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2011年12月16日 (金)

近衛文麿、最後の一日

 

昭和二十年(1945年)12月16日、第34代・38代・39代と、3度に渡って総理大臣を経験した近衛文麿が服毒自殺しました。

・・・・・・・・・・

藤原氏嫡流の公家・五摂家(ごせっけ)近衛家第30代当主であった近衛文麿(このえふみまろ)は、大正五年(1916年)に満25歳に達した事で、世襲である貴族院議員になり、以来、西園寺公望(さいおんじきんもち)の随員としてパリ講和会議に出席したり、研究会を立ち上げたりしながら貴族院内に政治的基盤を作って行き、やがて、複数の大臣を歴任・・・冒頭に書かせていただいたように、総理大臣も3度務めました。

Konoefumimaro400 政治家としては・・・

天皇家に出自が近いからか、国民には人気があったようですが、一方では、自らの政策を実現すべく積極性には欠けていたとも言われ、第2次世界大戦の時も、日米交渉を試みながらも軍部の勢力を抑えきれず、首相の座を降りたのだとか・・・

しかし、辞職後も戦争の終結工作を行い、昭和二十年(1945年)8月15日の敗戦後も東久邇宮(ひがしくにのみや)内閣で、副総理格の無任所国務大臣を務め、憲法改正の作業など、熱心に進めていたと言います。

しかし、その年の12月・・・GHQから戦犯の1人として指名され、「16日に巣鴨収容所に出頭せよ」との命令が出されます。

前日の15日には、彼のもとに友人たちが訪れ・・・

「病気って事にして出頭を延期したらどうや」
とか、
「いやいや、ちゃんと法廷に立って、思うところを述べたほうがいい」
とか・・・
友人たちは口々に、その対処法について、意見を言いましたが、文麿は、黙ってそれを聞いていただけで、自分からは何も話さなかったのだそうです。

やがて、その夜も更け、友人たちも帰った後、文麿は、息子と、日本の将来について、深夜まで、語り合ったのだとか・・・

そんな中で、おもむろに、
「今の心境を書きたい」
と言うので、息子が、すぐそばにあった紙を渡すと、
「もっと、いい紙はないかなぁ」
と言いながら、近衛家の便箋を探し出し、そこに鉛筆で、サラサラと走り書きを残します。

事が事だけに、家族も「自殺とか、するんじゃないか?」と心配はしていましたが、その夜は、まったく、そのような素振りもなく、意外に平静に見えたとか・・・

しかし翌朝・・・
昭和二十年(1945年)12月16日、夫の様子を見に寝室に入った奥さんは、彼が青酸カリを服毒して自殺しているのを発見するのです。

享年54歳・・・総理経験者では最も若い死であり、ただ一人の自殺者でもあります。

昨夜の走り書きしたメモが、彼の遺書となりました。

「僕は支那事変以来多くの政治上過誤(かご)を犯した。
(これ)に対して深く責任を感じて居るが、所謂(いわゆる)戦争犯罪人として米国の法廷に於(おい)て裁判を受ける事は堪え難い事である。

(こと)に僕は支那事変に責任を感ずればこそ、此(この)事変解決を最大の使命とした。
そして、此解決の唯一の途は米国との諒解
(りょうかい)にありとの結論に達し、日米交渉に全力を尽くしたのである。
その米国から今犯罪人として指名を受ける事は、誠に残念に思う。

しかし、僕の志は知る人ぞ知る。
僕は米国に於てさえそこに多少の知己
(ちき)が在することを確信する。

戦争に伴う興奮と激情と勝てる者の行き過ぎた増長と敗れた者の過度の卑屈と故意の中傷と誤解に基ずく流言飛語(りゅうげんひご)と是等興論(よろん)なるものも、いつか冷静さを取り戻し、正常に復する時も来よう。

是時始めて神の法廷に於て正義の判決が下されよう。」

しかし、この遺書は、翌日、GHQに没収され、検事団からは、彼が残した走り書きの内容や自殺前後の様子を語る事を禁止され、上記の文章から「神の法廷に於て正義の判決が下されよう」の部分を排除するように命じられたのだとか・・・
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明治・大正・昭和」カテゴリの記事

コメント

「昭和時代では1番若い」首相で、現時点では日本史で「40代で首相になった」最後の人物でもありますよね?
かつての摂関家の当主で当時の日本人から見れば長身だったので、最初は国民的人気を持っていたそうですね。「文民」になるので戦況収拾にはうまく対処できなかったのでは。
首相になった時代が悪かったと言えますね。
ミュージカルの「異国の丘」の主人公は近衛文麿の長男がモデルです。Wikipediaによると文中の「そばにいた息子」は、現在も89歳でご健在の二男の人ですね。

投稿: えびすこ | 2011年12月16日 (金) 10時12分

えびすこさんの見識はすごいですね!お若いようなのに、深いです。

投稿: MINORU | 2011年12月16日 (金) 16時01分

えびすこさん、こんにちは~

ここらあたりの歴史は、未だ関係者の方が生存されている、現在に直結する事なので、話題にする時は、少々気になります~

投稿: 茶々 | 2011年12月16日 (金) 17時32分

MINORUさん、こんにちは~

どんな時代にでもコメントをいただくので、私も感心しています。

投稿: 茶々 | 2011年12月16日 (金) 17時34分

私の叔母など、歴代首相の中で一番格好良かったと言ってますね。当時女学生?だった叔母は、一貫してルックス重視です。
走り書きした遺書の文面も格調があって、今の政治家では書くどころか、読めもしない?

しかし、政治家としては感心できません。若い頃から将来を嘱望され、皇室とも近しく、政党・財界から大衆にいたるまで国民的な人気があり、軍部の受けも良かったプリンスです。エース・カードとして長く期待されながら不発に終わった徳川慶喜に似てるかもしれません。或いは八方美人で身動きの取れないドジョウ総理とも…。

人柄は良くとも危機において国家・国民を救えない。アイデアがあっても胆力・実行力がない。残念ながら、日本の華族がいかにダメかの象徴的人物です。チャーチルも名門マールボロ侯爵の次男坊ですが、母親はアメリカ人ということで差別され、敵も多く、見かけはブルドックのようでも、戦時宰相としては大車輪の活躍をしています。たぶん、近衛さんより悪人だと思いますけど。ただし「国家有用」の確信犯的なワル。

投稿: レッドバロン | 2011年12月16日 (金) 18時56分

レッドバロンさん、こんばんは~

>私の叔母など、歴代首相の中で一番格好良かったと言ってますね。

そのようですね。
身長高いし、プリンスだし、女性には特に人気があったみたいです。

ネットで検索してみると、ハト総理と比べる記述が多いようですね。
「人のいいお坊ちゃん」という感じが似ているのでしょうか?

投稿: 茶々 | 2011年12月16日 (金) 19時04分

>>戦争に伴う興奮と激情と勝てる者の行き過ぎた増長と敗れた者の過度の卑屈と故意の中傷と誤解に基ずく流言飛語(りゅうげんひご)と是等興論(よろん)なるものも、いつか冷静さを取り戻し、正常に復する時も来よう。

是時始めて神の法廷に於て正義の判決が下されよう。」


あと500年位待たなきゃだめかも・・・東条さんが「今は何も言うな。100年待て」と言ったそうだけど。 戦争を風化させてはならない、ってよく言われるけど、いっそ風化したほうが冷静に、客観的に見ることが出来るようになるんじゃないか、って思う位戦争や戦犯について語る時、エキサイトし過ぎだなぁ、と思ってしまいます・・・

投稿: Hiromin | 2011年12月16日 (金) 21時33分

>茶々さん・MINORUさん
どうもありがとうございます。o(_ _)oペコッ

先ほど挙げた「異国の丘」ですが、当初は主人公らを実名で上演する予定だったらしいですが、朝ドラなどと同様に仮名になっています。

投稿: えびすこ | 2011年12月16日 (金) 21時59分

Hirominさん、こんばんは~

慰安婦の銅像…建っちゃいましたね~

投稿: 茶々 | 2011年12月16日 (金) 22時47分

えびすこさんこんばんは~

大河の役名も仮名にすれば、「本当の事だ」と思う人が少なくて問題にならないかも知れませんね。

「竜馬がゆく」の「坂本龍馬(歴史人物)→坂本竜馬(主人公)」方式で…

投稿: 茶々 | 2011年12月16日 (金) 22時51分

>茶々さま

近衛さんは資質としてはハト首相と比べものにならないと思います。幼少の頃、父君が亡くなって人々が手の平を返すのも見ていますし。人間社会に対して不信感を抱いていた節もありますね。

ポッポは宇宙規模のバ※、人類にあれ以下はいません。

近衛さんは身分があり、知的能力も高く、人気は抜群。軽井沢でプレーンと会食している写真などとっても絵になります。
それだけに、こちらも厳しくなるので、ポッポのような無能の責任を追求してもはじまりません。

投稿: レッドバロン | 2011年12月16日 (金) 23時17分

レッドバロンさん、こんばんは~

>それだけに、こちらも厳しくなる…

大映ドラマの「おんな風林火山」なら許せても、大河では許せない…って気持ちと似ているかもww

投稿: 茶々 | 2011年12月17日 (土) 03時00分

興味深く読ませてもらいました。
「走り書きしたメモが、彼の遺書となり。、、
この遺書は、翌日、GHQに没収され、検事団からは、彼が残した走り書きの内容や自殺前後の様子を語る事を禁止され、上記の文章から「神の法廷に於て正義の判決が下されよう」の部分を排除するように命じられたのだとか・・・。」とあり、長い間公表されなかったわけでしょうが、いつ、どの媒体を使って公表されたのでしょうか。出典を教えて頂けませんか。

投稿: モンタギュー | 2011年12月18日 (日) 04時56分

モンタギューさん、こんばんは~

すみません。
>いつ、どの媒体を使って…
というのは、残念ながら存じ上げません。

ただ、遺書を含む近衛文麿関係の文書は、「陽明文庫」に保管されていた物が1968年に国会図書館にてマイクロフィルム複製されています。

図書館法で「図書館は公平に資料を提供し、国民に知る自由を保障する」事がうたわれていますので、その時点で、誰もが知る事は可能だったと考えますが…
あくまで推測で、答になってませんね。
申し訳ないですm(_ _)m

投稿: 茶々 | 2011年12月18日 (日) 05時47分

ここで訃報です。
近衛道隆氏が11日逝去。89歳。
戦後日本の生き証人が鬼籍に入りました。
合掌。
今頃は草葉の陰で父・文麿氏、兄・文隆氏とと現代の日本について語っているでしょう。

投稿: えびすこ | 2012年2月14日 (火) 10時00分

えびすこさん、こんばんは~

そうなんですか…
ご冥福をお祈りします。

投稿: 茶々 | 2012年2月14日 (火) 12時41分

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