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2011年12月21日 (水)

芝居がお家の衰退に…肝付良兼のウソ合戦

永禄四年(1561年)12月21日、交戦中だった島津氏と肝付氏の間に、一旦、和議が成立しました。

・・・・・・・・・・・・・・

ご存じのように、戦国時代の南九州と言えば、薩摩(鹿児島県西部)島津氏と、日向(宮崎県)伊東氏という大きな存在が、その領有権を巡って争いを繰り返していたわけですが、その両者の真ん中に位置する大隅(鹿児島県東部と奄美群島の一部)を支配していたのが肝付(きもつき)・・・

・・・で、この3者に関係するお話で、その日づけがわからず、これまで、いつ書こうかと迷っていたお話を今日はさせていただきますね。

・‥…━━━☆

そんな肝付氏の17代当主となっていたのは肝付良兼(よしかね)・・・当時は、島津の当主が島津貴久(たかひさ)(6月23日参照>>)、伊東氏の当主が伊東義佑(よしすけ)(8月5日参照>>)だったのですが、ただでさえ、上記の通りに間に挟まれてる肝付氏なのに、この良兼さんの場合は、さらに、ややこしい立場にありました。

・・・というのも、良兼の父=肝付兼続(かねつぐ)の時代は、隣国の島津とは良好な関係にあり、島津忠良(しまづただよし=貴久の父)の娘・御南正室として娶っており、大隅における肝付氏の勢力も一番元気な時代だったのですが、その父が息子である良兼に家督を譲った頃から、両者の関係が微妙になって来ます。

・・・と言っても、良兼自身が島津を嫌ったわけではなく、隠居してもなお実権を握ったままの兼続が、自ら島津との関係を崩し、伊東氏と関係を結ぶようになったからなのです。

その証として良兼は、伊東義佑の娘・高城を正室に迎えています。

つまり良兼は、島津貴久が叔父であり、伊東義佑が義父・・・という立場だったわけです。

やがて永禄九年(1566年)に、父が亡くなり、名実ともに肝付氏の当主となった良兼でしたが、そんな微妙な立場ゆえ、たびたびの合戦でも日和見する事が多々ありました。

しかし、そうして日和見ばかりしていると、どちらからも、その忠誠心を問われる事になわけで・・・

ある時、島津から、その忠誠の証として、「伊東と一戦交えてみろ!」と迫られた良兼・・・

困った良兼は、密かに伊東氏に使者を送り、見た目には合戦をしているように見せかけて、実は、そのフリだけ・・・という「見せかけの合戦をやろう」と持ちかけます。

「血で血を洗う戦国に、そんなアホな!!」
と思いますが、実はコレ・・・けっこうあるのです。

ご存じ、室町時代はじめの、あの建武の新政(6月6日参照>>)が行われた時に掲げられた、有名な『二条河原の落書』というのがありますが・・・

「此頃都ニハヤル物 夜討 強盗 謀綸旨(にせりんじ)…」
と、都に流行る物が続く中で
「安堵 恩賞 虚軍(そらいくさ)
と出て来ます。

この虚軍というのが、ソレです。

なんせ、合戦には、武器弾薬などの物資の調達や、その運搬・・・他にも膨大な費用がかかりますし、なんたって、おびただしい血が流れ、多くの命が奪われるわけで、今更、ドラマの中で、大人に見える10歳前後の姫たちに「戦はいやじゃ!」(by大河ドラマ「江」)と言われなくとも、できるなら、合戦を、やらずに済むに越した事ない事は、戦国武将なら、誰もがご存じ・・・

「百戦百勝 善の善にあらず
 戦わずして人の兵を屈するは
 善の善なるものなり」

と、戦国武将のバイブルである『孫子』も、ず~っと前から
「戦わないで勝つのがベスト」
と言ってます。
(くわしくは、本家HP:京阪奈ぶらり歴史散歩「孫子の兵法・金言集」>>を見てネ(*^-^))

戦国武将と言えど、好きで合戦をやってるわけではなく、例え一触即発という状況になっても、何らかの形で合戦を回避する方法があるなら、あきらめずに模索する・・・というのが、当たり前なのです。

そんな中では、形ばかりの合戦ごっこをやって、人的・物的損失を最小限に抑えようという事も、当然あったわけで・・・

ただし、今回の良兼の場合・・・それが、島津にわかってしまってはマズイわけで・・・

それこそ、この密約の事は、ごくごく少数の上の者だけにしか知らせずにいました。

こうして始まった肝付VS伊東の合戦・・・

主だった者たちは、皆、芝居という事を知っていますから、とりあえず形ばかりの士気の盛り上げをやって、戦場を見下ろせる高所に陣を敷き、文字通りの高みの見物とシャレ込みます。

ところがドッコイ・・・うとは知らない雑兵たちが、意外にガンバッちゃったもんだから、状況は思わぬ方向に行ってしまいます。

真剣に矢を射かけ、真剣に斬り込む肝付軍・・・形勢は断然有利になります。

すると、とうとうたまりかねた伊東軍から
「オイ!肝付は本気やぞ!ホンマに合戦せぇー」
と、エライさんからのゲキが飛びます。

もともと、この頃の伊東氏は佐土原城(さどはらじょう・宮崎市)を本拠地に、伊東惣四十八城と呼ばれる48の支城を日向国内に配置して全盛を誇っていた頃・・・芝居とは言え、ここに動員した兵の数も、肝付のソレとは明らかに違い、数の上では伊東方のほうが圧倒的に有利なのですから・・・

そうなると、たちまちのうちに肝付軍は討ち負かされ、なんと、大将クラスの大物まで命を落とす事に・・・

残念ながら、これが、肝付氏の運の尽きはじめとなってしまいました。

元亀二年(1571年)・・・良兼の死を受けて、第18代当主となった弟の肝付兼亮(かねあき)でしたが、元亀四年に島津との合戦に敗れた事で、有力家臣が続々と島津へ鞍替え・・・

もはや、その衰退を止める事ができず、やがて、わずかに残っていた本拠地・高山城(こうやまじょう・鹿児島県肝属郡肝付町)も島津に召しあげらて、戦国大名としての肝付氏は滅亡・・・以後は、島津の家臣として生きる事になってしまいました。

国という大きな組織・・・しかも、相手のいる合戦ですから、ちょっとした手違いから、大きな誤算を生んでしまう事も多々あり・・・もちろん、彼らもふざけて合戦ごっこをやったわけではなく、先に書いた通り、こうして戦争を回避するのも、一つの手だったわけですが、何とも残念です。

ただし、島津から、家臣としては重用された肝付家は、江戸時代にはなかなかの隆盛を誇り、幕末には、維新の立役者の一人・小松帯刀(こまつたてわき・清廉)(10月6日参照>>)を輩出するのですから、大したもんです。

ちなみに、「ドラえもん」スネ夫の声や「お母さんといっしょ」じゃじゃ丸の声でお馴染の、声優肝付兼太さんも、末裔らしいです。
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戦国・群雄割拠の時代」カテゴリの記事

コメント

「戦っているふりをしよう(敵の目をくらます)」と言う戦術は、肝付だけになかなか「肝が据わっていないと」できない芸当でしょうね。肝が据わった芸当は末裔の小松帯刀にも引き継がれたのかも。
「スネ夫」の声で有名な肝付兼太さんと、「篤姫」の小松帯刀(前名・肝付尚五郎)が遠縁になると知りませんでした。今のスネ夫は若い声になりました。小松帯刀の写真を先日テレビで見たんですが、瑛太くんに似ていますね。

投稿: えびすこ | 2011年12月21日 (水) 17時05分

何とも…笑っていいのかどうか。結果、死傷者が出てますからね。喜劇仕立ての戦国ドラマにしたら、さぞや受けるとは思いますが。

小松さんち、間接的ながら知ってます。帯刀さん以来、男子は何故か短命で。女系っぽくなってますね。

投稿: レッドバロン | 2011年12月21日 (水) 19時08分

えびすこさん、こんばんは~

スケートの織田クンもそうですが、現在になっても「兼」が通字なんですね~

スゴイっす

投稿: 茶々 | 2011年12月22日 (木) 01時29分

レッドバロンさん、こんばんは~

そうですね~
マジメに戦った人が多く亡くなってるので、笑っちゃいけないのでしょうが、一寸先は、わからない物ですね~

投稿: 茶々 | 2011年12月22日 (木) 01時32分

肝付兼太さんは鹿児島出身ですね。小松帯刀と遠縁であるのはどこで知りましたか?確かに帯刀以降の小松家は短命の人が多いですね。孫も「小松帯刀」を襲名するんですね。
末裔が今では品川駅の駅弁店の運営会社を経営してます。

織田選手はケガで今シーズンを欠場です。ちなみに彼には甥(兄の長男)がいます。甥も「信」の字が付くのかな?ところで織田家は今はどの家が「宗家」の立場なんでしょうか?いくら調べてもわからないんです。織田信長の系統は孫や曾孫の代にいくつか分家しているうえ、後々には他家から養子を迎えた家もあるので不明です。

投稿: えびすこ | 2011年12月22日 (木) 09時07分

えびすこさん、こんにちは~

肝付兼太さんが、以前、出演された番組内のプロフィールで紹介されてました。

当時は、小松帯刀が今ほど知名度無かったですから、薩摩藩の家老の家柄と紹介されてました。

織田家の事は知らないです(^-^;

投稿: 茶々 | 2011年12月22日 (木) 09時36分

肝付良兼は、戦国時代において、島津家と伊東家の2大勢力に挟まれて生きてしまった武将ではないでしょうか。良兼としては、どちらに対して、より良い関係を維持したかったのかもしれませんが、その考えが、肝付家を衰退させてしまったような気がします。あと、良兼の叔父についてですが、正しくは、島津貴久であることが、Wikipediaに記されてました。話は逸れてしまいますが、肝付家の末裔である、声優の肝付兼太さんが、今年の10月20日に亡くなったそうです。改めて、兼太さんのご冥福をお祈り申し上げたいと思います。

投稿: トト | 2016年10月25日 (火) 19時56分

トトさん、こんばんは~

あ…本当ですね。
wikiは確認してませんが、新人物往来社の「戦国人名事典」で、あらためて確認したところ兼続の奥さんは忠良の娘さんですね。
逆に貴久に嫁いだのが良兼の叔母さん…出来事の年数がハッキリしない事と、島津と肝付の当主交代の時期が同じである事で、ちょっとややこしくなってしまっていました。
見つけていただいて、ありがとうございました。

投稿: 茶々 | 2016年10月26日 (水) 04時56分

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