宇喜多と四家臣(岡、花房、千原、金光)の先祖が主役の群像劇
「確かに、ドラマになった事ないですね~岡山が舞台というのも少ないかも」
その他 保科正之・今度は江さんが悪役で・・・(男性/30代/埼玉)
「そうですよね!江さんには悪いですが、こっちが主役の方がおもしろいかも」
井伊直虎 ドラマチック!(女性/40代/兵庫)
「テンペストが流行るんだから、絶対イケます!」
小栗忠順 彼(小栗忠順)には生きて欲しかったので、一票投じました。だけど、弥助のドラマも見てみたいですね。(男性/40代)
「そうなんです…私的には弥介目線の戦国を見たいです」
その他 島津義弘 有名だけど出番があまり無いので(男性/20代/東京)
「そうですね~有名なワリに主役というのは無いかも知れません…やはり島津の背進を!!」
その他 徳田球一。(男性)
「ゴメンナサイです…まったく知りませんでした(;ω;)せめて右寄りを中央付近にしてみます。」
在原業平 稀代のプレイボーイに一票!(男性/30代/埼玉)
「光源氏よりイケメンに!!を希望」
ここからは ブログからの投票です
(勝手ながら、投票にノーカウントのコメントは省かせていただきましたので、投票募集のページの方でご確認ください)
その他 長宗我部元親に一票(わしも関西人)
在原業平

在原業平に一票。
塚本邦雄作 「露とこたへて」-業平朝臣歌物語-
という、恰好の美しいホンがあります。恋から恋へ、歌から歌へ。大河一年間は無理でも、3ヶ月位なら 良いのが一杯ありますよ。今年のでもう懲りました。(レッドバロン)

その他

中岡慎太郎に一票…薩長同盟・大政奉還など手柄は全部坂本竜馬に持って行かれ、ドラマに於いても竜馬が主役のモノは多数放映されてますが、盟友と言われながら中岡慎太郎を主役にしたドラマは見たことがありません。不当に過小評価されている感がする中岡慎太郎にスポットを当ててやってほしいです。(マー君)

武田勝頼

こんにちは(^o^)
楽しい企画ですねわくわくします!
わたしは武田勝頼に1票(。・_・。)ノ
ドラマなどではいっつもやっすい登場ばかりなので、もっと勝頼さんにスポットを当てて欲しいです(/_;)(たまたま)

その他

初めまして茶々様。いつも楽しく記事を拝読させて頂いております。知らなかった歴史人物や逸話を知る事が出来、大変勉学になります。
今回のアンケートですが、私はその他で毛利隆元に一票を。毛利元就の嫡男として生まれた彼ですが、父の元就や二人の弟達に比べると一般認識度が低く思われます。残っている資料などを見ても父や弟達程の華々しい業績は記されてはいません。知名度なら息子の輝元の方があるようにすら感じられます。
そんな地味な印象の隆元ですが、財政の手腕はなかなかのもので、彼の死後毛利家の財政は傾いて元就は資金を工面するのに大層苦労したとか。また、この隆元の死が他家に養子に行った弟二人に「俺達が輝元を補佐して毛利本家を盛り立てねば!」と一念発起させ、有名な「毛利両川」の働きの原動力になったと言っても過言ではないはず。毛利家を語る上で隆元が果たした役割や存在は決して小さくないと思います。なので、もっと評価されてもいいのでは……と個人的に思っています。
歴史に「if 」は禁物ですが、もし隆元が死なずにもっと長生きしていたら関ヶ原での毛利の領地大幅削減はなかったのかなーと。せめて輝元が成人するまでは生きてて欲しかったです。
これからも茶々様のブログでのお話、楽しみにしています。長々とすいませんでした。この辺で失礼しますm(_ _)m(詩音)

その他

・藤堂高虎
終身雇用が怪しくなっている時代だからこそ、藤堂高虎の生き方にスポットを当ててみては?と思います。

・‥…━━━☆

以上、投票、ならびに、楽しいコメントをありがとうございました~

これからも、不定期ではありますが、オモシロイ投票のお題を思いつきましたら、投票コーナーを設けてみたいと思いますので、その時は、ぜひぜひご協力いただけますよう、よろしくお願いします。
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2011年12月19日 (月)

浅井三姉妹の次女・初と大坂の陣

慶長十九年(1614年)12月19日、大阪冬の陣において櫓の破却と惣堀を埋めることなどを条件に講和が成立しました。

・・・・・・・・・・・

和睦に至る大まかな流れは、以前の12月19日のページ5年も前の記事ですがよろしければ…2006年12月19日参照>>に書かせていただいておりますし、個々の戦闘や詳細については【大坂の陣の年表】>>で、それぞれ見ていただくとして、本日は、その和睦交渉で大阪方の交渉人となった常高院(じょうこういん)こと、お初さんを中心にした大坂の陣を・・・

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お初さんは、ご存じ、今年の大河ドラマの主役=(ごう)すぐ上の姉・・・浅井三姉妹の次女で、ドラマではお菓子ばっかり食べてた人ですね。

姉の茶々(淀殿)や江とともに、父の浅井長政が亡くなった(8月27日参照>>)後に、母・お市の方が再婚した柴田勝家とともに暮らし、その勝家を滅ぼした(4月23日参照>>)羽柴(豊臣)秀吉のもとから、名門・京極家の若き当主・京極高次に嫁ぎます。

とは言え、この京極家・・・すでに後継者争いにつけ込まれたのをキッカケに没落しはじめ(3月9日参照>>)、高次が当主になった頃には、もはや往時の威勢もなく、さらに、あの本能寺の変の時に明智光秀に味方した事から、もはや風前の灯となっていたのを、高次のベッピンの姉ちゃん(妹とも)龍子が、秀吉に見染められて側室になった事で何とか持ち直した・・・って感じの頃・・・

しかし、結婚した限りは頑張らねば!とハッスルする嫁・初のおかげで、その後さらに持ち直し・・・と、姉や嫁の七光で出世を勝ち取ったとして、高次さんが「ホタル大名」なんて呼ばれてたというお話も以前させていただきましたが・・・(5月3日参照>>)

やがて関ヶ原では居城の大津城で踏ん張った(9月7日参照>>)後、未だ権勢を持つ豊臣家との融和作戦をはかる徳川家康の配慮で、家康の三男・秀忠と江の間に生まれた長女・千姫が、秀吉の遺児・豊臣秀頼に嫁ぎますが、これと同時期に、江の生んだ四女を、初は養女とします。

それは、初との間には子供がいなかった高次が、側室との間に男の子=忠高をもうけていた事で、将来は、その忠高とその養女を結婚させる事で、実子のいない初の正室としてのメンツを保つというダンドリで、これも、家康の融和作戦の一つだったとも言われます。

やがて慶長十四年(1609年)、夫・高次が亡くなり、初は剃髪して常高院と称し、京極家の跡目は忠次が継ぎます。

(ややこしいので名前は初さんのまままで…)
出家という比較的身軽な身分になった初は、その頃から、頻繁に大坂城にいる姉・淀殿を訪ねるようになりますが、やがて、例の方広寺の鐘銘事件(7月21日参照>>)で、なにやらきな臭い雰囲気が漂いはじめると、さらに、大坂城に滞在する事が多くなります。

・・・で、以前【事実は大河ドラマよりも奇なり~豊臣秀頼の子供たち】>>で書かせていただいたように、『大坂陣山口休庵咄』によれば、この頃に、国許の若狭で密かに預かっていた秀頼の息子・国松を、自分の荷物に隠して入城させています。

そして間もなく、慶長十九年(1614年)11月26日鴫野・今福の戦い(11月26日参照>>)の激突で、事実上、大坂冬の陣の幕が切って落とされるわけですが、強固な惣構えを持つ大坂城は難攻不落・・・家康が包囲したとて、そう簡単に落とせる物ではなく、しかも、12月4日には、あの真田丸の攻防(12月4日参照>>)で、徳川方は大量の死者を出してしまいます。

こうなったら無理をせず、まずは講和に持ちこむ事を模索する家康は、夜ごと鬨(とき)の声を挙げさせたり、「天守閣の下まで穴を掘ってやる」と、これ見よがしに穴掘り工事を始めたり、約300挺の大砲で当たりもしない弾をぶっ放してみたり・・・と相手を疲れさせての心理揺さぶり作戦にでます。

とは言え、照準定まらぬ大砲も数撃ってみるもんです。

そのうちの2発が、偶然にも天守閣を直撃(12月16日参照>>)・・・これで、大坂城内の気運は、一気に講和へと傾きはじめます。

その後、水面下でどのような話し合いが行われたのかは記録に残りませんが、12月18日と19日の両日、講和に向けての話し合いが行われる事になったのです。

その大坂方の代表者が初でした。

本来なら、大坂方の重鎮である織田有楽斎(うらくさい・信長の弟)(12月13日参照>>)大野治長でも良かったわけですが、もともと彼らは抗戦には反対の立場にあったわけで、未だ城内には多くの抗戦派がいる中で、彼らが代表になれば、何かと波風が立つ・・・その点、出家の身でありながら、淀殿・秀頼との血縁もあり、徳川にも妹が嫁いでいる彼女なら・・・しかも、彼女は徳川方で参戦している忠高の嫡母って事で、その立場上、これほどの適任者はいなかったでしょう。

もちろん、その忠高の働きかけもあったでしょうが・・・

こうして大軍団がにらみ合う中、忠高の陣にて和睦交渉が開始されます。

徳川方の代表者は、初に合わせて、コチラも女性・・・家康の側室でブレーン的な役割も果たしていた阿茶局(あちゃのつぼね)(1月22日参照>>)を立て、お目付役本多正信

初日の交渉は決裂したものの、2日目・慶長十九年(1614年)12月19日やっと交渉が成立しました。

これによって、秀頼は大坂城と現状の知行を確保し、淀殿が人質に取られる事もなく、大坂方に味方した浪人たちが罪に問われる事もありませんでしたが、その代わりに、惣構えから二の丸に至る防御施設の破壊という苦汁の条件を飲む事になります。

おそらく、この、最後の条件に関しては城内の反対も大変な物だったと思われますが、初は、まずは、守るべき物の優先順位を決めるところから考え、現在の所領>淀殿の身>豊臣を支援してくれた者たち・・・と来て、一番譲れる条件として、堀を埋める事を飲んだという事なのかも知れません。

よく、「堀を埋めてしまっては裸城同然なのだから、この初の交渉は失敗だ」という意見も聞きますが、おそらく、初が城内の雰囲気そのままに、大坂方の代弁者として交渉にのぞんでいたら、講和の成立は無かったかも知れません。

この時点で「講和なんてクソ喰らえ!このまま城を枕に討死じゃい!」てな考えならともかく、あくまで講和を成立させる事が重要だったなら、何かしらの条件を飲まなければならないわけで、初の中で、最も優先順位が低かったのが惣構えの破却だったという事・・・なんせ、その工事の奉行に任命されるのが、息子の忠高なのですから・・・

しかし、いざ実際に工事が始まると、その様子を見た大坂方に動揺が走ります。

もはや、抗戦派の動きは徐々に抑えきれなくなり、翌・慶長二十年(1615年)、早くも2月頃から、埋められた堀を復旧する者たちが現われ、その様子は、即座に京都諸司代より家康に報告されます。

そして3月には「大坂方が伏見に放火して回った」「大坂方が再び浪人をかき集めている」との噂が立ち、いよいよ家康は再戦の決意を固め、弁明に訪れた大坂方の使者に、「秀頼に大坂城を出て、大和か伊勢に転封に応じるか、浪人を放逐するか、どちらかを選ぶように」との条件をつきつけます。

この時、初は淀殿の命を受けて駿府へと向かい、九男の結婚式のため(結婚式は口実で、これが事実上の出陣とされます)名古屋に行こうとしている家康に謁見しますが、もはや家康は、彼女の弁明を聞く耳を持たず・・・それでもあきらめず、出立した家康を追っかけて、再び面会しますが、「もう、その件はええって!」つれない返事・・・

さらに、名古屋城に入ってからも、またまた家康に会いますが、またしても追い返されます。

そして4月24日・・・すでに二条城に入っていた家康に呼び出された初は、最後通牒とも言える、「国替えが嫌なら浪人を追放せよ」条件が書かれた家康の書状を受け取る事になります。

初が持ち帰った書状を見た秀頼は
「弓矢の事に女の指図は受けたないんじゃ!2度と顔見せんなや!」
激怒・・・(ホンマやったら、ちょっとキツイぞ!秀頼クン(ノ_-。))

しかし、初は、大坂城を出ませんでした。

やがて4月26日・・・治長の弟・大野治房(はるふさ)と、後藤又兵衛基次(ごとうまたべえもとつぐ)配下の兵を含む約2000が大和郡山城を攻めた(4月26日参照>>)のを皮切りに、ご存じの大坂夏の陣(5月6日参照>>)へと突入します。

初は落城寸前まで、姉・淀殿のそばを離れず、「生きてこそ、先の道が開ける」と説得したようですが、逆に、淀殿に城を出るように諭され、やむなく大坂城を後にします。

彼女の大坂城脱出の様子は、途中に出会った淀殿の侍女・お菊が語る『おきく物語』(5月7日参照>>)に記されています。

Zyoukouindassyutu800 脱出する初…「お菊物語」(国立公文書館内閣文庫蔵)

・・・と、その後のお初さんについても書きたいところですが、お話が長くなりましたし・・・そのお話はいずれまた・・・
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2011年12月18日 (日)

「島津の背進」の生き残り・中馬大蔵重方

 

寛永十二年(1635年)12月18日、関ヶ原の戦いで、主君・島津義弘を守り抜いた薩摩藩士・中馬重方が70歳でこの世を去りました。

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日置郡市来郷(鹿児島県いちき串木野市)に生まれた中馬大蔵重方(ちゅうまんおおくらしげかた)は、その市来郷の地頭であった比志島国貞(ひしじまくにさだ)の配下として15歳で初陣を飾った後、いくつかの合戦に参戦したりしますが、そのうち、国貞とな仲がうまく行かなくなり、知行と屋敷を没収されて蟄居(謹慎処分)されられてしまいました。

しかし、例の、あの豊臣秀吉朝鮮出兵(4月13日参照>>)で、兵士としてかり出され、文禄の役慶長の役で活躍した事で、薩摩(鹿児島県)の殿さま=島津義久義弘の目に止まります。

ここで、通称を与八郎から大蔵に変えるとともに、出水郷(鹿児島県出水市)へ移住し、肥後(熊本県)との国境を守る事になります。

やがて訪れた関ヶ原の合戦・・・この時、畿内にいて、その対処に当たっていたのは弟の義弘で、兄の義久は国主として薩摩にいました。

いよいよ合戦となる時、義弘は国元に軍の派遣を要請しますが、義久は、その要請を無視・・・(内戦もあったので)島津は、この戦いに参戦しない」というのが、義久の考えだったのです。

しかし、実際に畿内にいる義弘は、さすがに、真横で日和見するわけにはいかず・・・かと言って、今、彼の手元にいるのは、わずか200人余りの兵だけ・・・

仕方なく、義弘は、自力で、個人参加の兵をかき集めます。

一方、この時、かの出水郷で農作業をしていた重方・・・何やら、馬を走らせて、周囲に叫んでいる者がいます。

呼びとめて、話の内容を聞いてみると・・・
「義弘様が、上方で兵が集まらず、ご苦労しておられるそうや」
と言います。

「すわっ!」
と、横にあった刀と槍を持ち、鎧櫃(よろいびつ・鎧の入った入れ物)を背負って、一目さんに駆けだします。

そう、彼は、農作業の間にも、いつ何時、何が起きても、すぐに出陣できるように準備していたのです。

それこそ、自宅にも立ち寄らず、そのまま、一路、関ヶ原へ・・・九州路から山陽道を駆け上り、13日間で関ヶ原に到着し、何とか合戦に間に合いました。

合戦の2日前には、義弘の家老長寿院盛淳(ちょうじゅいんもりあつ)も、70名の兵を引き連れて到着・・・彼もまた、義弘の一大事を聞きつけて、昼夜かまわず馬を飛ばしてやって来たのでした。

そんなこんなで、何とか、義弘の軍勢も、約1500人ほどの兵力となりました。

こうして迎えた関ヶ原の合戦・・・しかし、以前から何度か書いております通り、義弘は、現地にて陣を敷いたものの、戦いには参戦しませんでした。

・・・というのも、もともと島津は、徳川家康と誓詞を交わしてる仲で、開戦前に、まだ伏見城にいた家康の元を訪問した義弘は、その時、家康から「自分は、これから会津征伐に向かうので、伏見城の留守を頼む」と言われていたわけで、義弘としては、今回の戦いには東軍で参戦するつもりで、関ヶ原の直前には、家康が留守となった伏見城へ赴くのですが、この時、伏見城の留守を預かっていた鳥居元忠入城を断わられ、その後、大坂城に滞在していた時に、あの石田三成が、その伏見城を攻撃したために、その意に反して、西軍として現地に赴く事になってしまったのです。

しかし、開戦後、ほどなく、西軍の敗色が濃くなって来ます。

しかも、ここに来て自らの本陣を前進させて、島津の目の前に来た家康・・・

後ろに下がれば負けを認める事になる・・・かと言って、もはや戦場に西軍はほとんどいません。

やむなく、家康本陣の横をすり抜けて、対角線上の伊勢路へ・・・敵中突破を決行します。

これが、世に言う「島津の背進」(9月16日参照>>)・・・この時、重方は、義弘の袂につけた合印(あいじるし=戦場で敵味方の区別をする印)を引きちぎり、一本杉の馬印(大将の居場所を示す印)をへし折ったのだとか・・・まさに決死の敵中突破でした。

迫りくる井伊直政本田忠勝隊の猛攻に、義弘の島津豊久が、その盾となって討死し、殿の影武者となった盛淳も壮絶な死を遂げました(9月15日参照>>)

1人、また1人と失いながらも戦線を離脱した義弘たち・・・18日後、故郷の富隈(とみのくま)にたどり着いたのは、義弘を含め、わずかに80余人でした。

そう、その80余人の中にいたのが重方・・・しっかりと主君を守って、生還していたのです。

その後は、ご存じのように、上杉(8月24日参照>>)毛利(9月28日参照>>)など、西軍だった大名がことごとく大幅減封される中、島津は、義久の見事な交渉術で最終的に所領安堵となるのです(4月11日参照>>)

それから30余年の寛永十二年(1635年)12月18日重方は70歳の生涯を閉じますが、晩年の彼の所には、若き薩摩藩士たちの訪問が絶えなかったのだとか・・・というもの、70歳の長寿を全うした彼が、最後の関ヶ原経験者となっていたからです。

主君の義弘も、もう、10年以上前に亡くなっています。

敵からもあっぱれと言われ、伝説となった「島津の背進」・・・そして逃避行

その経験者の話を聞こうと、若者たちが、鹿児島から100キロも離れた出水までやって来るのです。

若者たちが集まると、をつけて登場した重方は、
「そもそも関ヶ原の戦いと申すは・・・」
と、いつも声をつまらせながら語りはじめたと言います。

中でも、合戦さ中の出来事とともに好んで話したエピソードがあります。

それは、合戦から3日経っても、未だ落ち武者狩りの危険をはらみつつ、一路、堺へと向かっていた時の事・・・もちろん、その間、食べる物すらなく、義弘は駕篭に乗り、なるべく人里を離れて、裏街道を行きます。

実は、この時、殿の乗る駕篭を後ろから担いでいたのが重方・・・と、その時、駕篭の前を担ぐ者が、馬の干し肉を持っていて、それを義弘に献上しようとします。

すると重方・・・
「お前・・・お前は、その肉の切れ端を殿に差し上げるんか?
いや、あげたらアカンぞ。
それは、俺らが食べる物や。

殿は、駕篭に乗ってはるだけ・・・俺らが担いで、中で座ってはるだけやないかい。
気ぃつかわんでもええ!

俺らが疲れてしもたら、殿は、その命も危なくなるんやで・・・もったいないがな」
と、言い放ちました。

駕篭担いでいる二人の会話です。

当然、義弘にも、まる聞こえ・・・しかし、義弘は、何も言わず、静かにうなづいたのだとか・・・

一瞬、「何て事言うんだ!失礼な」と思ってしまいますが、ここでは、主君を守る事が最大の彼らの使命・・・主君のために、命賭けても走り続ける事こそが一番重要なのです。

もちろん、義弘も、それを充分承知の上・・・なので、重方の言葉を聞いても、何も言わなかったのです。

・・・と、いつも感極まり、涙ながらに話して聞かせる重方・・・彼の話を聞き終えた若者たちは、
「関ヶ原の事、肝に銘じまして候」
と礼を言いながら、老いてもなお凛とした重方の姿に、皆、感動したのだとか・・・

「皆々、帰る道すがら、関ヶ原の話、幾度聞くにも勝りたる」

お爺ちゃんの名調子が今にも聞こえてきそうです。

若者に「何度聞いても感動する!」なんて言われちゃぁ、重方さんも、さぞかし、うれしい晩年だった事でしょうね。
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2011年12月16日 (金)

近衛文麿、最後の一日

 

昭和二十年(1945年)12月16日、第34代・38代・39代と、3度に渡って総理大臣を経験した近衛文麿が服毒自殺しました。

・・・・・・・・・・

藤原氏嫡流の公家・五摂家(ごせっけ)近衛家第30代当主であった近衛文麿(このえふみまろ)は、大正五年(1916年)に満25歳に達した事で、世襲である貴族院議員になり、以来、西園寺公望(さいおんじきんもち)の随員としてパリ講和会議に出席したり、研究会を立ち上げたりしながら貴族院内に政治的基盤を作って行き、やがて、複数の大臣を歴任・・・冒頭に書かせていただいたように、総理大臣も3度務めました。

Konoefumimaro400 政治家としては・・・

天皇家に出自が近いからか、国民には人気があったようですが、一方では、自らの政策を実現すべく積極性には欠けていたとも言われ、第2次世界大戦の時も、日米交渉を試みながらも軍部の勢力を抑えきれず、首相の座を降りたのだとか・・・

しかし、辞職後も戦争の終結工作を行い、昭和二十年(1945年)8月15日の敗戦後も東久邇宮(ひがしくにのみや)内閣で、副総理格の無任所国務大臣を務め、憲法改正の作業など、熱心に進めていたと言います。

しかし、その年の12月・・・GHQから戦犯の1人として指名され、「16日に巣鴨収容所に出頭せよ」との命令が出されます。

前日の15日には、彼のもとに友人たちが訪れ・・・

「病気って事にして出頭を延期したらどうや」
とか、
「いやいや、ちゃんと法廷に立って、思うところを述べたほうがいい」
とか・・・
友人たちは口々に、その対処法について、意見を言いましたが、文麿は、黙ってそれを聞いていただけで、自分からは何も話さなかったのだそうです。

やがて、その夜も更け、友人たちも帰った後、文麿は、息子と、日本の将来について、深夜まで、語り合ったのだとか・・・

そんな中で、おもむろに、
「今の心境を書きたい」
と言うので、息子が、すぐそばにあった紙を渡すと、
「もっと、いい紙はないかなぁ」
と言いながら、近衛家の便箋を探し出し、そこに鉛筆で、サラサラと走り書きを残します。

事が事だけに、家族も「自殺とか、するんじゃないか?」と心配はしていましたが、その夜は、まったく、そのような素振りもなく、意外に平静に見えたとか・・・

しかし翌朝・・・
昭和二十年(1945年)12月16日、夫の様子を見に寝室に入った奥さんは、彼が青酸カリを服毒して自殺しているのを発見するのです。

享年54歳・・・総理経験者では最も若い死であり、ただ一人の自殺者でもあります。

昨夜の走り書きしたメモが、彼の遺書となりました。

「僕は支那事変以来多くの政治上過誤(かご)を犯した。
(これ)に対して深く責任を感じて居るが、所謂(いわゆる)戦争犯罪人として米国の法廷に於(おい)て裁判を受ける事は堪え難い事である。

(こと)に僕は支那事変に責任を感ずればこそ、此(この)事変解決を最大の使命とした。
そして、此解決の唯一の途は米国との諒解
(りょうかい)にありとの結論に達し、日米交渉に全力を尽くしたのである。
その米国から今犯罪人として指名を受ける事は、誠に残念に思う。

しかし、僕の志は知る人ぞ知る。
僕は米国に於てさえそこに多少の知己
(ちき)が在することを確信する。

戦争に伴う興奮と激情と勝てる者の行き過ぎた増長と敗れた者の過度の卑屈と故意の中傷と誤解に基ずく流言飛語(りゅうげんひご)と是等興論(よろん)なるものも、いつか冷静さを取り戻し、正常に復する時も来よう。

是時始めて神の法廷に於て正義の判決が下されよう。」

しかし、この遺書は、翌日、GHQに没収され、検事団からは、彼が残した走り書きの内容や自殺前後の様子を語る事を禁止され、上記の文章から「神の法廷に於て正義の判決が下されよう」の部分を排除するように命じられたのだとか・・・
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2011年12月15日 (木)

平治の乱に敗れ「さらし首」となった信西

 

平治元年(1159年)12月15日、平治の乱で討ち取られた信西の首が市中を引き回されました。

・・・・・・・・・・・

すでに事の終始を何度か書かせていただいている平治の乱ですので、これまでと重複する内容があるかと思いますが、本日は、主役の1人である信西さんを中心にお話させていただきます。

・‥…━━━☆

第74代の天皇であった鳥羽上皇が亡くなった後、その皇子である崇徳上皇(第75代天皇)(8月25日参照>>)後白河天皇(第77代天皇)との間で抗争となった保元の乱・・・(7月22日参照>>)

その保元の乱で勝者となった後白河天皇は、まもなく、息子の二条天皇に皇位を譲って上皇となり、政治の実権を握ります。

そんな後白河上皇の院政を助け、権勢を奮ったのが信西(しんぜい)です。

彼は、もとの名を藤原通憲(みちのり・高階通憲)と言い、その名前でもわかる通り、あの名門・藤原一族の人です。

しかし、摂政や関白を輩出する主流派とはほど遠い家柄で思うように出世できなかった事から、実力を持たぬ者が家柄だけで出世する世の中に失望し、39歳の時に出家して信西と号するようになったのです。

信西大好きで褒めまくりの『平治物語』によれば、その頭脳は「当世無双の宏才博覧なり」なのだそうですが・・・まぁ、『愚管抄』でも「学生抜群の者」と評価されてますし、スンゴイ読書家で書籍をいっぱい持っていて、(そう・中国)から使わされた使者と中国語で会話を交わせるほどの語学力もあったようなので、やはり、その才能は人並み以上だったのでしょう。

そんな信西にチャンスがやって来ます。

再婚した結婚相手が、雅仁(まさひと)親王乳母をやっていて、今度、その雅仁親王が皇位につく事になったのです。

その雅仁親王というのが後白河天皇・・・乳母の夫という事で重用されるようになり、もともと、勉強家で才能もあった人ですから、まもなく後白河天皇の信頼を一身に得る事になります。

さらに、上記の通り、その後白河天皇が保元の乱に勝利した事で、さらに、その権力は強まり、合戦の論功行賞や人事にまで口を出すようになります。

しかも、その論功行賞や人事に片寄りが・・・まぁ、清西は、一度は諦めて出家したくらい、これまでの人事に不満があったわけですから、当然、今までの人事とは違うやり方をするわけで・・・ただ、信西にしてみれば、それは「自分勝手なえこひいき」ではなく、内部の改革みたいなつもりだったのかも知れませんが、これまで、優遇されて来た人たちから見れば、ただただ信西の思い通りにされて、おもしろいわけがありません。

そんな中の一人が、若い時は後白河天皇と男同士のラブラブ関係にあったと噂される藤原信頼(のぶより)でした(12月9日・前半部分参照>>)

その信頼に近づくのが源義朝(みなもとのよしとも)・・・義朝も、保元の乱では後白河天皇側について勝利した武士でしたが、かの信西が、その武力的な支柱として重用していたのが、平清盛のほうだったので、ここに来て思うように出世できていなかったのです。

さらにそこに、二条天皇の側近たちが加わります。

二条天皇の側近たちも、父の後白河上皇から皇位を受け継いで二条天皇が天皇になったものの、上皇が院政を敷くもんだから、思うような政治手腕が発揮できないでいたのです。

こうして、二条天皇の側近+信頼+義朝反信西グループが出来上がります。

・・・で、彼らが、清西の武力の要である清盛が熊野詣に出かけたスキを狙って、平治元年(1159年)12月9日、クーデターを決行・・・後白河上皇のいた院御所・三条殿を襲撃して、後白河上皇の身柄を確保した後、その三条殿に火をかけたのです。

さらに後白河上皇を連れて二条天皇のいる内裏へと向かい、ここで、天皇と上皇を拘束・・・これが平治の乱の始まりです。

もちろん、この時、後白河上皇のそばにいるはずの信西も探しましたが、すでに、三条殿のどこにも、その姿はありませんでした。

『平治物語』によれば・・・
この日の正午頃、信西は、太陽の周りに白い虹のような物が出ているのを見つけます。

これは「白虹」と呼ばれる現象で、実際には、太陽にうす雲がかかっている時に、太陽の光が屈折・散乱して、太陽の周りに、あるいは十字形に虹がかかったように見える現象なのですが、当時は凶事が起こる前ぶれとされていました。

これを、「誰かが、後白河上皇の院御所に夜討ちをかけようとしている」と判断した信西は、その事を伝えに三条殿に向かうのですが、ちょうど、その時、宴会の真っ最中で、なんだか言いそびれてしまい、そのまま帰宅・・・

しかし、三条殿が襲われるという事は、自分の身も危ないわけですから、「もはや一刻の猶予もない!」とばかりに、4~5人の側近を連れて、即座に南へと逃亡しました。

つまり、信頼や義朝が三条殿を襲撃した時には、すでに信西は逃げたあとだったのですね。

山道をひた走り、自らの所領のある宇治田原へと逃げる信西・・・頼みの綱は、この異変を聞きつけて熊野から引き返して来る清盛が到着するまで、何とか逃げ通して、その軍勢に合流する事だったわけですが・・・

残念ながら、宇治田原に到着した時、信西の耳に入ってきたのは、すでに信頼派の追手が、すぐそこまで来ているとの知らせでした。

「もはや逃げ切れない・・・」
と悟った信西は、僧らしく、即身仏になる事を願います。

従者に穴を掘らせて、その中に入り、口には節を抜いた竹筒をあてがって生き埋めにしてもらい、念仏を唱えながら逝こうと・・・

しかし、従者がすぐに追手に見つかってしまい、信西を埋めた場所を白状してしまったために、追手はすぐに、土の上に出た竹筒を見つけ、穴を掘り返しはじめます。

信西は、やむなく、刀を取って自害・・・時に平治元年(1159年)12月13日信西・54歳の冬でした。

まもなく、穴からひきずり出された信西は、首をはねられ、翌・14日、その首が信頼の前に引き出されて首実験が行われたのです。

さらに翌日の平治元年(1159年)12月15日・・・槍先に信西の首を刺した騎馬隊が、都大路を行進します。

Sinzeiheizimonogatari800 「平治物語絵巻」(国立国会図書館蔵)…兵士の持つ槍(薙刀)に、信西の首がくくりつけられているのが見えます

京中の人々の前に晒され、見せしめとされたのです。

一方、都での急変を知らされた清盛・・・急きょ、Uターンして京に戻りますが、二条天皇と後白河上皇の身が、向こうの手の中にある以上、うかつに手は出せません。

まずは、この二人を救い出さねば・・・と、そのお話は12月25日のページでどうぞ>>
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2011年12月14日 (水)

一世一代…伊藤博文の日の丸演説

 

明治四年(1871年)12月14日、アメリカ・サンフランシスコ市主長催の晩さん会で、伊藤博文日の丸演説を行いました。

・・・・・・・・・

ご存じ、日本の初代総理大臣となる伊藤博文は、この時、31歳・・・

殖産興業を担当する工部省の責任者である工部大輔(たいふ)という役職で、あの岩倉使節団副使の1人でした。

岩倉使節団とは、維新の立役者の一人でもある、あの岩倉具視(ともみ)を大使として派遣された使節団で、その目的は、大きく2つ・・・幕末維新のドサクサで、欧米諸国と結ばれた不平等な条約を改正するための予備交渉と、欧米の先進国の文化や経済・産業などの「いま」を、その目で視察する事でした(10月8日参照>>)

大使の岩倉と伊藤の他にも、木戸孝允(たかよし・桂小五郎)大久保利通(としみち)山口尚芳(ますか・なおよし)らが副使となり、使節・随員・留学生など、総勢107名が外輪船・アメリカ号に乗り込み、明治四年(1871年)11月12日横浜港を出港・・・

Iwakura_mission600 岩倉使節団(左から木戸・山口・岩倉・伊藤・大久保)

太平洋を渡り、アメリカのサンフランシスコに到着したのは12月6日の事・・・早速、明治四年(1871年)12月14日に、市長の主催による歓迎晩さん会が開かれたのです。

使節団の写真を見てお解りのように、この頃、まだ岩倉さんは、チョンマゲ姿・・・晩さん会に集まった約300人ほどのアメリカ人のほとんどは、東洋の端っこからやって来た珍しい人々に興味津々・・・どちらかと言うと、物珍しさが先立つ晩さん会でした。

そんな中、要人を前に、答礼のスピーチを行った岩倉に続いて、壇上に上がった伊藤は、なんと、英語で話しはじめたのです。

確かに、ネイティブも真っ青のペラペラ・・・ってわけにはいかなかったようですが、彼は、長州藩士の時代にイギリスへ密航した経験があり、そこそこ聞き取れる物だったとか・・・

「The red disc in the centre of our national flag shall no longer appear like a wafer over a sealed empire, but henceforth be in fact what it is designed to be, the noble emblem of the rising sun, …」

会場に掲げられていた日の丸を指さしながら言いました。

「わが国旗の中央にある赤い丸は、もはや国を閉ざす封印に見える事もないでしょうが、これは、今、まさに洋上に登ろうとしている太陽を表していてます。
そして、その太陽は、いまや世界の文明国に向けて躍進するしるしでもあります。」

と・・・

今の日本は、まだ洋上に登ったばかりの太陽で、その光も弱く、色も薄いかも知れないけれど、やがて、この日の丸にデザインされた太陽のように、世界の人々に尊敬の念を持って見られる国となるだろう事、そのために、今の日本政府と日本国民が一番望んでいるのは、先進国の最先端の文明を身につける事である・・・と、日本人が欧米へのあこがれを持っている事を、謙虚に、そして、素直に述べました。

ただ、一方では、
「我々は、一滴の血も流す事無く、数百年に渡る封建制度を撤廃しました」
と、ハッタリをカマし、日本人の精神的豊かさも、しっかりとアピール・・・。

まぁ、実際には、あの戊辰戦争(1月3日参照>>)があったわけで、一滴の血も流れてなくはないのですが、確かに、幕府から明治新政府に移行する中でも、特に重要と思われる江戸城の開け渡し(4月11日参照>>)と、廃藩置県(7月14日参照>>)は、まったくの無血で行われたわけですし、一世一代の大舞台でもありますので、少々のハッタリもアリなのかも知れません。

なんせ、このスピーチを聞いていたアメリカ人たちは、未だ、60万人以上の死者を出した南北戦争の記憶も生々しかった頃なわけで、この伊藤の演説に、皆が心揺さぶられ、日本人の礼儀正しさや、誇り高き国民性に感動し、その拍手が鳴りやまなかったというのですから・・・

難しい外国との交渉・・・今の日本は弱腰外交と称されて久しいですが、もはや、この国も、昇ったばかりの朝日では無いのですから、時には、これくらい強気でド~ンと行きましょうよ!
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2011年12月13日 (火)

真田昌幸&幸村・高野山へ…

 

慶長五年(1600年)12月13日、徳川家康から配流処分を受けた真田昌幸・幸村父子が、16人の家臣と妻子を連れ、信濃上田から高野山へ向かいました。

・・・・・・・・・

ご存じ真田昌幸・幸村父子・・・

亡き豊臣秀吉に、その後の事を託された(8月9日参照>>)徳川家康が、「上杉に謀反の疑いあり」(4月1日参照>>)として、諸将に声をかけて決行した会津征伐・・・

これは、家康が豊臣家臣のトップとして行っている征伐なわけですから、当然、当時は秀吉の配下であった真田昌幸と、その長男の信幸(後に信之に改名)と次男の幸村(信繁)出陣する事になるわけですが、そんな彼ら父子が、あの石田三成からの書状を受け取ったのが慶長五年(1600年)7月21日の犬伏(いぬぶし・栃木県佐野市)での事・・・

協議の末、長男・信幸は、そのまま予定通り、会津征伐の先陣として進んでいた家康の三男・徳川秀忠の陣へと向かい、父・昌幸と次男・幸村は、会津征伐を取りやめて、居城の上田城(長野県上田市)へと戻ったのです。(7月21日参照>>)

かくして、兄は東軍となり、父と弟は西軍となったわけですが、ご存じのように、この間に家康配下の鳥居元忠が守る伏見城を攻撃した三成・・・(7月19日参照>>)

それを知った家康が、会津征伐を取りやめて西へとUターン・・・自らは東海道を通って(8月11日参照>>)息子の秀忠は中山道を通って、それぞれ、畿内へと急いだのですが、この時、中山道を行く秀忠の道筋にあったのが、真田の上田城だったわけです。

ところが秀忠は、講和すると見せかけてゲリラ戦法を仕掛ける昌幸のスゴ技に翻弄され(2010年9月7日参照>>)、38000もの大軍を擁しながら、わずか2500の手勢の上田城を5日かかっても落とす事ができず、肝心要の関ヶ原に間に合わないという失態を起こしてしまいます(2011年9月7日参照>>)

つまり、この上田城の戦いに関しては、昌幸&幸村父子の勝利・・・という事になります。

しかし、本番の関ヶ原で勝利したのは家康・・・敗者である三成についた昌幸と幸村には、当然、厳しい処分が待っていわけです。

まして、家康は以前にも、この上田城攻めで、昌幸に痛い目に遭わされていた(8月2日参照>>)わけで、本来なら、死罪も免れないところ・・・

そこを踏ん張ったのが、東軍についた兄・信幸と、その奥さんの小松姫(7月25日参照>>)・・・さらに、その小松姫の父である本多忠勝も協力して助命嘆願に奔走・・・

おかげで、命取られる事は無く、高野山(和歌山県伊都郡)への配流と決定・・・昌幸の所領は、そっくりそのまま信幸が引き継ぐ事になりました。

昌幸:53歳、幸村:34歳・・・こうして、慶長五年(1600年)12月13日、16人の家臣と妻子を連れ、昌幸・幸村父子は高野山へと向かったのです。

父子の身は、しばらく、高野山蓮華定院(れんげじょういん)に預けられました。

ここは、古くから佐久(さく)小県(ちいさがた)の武将たちの多くが檀家となっているお寺で、真田家とのゆかりが深かく、後に、彼らが九度山に移ってからも、何かと助力していて、現在も、このお寺には、幸村の書状などが残されています。

それらによれば、ここでの父子の生活費の大半は、信之の援助頼み・・・常に連絡を密にとって、何かあれば、すぐに信之が援助して・・・という感じだったようです。

とは言え、長く続く山暮らしは、何かと不自由・・・
最初こそ
「今度、家康が江戸へ行くって聞いたけど、ひょっとしたら、その江戸で、本多正信が僕らの赦免の事を家康に話してくれるかもしれん。解放されたら、会うで話したいですね」
と兄の菩提寺だった長野の信綱寺へ元気そうな手紙を送ってますが、

配流から1~2年後には、
「年のせいか、最近は気持ちも滅入ってるわ。。。こっちの生活を察してください」
と、ちょっとばかり寂しそう・・・

また、幸村が慶長十七年(1612年)頃から名乗っていたとされる「好白」という名前が書かれた信之の家臣宛てと思われる書状には・・・

「この壺に焼酎を入れてもらいたいです。
今、切らしてるんやったら、ついでの時にでもお願いします・・・
知らせがあり次第、取りに参ります。
また、つまらん物ですが、湯帷子
(ゆかたびら=浴衣)1領、差し上げますよって、
焼酎の件、よろしくお願いします。
他にも、何かあればいただきたいですが、くわしい事は、手紙を持参する使いの者が言うと思います」

と・・・なんか切ない(ノ_-。)

Yukimurasyozyousakyouate900 真田幸村書状(蓮華定院蔵)

他にも、流人暮らしなれど、高野山の山内なら比較的自由に行動ができていた事がうかがえる書状もありますが、やはり、金銭面では、苦労していたのでしょうね。

少々寂しい晩年となった昌幸は、慶長十六年(1611年)6月4日ここ九度山で、65年に渡る波乱の生涯を終えました。

それから3年・・・九度山に蟄居してから14年めの秋・・・もはや48歳の初老となった幸村のもとに、秀吉の遺児・豊臣秀頼からの書状が届くのです。

そう、大坂の陣への参戦依頼です。

豊臣への忠誠心?
それとも、こんな生活へと追いやった家康への恨み?

もちろん、この時の幸村の心情は、幸村本人にしかわかりませんが、個人的な妄想を許していただくならば、おそらくは、「自らの運命を変える絶好の機会だ」と、幸村は感じたのだろうと思います。

その時々の政情によって、武田・北条・徳川・上杉・豊臣と、次々と主君を変えて自らの領地を守り抜いて来た父・昌幸を見ていた幸村なら、今更、「豊臣への忠誠」なんて事よりも、自分自身が歴史の表舞台に立てる大チャンスだと思ったに違いないと思うのです。

最近の小説やドラマなどでは、もっと以前から幸村が重用視され、父や兄はほとんど出て来やしませんが、それは、この後の大坂の陣で大活躍する事がわかっている現代のドラマだからで、実際には、この時の幸村は、ほぼ無名の状態・・・

これまでの戦いの誉れは、すべて父・昌幸の物であって、周囲から見れば、幸村はそれを手伝っただけ・・・それこそ、秀頼からの手紙がここに届くのも、真田昌幸というブランドありきの話だったわけです。

「自分も父のように大名となり、豊臣政権の家臣として高禄を得る!」
それこそが、幸村の大坂の陣参戦理由だったような気がします。

秀頼の出陣依頼を受けて、息子・大助(幸昌)とともに、幸村が九度山を脱出するのは、慶長十九年(1614年)10月9日の事でした(10月9日参照>>)
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2011年12月12日 (月)

応仁の乱後も最後まで戦い続けた男・畠山義就

 

延徳二年(1491年)12月12日、室町幕府・三管領家の一つである畠山氏畠山義就が、54歳でこの世を去りました。

・・・・・・・・・・・

あの応仁の乱の原因の一つである管領家・畠山氏の家督争い・・・そもそもは、本日の主役=畠山義就(よしなり・よしひろ)出生から始まります。
(注:今回、主役の義就はじめ、途中で名前の変わる方が複数登場しますが、ややこしいので、このページ内では、最もポピュラーと思われる1つの名前に統一させていただきます)

河内(大阪府)紀伊(和歌山県)山城(京都府南部)越中(富山県)守護大名で、足利氏の一門である畠山氏は、細川氏斯波(しば)とともに三管領家と呼ばれ、3家交代で管領職に就任するという家柄でした。

とは言え、そもそもは将軍の執事・補佐役として誕生した管領も、その力が大きくなると、将軍自身の脅威となるわけで・・・

そこで、室町幕府の全盛期を築いた第3代将軍足利義満(よしみつ)などは、巧みに大名たちの心情を操り、同族同志で争わせたり、敵対させたりして、その力が強大になり過ぎないようにしていたんです(12月30日参照>>)

そんな3代めと同じような事を・・・いや、もっと厳しく、恐怖政治とまで言われていたのが、くじ引き将軍でお馴染の第6代将軍足利義教(よしのり)・・・

後に、応仁の乱の西軍大将となる山名宗全(そうぜん)山名氏も、そんな将軍の画策で浮いたり沈んだりしてたクチなわけですが、義就の父である畠山持国(もちくに)も、その1人で、将軍・義教の命によりムリヤリ隠居させられ、弟の持永(もちなが)家督を譲らされてしまいました。

しかし、そんな恐怖政治にまさしく恐怖を抱いた赤松満祐(あかまつみつすけ)義教を暗殺・・・これが、御存じ嘉吉(かきつ)の乱ですが、それをキッカケに持国は弟を追い落として返り咲き・・・

Hatakeyamayosinari400 義就が生まれたのは、そんな頃でした。

ただ、ちょっと問題が・・・

実は、義就のお母さんは、アッチ方面のプロの女性・・・つまり遊女だったわけで、本当に持国の息子だったかどうかは、DNA鑑定の無い時代には立証不可能・・・

そんなわけで、他に子供がいなかった持国は、自らの後継者に、もう一人の弟・持富(もちとみ)を指名しており、義就は、嫡子と認知されないまま石清水八幡宮へ預けられ、そのまま、神に奉仕する仕事につくはずでした。

ところが、義就が12歳になった時、突然、父に呼び出されて面会・・・途端に、義就を後継者にしたいと思った持国は、即座に持富の相続を撤回し、文安五年(1448年)11月には、時の8代将軍・足利義政(よしまさ)に、義就=後継者を認めさせていましました。

ひょっとして、自分にソックリだったのか???

当然の事ながら、納得がいかないのは、持富と、その息子たち政久政長兄弟・・・いや、彼らだけでなく、家臣たちも、持国の突然の変わりようについて行けなかったのです。

残念ながら、持富は、わずか4年後に亡くなりますが、それでも、くすぶりは納まりません。

反対派は、持富の長男・政久を擁立しようとしますが、持国は、彼らを押さえて義就に自らの代わりを務めさせたりなんぞ・・・

しかし、ここに来て、有力者の山名宗全や細川勝元などが政久を支持し、勢いづいた政久派は、持国を襲撃・・・享徳三年(1454年)9月に持国らは京都を追われ、代わって政久らが上洛します。

ところが、3ヶ月後の12月・・・自らの力で政久らを追い落として上洛を果たした義就は、翌年3月、父・持国の死を受けて、畠山家の家督を相続し、将軍・義政の承認も得ました。

が、しかし・・・大和(奈良県)で起こった争乱に、将軍・義政の許可を得ずに軍を派遣した事から、義政がブチ切れて義就の領地を没収・・・っとなると浮かび上がってくるのが政久ですが、彼が長禄三年(1459年)の夏に亡くなってしまったため、政久派は、その弟の政長を擁立し、政長が管領職に・・・

一方、吉野に潜伏していた義就は、この間に、かの山名宗全を味方につける事に成功します。

かくして応仁元年(1467年)正月、宗全を伴って謁見しに来た義就に、義政はアッサリと畠山氏の相続を認め、政長に屋敷の開け渡しと管領の辞職を命じます。

・・・と、ここまで、何回も何回も・・・義政は、あっちを承認したり、こっちを認めたり・・・何やっとんじゃぁ~!えぇ加減にせぇ~~!と思うのは、誰しも同じ・・・

こうして、義就と政長・両者がぶつかったのが、応仁元年(1467年)1月17日の御霊合戦(1月17日参照>>)・・・ここでは、政長が敗れて、一旦、姿を隠しますが、その政長を最初っから支持していたのが細川勝元だったわけで・・・

こうして、「勝元&政長」VS「宗全&義就」の構図ができた所で、そこに、次の9代将軍に決まっていた義政の弟・足利義視(よしみ)(1月7日参照>>)と、それを撤回して、我が子・義尚(よしひさ)を将軍にしたい義政の妻・日野富子、さらに、やはり、親戚同志で家督争いをしていた斯波氏斯波義敏(しばよしとし)斯波義廉(よしかど)が加わり・・・そうなると、それぞれの下につく大名たちを巻き込んで、いよいよ応仁の乱となるのです(5月20日参照>>)

とは言え、後継者争いしてる張本人は真剣でも、ただ単に、それを支持しただけの武将たちは、各地方から京都にやって来て戦って、たとえ勝ったとしても何かが得られるという保障があるでもなく・・・となると、大物の手前、参戦したものの、命賭けるほどの士気はなく・・・

結局・・・
同じ応仁元年(1467年)の5月の五月合戦(5月28日参照>>)、続く10月の相国寺の戦い(10月3日参照>>)、翌・応仁二年(1468年)3月の稲荷山攻防戦(3月21日参照>>)と、ここらあたりの最初の戦いこそ激しかったものの、徐々に、その戦いは小競り合い程度の物になり、最終的に、宗全&勝元の両巨頭が相次いで亡くなる(3月18日参照>>)に至って、何かよくわからないまま、乱は終焉を迎えます(11月11日参照>>)

しかし、応仁の乱が終わっても、義就と政長の戦いは終わりません・・・こっちは、本気の家督争いですから・・・

しばらくの沈黙の後、文明十四年(1482年)頃から再び両者の争いが勃発し、合戦の地が河内から山城へと移る中、ここで事件が起こります。

文明十七年(1485年)12月11日・・・そう、あの山城の国一揆です(12月11日参照>>)

大乱の時は、東軍・西軍に分かれそれぞれについていた山城の国人たちが結束し、①畠山両軍の山城からの撤退 ②寺社本所領の還付 ③新関所の撤廃を要求し、自らの地の自治を主張したのです。

は、山城の地を戦場と化してドンパチやってる畠山氏に、「お前ら出て行け!」という事・・・
は、これまでは、寺社や公家に年貢を納めるのを、守護である畠山氏を通じて納めていたわけですが、それを、自分たちが直接納めるという事・・・もちろん、すでに公家には話をつけており、むしろ、「畠山の中間搾取や滞納が無くなる!」と公家は大喜びです。
は、その通行料を取るために、畠山氏が勝手にあっちこっちに作った関所をすべて廃止するという事です。

・・・で、両畠山は一揆の勢力に押され、これらの要求が、すべて通っちゃったんですね~

興福寺大乗院尋尊(じんそん)「下剋上の至り」と言わせた、この国一揆の成功・・・これは、まさに数百年・数十代に渡る支配勢力の衰えを感じさせる物でした。

そんな中の延徳二年(1491年)12月12日畠山義就は54歳の生涯を閉じ、政長との争いは、その子から孫へと受け継がれる事になるのですが(7月12日参照>>)、もはや、こうなったら将軍も管領も公方も守護も、その肩書の効果は薄れ行く一方・・・時代はまさに、群雄割拠の戦国へと突入していく事になるのです。
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2011年12月10日 (土)

将軍家から尾張へ…生涯姫君だった千代姫

 

元禄十一年(1699年)12月10日、江戸幕府・第3代将軍・徳川家光の娘で、尾張徳川家に嫁いだ千代姫が、62歳で亡くなりました。

・・・・・・・・・・・・

先日ご紹介した竹姫(12月5日参照>>)が、将軍家と島津家の架け橋となった最初の人なら、この千代姫は、将軍家と御三家の架け橋となった最初の人・・・以後、将軍家に生まれた長女が、次々と御三家に嫁ぐ事を思えば、まさに先例となった姫でしょう。

生まれながらの将軍・・・ご存じ、徳川家光が、初め男色だった話は有名中の有名・・・

当然の事ながら、30過ぎても世継ぎの生まれない状況を心配した乳母・春日局(かすがのつぼね)側室を送り込み作戦により、ようやく、待望の第1子として生まれたのが、この千代姫です。

生まれは寛永十四年(1637年)閏3月5日・・・戒名は霊仙院(れいせんいん)で、この名前で紹介される事も多いですが、本日は、千代姫さんとお呼びさせていただきます。

待ちに待った将軍家の姫ですから、その婚礼の仕度は、生まれたその年から早くも注文され、その翌年、尾張(おわり・愛知県西部)徳川家の初代・徳川義直の長男・光友(みつとも)との縁組が決まります。

この光友は、家光の従兄弟にあたり、健康にも優れ、武道をこなしながらも書画などもたしなむ評判の男子で、まさに理想的・・・しかも、千代姫より12歳も年上ですから、幼い娘を嫁がす親の方も安心です。

『金城温古録』によれば・・・
「天下にも替え難き御大切なる姫君様」ですが、
たっての「尾張殿御所望」により・・・

と、この縁談に乗り気だったのは尾張の方だったように書かれていますが、ひょっとしたら、これは将軍家に気をつかっての書き込みなのかも・・・

確かに、将軍の実子を嫁に取る事で、大名としてのランクが上がるというメリットがありますが、この時点で、未だ世継ぎのいない家光・・・どちらかと言えば、将軍家のメリットのほうが、はるかに大きいですから・・・

なんせ、この縁組が決まった時点で、家光は35歳・・・そして、皆さまご存じのように、家光は、子供の頃から何度も病気にかかり、決して丈夫とは言えない体質だったわけですから、このまま世継ぎが生まれない可能性も大いにあるわけで・・・

そうなると、当然、御三家から誰かを養子に迎えて、次期将軍に・・・となるわけで、この時点で、優秀かつ理想的と噂される光友が、その候補に上がって来るのは明白・・・

だったら、自らの娘を嫁に出して、その血筋の保持をする事が重要・・・

さらに、当時の家光は、叔父に当たる義直としっくりとはいっておらず、いち時は、尾張謀反の噂が浮上するほど、不穏な空気が漂っていたのです。

ご存じのように、未だ、幕府が盤石とは言い難い時期・・・ここで、御三家筆頭の尾張との関係を良き物にする事で、より強固な幕藩体制の確立になる事、間違いなし!だったのです。

こうして寛永十六年(1639年)9月21日、わずか3歳で千代姫は尾張に嫁ぎます・・・と言っても、さすがに、結婚のなんたるかもわからない年齢ですから、祝言そのものは、輿入れから8年後の、千代姫・11歳の時に行われています。

それにしても、そのお嫁入り道具のスゴさったらハンパ無かったわけですが、それより何より、初めての将軍家の姫の御三家お嫁入りとあって、こののちの先例になる事が多々・・・

たとえば、普通、将軍家の子供であっても、男子がある大名に養子に入った場合は、基本的には、その家の人間になるわけですが、将軍家の姫がお嫁に行った場合は、嫁に行っても、その姫は将軍家の人という扱いを受けます。

彼女は、結婚してもなお、「千代姫様」と呼ばれ、夫からも、さらに、実の息子からも「姫君様」と呼ばれて特別扱いされるのです。

また、嫁ぎ先の大名家の江戸屋敷の敷地内に、「御守殿(ごしゅでん)」「御住居(おすまい)と呼ばれる姫様専用の御殿を建てて住むのも、千代姫が最初で、その後、ずっと、このようになります。(先日の竹姫もそうでした)

さらに、幕府からは「賄料(まかないりょう)と称して、一定の生活費が支給され、千代姫の場合は、付け人として、73人の女中と、49人の役人がついて来たとか・・・

夫や息子からも特別扱いされる生活が幸せだったかどうかは、現代人の私たちにははかり知れませんが、もともと、彼女は、その世界しか知らないわけですし・・・

しかも、慶安五年(1652年)に嫡男・綱誠(つななり)を産んだのを皮切りに、最終的に二男二女に恵まれ、その嫡男は、第3代の尾張藩主を務めるのですから、おそらくは、自身で不幸だとは思えない環境だったでしょうし、その点では、尾張徳川家藩主の妻と母という役目を立派に果たしているわけですからね。

こうして、生涯、将軍家の姫として生きた千代姫は、元禄十一年(1699年)12月10日62歳の生涯を閉じました。

ただ、たとえ将軍家の姫であっても、その後の多くの姫が婚家の菩提寺に葬られるのに対し、、千代姫は、ここでも将軍家の姫・・・将軍家の菩提寺である増上寺に葬られるのです。

死してもなお、尾張の地に入る事が無かった千代姫・・・

Hatunenotyoudo しかし、彼女が嫁入りに持参した調度品の数々は、その死から3年後、尾張名古屋へ送られ、大切に保管される事に・・・千代姫さん、ようやく、その生涯を賭けて次世代へとつないだ尾張の地を踏む事ができましたね。

この品々は、現在、徳川美術館が所蔵し、「初音の調度」として国宝に指定されています。
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2011年12月 9日 (金)

下馬将軍・酒井忠清の汚名を晴らしたい!

 

延宝八年(1680年)12月9日、江戸幕府・第4代将軍・徳川家綱の治世で大老にまで昇りつめた酒井忠清が解任されました。

・・・・・・・・・・

慶安四年(1651年)に江戸幕府・第3代将軍徳川家光が亡くなった事を受けて、第4代将軍に就任したのは、家光の嫡子で、この時わずか11歳だった徳川家綱でした。

一方、酒井忠清は、雅楽頭系酒井家の当主で、はじめは家光付きの家臣でしたが、その家光の死去から家綱の将軍宣下への流れの中で、西の丸にいた家綱の家臣と、本丸にいた家光の家臣が統合される形となり、忠清もまもなく老中に就任し、将軍・家綱のもとで様々な役職を兼任する事となります。

ただ、上記の通り、家綱がまだ幼かったため、大老酒井忠勝老中松平信綱後見保科正之などなどによって、家綱を補佐する家綱政権が形成され、実質的には、この家臣団によって政治が運営される事になります。

ウソかマコトか、家綱は、家臣たちの決めた事に、なんでも「左様せい」と言うだけなので、『左様せい様』なんて呼ばれてた・・・なんて事も言われてますが、幼いうえに病弱とあっては、それも致し方ないかとも思います。

そんな中で、歳の順番・・・と言っては何ですが、徐々に上の方の方々は亡くなって行かれるわけで・・・

やがて寛文六年(1666年)には、忠清は大老にまで出世し、ここに権力が集中してしまう状況になって来ます。

新たな新人老中を加えて、家綱の補佐をしつつ、殉死禁止令を出したり、あの伊達騒動(3月27日参照>>)の裁定にも関与したりします。

しかし、ここらあたりから忠清にはあくどい噂がつきまとうようになります。

山本周五郎氏の「樅ノ木は残った」など、歌舞伎やお芝居の題材になっているところから、この伊達騒動をご存じの方も多いでしょうが、忠清は完全に悪役として描かれ、その後も、権勢をほしいままに独裁体制を敷こうとしたとして、最終的には大老職を解任される・・・というのが忠清のイメージです。

確かに、忠清の横暴三昧は、『徳川実記』という徳川家の正式記録に記されている事なので、それを題材にしたお芝居や小説・ドラマになるのは、致し方ないところでしょうが、ここ最近は、「果たして、その『徳川実記』そのものが、本当の事を書いているのか、疑わしい」と言われるようになっています。

なんせ、徳川の正式記録ですから、将軍の事を悪く書くわけはなく、忠清は、その将軍がクビにした人物なのですから、当然、そのクビの理由のすべてが、クビにされた側にあると記録するのが当たり前です。

たとえば、綱吉が将軍になる時のドタバタ劇・・・

先の4代将軍・家綱には、後を継ぐべき子供もおらず、病弱だった事から、早いうちから、その後継者には、家綱の異母弟である家光の三男・綱重と四男・綱吉の名前が挙がっていたわけですが、三男の綱重が35歳という若さで家綱よりも先に亡くなってしまった事で、家綱の後継者は綱吉1人となり、家綱臨終の際には、(家綱の)養子となって後を継げ」と告げられた事になっています。

しかし、それに「待った!」をかけたのが忠清・・・彼は、鎌倉時代執権として君臨した北条家に自らをなぞらえて、この時、越前松平家と縁がある有栖川宮幸仁親王(ありすがわのみやゆきひとしんのう)を、いわゆる藤原将軍・宮家将軍として迎えて、自分の独裁を維持しようとしたのだと言われます。

結局、それは、あの水戸黄門様こと徳川光圀(みつくに)や、老中の堀田正俊(ほったまさとし)反対にあい、実現する事なく、5代将軍は綱吉となったわけですが・・・

と言っても、もちろん、これは例の『徳川実記』の記録・・・

最近は、実は、この時、家綱の側室が懐妊していたという事実があって、忠清は、その子供が生まれるまでの時間稼ぎのために、綱吉の将軍就任に反対したのでは?とも言われます。

なんせ、実子はいなくとも、家綱の血縁は他にもいましたし、当時の幕府の状況からみても、ここでいきなり宮家から将軍を連れて来るというのは、非常に考え難い事・・・なので、この将軍反対は、かねてより「天下を治めさせ給ふべき器量なし」と、綱吉の器の小ささを指摘していた忠清が、もうすぐ生まれて来る子供に期待を寄せて「ちょっと待って!」と言いたかっただけ・・・なのかも知れません。

しかし、結局、延宝八年(1680年)5月の家綱の死を受けて、8月には徳川綱吉5代将軍となり、続く延宝八年(1680年)12月9日、その綱吉によって、病気療養を理由に大老職を解任された忠清・・・

そのまま、翌年の天和元年(1681年)5月19日・・・忠清は、58歳の生涯を閉じるのです。

果たして、その後、実権を握ったのは、綱吉との蜜月関係にあった、かの堀田正俊・・・

ただ、この正俊が健在の間は「天和の治」と呼ばれるほどの善政を敷いたと言われますが、彼が江戸城内で殺害されて(8月28日参照>>)以降は、綱吉の政治は、ご存じのごとく・・・犬公方の天下の悪法と言われる、あの状況となるわけです。

まぁ、この綱吉=犬公方にも、未だ謎に包まれていますので(1月28日参照>>)忠清が指摘したように、器が小さかったかどうかは微妙ですが・・・

ともあれ、忠清全盛の頃には、そのお屋敷が江戸城大手門の下馬札(ここから先は馬を下りて徒歩で入れという場所)近くにあった事から、権勢を奮う忠清を、『下馬将軍』などと揶揄(やゆ)していたという話も、実は、綱吉が将軍になってから書かれた事・・・

ひょっとしたら忠清さん・・・綱吉さんのイメージアップにために、おとしめられた犠牲者なのかも知れません。
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2011年12月 8日 (木)

日本初の女帝・推古天皇の誕生

 

崇峻天皇五年(592年)12月8日、敏達天皇の皇后だった額田部皇女(豐御食炊屋姫)初の女帝として即位・・・第33代天皇・推古天皇となりました。

・・・・・・・・・・

ご存じ、第33代・推古(すいこ)天皇は、日本史上初の女帝です。
上記の通り、天皇になる前は額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)ですが、今日は、ずっと推古天皇と呼ばせていただきます。

ただ、これまでも、第14代・仲哀(ちゅうあい)天皇の奥さん・神功(じんぐう)皇后(9月6日参照>>)や、第22代清寧(せいねい)天皇の死後に政務を取ったとされる履中(りちゅう)天皇の皇女(もしくは孫)飯豊(いいとよ)皇女など、おそらくは天皇と同じ位置にいたであろう女性はいましたが、記紀が正式に天皇と位置付けている女性は、この推古天皇が最初です。

そこには、神宮&飯豊の二人の彼女たちの場合には、即位礼などの儀式を通過しているか?などの問題とともに、万系一世・男系男子の原則上、女性が天皇になる事は異例であり、女帝とするには、なかなか難しい問題であったのでしょう。

しかし、推古天皇は女帝となりました。

そこには、もはや、そうするしか無かった何かの事情があったようにも思えますね。

それは、この推古天皇の後の約180年間に誕生する15代の天皇のうちで半数以上・・・皇極(斉明)持統元明元正孝謙(称徳)という5人=8代の女帝が誕生していて、この間を「女帝の世紀」と呼ばれる事でも察しがつきます。

なんせ、その後は、江戸時代に、第109代・明正天皇(11月10日参照>>)と、第117代・後桜町天皇(11月2日参照>>)の二人だけなのですから・・・(まぁ、このお二人の即位も異例ですが…)

今も言われている女帝誕生の理由としては、やはり、男子の皇位継承が難しい時に、その「中つぎ」として女性天皇を担ぎ出したという物・・・

ただ、すでに先例がある後半の女帝たちはともかく、日本初となる推古天皇の場合は、おそらく、そこに強大な力が関与していたはず・・・それは、とりもなおさず、あの蘇我氏です。

以前、推古天皇・崩御のページ(3月7日参照>>)や、蘇我VS物部の最終抗争の発端となる穴穂部皇子(あなほべのおうじ)の事件のページ(6月7日参照>>)でも書かせていただいているので、話がだだかぶりですが、そもそも、推古天皇・誕生の経緯となる出来事は、彼女の夫である第30代・敏達(びたつ)天皇の崩御にともなう後継者争いから始まります。

Suikokeizu20111208 ややこしいので、まずは、例の系図を表示しますが・・・
クリックすると大きく見られます(ややこしくなるだけなので、あまり関係のない人物は表示してません)

ご覧の通り、一連の皇位継承に関連する、敏達天皇・用明天皇・穴穂部皇子・崇峻天皇、そして、推古天皇・・・この5人は全員、欽明天皇の子供・・・つまり兄弟です。

兄弟でも母親が別人なら結婚の対象となった時代・・・いや、むしろ、そうして特別な血統を印象づけていた時代ですので、敏達天皇と推古天皇は兄妹で結婚してます。

・・・で、ここに出て来る欽明天皇の奥さんのうち、小姉君(おあねのきみ)堅塩姫(きたしひめ)の二人は、ともに蘇我稲目(そがのいなめ)の娘で、石姫(いしひめ)皇女という女性だけが、第28代・宣化(せんか)天皇の皇女となります。

・・・で、敏達天皇が亡くなった時、その後継者として最初に名乗りを挙げたのが穴穂部皇子だったわけですが、半ば脅しにも似た勢いで後継者宣言します。

この時代、まずは、先帝の兄弟の間で継承し、それが一通り行きわたったところで次世代(その息子たち)へバトンタッチというのが、一般的な皇位継承でしたし、上記の通り、穴穂部皇子は、蘇我氏の血を引いてますので、名乗りを挙げなくとも、おそらくは、順番に回ってきたと思うわけですが、なぜか、この人のバックについていたのは物部氏・・・

で、結局、次の天皇になったのは、欽明天皇の第4皇子で最年長だった用明天皇・・・順当な皇位継承ですが、すでに手を挙げちゃってる穴穂部皇子としては不満ムンムン・・・

怒った穴穂部皇子は、例の敏達天皇の(もがり:本葬前の期間の仮安置場所)に押し込んで、推古天皇に暴行を働くという事件を起こし、これを蘇我馬子始末し、さらに彼を支援していた物部氏も抹殺したわけです。

この間に亡くなった用明天皇の後を継いだのが、第32代崇峻(すしゅん)天皇・・・この方は、その穴穂部皇子の弟ですが、一連の出来事にはまったく関与していなかったので、まぁ、蘇我氏の血も引いてますし、兄貴が殺されるまでになってるのに、まったく関与してないってトコに、むしろ、政治に口出しする事も無いんじゃないか?って蘇我氏も思ったんでしょうかねぇ。

ところが、その崇峻天皇も、やがては蘇我氏に刃向かうようになって、結局、崇峻五年(592年)11月3日、馬子によって暗殺されてしまうのです(11月3日参照>>)

さぁ、困った・・・ここで、敏達天皇の子供たちの中で生きてるのは推古天皇だけ・・・

そうなると男系男子の次世代へ・・・となるのが通常の皇位継承なわけですが、この時点での次世代は、敏達天皇の息子である押坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひとのおおえのおうじ)難波皇子(なにわのおうじ)春日皇子(かすがのおうじ)、そして推古天皇が産んだ竹田皇子(たけだのおうじ)、さらに用明天皇の息子である、ご存じ聖徳太子こと厩戸皇子(うまやどのおうじ)の5人となります。

しかし、その中で、彦人大兄皇子・難波皇子・春日皇子の3名は、蘇我氏の血を引いてない・・・物部氏を倒して、もはや敵無しとなった蘇我氏が、他の豪族の娘が産んだ皇子を天皇にしたくはないですもんね。

となると、蘇我氏の血を引いてるのは竹田皇子と聖徳太子ですが、母の推古天皇としては、おそらく我が子に継がせたい!

しかし、この時点での竹田皇子は未だ皇位につけないほどの幼少だった・・・(生没年が不明のため曖昧ですが、そう言われています)

かと言って、穴穂部皇子&崇峻天皇を蘇我氏みんなで暗殺しちゃった今、彼らと同父母兄弟である穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)を母に持つ聖徳太子を皇位につかせる事には難色があった・・・

で、どうしようもなくなって、「竹田皇子が成長するまで」中つぎとして崇峻天皇五年(592年)12月8日初の女帝・推古天皇となったわけです。

ただ、残念ながら、推古天皇は竹田皇子にバトンタッチする事はできませんでしたが・・・

上記の通り、竹田皇子の生没年は不明なのですが、推古天皇が亡くなる時、その遺言として、(自らの遺骸を)竹田皇子と合葬してほしいと願っている・・・つまり、その時点で、すでに竹田皇子は亡くなっていたという事になりますから・・・

こうして、日本初の女帝の中つぎは、不成功に終わりましたが、以後、立て続けに誕生する女帝の先例となった事は確かでしょう。
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2011年12月 7日 (水)

意外にアタフタ?王政復古・前々夜の岩倉の手紙

 

慶応三年(1867年)12月7日、岩倉具視が大久保利通に宛て、手紙を書いています。

・・・・・・・・・・

慶応三年(1867年)12月7日付けの岩倉具視(ともみ)手紙・・・

Iwakuratomomi400 「昨夜ハ長座種々申承り忝存候扨ハ九ノ事実ニ苦心候得とも九ナラデハ如何ニも不被行次第ニ至り扨々ニ遺憾千万ニ候得とも右不悪ら御承引可給候様両卿より被示候小子ニも実ニ残心候得とも右之仕合此上ハ九ニ万ニ決定之事ニ候御同志何レも態々御伝可給候也十二七
第八十九号   大久保殿 対 」

そんなに長くない手紙なので、とりあえず、全文を書いてみましたが・・・最後の「十二七」これが日づけですね。

ほんで以って、その内容は・・・

「昨日は長い事ありがとう。
ただ、になるのは、ホンマ心苦しいねんけど、“九でないとでけへん”て言わはるよって、遺憾やねんけど承知してほしいんやわ。
僕も残念やねんけど、もう、って事に決定したんで、君の同志のみんなにも伝えといてくれるかな」

てな感じです。

・・・で、何が「九」に決定したのか???

実は、コレ、あの歴史に残る王政復古の大号令の決行日の変更を、岩倉が大久保利通(としみち)に伝えている手紙なのです。

以前、
慶応三年(1867年)10月14日に成された大政奉還(10月14日参照>>)の前日の13日に薩摩藩主・島津忠義(ただよし・茂久)とその父の久光(ひさみつ)に、同じく14日に長州藩主・毛利敬親(たかちか)元徳(もとのり・定広)父子に、「討幕の密勅(みっちょく:秘密の天皇の命令書)がくだされた事をご紹介しました(10月13日参照>>)

それらのページでも書かせていただいたように、そもそも大政奉還とは、徳川幕府が政治の実権を朝廷に返上するという事・・・文字通り、政権のトップが天皇になるわけですが、徳川幕府の態勢は、その下に現体制のまま存続し、各藩主を代表とする議会のような物を最高位の天皇の下に置いて政治を行う・・・

つまり、大政奉還は幕府の生き残り作戦だったわけです。

しかし、朝廷や薩長が考えていたのは、幕府そのものをぶっ潰して、天皇を頂点に、まったく新しい政治体制にする事だったわけですが、そうして、すんなりと大政奉還されてしまっては、幕府を倒す大義名分が無くなってしまう・・・

そこで、大政奉還される前に、慌てて出したのが、前日と当日の「討幕の密勅」だったのです。

まさに、幕末って、毎日のように歴史が動くんだなぁ・・・と痛感させられる出来事だったわけですが、今回も・・・まさに、その前日に予定変更というスゴさに、ちょっと興味津々です。

・・・で、上記のように、平和的にすんなりと大政奉還されてしまって、幕府をぶっ潰せない事になってしまった薩長・・・

そこで、朝廷と薩長のパイプ役となっていた岩倉は、大久保らとともに、王政復古の大号令を発する事を計画します。

これは、朝廷の朝の会議で明治天皇王政復古の大号令をかけてもらい、その大号令によって、総裁に就任した有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)のもと、幕府側の人間をすべて排除した会議を開き、そこで、第15代将軍・徳川慶喜(よしのぶ)に対する徳川家の所領の返上、征夷大将軍職と内大臣の冠位の剥奪、一大名への格下げ・・・などを決定してしまうという、一大クーデター計画だったわけです。

ただ、この計画を立てた時点では、決行日は12月8日と決定していたのです。

最初の段階では、土佐の後藤象二郎からの延期の要請もありましたが、「朝廷が8日でないとダメって言ってるので」突っぱねて、8日に決めました。

ところがトッコイ、今度は、間際になって朝廷との交渉に当たっていた中山忠能(ただやす)「9日でないと朝廷の都合がつかない」と言ってきたのです。

しかし、もはや、気持ちが8日なってる大久保や西郷隆盛は、「8日でないと…」という主張を崩さず・・・岩倉さん、間に入ってかなり気を使ったみたいです。

・・・で、結局、大モメの末、朝廷の要望を聞かないわけには・・・と、最終的に9日に決定された事を大久保さんに知らせて、「すまんけど・・・」と、相手を怒らせないように気を使いながらの、冒頭の手紙というわけです。

めまぐるしく情勢が変わる幕末・・・ドラマでは、凛とした雰囲気で、堂々と事をこなす歴史上の人物たちですが、ウラでは結構アタフタしていたのかと思うと、そこに人間味を感じて、なにやら親しみを感じる次第です。

こうして慶応三年(1867年)12月9日、“王政復古の大号令”が発せられます(12月9日参照>>)
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2011年12月 6日 (火)

秋色の大阪城~桜門のちょっとオモロイ話

 

twitterでもつぶやきましたが、昨日、大阪城天守閣復興80周年記念プロジェクト参加行事の一つの「トーク&ミュジック フォーラム:真田幸村と大坂の陣」に参加させていただきました。

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秋色の大阪城…KKRホテル3階・「銀河」より撮影

大阪城天守閣研究主幹北川央先生の大坂の陣にまつわる歴史のお話の後、ミュージカルで真田幸村を演じたOSK歌劇団・男役トップスターの桜花昇ぼるさんと、その相手役の娘役スター・浅香櫻子さん、そして「焼き肉食べ放題」でおなじみのシンガーソングライター・リピート山中さんをゲストに迎えての歌とトーク・・・

いやいや、ためになる+楽しい時間を過ごさせていただきまいた。

Dscf0530a800
銀杏越しの六番櫓

・・・で、フォーラム自体は午後3時頃までだったんですが、場所が大阪城の南側真正面にあるKKRホテルという事で、大阪城大好き人間の茶々としては、当然の事ながら、帰りに大阪城をひと巡りしなければ納まらないって事で、ちょっと遅くはありますが、秋色に染まった大阪城へと足を運びました。

Dscf0567a800
紅葉の大阪城

とは言え、ヘタクソな写真だけでは何ですので、ここで一つ、大阪城桜門についての小話を一つ・・・

桜門とは、ご存じの通り、内堀を渡った正面にあるこの門・・・

Dscf0538a800 大阪城桜門

門越しの正面に天守閣が見えるところから、ここで記念撮影する方も多く、また、入ったところの桝形の正面にある蛸石城内第1位の巨石である事から、誰もが足を止める有名な場所ですね。

ところで大阪城では、大手門多聞櫓千貫櫓など、今も残る古建造物13棟昭和二十八年(1953年)に重要文化財に指定されているわけですが、その中には、この桜門も含まれています。

ご存じのように現在の大阪城の城郭は、豊臣時代の石垣を土でスッポリと埋めて、その上にまったく新しく造られた徳川時代の物・・・ただ、徳川時代のそれもすべてそのまま、というわけではなく、いくつかは残りましたが、一方では徳川約300年の中で、天守閣をはじめ(8月18日参照>>)いくつかの建物は失われ、また、いくつかは建てなおされたりしました。

たとえば大手門の近くにある千貫櫓は、使用されている木材に元和六年(1620年)9月13日の文字が確認できた事から、おそらく徳川幕府による大坂城築城工事の第一期の建物である事は間違いなさそうですが、同じく大手門の多聞櫓は初代の物は天明三年(1783年)の落雷で消失してしまい、その後、長く、石垣だけの状態になっていた物を、嘉永元年(1848年)の幕末に近い頃に再建された事がわかっています(11月2日参照>>)

とは言え、それらの建築年代がわかったのは、解体修理や地質調査などが行われるようになった昭和三十年代頃から・・・なんせ、幕末の鳥羽伏見の戦いで炎上して(1月9日参照>>)新政府に開け渡された後、そのまま、明治政府軍の管理下に置かれ、東洋一の軍事施設となってしまった大阪城ですから、おそらくは、学術的調査なんて物が入る余地も無かったかも知れませんからね。

第一、先日の昭和の天守閣復興のページ(11月7日参照>>)にも書かせていただいたように、昭和の初めまでは、江戸時代の城郭に歴史的価値があるとは思われて無かっんですし・・・

そもそも、豊臣時代の石垣を埋めて、その上に徳川の大坂城を建てた事すら、誰も覚えて無かったんですもの・・・。

・・・で、長い説明になってしまいましたが、実は、重要文化財に指定されいる古建造物の中で、この桜門だけは、江戸時代でもない、明治二十年(1887年)に建てられた物であった事が文化財に指定されたあとでわかったんですね~~。

そう、この門は帝国陸軍が本丸への正門として建てたもので、他の建造物とはちょっと、異質の物だったのです。

それが決定的となったのは、やはり昭和三十四年(1959年)の学術調査で発見された地中の石垣が豊臣時代の石垣である事がわかった時・・・(発見の経緯などは、本家HPの歴史散歩:ヒミツの大坂城のページでどうぞ>>

実は・・・
Dscf0551a560
この桜門の屋根の瓦にご注目・・・はっきりと「桐」の家紋が見えます。

つまり、この桜門は、現在の大阪城が、徳川時代の遺構である事を知らずに、秀吉が建てた物だと勘違いして造られた物だったわけです。

とは言え、もはや大正や昭和の初めの建て物が、レトロ建築として注目される時代・・・明治の半ばに建てられたこの門も、充分、歴史的価値のある文化財と言えるでしょう。

ただ、この話・・・
現地で観光する時には、ちょっと知ってると、さらに見物が楽しくなるお話でしょ?
 

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2011年12月 5日 (月)

将軍家と島津の架け橋に…公家生まれの竹姫の願い

 

安永元年(1772年)12月5日、公家から武家へと数奇な運命を歩み、将軍家と薩摩藩の架け橋となった竹姫が、68歳でこの世を去りました。

・・・・・・・・・・

夫の死を受けて尼となり浄岸院(じょうがんいん)と称しますが、今日は、それ以前のお名前=竹姫様と呼ばせていただきますね。

竹姫は、宝永二年(1705年)に、第112代霊元(れいげん)天皇と第113代東山天皇の二人に仕えた公家・清閑寺熙定(せいかんじひろさだ)の娘として京都に生まれました。

彼女の運命が変わるのは、わずか4歳の時・・・

父・熙定の姉妹(つまり叔母or伯母さん)である大典侍局(おおすけのつぼね=寿光院)が、第5代江戸幕府将軍・徳川綱吉の側室となっていたのですが、二人の間に子供がいない事を思い悩み、姪に当たる彼女を「養女にしたい」と言って来たのです。

将軍の側室が養女を希望する事は極めて異例でしたが、綱吉は、ことのほかこの大典侍局を寵愛していましたし、自身が溺愛していた長女の鶴姫を亡くしたばかりだった事も手伝って話はとんとん拍子に進み、宝永五年(1708年)、竹姫は江戸城へと入りました。

こうして将軍の娘となった竹姫・・・と、将軍の娘となったからには、間もなく縁談の話が持ち上がります。

お相手は会津藩主・松平正容(まさかた)の嫡男・久千代・・・同年=宝永五年の7月には婚約が整い、翌年の春には結婚の儀が行われる事に・・・

ところが、そのわずか5ヶ月後の12月・・・その久千代が病死してしまうのです。

当然ですが、結婚の話は無かった事に・・・

例え年齢的に若かろうが、途中で話が無くなったとなれば、両親としては不憫に思うもの・・・すぐに朝廷に働きかけて、次の縁談を模索します。

やがて宝永七年(1710年)、有栖川宮正仁(ありすがわのみやまさひと)親王との婚約が決まり、同年の11月には結納も交されました。

しかし、この方も・・・享保元年(1716年)9月に、未だ正式な結婚を迎えないまま病死してしまうのです。

こうなると、彼女とは無関係にも関わらず「2度も婚約者を亡くした不吉な女性」とのレッテルが貼られる事になり、その後の縁談の話は、なかなか難航を極める事となります。

それを心配したのが、5代綱吉の後、6代家宣(いえのぶ)から7代家継の次に8代将軍となっていた暴れん坊・徳川吉宗・・・この時、すでに正室の真宮理子(さなのみやまさこ)や、お須磨方(すまのかた)などの側室も亡くしていた吉宗は、自分が彼女と結婚しようと考えます。

享保八年(1723年)の日誌には(竹姫を)正室に迎えたい」と、はっきり記録されています。

しかし、それに猛反対したのが、今は亡き6代将軍・家宣の正室であった天英院・・・吉宗にとっての竹姫は、実際には血縁関係は無くとも、戸籍上は大叔母に当たる女性ですから、「このような婚姻は人の道に外れる」というのです。

姉妹で同じ人に嫁いだり、兄妹でも母が違えば結婚の対象となった奈良時代とはワケが違いますから、そう言われればごもっともです。

そこで吉宗、竹姫を自らの養女にして、今度は、花嫁の父として嫁ぎ先を探し始めます。

しかし、ここに来てもなお、あの不幸な婚約者の噂が・・・・しかも、今度は、例の「正室にしたい」っていう吉宗に意向があった話が憶測を呼んで、吉宗と竹姫がラブラブだという噂までプラスされて、さらにハードル倍増です。

それでも根気よく探す吉宗・・・やっとこさ、似会いの人物を見つけます。

それは、薩摩の第5代藩主・島津継豊(つぐとよ)・・・早速、薩摩藩に話を持ちかけますが、実は、島津は、あまり乗り気じゃない・・・

もちろん、薩摩男児たる者、あんなつまらない噂を真に受けての拒否ではありません。

実は、この時、藩の財政がひっ迫していたのです。

将軍家から正室を嫁に取るとなると、その準備もハンパじゃありませんから、この困窮の中で、そのようなお金を出す余裕が無かったのです。

さらに、もう一つ・・・継豊には、すでに側室との間に男児がいましたから、もし結婚して、身分の高い竹姫との間に男の子が生まれでもしたら、後継者争いの火種となるかも知れません。

ややこしい事は避けたいのです。

そこで、早速、薩摩藩は条件を出します。

●隠居した前藩主が国に帰る事を許可
●竹姫に男児が生まれても世継ぎとしない
●江戸屋敷に水道を引く許可

将軍に対してこの条件・・・これ、けっこうな無理難題です。

そう、薩摩藩は、おそらくは納得しないであろう条件を出して、吉宗に、この結婚をあきらめてもらおうと思っていたのです。

ところがドッコイ、吉宗はあっさりOK!

こうして、享保十四年(1729年)6月・・・竹姫は3度目の正直とばかりに、ようやくジューンブライドの幸せを掴むのです。

ほどなく、二人の間には菊姫という女の子をもうけました。

とは言え、彼女が暮らしたのは、薩摩藩江戸屋敷の北側に下賜された土地に建てられた竹姫専用御殿・・・つまり、ずっと江戸で暮らしていたんですね。

延享三年(1746年)に、継豊は、藩主の座を長男の宗信(むねのぶ)に譲って隠居し、薩摩へと戻りますが、竹姫は江戸のまま・・・結局、そのまま、継豊は江戸に戻る事無く宝暦十年(1760年)に病死してしまいますので、二人がともに暮らしたのは、わずか17年間という事になります。

そのため、二人の結婚は・・・
「形だけの結婚だった」
「竹姫は相手にされず疎外されていた」

なんて事を言われたりしますが、どうやら、そうでは無い・・・と私は思います。

まず、二人の間には女の子が誕生しています。

確かに、17年の結婚生活でたった1人というのは少ないかも知れませんが、継豊さんが、けっこう病弱だったという話もあり、もし、病弱で無かったとしても、子供が少ないから仲が悪かったという話にはなりません。

それより何より、その後の竹姫の行動が、おそらくは、仲の良い夫婦であった事を感じさせてくれるのです。

それは、夫・継豊が薩摩に隠居した後に藩主となった長男・宗信・・・先にも触れましたように、この人は側室の子供・・・言わばライバルの子供とも言える宗信を、竹姫は自らの猶子(ゆうし)として本当の子供のように可愛がり、その全力でバックアップしています。

もし継豊と竹姫の夫婦仲が冷めきっていたのなら、そんな事は到底できないはず・・・夫を愛しているからこそ、他の女性が産んだその息子も、そして、その実家である薩摩藩をも盛り上げようという気持ちになるはずです。

残念ながら、その宗信は22歳の若さで亡くなってしまいますが、その後を継いだ宗信の弟・重年(しげとし)も、彼女は全面バックアップするのです。

しかし、その重年も・・・実は、この重年が藩主の時に、幕府の命令で行われたのがあの宝暦の治水工事です(5月25日参照>>)

幕府の命令とは言え、多大な殉職者を出してしまったこの工事は宝暦の治水工事事件「事件」という言葉を付け加えられるほど、薩摩藩の痛みとなったのです。

この心労により、重年は工事の終わった翌年、わずか27歳で亡くなってしまったのです。

その後継者となったのは、重年の息子・・・本家に入って島津重豪(しまづしげひで)と名乗り、第8代藩主を継ぎますが、この時、わずか10歳・・・

もちろん、竹姫は、この重豪も、我が子を慈しむように全面バックアップします・・・というより、ここで竹姫さん、パワーアップします。

なんせ、自分は将軍家から、この島津に嫁に来た身・・・にも関わらず、先の難工事を将軍家から押し付けられた事が、彼女を奮起させたのかも知れません。

「私こそが、将軍家と島津の架け橋にならずして、誰がなる!」
とばかりに積極的に動いた彼女は、その重豪の嫁に、一橋家の当主・徳川宗尹(むねただ)の娘・保姫を迎える事に成功するのです。

この結婚が宝暦十二年(1762年)・・・すでに夫・継豊は薩摩で亡くなり、彼女は尼となっていましたが、まだまだ手を休めません

それこそ、愛する亡き夫のために・・・

竹姫は、重豪に女の子が生まれたら、その女の子を将軍家にお嫁に出そうと考えるのです。

しかし、残念ながら、未だ女の子の誕生を見ないまま、安永元年(1772年)12月5日竹姫は68年の生涯を閉じました。

けれど、彼女の敷いたレールはしっかりと生きていました。

竹姫が亡くなった翌年に生まれた女の子=篤姫(または茂姫・後に近衛寔子)が、竹姫の残した遺言通りに、第11代将軍・徳川家斉(とくがわいえなり)正室となるのです。

そう、あの大河ドラマで大人気となった篤姫が、島津斉彬(なりあきら)の養女となる時に、幸姫から篤姫に名前を変えるのは、この篤姫さんにあやかっての事・・・

宮崎あおいさんが演じた篤姫が13代将軍・徳川家定の御台所となったのは、この家斉に嫁いだ篤姫の前例があってこそ・・・それは、竹姫がその生涯を込めて願った将軍家と島津家の架け橋が、見事につながっていた結果だったのです。
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2011年12月 3日 (土)

ザビエル死して奇跡を残す

 

1552年(天文二十一年)12月03日、日本に初めてキリスト教を伝えたスペイン人宣教師フランシスコ・ザビエルが、中国広東省上川島で病没しました。

・・・・・・・・・・・・

ご存じ、日本に初めてキリスト教を伝えたイエズス会の宣教師:フランシスコ・ザビエル・・・

Dscn5784aa900 ザビエルの生まれたハビエル城を忠実に再現した志摩スペイン村のハビエル博物館

1506年(日本では永正三年)頃、スペインフランスの国境地帯にあるバルク地方貴族の家に生まれたザビエルは、複雑な内戦に翻弄されながらも、19歳でにパリの大学で学び、そこでイエズス会の創設に関わります。

その後、1541年(天文十年)にポルトガルの首都=リスボンを出発しますが、当初の予定としてはインドでの布教活動が主で、日本に来る予定はありませんでした。

しかし、途中、マレー半島のマラッカに滞在していた時にアンジロウ(ヤジローとも)なる日本人に出会った事で、日本に興味を持ち、来日する事となったのです(7月3日参照>>)

鹿児島に上陸を果たしたザビエルは、本来は京へと上り、天皇や将軍に会いたかっのですが、戦乱激しい戦国時代では思うように行かず、豊後(ぶんご・大分県)大友宗麟(そうりん)(8月12日参照>>)をはじめとする九州や、周防(すおう・山口県)大内義隆のもとで布教活動を行い(12月24日の後半部分参照>>)2年3ヶ月の滞在の後、再びインドに帰国しました。

意外に、その滞在期間が短かったのは、上記の通り、戦乱のために日本の全国ネットの王に会う事が出来なかった事とともに、日本人が想像以上に、中国から伝わった仏教や儒教に心酔している事を知って、「まずは中国をキリスト教化せねば!」と思ったようです。

ただ、日本にいる間は、それこそ、彼の行くとこ行くとこ人だかりで大変な人気だったようです。

・・・と言っても、キリスト教人気なのではなく、彼のメガネがお目当て・・・

そう、近視だったザビエルは、未だ日本人が見た事のないメガネをかけていたのです。

人々は、伴天連(バテレン)には眼が4つあり、2つは皆が本来持っている位置にあり、他の2つはそれから少しはずれたところにあって、鏡のように輝き、恐るべき見ものであると思いこんだ」
と、後に日本に訪れたルイス・フロイスが書いているように、とにかく、珍し物好きの日本人がワンサカ集まり、中には、遠く尾張(おわり・愛知県西部)からの見物客もいて、彼の滞在先の周囲は、いつも4~5000の見物人の山だったとか・・・

Franciscusdexabier600 まぁ、あの黒人の弥介さん(2月23日参照>>)の時も、ケガ人が出たくらいですから、日本人って昔から、珍しい物には目が無いんでしょうね。

(ザビエルも、よそゆきの時は、コンタクトなのか?→)

とにもかくにも、未だ、キリスト教布教の土壌が仕上がってないと感じたザビエルは、日本での布教は後輩にバトンタッチする事として去ったわけです。

その後のキリスト教布教については、
【織田信長とキリスト教】(4月8日参照>>)
【切支丹禁止令と戦国日本】(12月23日参照>>)
でご覧下さいo(_ _)o

こうして1552年(天文二十一年)の4月、中国での布教活動を目指して日本を発ったザビエルは、9月に広東(カントン)近くの上川島に上陸しますが、中国へ入るのがなかなか難しかった精神的苦痛から体力が衰え、上陸してわずか2ヶ月余りの11月12日、肺炎で倒れてしまうのです。

その後、快復しないまま、1552年(天文二十一年)12月03日47歳の生涯を閉じたのでした。

この時、彼の周囲にいた中国人信者たちは、「聖人が亡くなると起こる」という奇跡を期していましたが、そのような事は何も起こらず、彼は静かに逝きました。

ところが、その遺体がインドのゴアに運ばれてから奇跡が起こります。

石灰を入れた棺に納められたザビエルの遺体が、なぜか、いつまで経っても腐らなかったのです。

翌年の3月に一般参拝が行われた時には、興奮した女性信者に足の指を噛みちぎられるというハプニングも起こるほどの参拝客で溢れました。

その数年後、ローマのイエズス会本部の命令で、右腕と内臓がローマに送られたという事ですが、その遺骸は、今も、ゴアにある教会に安置されているのだとか・・・

1859年に行われた学術調査の記録によれば、その身長は1m38cmまでに縮んでいたという事です。
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2011年12月 2日 (金)

不況に対峙し、天皇家を救った田島道治

 

昭和四十三年(1968年)11月2日、実業家であり銀行家であり教育者でもあり、また宮内庁長官を歴任して宮中改革に尽力した田島道治が83歳で永眠しました。

・・・・・・・・・・

田島道治(たじまみちじ)は、明治十八年(1885年)に愛知県名古屋に、500年続く旧家の息子として生まれました。

8歳の時に母を亡くした道治少年は、地元の小学校を卒業して名門の愛知県立第一中学校に進学しますが、15歳の時、「もっと学びたい」という欲求から、猛反対する父に「卒業したら、必ず名古屋に戻って来るから…」と約束して単身上京・・・東京の名門校であった府立一中(後の日比谷高校)転校します。

Tazimamitizi600 ここを2番の成績で卒業し、旧制第一高等学校を経て、東京帝国大学法科大学法律学科へ・・・

この高等学校時代に一高の校長をしていたのが、あの新渡戸稲造(にとべいなぞう)・・・教育熱心な新渡戸は、勉学だけでなく、学生との人間同志のつき合いも大事にしていた事から、彼は、週に一回、学生たちを自宅に呼んで談笑する会を設けていたのですが、その仲間に入っていたのが道治・・・

そこでの触れ合いで、すっかり新渡戸先生の人格に惚れ込んだ道治は、直接頼み込んで新渡戸の書生となり、その屋敷に住み込みの状態で、先生のすべてを吸収しようとします。

新渡戸がモットーとしていたのは
「人が世に生まれた大目的は、世のため人のために尽くすこと」

とにかく、今は一所懸命勉強してもっと成長し、いつか人のために尽くしたい!!・・・それが道治の目標となりました。

やがて東京大学を卒業した道治は、父との約束通り名古屋に戻って、地元の愛知銀行に就職します。

しかし、銀行に務めて5年ほど経った頃、鉄道員総裁(国土交通大臣)に就任したばかりの後藤新平から声がかかります。

あの新渡戸先生が、「優秀な人材がいる」と称して、道治を後藤の秘書に推薦していたのです。

その人となりを聞いた後藤が、わざわざ、自ら名古屋までやって来て、渋る父を説得するほどの力の入れようで、その後、2年間、道治は後藤の秘書を務めます。

その間に、大臣を辞職した後藤が新渡戸を誘って行ったアメリカ視察旅行に同行するチャンスに恵まれた道治は、第一次世界大戦直後の外国を直接見るという、またとない勉強の機会を与えられます。

帰国後、愛知銀行に戻った道治・・・この時35歳だった彼には常務取締役というポストが待っていました。

しかし、この時の金融機関は大変な状況・・・ご存じのように第一次世界大戦直後の世界恐慌のあおりを受けた昭和恐慌で、企業の倒産が相次ぎ不良債権が山のよう・・・しかも、大正十二年(1923年)9月にはあの関東大震災(9月1日参照>>)で、もはや、この日本は不況に次ぐ不況・・・

そんなこんなの昭和二年(1927年)に、政府が金融破たんの収拾策として設立したのが昭和銀行・・・これは、破綻した銀行の不良債権を昭和銀行が引き取って、預金者と取引先を救済しようという、いわゆるブリッジ・バンク・・・

42歳でここの頭取に就任した道治は、見事な手腕(←私には到底説明できない手腕です…興味のある方は自身でお調べください)で、1円の税金も投入する事無く、不良債権を片づけたと言います。

やがて、昭和銀行の退職金を担保にして、明協学寮という学生寮を造り、後進の育成にも力を入れます。

そう、新渡戸先生の事を教育者としても敬愛していた道治は、自らも教育者として資材を投げ打つのです。

昭和十二年(1937年)に開設されたその学生寮は、10人の学生を受け入れるための10の個室に、談話室や病室などが完備された物で、「1流の生活環境は1流の人材を輩出する」として、家具や調度品などは自宅よりも高価な物を使用していたと言います。

自らも、週に1度の論語の講義を行い、月に1度は、1級の識者を招いての懇談会を開き、世界のどこに出しても恥ずかしくない人材の育成を目標としていたのだとか・・・

その寮は残念ながら戦時中の東京大空襲で焼失しますが、後に、70歳を過ぎてから、再び、2つの学生寮を設立しています。

やがて、昭和二十三年(1948年)、時の芦田均(あしだひとし)総理によって宮内府長官に任命される道治・・・時に63歳。

そう、この時期は、戦後の混乱期・・・皇室の存続そのものが危うい時代に、宮内府長官なんて、大変な任務です。

何度も固辞する道治ですが、芦田の「引き受けて貰えなかったら、もう策はない」とばかりの涙ながらの訴えに応じ、引き受けたのです。

しかし、その後、長官として昭和天皇の人となりに接するうち、「こんなすばらしい人は、今まで見た事が無い」と思うようになり、自らの私財をすべて売り払い、長官の交際費に当てるようになるのです。

道治の就任後、まもなく芦田内閣は総辞職し、第2次吉田内閣が誕生して宮内府は宮内庁となるのですが、前任の芦田と後任の吉田と、ともに連絡を密に取りながら、時には対立し、時には同意し・・・約5年間の宮内庁長官を務めました。

その中で、天皇の存続はもちろん、昭和天皇の退位論にも終止符を打ち、様々な皇室改革に尽力した道治の功績には、あの「開かれた皇室」という言葉も生まれました。

長官辞任後には、未だ産声を上げたばかりの会社に請われて東京通信工業株式会社監査役に就任します。

この会社が現在のソニーで、ここでは取締役会長、そして、死ぬまで相談役を務めていました。

そんな中でも、皇太子妃選びの相談役として、候補者の家庭訪問や外出先での観察にも参加していたのだとか・・・

昭和三十三年(1958年)、その皇太子妃には正田美智子様(現在の皇后陛下)が決定しますが、道治の日記には、民間から宮内庁長官に入った自身の不安と重ねて、初の民間皇太子妃に対する思いが切々と綴られていたと言います。

日記と言えば・・・
(大東亜戦争に関して)陛下としては、御自分の不徳に由るものの如く御考へになり、仰いでは祖宗(そそう)の愢(は)ぢ畏(おそ)れ、俯(ふ)しては国民に済まなく御思ひつづけのやうに排します」
という昭和天皇の様子も、彼の日記に書かれているのですが、道治は、何とか、この陛下の真のお気持ちを国民に伝えたいと奔走していたようです。

ただ、それだけは、その度に圧力がかかり、実現できませんでしたが・・・。

昭和四十三年(1968年)11月2日・・・肝臓癌のため宮内庁病院に入院していた道治は、83歳の生涯を閉じました。

その1週間前に、神谷美恵子さんという方が、彼のお見舞いに訪れています。

彼女は、道治の一高以来の親友の娘で、あの美智子妃殿下の相談相手として彼が推挙した女性でした。

その時、道治は彼女に・・・
「私の事はいいから、あのことだけは頼みますよ…いいですね」
と言ったと言います。

妃殿下の相談役である彼女に頼む「あの事」とは・・・言わずとも察しがつきますね。

最後まで、自分のためにではなく、世のため人のためと願った道治・・・その病室には、彼の人生を象徴するかのように、1冊の論語と、ソニーの最新型のカラーテレビが置かれていたのだとか・・・
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2011年12月 1日 (木)

アンケート企画:スポットを当てたい歴史上の人物は?

 

さて、1ヶ月ぶりのアンケート企画といきましょう!

今回のテーマは・・・
「この人にスポットを当てたい!という事で、アンケート募集したいと思います。

個人的に「いいなぁ」と思いながらも、世間一般には知られておらず
「ぜひともメジャーになって欲しい!」
「みんなに知ってほしい!」

あるいは、
「出てきた!と思っても、いっつもチョイ役で、ほとんどセリフもなくスルーされちゃう」
なんて事を思う歴史人物は、誰にでもいるはず・・・

一昨年の直江兼続しかり、
今年の江&秀忠も・・・
そして再来年の新島八重しかり・・・

大河でなくとも、何かの形でスポットが当たり、「それ誰やねん?」から、「おおぉ!!」と、一気にメジャーになる事もしばしば・・・

かくいう私も、何人か思いつくわけで・・・すでにブログに登場している人物の中から15名(+その他)を、独断と偏見のオンパレードでピックアップさせていただきましたので、清き1票をよろしくお願いします。
(他のアンケートの時と、同じ人もいますが、そこンとこは大目に…(^-^;)

おそらくは、「その他」の項目も多数になると思いますが、ぜひ、皆さまの「思う人」を、その1票で、楽しいコメントでお教えいただければ幸いです。

  1. 無念の死を遂げる東北の勇者
    阿弖流為

    描かれた事のない出来事を史料を掘り起こしてもらって見てみたい…(参照ページ:11月5日>>)
  2. 平安のプレイボーイ
    在原業平
    「昔、男ありけり」 伊勢物語を原作にしてしまうっつーのもアリなのでは?イケメン見放題で視聴率up…(参照ページ:5月28日>>)
  3. 源平争乱の悲恋
    平重衡と藤原輔子

    清盛もいいけど2代めも…やっぱり最終回の盛り上がりったらハンパないっしょ…(参照ページ:3月10日>>)
  4. 戦国の幕を開ける御曹司
    細川政元
    「花の乱」ではほんのチョットだけ…ぜひとも主役で見てみたい!…(参照ページ:6月23日>>)
  5. いやいや戦国の幕開けは関東から…
    北条早雲
    公方を倒して実行支配…これぞ下剋上の極み!で手に汗握るストーリーになるかも…(参照ページ:10月11日>>)
  6. 信長に仕えた黒人従者
    弥介

    弥介から見た信長、もちろん本能寺の後も健在で、彼目線の戦国を描くってのはどう?…(参照ページ:2月23日>>)
  7. 有名だけど主役は無かったような…?
    武田勝頼
    偉大すぎる父の影に葛藤する名将の滅びゆく美学を…もちろん、仁科盛信も絡めて…(参照ページ:3月11日>>)
  8. 戦国リボンの騎士
    井伊直虎
    史料少ないけど、男装の麗人を見てみたい!…(参照ページ:8月26日>>)
  9. 戦国から江戸開幕の時代を生きた
    立花宗茂
    周りがスターだらけでエピソードに事欠かず、もちろん本人も魅力的…(参照ページ:11月3日>>)
  10. 大阪人の夢でおます
    大塩平八郎
    1年はもたんかも知れんが、スペシャルで何とか…(参照ページ:2月19日>>)
  11. 早すぎた尊王攘夷
    天狗党
    個人ではなく団体ですが、イケメン若手俳優の藤田小四郎のワキを大御所俳優の武田耕雲斎が固める…(参照ページ:2月4日>>)
  12. 徳川幕府の奥医師
    高松凌雲
    敵味方の区別なく治療した名医はドラマになる…(参照ページ:5月18日>>)
  13. 徳川慶喜を支えた幕臣
    小栗忠順
    岸谷五郎さんがやったらしいが見てなかったので、もっかい大々的に…(参照ページ:4月6日>>)
  14. 明治に咲いた1輪の花
    大山(山川)捨松
    ドラマなら、華やかな映像が期待できそう…夫婦愛もGOOD!…(参照ページ:2月18日>>)
  15. 幕末&維新を駆け抜けた
    栗本鋤雲
    幕府の忠臣であり、フランスとの架け橋にもなり、最後には反政府ジャーナリスト…ドラマ過ぎる人生はオモシロそう…(参照ページ:8月17日>>)
  16. その他
    「やっぱ、この人でしょう」「この人を忘れてるヨ!」っていう人がいたらお知らせください
      

・‥…━━━☆

勝手ながら、このアンケートは12月16日締め切らせていただきました

このアンケートの投票結果&いただいたコメントは、コチラからどうぞ>>
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