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2011年12月 9日 (金)

下馬将軍・酒井忠清の汚名を晴らしたい!

 

延宝八年(1680年)12月9日、江戸幕府・第4代将軍・徳川家綱の治世で大老にまで昇りつめた酒井忠清が解任されました。

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慶安四年(1651年)に江戸幕府・第3代将軍徳川家光が亡くなった事を受けて、第4代将軍に就任したのは、家光の嫡子で、この時わずか11歳だった徳川家綱でした。

一方、酒井忠清は、雅楽頭系酒井家の当主で、はじめは家光付きの家臣でしたが、その家光の死去から家綱の将軍宣下への流れの中で、西の丸にいた家綱の家臣と、本丸にいた家光の家臣が統合される形となり、忠清もまもなく老中に就任し、将軍・家綱のもとで様々な役職を兼任する事となります。

ただ、上記の通り、家綱がまだ幼かったため、大老酒井忠勝老中松平信綱後見保科正之などなどによって、家綱を補佐する家綱政権が形成され、実質的には、この家臣団によって政治が運営される事になります。

ウソかマコトか、家綱は、家臣たちの決めた事に、なんでも「左様せい」と言うだけなので、『左様せい様』なんて呼ばれてた・・・なんて事も言われてますが、幼いうえに病弱とあっては、それも致し方ないかとも思います。

そんな中で、歳の順番・・・と言っては何ですが、徐々に上の方の方々は亡くなって行かれるわけで・・・

やがて寛文六年(1666年)には、忠清は大老にまで出世し、ここに権力が集中してしまう状況になって来ます。

新たな新人老中を加えて、家綱の補佐をしつつ、殉死禁止令を出したり、あの伊達騒動(3月27日参照>>)の裁定にも関与したりします。

しかし、ここらあたりから忠清にはあくどい噂がつきまとうようになります。

山本周五郎氏の「樅ノ木は残った」など、歌舞伎やお芝居の題材になっているところから、この伊達騒動をご存じの方も多いでしょうが、忠清は完全に悪役として描かれ、その後も、権勢をほしいままに独裁体制を敷こうとしたとして、最終的には大老職を解任される・・・というのが忠清のイメージです。

確かに、忠清の横暴三昧は、『徳川実記』という徳川家の正式記録に記されている事なので、それを題材にしたお芝居や小説・ドラマになるのは、致し方ないところでしょうが、ここ最近は、「果たして、その『徳川実記』そのものが、本当の事を書いているのか、疑わしい」と言われるようになっています。

なんせ、徳川の正式記録ですから、将軍の事を悪く書くわけはなく、忠清は、その将軍がクビにした人物なのですから、当然、そのクビの理由のすべてが、クビにされた側にあると記録するのが当たり前です。

たとえば、綱吉が将軍になる時のドタバタ劇・・・

先の4代将軍・家綱には、後を継ぐべき子供もおらず、病弱だった事から、早いうちから、その後継者には、家綱の異母弟である家光の三男・綱重と四男・綱吉の名前が挙がっていたわけですが、三男の綱重が35歳という若さで家綱よりも先に亡くなってしまった事で、家綱の後継者は綱吉1人となり、家綱臨終の際には、(家綱の)養子となって後を継げ」と告げられた事になっています。

しかし、それに「待った!」をかけたのが忠清・・・彼は、鎌倉時代執権として君臨した北条家に自らをなぞらえて、この時、越前松平家と縁がある有栖川宮幸仁親王(ありすがわのみやゆきひとしんのう)を、いわゆる藤原将軍・宮家将軍として迎えて、自分の独裁を維持しようとしたのだと言われます。

結局、それは、あの水戸黄門様こと徳川光圀(みつくに)や、老中の堀田正俊(ほったまさとし)反対にあい、実現する事なく、5代将軍は綱吉となったわけですが・・・

と言っても、もちろん、これは例の『徳川実記』の記録・・・

最近は、実は、この時、家綱の側室が懐妊していたという事実があって、忠清は、その子供が生まれるまでの時間稼ぎのために、綱吉の将軍就任に反対したのでは?とも言われます。

なんせ、実子はいなくとも、家綱の血縁は他にもいましたし、当時の幕府の状況からみても、ここでいきなり宮家から将軍を連れて来るというのは、非常に考え難い事・・・なので、この将軍反対は、かねてより「天下を治めさせ給ふべき器量なし」と、綱吉の器の小ささを指摘していた忠清が、もうすぐ生まれて来る子供に期待を寄せて「ちょっと待って!」と言いたかっただけ・・・なのかも知れません。

しかし、結局、延宝八年(1680年)5月の家綱の死を受けて、8月には徳川綱吉5代将軍となり、続く延宝八年(1680年)12月9日、その綱吉によって、病気療養を理由に大老職を解任された忠清・・・

そのまま、翌年の天和元年(1681年)5月19日・・・忠清は、58歳の生涯を閉じるのです。

果たして、その後、実権を握ったのは、綱吉との蜜月関係にあった、かの堀田正俊・・・

ただ、この正俊が健在の間は「天和の治」と呼ばれるほどの善政を敷いたと言われますが、彼が江戸城内で殺害されて(8月28日参照>>)以降は、綱吉の政治は、ご存じのごとく・・・犬公方の天下の悪法と言われる、あの状況となるわけです。

まぁ、この綱吉=犬公方にも、未だ謎に包まれていますので(1月28日参照>>)忠清が指摘したように、器が小さかったかどうかは微妙ですが・・・

ともあれ、忠清全盛の頃には、そのお屋敷が江戸城大手門の下馬札(ここから先は馬を下りて徒歩で入れという場所)近くにあった事から、権勢を奮う忠清を、『下馬将軍』などと揶揄(やゆ)していたという話も、実は、綱吉が将軍になってから書かれた事・・・

ひょっとしたら忠清さん・・・綱吉さんのイメージアップにために、おとしめられた犠牲者なのかも知れません。
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江戸時代」カテゴリの記事

コメント

この時から「別系統」の将軍に変わると、家臣団も交代する「慣例」ができたような気がします。
徳川吉宗が将軍に就任して紀州家の家臣の一部が直参旗本(加納・有馬など)になってますね。家光や家綱の時代までは、先代の側近がそのまま「再任」されていたので。
調べてみると、酒井家は徳川四天王の1つですが、酒井忠清は酒井家の本流の人物ではないですね。本来ならば家の格は本流だと思われる左衛門尉酒井家の方が上なのでは?
一時期を除き「大身譜代は幕閣にはならない(独占しない)」慣例を、「傍流」の方の雅楽頭系酒井家の忠清が破った反発もあったかも。

投稿: えびすこ | 2011年12月10日 (土) 08時54分

えびすこさん、こんにちは~

そうですね。
江戸時代は、将軍が代わると側近も入れ替えられるのが定番となりましたね。

「政権交代すると、前政権の悪口を言う」…
なんか、今でも似たような事が…

投稿: 茶々 | 2011年12月10日 (土) 15時34分

雅楽頭家の傍流です。
検索をしていて目にとまって読んでしまいました。
興味深いですね~

投稿: さかい | 2015年10月12日 (月) 13時34分

さかいさん、こんばんは~

歴史には、記録に残らない事&残せない事も多いですからね~
謎が謎呼ぶ…あくまで推測です(*´v゚*)ゞ

投稿: 茶々 | 2015年10月13日 (火) 01時33分

実はあの後、この記事を印刷して父に読ませてあげました。
父も興味深く読んでおりました。
私自身も四十を越え、ご先祖の事についてもっと知りたいと思うようになってきました。

投稿: さかい | 2016年12月16日 (金) 20時52分

さかいさん、こんばんは~

そうですね。
年齢が…というよりは、ご先祖様の事はイロイロと調べてみたくなります。

投稿: 茶々 | 2016年12月17日 (土) 03時28分

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