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2012年1月31日 (火)

アンケート企画:あなたが思う、日本史上で1番の文明開化は?

 

さて、2ヶ月ぶりのアンケート企画といきましょう!

今回のテーマは・・・
「あなたが思う、日本史上で1番の文明開化は?」という事で、アンケート募集したいと思います。

先日、明治天皇が初めて牛肉を食された日【味覚の文明開化】(1月24日参照>>)というページを書かせていただいていて、以前から思っていた「日本ほど国際化している国は、他にないんじゃないか?」という思いをあらためて感じました。

それは、この日本という国が、古代より、様々な異国の文化を取り入れつつも、それを見事に融合させて今に至っているのではないか?という事・・・

明治のソレはもちろんの事ですが、ソレ以外にも、規模や、与えた影響の大小はあれど、その都度、それが開国であり文明開化ではなかったのか?と思うのです。

・・・って事で、今回は、あくまで個人的に「あなたが思う」
「コレ、すごいんじゃない?という、文化の伝来&導入は何か?」
という事でアンケートを企画しました。

とりあえずは、いつものように、個人的に「これは?」と思う選択技を16個用意させていただきましたので、「これがスゴイよ!」と思う物に清き1票を・・・もちろんその他のご意見もお待ちしております。

  1. 集団を作った
    稲作の伝播
  2. 集団になると戦いが生まれ…
    青銅器伝わる
  3. 国際語がステータス?
    漢字の導入
    (参照ページ:2月15日>>)
  4. 天皇も了承した
    仏教伝来(参照ページ:3月30日>>)
  5. 先進国に学べ
    遣唐使の派遣&帰国後
    (参照ページ:10月11日>>)
  6. 平清盛が力を入れた
    日宋貿易(参照ページ:2月11日>>)
  7. 足利義満が力を入れた
    日明貿易(参照ページ:5月13日>>)
  8. これで戦国が変わります
    鉄砲伝来(参照ページ:8月25日>>)
  9. ザビエルが以後よく広める
    キリスト教伝来(参照ページ:7月3日>>)
  10. 上の2件とかぶってますが…
    南蛮貿易(参照ページ:4月8日>>)
  11. 鎖国の中で洋書の禁を緩め…
    蘭学おこる(参照ページ:3月4日>>)
  12. ハリスが来て…
    日米修好通商条約を結ぶ(参照ページ:10月7日>>)
  13. やっぱり断髪・廃刀・肉食…そして太陽暦採用
    明治の文明開化(参照ページ:11月9日>>)
  14. 近代日本の一大転機
    太平洋戦争の終結(参照ページ:9月27日>>)
  15. プラスもあればマイナスも…
    TPP
  16. その他
    「やっぱ、これでしょう」「これを忘れてるヨ!」っていう物があればお知らせください
      

・‥…━━━☆

*勝手ながら、このアンケートは2月14日に締めらせていただきました。
  結果はコチラからどうぞ>>
 

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2012年1月30日 (月)

大阪で知った民俗学の種…宮本常一の話

 

昭和五十六年(1981年)1月30日、日本を代表する民俗学者・宮本常一が73歳でこの世を去りました。

・・・・・・・・・

昭和三十五年(1960年)の著作『忘れられた日本人』(岩波書店)で、一躍有名になった民俗学者宮本常一(つねいち)さん・・・

その著書は、昭和14年(1939年)以来、日本全国をくまなく歩いた宮本さんが、各地の民間伝承などを調査する中で知り合った、辺境と言われるような場所に住む老人たちを生き生きと描いた作品で、宮本民俗学の代表作と言われている物です。

Miyamototuneiti400 その生涯の4000日以上を旅に費やし、1200軒以上の民家に泊ったという宮川さんの研究は、何気ない庶民の暮らしぶりを低い視点から、丹念に追うという物で、あの柳田國男(やなぎたくにお)のソレとは一線を画する物でした。

底辺の人たちの芸能や、闇の部分である性の問題にも踏みこんだ事から、いち時は学界から無視された事もあったようですが、近年になって再評価が高まり、今では、日本を代表する民俗学者の一人に数えられています。

・・・てな事を言わなくても、もはや有名な人ですから、皆さんご存じなのでしょうが・・・

ただ、その研究の原点となる物が、大阪で培われていた事・・・しかも、それが、自分が中学生の頃に散々ウロチョロしていた場所だったという事を、恥ずかしながら、私は最近まで知りませんでした。

それは、大阪市中央区・・・地図で言えば大阪城の西、最寄駅で言えば京阪&地下鉄の天満橋近くの釣鐘町という場所です。

Dscn1139a600 その名の通り、ここには、寛永11年(1634年)に江戸幕府・第3代将軍の徳川家光が、地子銀(固定資産税)を免除する約束をした事で、感謝した町民が記念に建てた鐘楼があった場所で、釣鐘町と呼ばれていたわけで、その鐘は、日に3度、町に時刻を知らせるのに使われていたという事です。

その後、明治三年(1870年)に、一度、鐘楼ごと撤去され、鐘のみが大阪府庁の屋上で保管されていましたが、昭和六十年(1985年)にこの地に戻り、鐘楼が復元されて、現在は「釣鐘屋敷跡」と呼ばれています。
(くわしい場所は、本家HP:大阪歴史散歩「歴史を見つけに中之島へ…」でどうぞ>>

・・・で、この釣鐘の近くに住んだという宮本さんですが、もともとは、山口県周防大島(すおうおおしま)の貧しい農家に生まれたと言います。

小学校を出て、実家の農業の手伝いなどしていましたが、大正十二年(1923年)の16歳の時に、大阪に住む叔父さんから、
「大阪に来て、働きながら勉強したらどないや?」
と、声をかけられた事から、立身出世を夢見て、大阪に行く決意をするのです。

この時、船で島を出る彼を、1000人近い島民が見送りにやって来たとか・・・

後の自叙伝で、
「この事が、後々までの心の負担になった」
と、この時の心境を、ご本人が語っておられますが、おそらくは、彼が「大阪で一旗挙げて来る」と小耳に挟んだ人たちが、少々の期待を以って見送っただけのでしょうが、彼にとっては、それが、良い意味のプレッシャーとなって、より頑張れたのかも知れませんね。

とは言え、この時の彼は、「何をする」「何を学ぶ」といった目標が、まったく無いままの来阪・・・しばらくの間は、叔父さんの家に居候して、あれこれ考えていた中、その叔父さんの勧めで逓信(ていしん)講習所の試験を受けてみたところ、これが、見事合格!!

そこで、電信技術を学んで卒業した後、高麗橋郵便局(大阪市中央区内平野町)に配属され、ここで、叔父さんの家を出て、一人暮らしをはじめます。

その場所が、上記の釣鐘町・・・

4軒続きの長屋が3棟、合計12軒がワンセットになった長屋に住んだ彼は、長屋の住人たちと、親しくつきあうち、意外な事に驚いてしまうのです。

なんと、ここに住む老人たちのほとんどが文字を知らなかった・・・中には、若い人でも文字を知らない人がいて、ラブレターの代筆なんかも頼まれる始末・・・

読み書きもでき、郵便局に勤める彼を「秀才」と認識する彼らは、未だ20歳そこそこの彼に身の上相談までするように・・・

大都会の真ん中で、ポツリと、地面を這うように・・・それでいて生き生きとたくましく生きる長屋の住人たちに心惹かれて行く毎日・・・

もちろん、長屋だけでなく、自宅からほど近い勤務先との通勤中のそこここにも、一所懸命働き、一所懸命生きている人たちがいる・・・

そんな彼らの姿に感動した記憶から、底辺に生きる人々、困窮にあえぐ人々に接して話を聞くという、彼の研究のスタイルが生まれたのです。

その後、天王寺師範学校を卒業して小学校に勤務するも、昭和五年(1930年)には、肺結核を患って、故郷の周防大島に戻り、その療養中に書いた研究論文が、かの柳田國男の目に止まった・・・という事なので、ひょっとしたら、釣鐘町に住んだのは、わずか数年間だったのかも知れませんが、例えそんなわずかな期間でも、長屋の住人との触れ合いがなかったら・・・

ひょっとして民俗学者・宮本常一には、なっていなかったのかな?と、思うと、地元を知ってる者としては、ちょっぴりうれしかったりします。
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2012年1月29日 (日)

古き良き道頓堀を偲んで…

 

古き良き・・・と書くと、「今はアカンのかい!ヽ( )`ε´( )ノ」と突っ込まれそうですが、決してそうではなく、あくまで、幼き頃に垣間見たあの光景が忘れられず、懐かしんでるといった感じと思ってください。

そう、私が小さな頃に親しんだ道頓堀には、まだ中座があって、確か松竹新喜劇がかかっていた・・・

角座は落語家さんや漫才師さんが出演する演芸場で・・・
すでに名前は変わっていたけれど、朝日座映画館で、弁天座文楽をやっていたはず・・・
(歳がバレるので、このへんでヤメとこ)

そう、少し前の道頓堀は、大阪の庶民が、何日かに1回、演芸やお芝居を見に行って、おいしいモン食べて帰る男どもは、その後アルサロに行く)・・・そんな場所でしたが・・・

確かに、今も賑やかなネオンが灯り、ちょっぴり大人のムード漂う雰囲気で、人に溢れた元気な通りなのですが、その一方で、一大観光地のようになってしまって、なんだかよその町に来ているよう・・・昔を知ってる者としては、幼馴染が遠い存在になったようで、ちょっと寂しいかな?

・・・で、そんな道頓堀は、ご存じのように、慶長十七年(1612年)に、東横堀川西横堀川の汚濁を解消するために、成安(安井)道頓という人物が作った人工の川=新川が、後に道頓堀川と改称され、その沿岸が開発された事にはじまります。

Ebisubasie 寛文三年(1626年)に、別の場所にあった芝居小屋が、道頓堀川の南側に移転したのをキッカケに、次々と芝居小屋が誕生しますが、今度は逆に、繁盛しずぎて、芝居小屋の乱立状態となってしまいます。

そうなると、中には、ただ建物を通り抜けるだけの物や、あっちの穴とこっちの穴から双子が交互に顔を出して「瞬間移動」ってな事やったり・・・と、とても芝居とは言えない芝居小屋まで出て来たため、ちゃんとした芝居小屋に格式を持たせようと、名代(興行権)制度が導入されました。

最初に名代を許されたのは、「中之芝居」「角之芝居」「大西之芝居」の3軒・・・名代を許された劇場は、高く櫓(やぐら)を掲げてその証としました。

その後、最盛期には、歌舞伎=6座、浄瑠璃=5座、からくり=1座の合計12軒がありましたが、天保十三年(1842年)の改革によって、「中之芝居」「角之芝居」「筑後(大西)之芝居」「若太夫之芝居」「竹田之芝居」の5軒に絞られ、「道頓堀五座」と呼ばれて親しまれ、周囲には芝居茶屋が建ち並び、大変な賑わいをみせました。

Doutonborimc 明治期の道頓堀・地図

その後、明治時代になって、中之芝居が「中座」となり、角之芝居が「角座」、筑後之芝居が「浪花座」、竹田之芝居が「弁天座」になって、ここに江戸末期に焼失していた角丸芝居が「朝日座」と名を改めて復興され、これが、明治の道頓堀五座となりました。
(ちなみに、一番西にある松竹座は、大正十二年=1923年に竣工された建物で道頓堀五座には含まれません)

明治期の道頓堀を描いた絵には、誇らしげに掲げた櫓に竹竿に垂れ幕を下げた角座が威風堂々と描かれていますね~

Doutonborim800k 明治期の道頓堀(右側に大きな櫓を掲げた角座が見えます)

ちなみに、通りを渡るように上空に貼られた旗は「蛸(たこ)吊り」と呼ばれ、道頓堀の各店が、ひいきの役者の名前などを描いて貼り出した物で、旗の製作費から、その維持管理まで(雨が降ったらかたずけないといけない)を実費で出して貼りめぐらした事で、その年間維持費は相当な額だったらしく、その旗の多さは、道頓堀に店を出した者のステータスとなっていたようです。

まさに、道頓堀はお芝居&演芸の町だったんですね~

ただ、それらの劇場のすべてが、今は無くなってしまいましたが・・・
追記:平成二十五年(2013年)7月28日、旧角座ビル跡地に「DAIHATSU MOVE 道頓堀角座」の名で角座が復活しました)

実は、今、そんな古き良き道頓堀を垣間見れる場所があります。

それが、中座跡(現在はくいだおれビル)近くにある「道頓堀今井」さん・・・

Dscf0598a800 「道頓堀今井」(左側に見える提灯のある場所が浮世小路です)

明治の頃には、「今井楽器店」という楽器屋さんだったお店が、うどん屋さんに改業されて、今も健在なのですが、そのお店の横・・・

そのお隣に、今井さんが私有地を提供されて造られた「浮世小路」という小さな路地があります。

幅は人ひとりがやっとのくらいの狭さで、長さもわずか48mですが、そこに、在りし日の道頓堀が再現されています。

Dscf0623a800 浮世小路

有名な法善寺横丁にある「夫婦善哉(めおとぜんざい)・・・今は造りも変わってしまったこのお店の以前のたたずまいや、以前の劇場の入り口などが再現されたうえ、写真のパネル展示なども・・・とても48mとは思えない、ワクワク感満載の路地です。
(個人の感想です←通販か!)

その浮世小路の仕掛け人が、クリエーターでプロデューサーの吉里忠史さんという方・・・実は、先日、この方に案内していただいて道頓堀をウロウロしまして、古き良き道頓堀を偲んで来たというわけで、本日のブログを書いております。

上記の、道頓堀の歴史なども、その時に教えていただいた次第です。

こうして見ると、江戸に始まり、明治・大正・昭和と来た道頓堀・・・幼き頃見た道頓堀が、明治や大正のそれと、あまり変わりはしなかった気がするのに、ここ何年かで劇場が次々と閉鎖され、もはや、あの「くいだおれ」も無くなり・・・

ここ最近の時代の流れ方の速さには驚くばかりですが、もし、皆様も道頓堀に来られる機会がありましたら、カニの看板やグリコの看板も良いですが、ちょっとばかり浮世小路を訪れて、古き良き道頓堀に触れてみるのも良いかと思います。
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2012年1月27日 (金)

新田義貞・京を奪回!

 

延元元年・建武三年(1336年)1月27日、三井寺に駐留していた足利尊氏軍を、新田義貞率いる後醍醐天皇軍が攻撃・・・天皇軍が京都を奪回しました。

・・・・・・・・・・

第96代・後醍醐(ごだいご)天皇が、足利尊氏(高氏)新田義貞楠木正成らの味方を得て、鎌倉幕府を倒して(5月22日参照>>)行った、ご存じ、建武の新政(6月6日参照>>)・・・

しかし、功績のあった武士たちより公家を優先する改革は、行ったしりから不評続き・・・ガタガタ状態でいっこうにうまく進みません。

そんな中、関東で起こった反乱の鎮圧を命じられた尊氏は、乱を鎮圧した後も京へは戻らず、逆に、反・後醍醐天皇を打ち出して京へと攻めよせます(12月11日参照>>)

すでに、上記の新政で不満ムンムンの各地の武士たちが尊氏のもとに馳せ参じ、80万の大軍に膨れ上がった足利軍が京を制圧すると、やむなく、後醍醐天皇は比叡山へと逃げ込みます。

天皇方は、ここ比叡山を拠点に、北国や奥州からの支援を待つ作戦に出ます。

一方の尊氏は、当時、比叡山と敵対関係にあった三井寺(園城寺)に対して、伽藍造営の約束と引き換えに駐留を認めさせ、ここを拠点にします。

やがて、都の急を聞いて、東北から昼夜を問わず駆けのぼって来た北畠顕家(あきいえ)軍が天皇方に合流・・・

こうして東国の援軍を得た天皇側は、顕家・義貞以下、主だった諸将を集めての作戦会議の末、建武三年(1336年)の正月全軍を以って、三井寺に総攻撃を仕掛ける事を決定しました。

一方、尊氏から三井寺駐屯隊の指揮を任されていた細川定禅(じょうぜん)は、この総攻撃を察し、尊氏に援軍を要請しますが、なぜか尊氏は援軍をよこさず・・・

そのために、最初は一進一退の防御で踏ん張っていた尊氏軍も、新田軍の精鋭陣に楼門を突破されると、一気に形勢は天皇方へ・・・なだれ込む新田軍によって、三井寺の僧兵も、駐留軍の将兵も、もはや、猛火に焼かれるか、自害するか、逃亡するか・・・すべて散り散りになり、三井寺での戦いは天皇側の大勝利となりました。

その勢いのまま、尊氏軍の追撃を開始する新田軍・・・

これに対して駐留軍は、ただひたすら京を目指して撤退・・・ちょうど、三条河原にて出撃準備をしていた尊氏のもとへ、その敗走軍がなだれ込んで来ます。

ここで、駐留軍と本隊と合流したという事は、足利軍の総勢は、おおもと80万近く・・・一方の新田軍は、わずか2万なれど、少数を活かした機動力バツグン作戦によって連戦連勝し、逃走一方の足利軍にあった尊氏が3度自害を考えたけれど、ちょうど日没となったために、新田軍が追撃を休止した事で、尊氏は命拾いした・・・と『太平記』は語りますが、さすがに、80万VS2万ってな数字は無いだろうという感じですが、ここで、天皇方が有利であった事は確かでしょう。

ただし、先の駐留軍を任されていた定禅が、雪辱とばかりに精鋭を率いて、ここで奮戦し、新田軍は坂本まで撤退しています。

ここで顕家よりさらに遅れて東国から駆けつけたショウ王(ショウ=晶に灬・高倉天皇の玄孫とされる)らの一軍が天皇側に合流・・・更なる援軍を得て活気づいた天皇軍は、京都総攻撃の日程建武三年(1336年)1月27日と定めました。

かくして、その日の未明、天皇軍は、京都の足利軍を包囲する形の陣形で大戦に挑みます・・・その数=10万3千騎(←って、いつの間に、そんなに増えたん??!!(゚ロ゚屮)屮)

開戦と同時に怒涛のごとく京都市中に押し寄せて、各所に放火しながら進軍する天皇軍・・・抵抗する足利軍もしだいに押され気味となり、激しい市街戦は天皇方の優勢となります。

Nittayosisada600b この時、義貞は、単騎で敵陣深く駆け込み、尊氏を探したと言いますが、残念?ながら、その姿を見つけ出す事はできず・・・尊氏の悪運強し(←あくまで天皇側からの見方です)

・・・と、ここで優勢一方の天皇軍でしたが、日暮れが近づくとともに、楠木正成の進言に従って、兵を休めるべく、東坂本まで撤退させます。

これを知った逃走中の尊氏は、チョコッと京都市内に戻って来ますが、これが、尊氏の油断を誘った正成の作戦・・・とって返し、すぐさま奇襲攻撃を仕掛けました。

この奇襲によって兵を分散させられてしまった尊氏は、やむなく、再び敗走・・・兵庫の湊川で、やっと自軍との合流し、なんとか助かりました。

こうして、京都を奪回した天皇方・・・一方の尊氏は、この後、少々の遭遇戦を繰り返しながら、ご存じのように、海路で九州へと落ち延びるのですが、続きのお話は2月6日【足利尊氏の都落ち~豊島河原合戦】のページでどうぞ>>
(注:本文に書いた軍の数は太平記の記述に従っています)

あの尊氏も、ヤバかった場面が多々あったんですね~

歴史の歯車が一つ違っていたら・・・妄想は尽きませんね。
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2012年1月26日 (木)

多くの仏像を残した修業僧・円空

 

寛文六年(1666年)1月26日、津軽藩から追放処分を受けた円空が蝦夷地へと渡りました。

・・・・・・・・・・・・

円空(えんくう)と言えば、寛永から元禄まで、1600年代の後半を生きた放浪の僧・・・訪れた各地に残した、あのゴツゴツとした荒々しい雰囲気の独特の仏像のファンも多いです。

Enkuu400 一説には、生涯に渡って12万体の仏像を彫ったと言われ、現在でも5000体以上が確認できるそうです。

ある時は、訪れた地の村人のため・・・
ある時は、食事を分けてもらったお礼に・・・

まるで「裸の大将」のようですが、その足跡は、西は四国の愛媛県から、東は、今回の北海道にまでおよび、各地に様々な逸話も残しています。

飛騨高山のある宿では、宿泊代の代わりに、そっと仏像を置いていったとか・・・

病がまん延して困っていた村にやって来た円空が薬師三尊を彫った途端、たちどころに病がおさまったとか・・・

ある時は、お腹がすいた円空が、川の上流から、彫った仏像を流したところ、下流で、その仏像を見つけた村人が食べ物を持っていったとか・・・

ある村の観音堂に納める仏像の材料を探していた円空が、川の上流で良い木を見つけ「○○村行き」と書いて川に流したら、ちゃんと、その村にたどり着いたとか・・・

とは言え、どこでも、誰にでも、頼まれれば彫るかと言えば、そうではなく、円空が気に入った心の素直な人にしか、仏像は彫らないのだとか・・・

そんな円空は、北海道に残した1体の観音像の背面に、
(自分は)郷里に近い近江(滋賀県)の伊吹山の平等岩で修業した修業僧である」
という事を書いていて、その出身地は、岐阜県の羽島市か、郡上(ぐじょう)であろうという事です。

・・・で、今回の北海道行きは、当時の幕府の宗教政策で、寺を持たない僧侶の布教活動が禁止され、弘前藩から退去命令を受けた事を受けての渡海・・・

寛文六年(1666年)1月26日・・・円空さんご本人が、「松前に向かう」と言い残して旅立ったと言います。

当時の蝦夷地は、松前藩が置かれていた渡島半島(おしまはんとう)一帯のごく一部以外は、一般人の渡航が許されておらず、実のところ、行くだけで違反行為なんですがね。

この頃の円空は、未だ僧になって間もなく・・・年齢も35歳頃の血気盛んな時です。

追放命令を逆手に取って、あえて禁断の地に向かう・・・
「自らに、より厳しい修行を課して行こう」
という、若い円空の姿が垣間見えますね。

もちろん、その北海道にも、断崖絶壁の洞窟に籠って修業を重ねたという逸話が残っており、その時に彫った仏像も、大正時代まではあったと記録されています。

こうして全国各地を放浪し続けていた円空が、最後の場所として選んだのは、美濃国(岐阜県)にあった弥勒寺(関市)・・・

荒廃していた弥勒寺を再興した円空は、死をさとった64歳の時、この寺の南側に流れる長良川のほとりに穴を掘り、お経を唱えながらその穴に入り、自ら土に埋もれ、即身仏になったと言います。

元禄八年(1695年)7月15日円空は、静かに仏となりますが、その最期の言葉は、当時の弥勒寺に生い茂っていた藤を見ながらの、
「この藤の花が咲く間は、私は土中にいる」
だったと・・・

円空が、ここを最後の地に選んだのには理由があります。

実は、彼が、僧となるべく寺に入ったキッカケは、長良川の洪水によって母を失った事からだとの事・・・

ひとつ所に留まる事無く、全国を放浪して修業にあけくれた円空も、最後には母の胸に飛び込んで、その懐に抱かれる事を望んだのでしょうか?

そのお顔を見ると、思わずコチラも微笑んでしまうような柔和なお顔の円空の仏像・・・そのやさしげなお顔の下には、彼が全国を放浪しながら探し求め続けた、何かが、隠されているのかも知れません。
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2012年1月25日 (水)

江戸文化の知識が集うサロン・木村蒹葭堂

 

享和二年(1802年)1月25日、江戸時代中期の大坂で、一大サロンを開いていた木村蒹葭堂が67歳の生涯を閉じました。

・・・・・・・・

大阪市西区・・・地下鉄・西長堀駅近くにある大阪市立図書館の敷地・・・江戸時代、ここに、大きな邸宅が建っていたと言います。

その邸宅に住んでいた人が木村蒹葭堂(きむらけんかどう)・・・と言っても、お察しの通り本名でははく、実際の名前は孔恭(こうきょう)と言い、号を巽斎(そんさい)と称し、通称は坪井屋吉右衛門だそうですが・・・

「蒹葭」とは(あし)の事で、邸宅の庭に井戸を掘った時、古い芦の根が現れた事から、自宅の書斎を「蒹葭堂」と名づけていたのですが、彼がこの名前をずいぶんと気に入っていた事から、いつしか、彼自身の事を蒹葭堂と呼ぶようになったのです。

Kimurakenkadou600 元文元年(1736年)に、大坂北堀江の造り酒屋の長男として生まれた蒹葭堂でしたが、生まれつき病弱だった事から、父親は、彼に家業を継がせる事が難しいと考え、家を手伝う事よりも、庭に草木など植えて親しみ、心癒しながら生活するよう勧めました。

それが、彼の生涯を通じての出会いを演出します。

そうやって草木に親しんでいると、自然に様々な事を覚えて行くもので・・・しかも、彼が成長するにつれ、それが植物学へと変化・・・さらに博物学へとジャンルはどんどん広がっていきます。

やがて、10代の少年となって、漢詩書画を習い始めると、これまた天才的な才能を発揮しはじめ、周囲を驚かせます。

15歳で父親が亡くなったために、結局、家業を継ぐ事になるのですが、20歳で結婚したお相手が、これまた資産家の娘だった事で、金持ち+金持ち=大金持ちとなり、もともと持っている探求心を満足させるべく品々を集める事ができて、一大コレクターとなるのです。

その種類は書画・骨董だけでなく、書籍や地図、鉱物標本や動植物標本など多岐に渡ります。

さらに、出掛けて行って物産会で品評してみたり、あるいは、自宅で漢詩の勉強会を定期的に・・・いわゆるサロンのような物を開いたりした事で、蒹葭堂の邸宅には、様々な人たちが集まって来るようになります。

そこに優れた知識人や文化人がやってくれば、当然、教えを請うたり、有意義な話をしたりして、更なる学識を高める蒹葭堂ですが、彼がスゴイのは、そんな文化人や大名などの特別な人たちだけでなく、商売人や植木屋やら、ごくごく普通の一般人にも、サロンの門を大きく開いていた事・・・

なので、彼のところに訪れた人は、のべ9万人にものぼるとか・・・以前、ご紹介した江戸の天才変わり者=司馬江漢(しば こうかん)さん(10月21日参照>>)も来てたみたいですよ。

もちろん、彼自身も、幼い頃に才能を見出した書画や博物など、自分磨きも怠らず、文学出版にも携わり、オランダ語ラテン語も身につけていたと言います。

とにかく、蒹葭堂が誰かと会えば、そこに学問を論じ合う場が生まれ、蒹葭堂が物に出会えば、そこが研究室となる・・・

おかげで、彼のサロンには、ダチョウの羽やら、クジラの骨やら、なんやワケのワカラン物を持ち込んで来る人が後を絶たなかったとか・・・でも、そんな物でも、由来がわからなければ、すぐに調査して、いつも回答を導きだしていたそうです。

さらに、スゴイと思うのは、最高クラスの文化人が一目置く「知識の宝庫」であるにも関わらず、本人は文化人と称する事なく、あくまでも1人の一般人として生き抜き、決して驕る事が無かったのだとか・・・だからこそ、9万人もの人が、彼のサロンに訪れたのでしょうね。

享和二年(1802年)1月25日「知の巨人」「知の怪物」と呼ばれた木村蒹葭堂は、この世を去ります。

それから、ほどなく・・・春の頃に、このサロンを訪れた人物が、蒹葭堂が亡くなった事を知らされて、
「大坂にては、今、人物なし。蒹葭堂一人のみ・・・」
蒹葭堂のいない大坂なんて、クリープを入れないコーヒーのようだと言わんばかりに、彼の死を嘆いたのだとか・・・

はるばる江戸から、蒹葭堂に会いに来たその人は、『南総里見八犬伝(なんそうさとみはっけんでん)で有名な滝沢馬琴(ばきん)(11月6日参照>>)・・・

さぞかし、怪物との論議を楽しみにしていた事でしょうに、残念ですね~。

彼の死後、その蔵書の多くは幕府の命令により、昌平坂学問所(しょうへいざかがくもんじょ)に納められ、現在は内閣文庫に収められているとか・・・
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2012年1月24日 (火)

味覚の文明開化~明治天皇が牛肉を食す

 

明治五年(1872年)1月24日は、明治天皇が初めて牛肉を試食された日だそうです。

・・・・・・・・・・・

維新と同時に押し寄せた文明開化の波・・・

欧米列強にナメられる事なく、「追いつき追い越せ!」を推進するために、明治新政府が西洋化を推し進めたのはご存じの通り・・・
鹿鳴館参照>>) 帝国ホテル参照>>)

かと言って、人間、長年続けて来た風習をおいそれと変えられる物ではありません。

特に、外国を写真で見た事すらない一般庶民には、なにがどうなっているやら・・・

そこで、政府が旗印としたのが、明治天皇・・・

以前にも、そのお誕生日に少し書かせていただきましたが(11月3日参照>>)、維新当時15歳だった明治天皇は、それまでは、眉を剃り、お顔にはお化粧&お歯黒をほどこし、宮中にて女官に囲まれて、かるたや双六で遊び、お習字して和歌を詠む・・・といった生活をされていたわけですが、それを一大転換させて、天皇自ら、生活を洋風にする事で、民衆のお手本となり、文明開化の実現を図ったわけです。

実際に、明治四年(1871年)8月に発布された断髪令の時にも、チョンマゲを切る事に抵抗があり、なかなか庶民には浸透しませんでしたが、明治天皇が断髪される事によって、一気に民衆の間にも広まったという事がありました(8月9日参照>>)

かくして、明治五年(1872年)の正月元日に、初めて西洋料理を食された明治天皇は、その23日後の明治五年(1872年)1月24日初めての牛肉を体験されたのです。

明治天皇ご自身は、日本料理がお好きで、鮎やハモなどが大好物だったとの事ですが、それこそ、「国民のためにも自ら実践せねば!」というお気持ちでいらした事でしょう。

その翌年には、正式なテーブルマナーを学ばれ、その年の9月には、自らがホストとなって、イタリアからの国賓をフランス料理でおもてなしされ、以来、宮中の正餐にはフランス料理が採用されるようになったのだとか・・・

・・・で、一方の庶民のほうは、と言いますと・・・

これには、オモシロイ文献が残っています。

明治四年(1873年)~五年に刊行されたという仮名垣魯文(かながきろぶん)『安愚楽鍋(あぐらなべ)の中に、当時大流行していた牛鍋屋の様子が書かれています。

Aguranabe 教科書でおなじみの安愚楽鍋の挿絵

「天は万物の父母。人は万物の霊。
故に五穀草木鳥獣魚肉。
是が食となるは自然の理にして。
これを食ふこと人の性なり。」

「味をしめこの喰初(くいぞめ)に。
そろそろ開けし西洋料理」

「士農工商老若男女。賢愚貧福おしなべて。
牛鍋食はねば開化不進奴
(ひらけぬヤツ)
鳥なき郷
(さと)の蝙蝠(こうもり)傘」

と、軽快な調子で、実におもしろく書かれているのですが・・・

上記の通り、これを食べないと「時代遅れ」と言わんばかりの勢いで、町でイキがってる連中から、西洋風の書生から、儒学者のような紳士まで、老いも若きも・・・

遠くは人力車にて乗りつけ、近くは銭湯の帰りに寄ってこか~って感じで、店内は混み合い、懐中物に用心しなければならないほどで、人の出入りも激しく、お会計して、「ありがとうございました~」と言えば、またすぐ「いらっしゃいませ~」といった感じで、大変な盛況ぶり・・・

そのメニューには、牛肉はもちろん、牛乳乾酪(かんらく=チーズ)乳油(ちちあぶら=バター)まで・・・お土産として買って帰る人もたくさんいたとか・・・

・・・て、これだけ流行ってたって事は、牛肉食に関しては、官も民も、ほぼ、同時に馴染んで行ったって感じですね。

やがて、こんな感じの手軽な牛鍋屋から、西洋料理店も開店するようになり、上野精養軒築地日新亭神田三河屋といった、いわゆる名店も誕生していくのです。

とは言え、明治になって、一番変化した味覚と言えば、甘い物・・・

もちろん、それには、今回の牛肉とともに庶民の口に入るようになった乳製品に絡んでの事なのですが、比較的辛い物がヒットしたこれまでとは違い、アンパンや飴玉といった甘い物が好まれるようになり、一般家庭でも、それまでは、梅干しや漬物が一般的だったお茶うけに、甘いお菓子が出されるようになったとの事・・・

それにしても、日本人は、異文化の受け入れが早い!!

今じゃ、お寿司・天ぷらと並んで、すき焼きが代表的な日本料理ですからね~
考えたら、天ぷらもオランダですがな…(;´▽`A``
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2012年1月23日 (月)

九州北部の覇権を廻って…少弐氏と龍造寺氏

 

天文十四年(1545年)1月23日、主君である少弐冬尚から謀反の疑いをかけられた龍造寺氏の佐嘉城が落城・・・龍造寺家兼が筑後一ツ木へ落ちました。

・・・・・・・・・・・

肥前の熊と称された龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)(11月26日参照>>)祖父家純周家叔父頼純など、龍造寺家の主だった人々が、少弐冬尚(しょうにふゆひさ)の重臣・馬場頼周(よりちか)によって殺されてしまったという、あの事件です。

今回の少弐氏・・・そもそもは、平将門討伐ムカデ退治で有名な藤原秀郷(ひでさと=俵藤太)の末裔で、「武者所に仕える藤原氏」という事で、武藤氏と名乗っていましたが、あの源頼朝に従って源平の合戦に参戦して武功を挙げた事で、建久七年(1196年)に大宰少弐(だざいのしょうに)に任じられます。

太宰少弐というのは、中央から派遣されて大宰府(だざいふ)を治める役職で、長官(そつ)次官大弐少弐・・・

その少弐の役職を代々受け継いでいた事で、少弐氏を名乗るようになったとか・・・

しかも、いつしか大弐・少弐の職だけでなく、筑前(福岡県西部)肥前(佐賀県)豊前(ぶぜん=福岡県東部)壱岐対馬守護職も兼ねるようになり、九州北部に一大勢力を誇るようになっていたのです。

室町時代の初期・・・南北朝の頃には、はじめ後醍醐天皇についていたものの、途中から足利尊氏へと転じ、九州探題(たんだい)となった今川貞世(さだよ・了俊)とともに室町幕府の西の要として活躍していました。

しかし、室町も中期の頃から、周防(すおう・山口県)大内氏関門海峡を越えて九州にも進出しはじめ、しばらくの間、一進一退の攻防が、九州北部を舞台に繰り広げられていたのです。

やがて、そんな拮抗した状態も徐々に劣勢に・・・14代・教頼(のりより)、15代・政資(まさすけ)と、立て続けに大内氏との戦いで命を落としてしまっていました。

龍造寺氏は、そんな少弐氏の重臣だったわけです。

そして、政資の息子である第16代当主・資元(すけもと)の時代・・・豊後(ぶんご=大分県)大友氏などの支援を受けて、かろうじて再興を図っていた享禄三年(1530年)8月、大内氏の16代当主・大内義隆の命を受けた筑前守護代の杉興運(すぎおきつら)の侵攻を受けた時、田手畷(たてなわて)の戦いで、これを撃破!(8月15日参照>>)

久々のクリーンヒットでしたが、実はコレ、その資元の重臣だった龍造寺家兼(りゅうぞうじいえかね)と、この戦いをキッカケに龍造寺の家臣となる鍋島清久らの活躍による勝利・・・

そのため、この戦い以来、少弐氏内でのと龍造寺氏の力が強まり、その主従関係が、少々微妙になって来るのです。

その状況に絶えられなくなった資元は、家兼の進言によって義隆と和議を結びますが、これが謀略で、資元は、その領地をすべて奪われた上、梶峰城(かじみねじょう・佐賀県)を攻撃され、天文四年(1536年)に自刃して果て、ここに一旦、少弐氏は滅亡したのです。

この時、なんとか梶峰城から、危機一髪で脱出したのが資元の息子=少弐冬尚でした。

その後、家兼の支援によって、何とか少弐氏を再興する冬尚・・・しかし、心の中に何かが残ります。

そう、大内との和議を進言したのは家兼・・・しかも、その後に父・資元が攻められた時、救援要請を受けたにも関わらず、龍造寺が兵を出す事は無かったのです。

「ひょっとしたら、大内と通じているのではないか?」
その不信感は、そのまま冬尚の重臣・馬場頼周にも伝染・・・いつしか頼周は家兼を恨むようになり、天文十四年(1545年)1月23日、とうとう、家蒹らのいる佐嘉城(さがじょう)を攻め、家兼の息子2人と4人の孫を殺害するのです。

冒頭に書いた通り、主だった人たちを、すべて失った龍造寺家・・・家兼だけは、何とか脱出し、報復を誓いますが、この方、すでに90歳のご高齢・・・残念ながら、翌年の春に、お亡くなりに・・・

その時の遺言が・・・
「中納言は気宇広大(きうそうだい度量・構想などが並外れて大きい)の質がある・・・龍造寺家を興すものは中納言しかいない!
還俗げんぞく・一旦僧になった人が一般人に戻る事)させよ」

この中納言と呼ばれているのが、かの佐嘉城で命を落とした家兼の孫である龍造寺周家(りゅうぞうじちかいえ)の息子(つまり曾孫)で、7歳の時に龍造寺家ゆかりの宝琳院(ほうりんいん)に入り、円月(えんげつ)と号していた僧・・・後の龍造寺隆信でした。

その後、家督を継いだ隆信が、龍造寺家本家の龍造寺胤栄(りゅうぞうじたねみつ)とともに、冬尚を自害に追い込むのは永禄二年(1559年)1月11日の事・・・ここに、九州の名門・少弐氏は滅亡します(1月11日参照>>)

それからの隆信は、母・慶誾尼(けいぎんに)との強力タッグで本家を継ぎ、九州の一大勢力になっていくのですが、そのお話は3月24日の龍造寺さんのページでどうぞ>>
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2012年1月21日 (土)

室町幕府の佞臣・伊勢貞親が残した物は…

 

文明五年(1473年)1月21日、応仁の乱のきっかけを作ったとして『室町幕府の佞臣』と称される伊勢貞親が亡くなりました。

・・・・・・・・・・

佞臣(ねいしん)とは、「その心根が不正な家臣」という意味・・・そんな不名誉な冠をつけられた伊勢貞親(いせさだちか)・・・

貞親の伊勢氏は、桓武平氏の流れを汲む家柄で、室町幕府の中では、3代将軍・足利義満の時代から代々政所執事を務め、将軍の直轄領を管理するなど、幕府の重要な政務を任されていました。

さらに、伊勢氏は、将来将軍となる後継ぎの養育係でもあり、貞親の場合は、8代将軍となる足利義政を自宅で預かり、義政が幼い頃から、ともに寝起きした間柄・・・なので、義政は貞親の事を「御父」と呼んでいたとか・・・

こういう場合、得てして、将軍と言えど、育ての親には何となく頭が上がらず、ついつい、その言い分を聞いてしまう物・・・

案の定・・・それを良い事に、幕政やら後継者問題やら、なんやかんやと首を突っ込んで来る貞親・・・

もちろん、状況を冷静に判断し、幕府の事を思って首を突っ込んでくれるなら、それはそれで忠臣という事になって、むしろ良い事なわけですが、貞親の場合は、そこに、私利私欲や独断と偏見が入り、さらに、その場その場で意見が変わる無節操さがミックスされてモメ事のタネをまきまくりなのです。

たとえば、管領家斯波氏で、第10代当主斯波義敏(しばよしとし)守護代甲斐常治(かいじょうち)がモメた時など、将軍義政は、「義敏が正しい」として常治に処分を下そうとしますが、貞親がそこに「待った!」をかけ、なんと、裁定をくつがえしてしまいます。

それも、その理由が、愛妾=カノジョに頼まれたから・・・実は、この貞親のカノジョ、常治の妹だったのです。

つまり、モメた内容とは関係なく、カノジョの言う通り味方しちゃったわけで・・・

しかも、その10年後・・・今度は、斯波義廉(しばよしかど)11代当主となっていた時に、先ほど、貞親のせいで失脚させられてしまった義敏が、「何とか復帰したい」と願ったのを聞いて、それを幕府に働きかけたのは、誰あろう貞親・・・

これも、また、当時のカノジョ(さっきとは別人)が、義敏のカノジョと姉妹だったから・・・つまり、またまた、カノジョに「姉ちゃんのカレシ、何とかウマイ事としたってぇや」と頼まれての行動・・・こりゃ、モメます。

とは言え、伊勢氏は将軍の息子養育係・・・当然ですが、義政と、その奥さん・日野富子との間に生まれた義尚(よしひさ)の養育係も務めます。

しかし、ご存じのように、義政・富子夫婦には、なかなか子宝に恵まれなかった事から、義尚が生まれる直前に、出家していた義政の弟・義視(よしみ)還俗(げんぞく・出家した人が一般人に戻る事)させてまで、次期将軍に指名してしまっていました(1月7日参照>>)

「アカン!このままでは、僕の育てた義尚くんが将軍になられへん!」
と思った貞親は、義政に
「義視は、山名宗全(やまなそうぜん)と組んで、アンタはんを倒そうとしてまっせ」
と、あらぬ告げ口を・・・

それを信じた義政は、もうちょっとで義視を殺害してしまうところでしたが、寸前のところで、このウソが発覚・・・当然、名前を出された宗全は、怒りプンプンです。

しかも、この時、本来なら、宗全とは微妙な関係であった細川勝元(かつもと)まで、「あまりにヒドイ!」宗全の味方に・・・さらに、各大名たちも、こぞって、「貞親を切腹の処分に…」と、義政に進言します。

これを知った貞親・・・なんとトンズラ!!!
近江に逃亡しその身を隠してしまいます。

空席となった伊勢家の家督は、以前、貞親に勘当されてしまっていた息子貞宗(さだむね)が継ぎ、未だ幼い義尚は、そのまま伊勢家で養育される事に・・・

そうなんです。
実は、この息子の貞宗さん・・・おやじさんが、以前、斯波氏のモメ事にチョッカイ出してた時に、父の行動を批判したために、勘当されていたんですね。

・・・と、ここで事は丸く納まった・・・と思いきや、そのわずか1年後、あの応仁の乱が勃発します。

そこにタイミング良く、乱勃発のドサクサで戻って来た貞親を、なんと義政は受け入れて復帰させてしまうのですが、これが応仁の乱をややこしくします

と言っても、どうやらこれは富子の画策のようなんですが・・・(5月20日の後半部分参照>>)

ややこしい話は、上記のページで見ていただくとして、とにかく、おおまかに言いますと・・・
かつて自分を殺そうとした貞親が、自分がいる東軍に入った事で、義視は西軍の山名宗全を頼り、もともと宗全を頼っていた富子が、義尚を連れて、夫・義政と貞親のいる東軍に行く・・・と、将軍の後継者争いしてた両者が入れ替わる事態に・・・

そんなドタバタをしながら続いていた応仁の乱ですが、さすがの貞親も寄る年なみには勝てず、息子も立派になった事もあって文明三年(1472年)に隠居・・・2年後の文明五年(1473年)1月21日応仁の乱の終結を見る事なく、57歳の生涯を閉じたのでした。

その後、3月には西軍の大将=山名宗全、その2ヶ月後には東軍の細川勝元と、大物が相次いで亡くなる事になります(3月18日参照>>)

と、ここまで書けば、ホント貞親さんって、ただのトラブルメーカーで良いとこ無し!・・・って感じですが、一方では、制度改革を行って幕府財政の立て直しに成功していたという話もあり、マジメにすれば、ちゃんとヤレる人でもありました。

その集大成と言えるのが、貞親の後を継いだ息子=貞宗です。

貞親は、息子に対して『伊勢貞親教訓』という、38カ条にも及ぶ教訓状を残しているのですが、そこには「あの貞親が!?」と思うほど、すばらしい事が書いてある・・・

「人は生まれながらにして物を持っているのではなく、人の言う事を聞き、人の雰囲気や外見を見て学んでいく物・・・耳に聞く事を第一の利得とせよ」

「武士たる者、弓馬の稽古を1番にせよ・・・あとは見苦しくない程度で良い。歌や芸能の稽古も大事やけど、それが見苦しくても恥ではないが、弓馬が見苦しければ恥となる」

「別にオシャレなんかせんでええ・・・若者でも地味な服装でええねん。人に勝たなアカンのは、合戦での手柄・功名だけで、それ以外は普通でええねん」

「酒は人との仲立ちをしてくれる・・・その雰囲気でご無沙汰してる人とも親しくなれるし、仲間ともウマイ事行くから世間の評判も良くなる・・・その気がない時でも1杯やってみたら良いで」

「どんなけアホな相手でも、例え嫌いな相手でも、向こうが会いに来たら、いそいそと愛想ふって出かけてやらなアカン! 嫌な顔されたら好きな者でも嫌いになるし、感じ良かったら敵対してる者でも好感を持ってくれるんやさかい・・・笑顔大事やで~」

・・・って、「どの口が言うとんじゃ~o(゚Д゚)っ!!」ってな、すばらしいお言葉の数々・・・

そう、
実は、息子の貞宗さん・・・この父の言葉を教訓に、それに似合わぬ態度を反面教師に・・・見事な武将に成長するのです。

父の死後は、応仁の乱の収拾に尽力し、その後、義尚が9代将軍になると、その補佐役となり見事にサポート・・・高い政治力が評価を受けて、執事でありながら山城国の守護にも任命されるという異例の待遇を受け、あの山城の国一揆(12月11日参照>>)の収拾にも奔走しています。

さらに、11代将軍の足利義澄(あしかがよしずみ)の補佐役も務め、明応の政変で実権を握った細川政元(勝元の息子)(6月23日参照>>)さえも、貞宗には一目置いていたとか・・・

思えば、トラブルメーカーだった貞親さんの室町幕府への最も大きな功績は、貞宗さんという息子を次世代に残した事かも知れません。

良いプレーヤーが良い指導者になるとは限りません。
性格の良い父親が良い子育てをできるとも限りません。

この父がいればこそ、この息子がいた・・・のかも知れませんね。
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2012年1月20日 (金)

日本を2度救った慈愛の人・和気広虫

 

延暦十八年(799年)1月20日、奈良時代末期から平安初期の3代の天皇に仕えた女性・和気広虫が亡くなりました。

・・・・・・・・・・・

岡山県吉備地方と言えば、神代の昔から天皇家とのなんやかやがある場所(12月1日参照>>)・・・そのため、古くからの豪族は、大和朝廷との関わりの中で、采女(うねめ)の貢進を続けて来ていました。

それは、言わば、和平の証の人質のような物でもありましたが、一方では、一族の祀る神々の霊力を身につけて中央政府へと赴く神聖な女性という事で、重要視もされていました。

しかし、やがて時代も8世紀に入ると、そのような神聖な部分は薄れ、地方から貢上された女性は天皇後宮の女官となり、中央に仕えるという形になりますが、それは、それぞれの地方豪族が中央とのつながりを持つ絶好の機会でもあります。

そんな中、天平十四年(742年)に行われた采女の定員の大幅アップ・・・これは、新興豪族にとって、全国ネットの舞台に躍り出るチャンス!

・・・で、現在の岡山県吉井川流域を本拠とする新興豪族の娘として、天平二年(730年)に、生まれたとされる和気広虫(わけのひろむし)も、ちょうどこの年に、後宮職員採用の最低年齢である13歳に達したとして、中央政府との架け橋となるべく使命を帯びて出仕したわけです。

やがて2年後、15歳になった広虫は、光明皇后の後宮である皇后宮職(こうごうぐしき)少忠(しゅうちゅう・中間管理職クラス?)であった葛木連戸主(かつらぎのむらじへぬし)と結婚します。

その勤務状況から見て、戸主さんは、おそらく30歳くらいだと思われ、広虫となら、かなりの年の差結婚となるわけですが、ひょっとしてオフィスラブなのか?

戸主さんは、その葛木(=葛城)というお名前でもわかる通り、いち時は畿内を代表する大豪族だった葛城氏の末裔・・・しかし、今は完全に没落して、実家の後押しもない中流官僚・・・ひょっとして、メチャメチャ大恋愛の末の結婚か?

と、ちと喰いつき過ぎましたが・・・
ともかく、ここらあたりから、戸主さんは、意外にも出世街道を駆けのぼりはじめます

・・・というのも、以前書かせていただいたように(7月4日参照>>)この頃の皇后宮職というのは、聖武天皇をトップとする朝廷とは別の、もう一つの朝廷のような存在となっていたばかりか、ここに来て聖武天皇が病気がちとなり、むしろ、コチラのほうが力が勝る状況になっていたのです。

そんな皇后宮職を紫微中台(しびちゅうだい)として改変し、その長官となったのが、光明皇后お気に入りの甥っ子・藤原仲麻呂(なかまろ=恵美押勝)でした。

やがて病死した聖武天皇の後を継いだのは、第46代孝謙(こうけん)天皇ですが、この方、聖武天皇と光明皇后の間に生まれた皇女・・・つまり女帝で、しかも仲麻呂ラブなので、仲麻呂の権力はますます大きく・・・

そんな仲麻呂が、その能力を高く評価したのが戸主・・・実務官僚としてコツコツとマジメに仕事をこなすタイプの戸主を、仲麻呂は、ことのほか気に入り、戸主は、いつしか仲麻呂政権の中でも判官職のトップとなり、寺院の献物帳などには、仲麻呂と並んで堂々たる署名を残すほどに出世していきます。

しかし、そんな全盛期に訪れたのが、天平宝字八年(764年)・・・藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)(9月11日参照>>)

仲麻呂の言うがままに、彼の推す第47代・淳仁(じゅんにん)天皇に皇位を譲って上皇になったは良いが、その途端に彼は政務に夢中になって、ちっとも孝謙上皇のもとに寄りつかない・・・大きく穴の開いた女帝の心に、スッポリと入って来たのが、彼女の心の病気を癒しに来た僧・道鏡(どうきょう)・・・

道鏡ラブとなった孝謙上皇と対立した仲麻呂が乱を起こし、そして負けたのです。

そして、孝謙上皇が再び即位して第48代・称徳(しょうとく)天皇となる中、本日主役の広虫は叙勲されていますので、おそらく女帝側についた・・・まぁ、それ以前の天平宝字六年(762年)に謙上皇が出家した時、広虫も、ともに出家して法均と号していたとされる(出家は天平神護二年=766年説もあり)ので、彼女のブレーンとしてピッタリと横についていたのでしょう。

なんせ、この乱の事後処理の時、「事件関係者375人を斬刑、即刻死罪とする」と決定した孝謙上皇を、広虫が必死に説得して、仲麻呂本人とその一族郎党34人だけを処刑するに留まったらしいですので、孝謙上皇の彼女への信頼も、かなり篤かったと思われます。

一方、夫の戸主は、この乱の2~3年前から、史料に登場しなくなる事から、乱以前に亡くなっていたか、仲麻呂事件のあおりから、失意のうちに病死したのだろうとされています。

とは言え、広虫と夫との関係は、最後まで良好だったようです。

なぜなら、二人の間に子供がいなかった事から、この乱で家族を失った孤児たちに食糧や衣服を与え、さらに養子として引き取って、自らの戸籍に加える広虫ですが、その戸籍というのが「葛木連」の姓・・・つまり、夫の姓に子供たちを編入したのです。

その数・83人・・・官からも、若干の支援があったようですが、孤児救済への彼女の情熱は、並大抵ではありませんね。

しかし、広虫の持つ魅力は、そんなやさしさだけではありません。

しっかりと冷静に事を見据えるしたたかさ&強さも兼ね備えているのです。

それは、この後、神護景雲三年(769年)に起こる宇佐八幡神託事件・・・

この時、道鏡ラブな称徳天皇は、道鏡を皇位につけたいと願いますが、さすがに日本の歴史上、皇族でない人が天皇になった事は無いわけで、「それを神に聞こう」と、広虫に「九州の宇佐八幡に聞いて来て!」と頼みます。

しかし、彼女が体が弱かった事を案じて、3歳年下の弟・和気清麻呂(わけのきよまろ)九州へと向かい、宇佐八幡の神託を受ける事に・・・実は、この時、広虫は、こっそりと弟に「道鏡の野心を砕け!」と進言していたとか・・・

・・・と、この事件の顛末は、戦前は教科書にも載っていた有名なお話なので、ご存じの事と思いますが(9月15日参照>>)、ここで「皇族以外の者を天皇にしたらアカン!」という神託を、清麻呂が受け取って来た事で、道鏡が天皇になる事はありませんでしたが、怒った道鏡派によって、清麻呂は別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)に改名されて大隅(九州南部)への流罪、姉の広虫も、別部狭虫(わけべのさむし・せまむし)もしくは別部広虫売(わけべのひろむしめ)と改名されて、都から追放処分処せられてしまいました。

しかし、ほどなく称徳天皇は亡くなり、道鏡も失脚(10月9日参照>>)・・・世は、次代の天皇、第49代光仁(こうにん)天皇の時代となります。

しかも、この光仁天皇・・・ここまで約100年続いた天武天皇系から交代した天智天皇系の血筋・・・世の中が一気に変わり始める中、罪を許された広虫と清麻呂も都に戻り、復帰します。

いや、復帰どころか、光仁天皇の後を継いだ第50代桓武天皇のもと、二人は大いなる信頼を勝ち取ります。

新しい世の中を模索する桓武天皇が一旦、長岡京に遷都した(11月11日参照>>)ものの、異常気象のなんやかんや(2007年10月22日参照>>)藤原種継暗殺事件のなんやかんや(2006年10月22日参照>>)奈良仏教勢力とのなんやかんや(10月1日参照>>)、で悩み続ける天皇に適格なアドバイスを行い、平安京遷都という一大事業をサポートしたのが、他ならぬ、広虫&清麻呂姉弟・・・

かくして桓武天皇の信頼を一身に受けた広虫は、延暦十八年(799年)1月20日おそらくは70歳近い大往生で、この世を去りますが、仲よしの弟と二人、常々「お互い、ごたいそうな葬式はやめとこな」との約束をしていたらしく、その法事も、ごくごくささやかな物だったとか・・・

Gouzinzya700 広虫&清麻呂を祀る京都・護王神社

思えば、皇位継承の危機と平安遷都の危機・・・二つの大きな危機に直面した日本を救ったのは、この二人の姉弟・・・しかし、その根底にあるのは、孤児を慈しむやさしい心・・・

剣を振るわずとも、国を救えるとは・・・なかなか、大したものであります。
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2012年1月19日 (木)

弘法大師・空海と東寺

 

弘仁十四年(823年)1月19日、空海が、嵯峨天皇より教王護国寺を賜りました。

・・・・・・・・・・・・

教王護国寺(きょうおうごこくじ)とは、皆さんご存じの東寺(とうじ)の事です。

Dscn2789a800

新幹線でも在来線でも、京都駅に着くと、その車窓から、日本一デカイ五重塔を眺める事ができ、
「あぁ、京都に来たなぁ~」
と、しみじみ実感できる、あのお寺です。

『教王護国』とは、読んで字のごとく、国家の鎮護をする役目を担う寺院の事・・・そもそもは、この教王護国寺というのが、お寺の正式名称です。

Heiankyoub ・・・と言っても、平安京が造営された時点で、その南の玄関となる羅城門を挟んで、都を守るように建立された東西二つの寺院のうちの東の寺院なので、創建当時から「東寺」と呼ばれており、こちらも、俗称や別名ではなく、正式名称として扱われます。

Dscn2807a800 ちなみに西寺のほうは、現在は、公園となっていて、そこに礎石のみが残ります。

ところで、ご存じ、弘法大師・空海ですが・・・

彼は、宝亀五年(774年)に讃岐国(香川県)多度郡豪族の子として生まれ、もともとは、僧になるはずではありませんでした。

今でもそうであるように、自らの立身出世のため・・・「一旗挙げてやろう」と夢見て、地方豪族の坊ちゃんが都を目指したのです。

なので、上京から3年目の18歳の時には、大学の明経道(みょうきょうどう)という試験に合格して、そのまま行けば、官人として政務に励む生活をおくった事でしょう。

おそらく、故郷の両親も、それを願って息子を送り出したはず・・・ところが、ちょうど、その頃、空海は、1人の名もなき僧に出会います。

その僧から『虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじほう)なる修法をを示され、もともと優秀な彼の探求心が目覚めます。

そして、その修法を実践すべく、阿波(徳島県)土佐(高知県)吉野の山に入り込み、修業三昧の日々・・・やがて京に戻り、延暦十六年(797年)、儒教・道教・仏教の3つの教えを比較検討した『三教指帰(さんごうしき)なる書物を著し、その中で「仏教、サイコー!」と絶賛し、自らも仏教の道に生きる事を決意します・・・空海、24歳の時でした。

そして、例の中国行きです。

このブログでも、再三、空海と比較している天台宗の開祖=伝教大師・最澄(さいちょう)(6月4日参照>>)・・・と同じ遣唐使船に乗って、延暦二十三年(804年)に中国へ渡ります。

アッ!スンマセンm(_ _)m
同じ遣唐使船と言っても、同じ船という事ではなく、当時、4隻同時に出航していた(4月2日参照>>)遣唐使船だったという事で、最澄は1号車に乗り、空海は2号車・・・ちなみに、同時に出航したうち、3号車は暴風で引き返し、4号車は遭難してしまっているので、彼ら二人が1号と2号に乗っていたというのは、まさに神様の・・・いや、仏様の奇跡

・・・で、以前から度々お話しております通り、この時、空海より7歳年上の最澄は、生まれながらに仏の道に生きていたせいもあって、すでに立派な高僧としての名もあり、第50代・桓武天皇の庇護も受け、この遣唐使船には、公費で留学する特待生として乗船していました。

一方の空海は、自費で留学する一学問僧に過ぎず、その差は歴然としていたんです。

空海自身も、おそらく、留学期間が決まっている最澄とは違い、20年・30年の長きに渡って、本場中国の仏教を学ぶつもりで出立した事でしょう。

ところが、その天才的素質は、その教えを、どんどん吸収していきます。

はじめ、密教の奥儀を習得するためには、まずはインドから・・・と、長安にいたインド僧から、サンスクリット語とインド哲学を学び、その後、真言密教の大成者とされる青龍寺恵果(けいか)のもとへ・・・ここでは、退蔵界灌頂(たいぞうかいかんじょう)金剛界灌頂(こんごうかいかんじょう)伝法灌頂(でんぽうかんじょ)などの大法を、わずか3ヶ月で授けられるというスピード習得・・・

しかも、その年の12月に亡くなった恵果から
「帰国して、密教を広めるように…」
という遺言までされちゃってます。

「もはや、学ぶべき事は学んだ…あとは、これを日本に持ち帰って…」
と、思っていたであろう空海・・・と、これまたグッドタイミングで、ちょうど、中国に、次の遣唐使船が入って来たばかり・・・

空海は、その遣唐使船に乗って帰国・・・わずか2年の留学でした。

しかし、それこそ長けりゃ良いってモンじゃありません。

短くとも、しっかりと真言密教を会得して来た空海は、帰国直後こそ、あまりの帰国の早さに筑前(福岡県西部)に留め置かれましたが、大同四年(809年)に京に戻って来ると、またたく間に真言密教の大家として受け入れられ、密教に興味を持った第52代・嵯峨天皇の庇護を受ける事になります。

やがて弘仁三年(812年)には、あの最澄が、わずかな期間の留学だったため、中国で思うように学べなかった密教の教えを請うために、空海のもとを訪れるまでになりました(12月14日参照>>)

この間、東大寺の別当(寺務の統轄役)などを歴任し、弘仁七年(816年)には高野山の地を賜って、そこに現在の金剛峯寺の開創に着手しました。

そして弘仁十四年(823年)1月19日・・・かつて、平安京の誕生とほぼ同時期に創建されていた東寺=教王護国寺を賜り、そこを真言密教の根本道場としたというワケです。

残念ながら、その後、焼失と再建が繰り返されたため、現在の東寺の建物の多くが室町時代の物ですが、その伽藍配置は、まさに空海が構想したそのままに再建されています。

それこそ、見どころは数え切れないほどあるのですが、中でも必見は講堂内部・・・普通は、曼荼羅(まんだら)で平面的に描かれる密教の宇宙観を、合計21体の仏像を堂内に配置する事によって3D=立体の世界で現される・・・

Taisyakuten500 21体のうち15体が国宝って事もスゴイんですが、その中におわす帝釈天がなおスゴイ・・・何がスゴイって、メッチャ男前=イケメンなのです。

最近では、興福寺の阿修羅像がイケメン(アタシャ中学の時から目をつけてましたデス)と評判になりましたが、ぜひ、コチラのイケメンも・・・目の保養になりますです。

Aburagami500 あと、ここの油取り紙は、京都一って評判ですので、お土産にどうぞ・・・

って、なんだか、邪心まるだしの寺詣りしてるのがバレてしまいましたが、今日のところは、このへんで・・・

東寺&西寺跡のくわしい行き方は、本家HP:京都歴史散歩「平安京朱雀大路を東寺から二条城へ…」で>>
文中に差し込んだ「平安京の比較地図」の散策ルートも紹介しています。
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2012年1月18日 (水)

幕末の名君…「肥前の妖怪」佐賀藩主・鍋島直正

 

明治四年(1871年)1月18日、第10代肥前佐賀藩・藩主の鍋島直正が58歳で亡くなりました。

・・・・・・・・・

幕末に功績のあった藩を、雄藩と称して「薩長土肥(さっちょうどひと言われます。

「薩」薩摩(鹿児島県)「長」長州(山口県)「土」土佐(高知県)、そして「肥」肥前(佐賀県)ですね。

薩摩には西郷隆盛大久保利通、長州には高杉晋作桂小五郎(木戸孝允)、土佐には後藤象二郎板垣退助・・・脱藩してはいても、中岡慎太郎坂本龍馬の名を忘れる事はできません。

・・・で、肥前は???

早稲田の創設者である大隈重信や佐賀の乱の江藤新平(4月13日参照>>)がいるけれど、彼らが活躍するのは、あくまで維新が成ってから・・・

実は、佐賀藩が雄藩の一つに数えられるのは、個人ではなく、藩全体のチームプレーによる功績・・・そこには、幕末の動乱において、見事に藩の動向をリードした当時の藩主・鍋島直正(なべしまなおまさ)があったのです。

Nabeshimanaomasa500 天保元年(1830年)、父の隠居の後を受け17歳で第10代藩主となった鍋島直正・・・後に隠居して閑叟(かんそう)と号するので鍋島閑叟の名で紹介される事もありますが、

とにかく、彼が藩主となった頃の佐賀藩は、とんでもない状況だったのです。

当時、あの長崎が佐賀藩の管轄であった事から、フェートン号事件に代表される外国からの脅威に対して長崎の警備強化に多大な費用がいる事・・・

藩主となる2年前にあったシーボルト台風によって大きな被害が出た町の復興・・・

さらに、隠居した前藩主の父が、けっこうな贅沢好きで、バンバンお金を使う事・・・

などなどが相まって、佐賀藩の財政は破たん寸前・・・直正が藩主になって、初めて国許へ行こうと藩邸を出た時には、借金取りが群がって、その隊列が前に進めなかったほどだったとか・・・

そんな中、藩の財政立て直しに着手する直正でしたが、最初のうちは、隠居してもなお権力を持つ父やその取り巻きに阻まれ、質素倹約を推し進めるくらいしかできませんでした。

しかし天保六年(1835年)に、これまで藩政の中心だった佐賀城・二の丸が大火で全焼して本丸へと移転した事をキッカケに、父の存在を押し倒し、独自の改革を始めたのです。

まずは、役人の人数を大幅カット、同時に、強気姿勢で借金の棒引きを認めさせ、その一方で、国内産業の育成や交易に力を注ぎ、藩校・弘道館(こうどうかん)を充実させて、次代の人材育成にもあたり、見事に財政を立て直していきました。

中でも、自ら蘭学を学び、西洋の技術を積極的に受け入れ、軍事力や産業力を強化する事を実践していきます。

天然痘が流行した時には、いち早くオランダから牛痘ワクチンを輸入し、自らの息子を実験台に試験してみせたのだとか・・・

以前、緒方洪庵(こうあん)先生のページで、牛痘ワクチンを分苗してもらい、そこから予防接種開始する(6月10日参照>>)とお話させていただきましたが、それを洪庵に提供したのがこの直正・・・彼がいなかったら、洪庵先生の功績も半減していたかも知れないのです。

そんな佐賀藩は、軍事・産業面において、反射炉や蒸気船を自前で造り出すほどに、その技術は高まっていきます。

つい先日お話した、からくり儀右衛門こと田中久重が、その才能を思う存分発揮できたのも(1月11日参照>>)直正の政策あっての事・・・

あのペリー来航に慌てた幕府が、品川沖に造ったお台場(8月28日参照>>)に設置された砲台も、ほとんど佐賀藩の技術提供によるものだったとも・・・

ここに来て佐賀藩が持つ火力たるや、あの島津斉彬(なりあきら)(7月16日参照>>)の薩摩にも負けないくらい・・・いや、むしろ表に出ないところで、この時点で最強の軍事力を保有していたのは佐賀藩だったのです。

しかし、何と言っても直正のスゴさは、その身の置き所の選択のウマサ・・・

そこまでの軍事力を持っておきながら、積極的に先頭に立つ事もなく、かと言って「そうせい候」と呼ばれる某藩主のように家臣にまかせっきりという事もなく、尊王攘夷派とも公武合体派とも手を組まず・・・

そのために、まったくとらえどころのない「肥前の妖怪」と言われたりなんぞしました。

しかし、それでいて、国政や天下取りに興味が無いかと言えば、そうではない・・・むしろ、そこに参加するベストな機会を、虎視眈々と狙っていたのです。

その最高の機会が、あの上野戦争(5月15日参照>>)でした。

鳥羽伏見の戦いが終わっても(1月9日参照>>)、続く戊辰戦争も佳境に入って官軍が江戸に押し寄せても(3月14日参照>>)、そこに参戦しなかった直正は、最後の将軍となった徳川慶喜(よしのぶ)恭順姿勢や、官軍の動向を見据え、上野戦争直前になって官軍に加わったのです。

もちろん、鳥羽伏見の戦いからここまでの状況を見れば、薩長有利で、慶喜に戦う意思が無いのは誰が見ても明らかですから、このあたりで官軍に寝返った藩は多数・・・むしろ会津藩(8月20日参照>>)長岡藩(5月13日参照>>)のように、最後まで姿勢を全うした藩のほうが少ないです。

しかし、他の藩とは違い、佐賀藩は特別・・・それは、その見事な軍事力を発揮できる最高の舞台である上野戦争での参戦というベストなタイミングを見計らったという事・・・

佐賀藩が保有していた最新鋭の武器=アームストロング砲をひっさげての参戦が、物を言ったのです。

もちろん、上野戦争には、それを指揮した大村益次郎の見事な作戦という物があり、上野戦争がたった1日で終結するのも、益次郎の手腕あればこそ!とも言われますが、佐賀藩の参戦が官軍の火力を飛躍的に向上させた事は間違いなく、それこそ、この佐賀藩のアームストロング砲の存在ありきの益次郎の作戦という事もあるのではないでしょうか?

こうして、佐賀藩を幕末の雄藩の一角に滑り込ませた直正は、維新後に新政府の議定(ぎじょう)に就任した後、明治四年(1871年)1月18日藩邸にて、58年の生涯を閉じました。

その最後の言葉は
「廃藩置県に協力せよ」

元藩主として、いち早く廃藩置県に賛同していた直正は、蝦夷開拓にも力を注ぎ、満州開拓オーストラリアなど、外国にも広い目を向けていたと言われます。

この先、そんな外国と対等に渡り歩かねばならない日本・・・そのための中央集権に欠かせない廃藩置県・・・

もはや、彼は、50年先、100年先の日本を見据えていたのでしょう。

その廃藩置県が発布されるのは、直正の死から半年後の明治四年(1871年)7月14日の事(7月14日参照>>)・・・

個人パフォーマンスを好まず、チームの全体の向上に徹し、その力を一番発揮できる場所へと導く手腕は、まさに最高のリーダーと言えるかも知れませんね。
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2012年1月17日 (火)

伝説に彩られた都一の美女・常盤御前…と信長?

 

平治二年(1160年)1月17日、先の平治の乱に破れて命を落とした源義朝の愛妾常盤御前が都落ちしました。

・・・・・・・・・・

とは言え、常盤御前(ときわごぜん)に関してのお話は、ほとんど、伝説の域を出ない物・・・

史実だろうとされるのは、源氏の棟梁・源義朝(みなもとのよしとも)愛妾(側室)となって、今若(いまわか)乙若(おとわか)牛若(うしわか・後の義経)3人の男の子をもうけていた事。

義朝亡きあとに、公家の一条長成(いちじょうながなり)となり、能成(ながなり)という男子と女子(名前は不明)を産んだ事・・・(清盛の愛妾となり、女の子を産んだというのは軍記物語にのみ登場)

さらに、後に息子の義経が、兄の頼朝に追われるようになった時、義経を探索する鎌倉幕府によって、いち時、拘束された事・・・(後に開放されています)

ある程度信頼のおける史料には、ほぼ、これくらいしか登場せず、それ以外の事は、いわゆる軍記物という、今で言う歴史小説の類の中のお話なのです。

しかし、それでは、ちと寂しい・・・

今年の大河ドラマ「平清盛」では、玉木宏さん演じる清盛の好敵手=義朝のお相手として、常盤御前を武井咲さんという美しい女優さんが演じるのですから、おそらく、ただ「出る」だけではないはず・・・伝説とは言え、様々な逸話が織り込まれる事でしょう。

って事で、まずは、室町時代に成立したとされる軍記物の一つ『義経記(ぎけいき)に沿って常盤御前のお話をすすめて参りましょう。
5年前に書いたページ>>と、大いに内容かぶってますが、新たに付け加えたいお話もあるので許してねo(_ _)oペコッ)

・‥…━━━☆

前年の暮れに勃発した平治の乱(12月26日参照>>)に破れた源義朝は、東国へと落ち延びるべく都をあとにし、途中で息子たちとも別れ、乳兄弟の鎌田政家(かまたまさいえ・政清)とともに、尾張国知多にいた政家の舅・長田忠致(おさだただむね)を頼りますが、恩賞に目がくらんだ忠致によって謀殺されてしまいました(1月4日参照>>)

一方、夫の敗北を知った常盤御前は、3人の幼子を連れて、平治二年(1160年)1月17日明け方に都落ちし大和国(奈良県)宇陀(うだ)岸岡に住む知人を頼りますが、断わられてしまいます。

やむなく、同じ大和の国の大東という所に身を隠していましたが、ほどなく京都に住む常盤の母・関屋六波羅(平家の本拠地へ連れて行かれた事を聞くのです。

当然、平家の狙いは母では無く自分・・・いや、女の常盤は大丈夫かも知れないけれど、おそらく、捕まって命取られるのは今若(7歳)乙若(5歳)牛若(1歳)の3人の息子たちです。

しかし、子供を助けようと、このまま身を隠していれば、母がどうなるか・・・

「親孝行をする者には堅牢地神(けんろうじしん)という女神のご加護があるという・・・きっと良い方向に傾くに違いない!」
と決心した常盤は、3人の子供を連れて自首するのです。

こうして屋敷にて、清盛と面会した常盤・・・と、清盛は、彼女を見るなり一目惚れ!

Dscn4887tokiwa600 実は、常盤は、ミス平安京だったのです。

そもそも常盤が、第76代・近衛天皇中宮である九条院(藤原呈子)雑仕女(ぞうしめ=召使い)に採用されたのも、美しい人が大好きな九条院が、京都中の美女を1000人集め、1000人の中から100人を選び、100人の中から10人を選びして、最後の1人・・・つまり、1番となった美女が常盤だった事で、彼女が採用されたのです。

しかも、その後、その美貌が目にとまって、源氏の棟梁・義朝の愛妾になったわけですし・・・

常盤が、自らの命にかえても、3人の子供を守りたいと思っている事を知った清盛は、彼女が自分の愛を受け入れてくれるなら、「子供たちの命を保障する」と約束・・・こうして、常盤は、今度は清盛の愛妾となるのです。

今若と乙若は、ほどなく、僧になるべく寺に預けられ、この時、まだ乳飲み子だった牛若は、4歳まで手元で育てられた後、山科の源氏ゆかりの者のもとで7歳まで暮らし、その後、鞍馬寺へ(4月30日参照>>)・・・そして、『義経記』では、この後は、牛若の成長の物語となり、ご存じ、源義経として、源平合戦の表舞台で活躍する様子が語られます。

ちなみに、清盛と常盤の間には廊御方(ろうのおんかた)という女の子が生まれていて、後に平家一門とともに都落ちし、あの壇ノ浦で捕えられたとされますが、このお話は、『平家物語』『源平盛衰記』のみに登場するお話で、史料とされる文献や『義経記』には書かれていません。

・‥…━━━☆

と、軍記物はおおむね、このような感じですが、史実としては、おそらく、清盛が常盤御前を愛妾にしたという事はなく、3人の息子たちの命が助かったのは、あくまで清盛自身の判断による物であろうと言われています。

考えて見れば、実際に平治の乱の出陣したうえに、義朝の嫡男である頼朝の命を助けている(2月9日参照>>)清盛なのですから、まだ合戦の意味もわからない幼い3人の子を処刑する気は、はなから無かったのかも知れません。

なので、この後、常盤が一条長成の妻となるのも、清盛から下げ渡されたというような物ではなく、普通の結婚だったのでしょう。

ところで、こんなに伝説に彩られた常盤御前・・・その最期も伝説として語られます。

ただ、コチラは、軍記物ではなく、はなから伝説として伝わっていたお話・・・まずは、その伝説をベースにした浄瑠璃が戦国時代頃に人気となり、さらに江戸時代に絵巻物となって後世に伝わった物なのです。

それは『山中常盤』と言います。

ストーリーは、
承安三年(1173年)、鞍馬寺を出てから消息不明となっていた牛若=義経が、奥州藤原氏に庇護されている事を知った常盤は、どうしても我が子に会いたくて京を出て、侍従とともに中山道を東へ向かいます

しかし、街道沿いにある山中という宿場町で盗賊集団に襲われて衣装を奪われて裸にされたあげく惨殺されてしまったのです

たまたま、東北から京へ向かう途中の義経が聞きつけ、母の恨みを晴らすべく盗賊たちのもとに馳せ参じ、めった斬りにして本懐を遂げた・・・というもの・・・

ハッピーエンドとは言い難い血なまぐさいストーリーですが、創作臭プンプンなお話ですね。

史実としての常盤御前は、その没年齢は不詳となっているものの、冒頭に書いた通り、義経が頼朝から追われるようになった時に幕府に拘束された事が、鎌倉幕府の公式記録『吾妻鏡(あづまかがみ)と、信用度の高い公家の日記『玉葉(ぎょくよう)に書かれているのですから、やはり、コチラを信用して、その頃には、まだ生きていたと見るべきしょう。

ただ、おもしろいのは、この話が、あの『信長公記(しんちょうこうきに登場するところ・・・

つい先日書かせていただいた斉藤道三のページ(1月13日参照>>)でもお話しましたが、この『信長公記』は、戦国時代屈指の1級史料とされる物で、専門家の間でもかなり信頼されている文献です。

そこに・・・
織田信長が、度々京へと往復する道すがら、いつも山中宿にさしかかると道のほとりにみすぼらしい物乞いの者が立っているのが気になっていました

そこで、ある時、村の者に
「あの者は誰か?」
と尋ねますと、村人は・・・

「あの者は“山中の猿”でございます」
と・・・

『山中の猿』とは、その昔、彼らの先祖が、この地にて常盤御前を惨殺した報いにより、まともに働く事ができず、子々孫々と、ああして、物乞いをしているのだと言うのです。

哀れに思った信長は、木綿二十反を物乞いの者に与え、村人に「彼を保護してやってくれ」と頼んだのだとか・・・

う~~ん┐(´-`)┌これはどういう事なのか???

「山中常盤』は、実際にあったのか?無かったのか?・・・

ただ、信用度の高い『信長公記』の記述が事実であったとするならば、おそらく「すでに伝説として広まっていた“山中常盤”の話を利用して、物乞いをして廻る人たちが、実際にいた」と考えられますね。

つまり、常盤御前の話は伝説だけど、それにかこつけて物乞いをする人がいたというのは事実という事・・・あくまで、推理ですが・・・

伝説と史実・・・巧みに合わさった感が歴史好きには、たまりませんね~ヽ(´▽`)/

はてさて、今年の常盤御前は、どのように描かれるのか?
楽しみですね。
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2012年1月16日 (月)

満月の陰り…道長の息子・藤原顕信の出家

 

寛弘九年(長和元年・1012年)1月16日、藤原道長の三男・藤原顕信が出家しました。

・・・・・・・・・・・・

♪この世をば わが世とぞ思ふ 望月の
   欠けたることも なしと思へば ♪

「この世は自分のためにある物・・・この満月は欠ける事は無い」

ご存じ、有名なこの歌は、平安時代に栄華を極めた藤原道長が、寛仁二年(1018年)10月16日に詠んだ一首です。

寛仁元年(1017年)12月4日に太政大臣となった道長・・・その翌年に、第66代・一条天皇中宮となっていた長女・彰子(しょうし)が生んだ孫が第68代・後一条天皇として即位した、その時に詠んだのです(10月16日参照>>)

他の娘も天皇家に嫁がせていた道長は、この後一条天皇の後も、第69代・後朱雀天皇、第70代・後冷泉天皇外戚(母方の祖父)をゲットして、約30年間に渡って君臨するのです。

寛弘九年(長和元年・1012年)と言えば、その5年前・・・

寛弘五年(1008年)の長女・彰子に続いて、その3年後の寛弘八年(1009年)には次女の妍子(けんし)が第67代・三条天皇に入内した、まさに、道長が飛ぶ鳥を落とす勢いの時・・・

そんな寛弘九年(長和元年・1012年)1月16日道長は、突然、その知らせを耳にします。

三男の藤原顕信(あきのぶ)が、行願寺(ぎょうがんじ=革堂)の僧・行円(ぎょうえん)のもとを訪ねた後、そのまま何の連絡も無しに比叡山に登って出家をしてしまったのです。

Dscn3115a800 顕信が訪れた行願寺(革堂・京都市中京区)
行願寺のくわしい場所は、本家HP
「京都・魔界マップ」へ>>

確かに、無益な後継者争いを防ぐため、家督を継ぐべき長男以外の次男・三男が出家をするという事はあるでしょう。

しかし、それは、継ぐべき領地、つける役職がある程度限られた場合がほとんど・・・今回の場合、もう間もなく、天皇の外戚として権力を奮う事は間違いなく、さらに重要な役職を一族で固める事は、目に見えている状況なわけです。

未だ19歳の若さの息子・顕信・・・父として将来を期待していただけに、ショックは大きかった事でしょう。

道長のその日の日記には、
「本意だろうから、諭しても無駄だろう」
と、息子の意思を尊重する父の気持ちが書かれています。

一説には、その少し前、当時、空席になっていた蔵人頭(くろうどのとう=天皇の秘書)に顕信を・・・と、三条天皇からの打診があったのを、道長が「適さない」として断わった事で、顕信が自信を失った、あるいは、将来に不安を感じた・・・とも言われますが、もともと、仏教に心ひかれる優しい少年だったという事なので、その性格よる物だったのかも知れません。

出世街道まっしぐらの父や、昇進&昇進と躍起になる周囲の貴族たちに、彼は、もう疲れきっていたのでしょう。

とは言え、権力者の道長とて、1人の父親・・・なんだかんで息子が心配なのか、この3ヶ月後には自ら比叡山に登り、僧衣など、生活に必要な品々を手土産に面会し、しばしの間、父子で語りあったと言います。

比叡山では長禅(ちょうぜん)と号していた顕信・・・

心やさしき人は、そのぶん、弱かったのか?

万寿四年(1027年)5月14日・・・未だ34歳の若さで亡くなってしまいます。

「この満月は欠ける事はない」
あたかも、「何も怖い物はない!」と豪語するかのような道長のこの歌・・・

顕信の事を知らなければ、その言葉通りに、栄華を極めて頂点に立った男の、満面のドヤ顔をした自慢の一首に聞こえます。

しかし、顕信の出家から6年後に、この歌が詠まれたと知った今・・・

ひょっとしたら、息子と同じく、今にも壊れそうな自分を、必死で強がって見せている父親の叫びだったのかも知れません。

なぜなら・・・
顕信の死を知らされた道長は、そのわずか7ヶ月後万寿四年(1027年)12月4日に、自らが建立した法成寺の阿弥陀仏に見守られながら、まるで息子の後を追うように、その62歳の生涯を終えてしまうのです(12月4日参照>>)から・・・

満月なら、必ず、また欠けるはず・・・

しかし、もはや走り続けなけらばならず、欠ける事を許されない望月の、たった一つの陰りを象徴する物が、顕信の出家だったのかも知れません。
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2012年1月15日 (日)

平家台頭の基礎を作った清盛の父・平忠盛が死す

 

仁平三年(1153年)1月15日、武家として初の内裏昇殿を許され平家繁栄の基礎を築いた平忠盛が、58歳でこの世を去りました。

・・・・・・・・・・・

平忠盛(たいらのただもり)は、ご存じ、平清盛(きよもり)のお父さん・・・本年の大河ドラマ「平清盛」では、中井貴一さんカッコイイ忠盛を演じておられます。

Tairanotadamori500 白河法皇北面の武士として仕えた平正盛(まさもり)(12月19日参照>>)の息子として、彼も13歳で左衛門少尉となり、盗賊を捕えるなど、京都の治安維持に従事しました。

以前、【平清盛、ご落胤説】(2月11日参照>>)のところで書かせていただいた、「白河法皇が寵愛する祇園女御(ぎおんにょうご)に毎日新鮮な鳥を届けた」というお話は永久二年(1114年)頃・・・忠盛さん、20歳頃の出来事ですね。

同じページに書かせていただいた『忠盛燈籠』のエピソードと言い、この頃の忠盛は、白河法皇の大きな信頼を得ていた事がうかがえます。

その流れからか、永久五年(1117年)には、鳥羽天皇に入内した藤原璋子(しょうし・たまこ=待賢門院)政所別当(まんどころべっとう・家政機関の長官)となり、その2年後には賀茂臨時祭の新舞人にも選ばれ、大治二年(1127年)には従四位下を賜り、備前守(びぜんのかみ)左馬権頭(さまごんのかみ・馬の管理担当)兼任するにまで至り、この頃に藤原宗子(むねこ=池禅尼)正室にもしています。

馬の管理=飼育や調教って言っても、この場合の馬は軍用・・・今で言うところの戦闘機や戦車ですから、軍を担当する武士にとっては、このうえない憧れの任務

これも白河法皇のおひき立てがあればこそ・・・

やがて大治四年(1129年)7月に白河法皇がお亡くなりになりますが、その後を継いで院政を開始した孫の鳥羽上皇のもと正四位下に昇進し、やはり北面の武士として白河法皇の頃と変わりなく重用されます。

この頃のエピソードとして登場するのが、あの『平家物語』の序盤にある『殿上の闇討ち(11月23日参照>>)・・・武士でありながら昇殿をゆるされる身分にまでなった忠盛の事を妬んだ貴族たちが、忠盛の暗殺を計画しますが、結局、見るからに強そうな彼らを目の前にして、ほうほうのていで退散するというお話です。

同じ『殿上の闇討ち』の段には、その後も、祝いの席やら節句の行事やらで、忠盛の舞いにケチをつけたり、しょーもない事であげ足とったりバカにしたりと、貴族たちからのイジメに絶えしのぶ忠盛ですが、そんな時にも、「お前は悪くない!」と常に味方でいてくれていた鳥羽上皇の姿があります。

やがて保延元年(1135年)に、忠盛が中務大輔(なかつかさたいふ・天皇の補佐)に任ぜられる頃、博多敦賀を玄関口にして民間の間で行われていた日宋貿易が一掃盛んになって来ますが、そんな中で、おそらく、この先、貿易の主要ルートになるであろう瀬戸内海に出没する海賊が問題となっていました。

そこで、以前、備前(岡山県東南部)守であった経験をかわれて、忠盛は海賊の討伐を命じられ、これまた見事に退治して、更なる出世の階段を上って行ったのです(8月21日参照>>)

・・・と、この頃には、息子の清盛も従四位下に叙され、父とともに順当な出世街道・・・と言っても、若い頃の清盛の業績はほとんど伝わってはいないのですが、とにかく、北面の武士として朝廷に仕え、同僚の遠藤盛遠(もりとお=後の文覚)(7月21日参照>>)佐藤義清(のりきよ=後の西行)(10月15日参照>>)らと、仲が良かったのだとか・・・この若い頃の人脈が、後々、また絡み合って来る事になりますが・・・

やがて久安二年(1146年)、忠盛は播磨守(はりまのかみ)に任じられ、もはや出世も最高峰・・・公卿昇進も夢じゃないとなった頃、さすがに、もう、この頃には、例の貴族たちのイジメもなくなり、ホッと一息・・・

度々、鳥羽上皇の御所に訪れては、その話相手などしていましたが、『平家物語』によれば、実は、この院御所には、忠盛さんお気に入りのカノジョがいたとか・・・

ある時、彼女の部屋に、月の絵が描かれた扇を忘れて帰ってしまった忠盛・・・同僚の女官たちが、その扇を見つけて、
「あら~、この月はどこから落ちてきた月やろか…出どころがわからへんと気になりますわぁ」
と、彼女をからかいます。

すると彼女は
♪雲井より ただもりきたる 月なれば
  おぼろけにては いはじとぞ思ふ ♪

「雲の間から、ただ、漏れてきた月やから、ちょっとやそっとじゃその出どころは言いまへんえ」
と、一首詠みます。

「ちょっとやそっとじゃ言えへん」と言っておきながら、『ただ漏れて来た』事を『忠盛来たる』とかけて、バラしちゃうところは、やはり自慢の彼氏なのか???

と、この話を人づてに聞いた忠盛は、なおいっそう彼女の事を好きになったのだとか・・・この女性が、忠盛の六男・平忠度(たいらのただのり)(7月25日参照>>)母となる女性だとか・・・

まぁ、軍記物の『平家物語』ですので、どこまで事実に近いのかはわかりませんが、忠度さんの歌のウマさは、母譲り・・・と言いたいのでしょうか?
でも、その前には忠盛さんの歌のウマさも書いてるので、両親ともに・・・って感じかな?

・・・こうして、もはや人生も頂点に来た忠盛ですが、晩年に、ちょっとだけ影を落とす出来事が・・・

それは久安三年(1147年)6月15日・・・息子・清盛の郎党が、祇園社(八坂神社)神人(下級の神職)らと乱闘騒ぎを起こし、放った矢が宝殿に突き刺さり、多くの負傷者が出るという事件を起こしてしまったのです。

祇園社の本寺が延暦寺であった事で、神人に延暦寺衆徒が加わって、忠盛・清盛父子の責任を問い、配流処分を要求して、大挙、京に押し寄せるという事態にまでなってしまいます。

忠盛、大ピ~ンチ!
となりますが、結局、忠盛大好き鳥羽法皇の鶴の一声おかげで、清盛の罰金刑のみでカタがつく事になり、一安心・・・

ただ、この事件のおかげで、朝廷内では、
「清盛よりも、2歳年下の弟・家盛(正室・宗子の産んだ子)のほうが、平家の後継ぎにふさわしいのでは?
との声が出始めます。

なんとなく、後継者争いの雰囲気プンプン・・・

ところが、この家盛は、久安五年(1149年)2月、体調の悪い中、鳥羽法皇の熊野詣の付き添いをしていたところ、旅の途中で病気が悪化して亡くなってしまったのだとか・・・享年20歳(もしくは23歳)の若さだったと言います。

後に、平治の乱で捕縛された源頼朝が処刑されそうになった時、母・宗子から「亡き息子にそっくりやから、この子助けたって~」と頼まれた清盛が、頼朝を伊豆への流罪に留める話(2月9日参照>>)は有名ですが、その「亡き息子」というのが家盛さんなわけです。

もちろん、母・宗子だけでなく、息子を失った悲しみは忠盛りも大変な物だったと言います。

その後、仁平元年(1151年)には刑部卿(ぎょうぶきょう=法務大臣)となる忠盛ですが、そのわずか2年後の仁平三年(1153年)1月15日・・・忠盛は、58歳の生涯を閉じる事となり、いよいよ清盛が平家を継ぐのです。

清盛、36歳の時でした。

・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆

・・・と、最後に余談なんですが、大河の中で、ちょっと気づいたのでひと言・・・

以前、白河法皇の院政のお話のページ(11月26日参照>>)で、権力を握った白河法皇の
「賀茂河の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの」
(自分の)思い通りにならないのは、賀茂川の水の流れ双六のサイの目延暦寺の僧兵だけ・・」
という有名な言葉をご紹介しましたが、

大河ドラマの中で、聖子女御のところに遊びに来る前田前田清盛が、やたら双六が強のは、この先、白河法皇の思い通りにならないって事を暗示しているのかしら??

・・・て事は、タフマン伊東法皇はこのセリフを言うのか?
ちょっと楽しみ~
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2012年1月13日 (金)

今や父子2代の物語…斉藤道三の長井氏乗っ取り

 

享禄三年(1530年)1月13日、西村勘九郎長井長弘夫妻を殺害して長井家を乗っ取り、長井新九郎と改名しました。

・・・・・・・・・・・・

この西村勘九郎という人物が、後の斉藤道三ですね。

・・・とは言え、ご存じのように、道三の前半生は謎だらけ・・・

そもそもは、あの『信長公記(しんちょうこうき)に・・・
「斉藤山城道三は、元来、山城西岡の、松波と云ふ者なり。
一年下国候
(げこくそうらい)て、美濃国長井藤左衛門を憑(たの)み、扶持(ふち)を請(う)け、与力をも付けられ候折節(おりふし)、情けなく、主の頸(くび)を切り、長井新九郎と名乗る…」

と、つまり、斉藤道三は、山城(京都)から美濃(岐阜県)にやって来て、長井藤左衛門に仕えたが、非情にも、主君を殺して、その後、長井新九郎と名乗った、と・・・

さらに、その後、守護の土岐頼芸(よりなり)を追い出して(12月4日参照>>)、最後は、息子・斉藤義龍(よしたつ)長良川にて一戦交え(10月22日参照>>)敗れ去った・・・と、ここでは、道三が身を起こして亡くなるまでの過程を、一代記のように記してします。

ご存じのように、この『信長公記』は、織田信長に仕えた太田牛一(おおたぎゅういち)なる人物が記した物で、あまたある戦国時代の記録の中でも、屈指の1級史料とされる物です。

なので、以前は、『信長公記』での記述が正しいとされ、あの司馬遼太郎の小説『国盗り物語』を筆頭に、小説や時代劇などでは、ほぼ、そのように描かれてて来ました。

とは言え、以前から、その一代記を否定する史料が無かったわけではありません。

近江(滋賀県)と美濃の戦国時代を描いた『江濃記(えのうき)という文献には・・・

美濃の守護代である斉藤氏の家臣に長井藤左衛門(とうざえもん)なる人物と、その家来で、もともとは山城国西岡の浪人だった長井豊後守(ぶんごのかみ)がいたものの、豊後守はどんどん力をつけて来て、いつしか、二人は肩を並べるほどに・・・

やがて、守護代の斉藤氏が断絶すると、二人は領地を分け合います。

しかし、豊後守が病死すると、その息子である山城守利政(やましろのかみとしまさ)が藤左衛門を討ち、その後、斉藤氏を名乗って道三と号した・・・と、途中で息子に代替わりしている事が書かれています。

しかし、何と言っても、コチラは軍記物・・・このブログでも度々お話しています通り、軍記物というのは、歴史小説の色濃く、おもしろい事はオーバーに、都合の悪い事は無かった事にするのが常とう手段・・・まぁ、楽しい読み物というのが軍記物のコンセプトですから、創作あって当然なんですが、それ故に、コチラは2流の史料とされていたんですね~

ところが、昭和三十九年(1964年)、岐阜県『岐阜県史』を編さんするために各地の史料を調べていたところ、永禄三年(1560年)7月21日付けで書かれた六角承禎(じょうてい・義賢)(9月13日参照>>)書状が発見されたのです。

これは承禎が家臣に宛てた手紙で、当時、持ちあがっていた承禎の息子・義治(よしはる)斉藤義龍の娘との結婚話を取りやめにするように・・・つまり「俺は、その結婚に反対やゾ!」って手紙です。

そこに、なぜ反対なのか?という理由として斉藤家の事が書かれているのです。

永禄三年(1560年)と言えば、道三が死んでから、まだ4年目・・・しかも、承禎本人の手紙に間違い無しという事なので、その内容は極めて信憑性が高いわけです。

・・・で、その手紙に何と書いてあったか・・・

Rokkakusyozyou600 六角承禎条書・部分(春日家蔵・岐阜市歴史博物館)

画像に見える右から3番目の「一、」から、その話は始まります。

『一、彼斎治身上義祖父新左衛門尉京都妙覚寺…』

「義龍の祖父の新左衛門尉(しんざえもんのじょう)は、京都の妙覚寺の僧侶をやめて、西村と名乗り、長井弥二郎に仕えて美濃をグッチャングッチャンにして、ほんで、出世したもんやさかい、自分も長井姓を名乗りよったんや。

父親の左近大夫(さこんだゆう・道三の事)の代になってからは、主家を討ち殺して名跡を奪うて斉藤を名乗り、あまつさえ、守護の土岐頼芸はんと口うらを合わせて、その弟を呼び出して殺したうえに、頼芸はんも追放したんや。

義龍は義龍で、自分の弟を殺して、果ては父親とも合戦やって・・・
この家系は、代々に渡って極悪非道な事やってる成り上がり者や!」

そやから、やめとけ・・・という事だそうです。

とは言え、これまで一代記だと信じられて来た道三の生涯・・・しかも、道三に関する史料も多くない中では、まだまだ検証の余地ありという物ですが、現在では、道三の出世物語は、父子2代の話であったというのが定説となっています。

そんな中、やっぱり気になるのは、それならそれで、いったい、どのあたりから道三自身の出来事なのか?というところ・・・

現在では、長井長弘が急死したのは天文二年(1533年)とされ、京都の公卿の日記から、道三の父の新左衛門尉も、ほぼ同時期に病死したとされます。

・・・で、そんな中、道三が長井新九郎規秀(のりひで)の名で登場する現存最古の文書の日づけが天文二年(1533年)の11月26日・・・おそらく、父の死を受けて、その後を継いだばかりと思われます。

ただし、この文書は、守護代の斉藤氏が出した法度を捕捉する形で出された公式文書で、長井景弘という人物との連名の署名となっています。

この景弘という人は、その名前でお察しの通り、本日、亡くなったとされる長井長弘の息子・・・しかし、この景弘さんの名は、この文書を最後に2度と登場しません。

この9カ月後の、天文三年(1534年)9月に出された『藤原規秀禁制』(華厳寺文)では、長井規秀=道三の単独署名となっています。

つまり、この2通の文書の間で、完全に長井氏の名跡を継いだという事ですね。

果たして、道三は、その景弘なる人物を討って、その名跡を手に入れたのか???そこンところは、もう、しばらくの時間が必要ですね。

・・で、この次の道三は、いよいよ斉藤氏・・・という事になりますが、そのお話は、また、いずれかの「その日」に書かせていただきたいと思います。
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2012年1月11日 (水)

東洋のエジソン~からくり儀右衛門こと田中久重

 

明治十四年(1881年)1月11日、幕末から明治にかけて活躍し、「東洋のエジソン」と呼ばれる発明家=からくり儀右衛門こと田中久重が82歳の生涯を閉じました。

・・・・・・・・・・

人気ドラマ「仁-JIN」に、手術をする仁先生手元を明るく照らす灯明を提供する人として登場した事も記憶に新しい田中久重・・・

Giemon400 彼は、寛政十一年(1799年)に筑紫国(福岡県)久留米べっこう細工職人田中弥右衛門の長男として生まれます。

幼い頃から、父が細かな細工をする姿を見て育った彼は、9歳のある日、寺子屋仲間に、自作の硯箱(すずりばこ)を、「コレ、開けてみぃや」と差し出します。

硯箱とは、硯やら筆やら文鎮やらを収める単なる箱で、普通、蓋など簡単に開けられる物・・・ところが、友達がよってたかって試してみるものの、誰一人として、その箱を開けられる者がいなかったのです。

つまり、久重がちょっとした細工をほどこし、一見、何の変哲もない箱に見せながら、絶対に開けられないように作ってあった・・・これが、久重の発明の原点となる「開かずの硯箱」でした。

友人たちが、「あーだ」「こーだ」と言いながら、目をキラキラと輝かせて不思議がり、皆が考え込む姿を見て、楽しくてたまらない久重さん・・・

そんなこんなのある日、久重少年は、近所の神社の縁日で、その時の友人たちのように、目をキラキラと輝かせて不思議がりながら、何かを見ている集団に出会います。

彼らが見ていたのは「からくり人形」の興行・・・これは、当時、庶民の間の娯楽として大流行していた物で、からくり興行師が、その体内などに様々な機械的な仕掛けをほどこして、太鼓を叩いたり、あるいは舞いを舞ったりといった動きをする人形を観客に披露する見世物です。

Karakuri500 まるで魔術のように、ひとりでに動く人形たち・・・それを、あの日の友人たちのように目をキラキラと輝かせて見つめる久重は、一発で、その魅力にとりつかれます。

大流行となっているからくりですから、その手本書となる書籍も出版されており、まるで、平成の子供たちが、人気ゲームの攻略本を買うがごとく、その手本書を手に入れた久重は、寝る間も惜しんで、その本を読みふけったと言います。

やがて、自らの一大決心を父に告白する久重・・・
「家業は弟に継がせてください…僕は、からくりで身を立てます」
と・・・時に久重、14歳でした。

その後、からくり興行師として九州や、大阪京都江戸などを巡業する中、次々と、水力や空気圧などを利用した新しいからくり人形を発明して人々を驚かせる久重は、各地で大評判となり、「からくり儀右衛門」として、行く先々で人気を博します。
(儀右衛門というのは彼の幼名です)

その中の一つが、超有名な「弓曳き童子」・・・

これは、4本の矢を、的に向かって射る子供の人形なのですが、その動きだけでもスゴイのに、その4本の矢のうち、1本だけ失敗し、その時だけ顔を少し下に向けて「惜しい!」って感じの表情をするという念の入れよう・・・久重さんが、いかに全力でからくりの開発に挑んでいたのかがうかがえますね~

ちなみに、この「弓曳き童子」を再現した工作キットが、以前、学研「大人の科学シリーズ」で発売されましたが、残念ながらすでに完売・・・せめて、その動きや雰囲気だけでも、その販売ページでお楽しみください↓
学研のページへ>>別窓で開きます)

やがて天保五年(1834年)、36歳になった久重は、大坂伏見町に居を構え、実用品の政策&販売を手掛ける事にします。

そうなんです。
人を喜ばせる事が大好きだった久重ですが、一方では、そのからくりで、人の役に立つ物を作りたいとも思っていたんですね~

そして売り出したのが真ちゅう製の「携帯用懐中燭台」・・・ちょっと小ぶりなろうろく立てって感じの物ですが、これが、夜間の帳簿つけに便利と大評判!

さらにその3年後には「無尽灯(むじんとう)・・・これは、空気を圧縮する事によって、自動的に油を補給する灯明で、「いつまでも消えない灯り」として、これまた大人気となります。

そんな中、南蛮渡来の西洋時計を目にした久重・・・「こんなんを作りたい!」とムラムラと制作意欲が湧くものの、西洋時計を作るためには、西洋の天文学や蘭学を学ばねばなりません。

男・久重・・・49歳にして、天文学の大家である土御門家の門を叩きます

あの伊能忠敬さんも、50歳にして天文学の道に進み、その後、例の日本地図を作る(9月4日参照>>)わけですが、いやはや、男の一大決心という物は大したモンです。

こうして天文学の知識を身につけた久重さん・・・3年後には、和時計・須弥山儀(しゅみせんぎ)を、その翌年には万年自鳴鐘(まんねんじめいしょう・万年時計)を完成させます。

これは、からくり時計の最高傑作と言われる物で、西洋時計和時計のほかに、二十四節気曜日天球儀もついて、さらに十干と十二支(12月28日の真ん中あたり参照>>)から月の満ち欠けまでが一目でわかり、一度ゼンマイを巻けば1年間動くというスグれモノ・・・しかも、ベルも鳴る

ここに来て久重のワザ極まれり!!もはや、その名は全国に知られる事になります。

しかし、まだまだ手を休めぬ久重は、その後も、ユニークな目覚まし時計など発明しつつ・・・やがて日本は開国の嵐へと突入していきます。

そんな中、外国との玄関口である長崎を管轄する事で、大砲の製造や蒸気機関の研究に力を入れていた佐賀藩の藩主・鍋島直正(なべしまなおまさ)(1月18日参照>>)のもとに馳せ参じた久重は、精煉方として着任し、日本初の国産蒸気機関車や蒸気船の模型を完成させます。

その後、安政元年(1854年)に、幕府が下田函館を開港した事によって入って来た西洋技術の最先端の品々を目にした久重は、それらをヒントに、電信機写真機から蒸気船アームストロング砲まで、ありとあらゆる物を手掛けていきました。

やがて動乱の嵐が過ぎ、明治の世となります。

60歳を過ぎても、なお、探求心止まない久重は、今度は兵器などではなく、自転車人力車精米機など、生活に密着した発明品を生み出しつつ、いよいよ、東京の土を踏みます。

新政府が、彼のウデを欲しがったのです。

その読みはピタリと当たりました。

ほどなく、彼が作りあげた電信機は、輸入品のソレをはるかに上回る物だったとか・・・

その後、明治八年(1875年)・・・76歳にして東京は銀座8丁目に、新しい工場兼店舗を構えて田中製造所を設立した久重は、「万般の機械考案の依頼に応ず」と称して、様々な依頼を受け、そして希望に応じた機械を製作しています。

やがて明治十四年(1881年)1月11日82年間の発明人生に幕を閉じた久重・・・

残された田中製造所は、その後、芝浦に移転し事から、社名を芝浦製作所と改めた後、昭和十四年(1939年)に東京電機株式会社と合併して、今度は東京芝浦電気株式会社という名前に・・・

そう、これが、現在の東芝です。
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2012年1月10日 (火)

大河ドラマ「平清盛」第1回:ふたりの父・感想

 

いや~ 良かったですね~大河ドラマ・「平清盛」

おかげ様で、このブログにも、たくさんの方々に訪問していただきました~
大河様様でおます。

まぁね、第1回で造り手の方々にリキが入ってるのと、去年のアレでハードルが下がってるので、おそらくは何をやっても、「良かった」と思えるのかも知れませんが、そのぶんを差し引いても良かったです。

ちょっと画面が暗くてホコリっぽいですが、リアルな感じを出すならしかたないでしょうし、あんまり鮮明な明るさで、血のりベッタリ見せつけられても、お茶の間でのお食事にさしつかえますしね。

お茶の間と言えば、お子様とともにご覧になっていた方が、ちょっとドキッとするほどのラブシーンも、日曜のゴールデンのNHK様にしては、かなりの冒険だったと思いますが、孫の嫁に手を出す白河法皇・・・いや、そもそもは、子供の時から、自らの思い通りの女になるように育てたあげた愛人を、孫の鳥羽天皇に送り込んでおいて、その後も関係を続けている白河法皇のスゴさを、タフマン伊東さんが見事に演じておられて、久々に「大河を見た」という心持ちになりました。

憎たらしさ満載の感じも見事でしたね。

またぞろ比較して恐縮ですが、視聴者から見て、まったく憎らしくない秀吉を、「憎い!憎い!」と言っていた去年とは大違い・・・これなら、この先、成長した清盛が白河法皇を憎んだとしても(原作を読んでないので憎むのかどうかわかりませんが…)、視聴者の共感が得られる事でしょう。

ただ、複雑な人間関係がちょっとわかり難かったかも知れませんね。

とりあえず歴史好きなので、ある程度、人間関係を把握しているつもりの私は、一応、理解できましたが、予備知識なく見た方は、白河法皇と鳥羽天皇と、最後のほうで次期天皇となった崇徳天皇の関係がわかったのでしょうか?

まぁ、まだ第1回なので、そこンところは、おいおい解るような造りになっているのかも知れませんが・・・

途中、「祇園女御が白拍子??」って部分もありましたが、もともと出自がはっきりしない人ですから、それもアリかと・・・ちなみに、作者のかたによれば、今回の祇園女御は、今様の名手・乙前(おとまえ)と同一人物という設定なのだそうです。

むしろ、気になったのは、清盛の出自・・・

もちろん、これも以前書かせていただいたように、実際に白河法皇のご落胤(2月11日参照>>)があるわけですし、そのページにも書いたように、父・忠盛を追い越さんがばかりの勢いで出世する清盛ですから、私自身、法皇の隠し子なんじゃないか?と感じていますが、

噂通り、清盛が白河法皇の子供なら、やはり噂通り、何かの手柄によって、白河法皇の寵愛していた女性を、忠盛が褒美として賜った(その女性がすでに法皇の子供を身籠っていた)という展開にしないと、何となく、忠盛が、清盛を自らの嫡子のように育てる理由が無いような・・・ただ単に、母を亡くした子供を引き取って育てるというのなら、アリなのですが・・・

もちろん、(上司から)褒美として愛人を賜る」という事が、現代の感覚にあまりにもそぐわないので、不吉な子供を身籠ったとして法皇から追われる女性を忠盛がかばい、かばったついでに惚れたという展開になったのかも知れませんが、法皇も、父も、そして一族までをも敵に回して、清盛を嫡子として育てる理由が、私にはよくわかりませんでした。

例えば、このドラマにも登場している源頼朝ですが・・・
彼は三男で、頼朝の上には二人の兄がいますが、その二人の兄は身分が低い側室の女性が産んだ子なので、正室とされる女性が最初に生んだ頼朝が嫡子として、源氏の棟梁を継ぐ事になります。

つまり、例え父=本人の子供であっても、女性の身分が低かった場合は、身分の高い正室とみなされる女性の子が家督を継ぐわけです。

この時代、未だ正室・側室という明確な物は無かったかも知れませんが、女性の身分の差という物は、はっきりしていたと思うんですが・・・

しかし、ご存じの通り、清盛は忠盛の嫡子・・・後に平家をしょってたつ人になるわけです。

もし、忠盛の本当の子供でないなら、法皇から「大事に育ててね」と賜った子供でない限り、嫡子として平家を継がせるに値しないような・・・

ドラマのように、あれだけ法皇に嫌われている子供なら、嫡子にしても、何の得にもならない気がするんですが、それでもミキプルーン忠盛が清盛を嫡子にするのは、やはり吹石舞子がベッピンだからか?

とは言え、ドラマのストーリーとしては、断然、今回の法皇VS清盛のような対立構図のほうがオモシロイです。

憎ったらしい人がいればいるほど、見ている側は、主人公を応援したくなりますからね。

劇中の
「死にたくなければ、強くなれ」
という言葉も良かったですね。

それこそ、昨年の彼女は、自分は安全な所にいて、キレイ事ばかり言ってましたから・・・

このような感じのままで、最終回を迎える事ができたら、良いドラマになると思います。

来週も楽しみです。
 

追記:
第1回を見て、「なんや、ワカラン所がある」とお思いの方…
よろしかったら、コチラのページ↓をご覧あれ

タフマン伊東は、なぜ、あんなにエラそうなのか?
 (白河法皇の院政について・・・11月26日参照>>
タフマン伊東と三上鳥羽さんの関係
 (璋子をめぐる祖父と孫・・・7月2日参照>>
本文でもリンクしましたが
 
(清盛・ご落胤説・・・2月11日参照>>
ラスト近くで「ラストエンペラー」やってた5歳の天皇
 
(崇徳天皇について・・・8月26日参照>>
清盛の母=舞子の職業・白拍子って何する人?
 (静御前を例に・・・3月1日参照>>
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2012年1月 8日 (日)

綏靖天皇・即位~記紀の「弟優先の法則」

 

綏靖天皇元年(紀元前581年?)1月8日、第2代・綏靖天皇が即位しました。

・・・・・・・・・・・・

その年代も月日も・・・いやいや、もはや、ご本人の存在すら危ういお話ではありますが、それこそ、長年受け継がれて来た伝説には、それが真実か否かという事とともに、たとえ創作であっても、その物語が生まれた根拠や、受け継がれて来た背景など、次世代の歴史へとつながる何かが存在するわけで、ここは、あえて『記紀』に従って、お話を進めさせていただきたいと思います。

・‥…━━━☆

綏靖(すいぜい)天皇は、初代天皇=神武天皇第3皇子で、『古事記』では神沼河耳命『日本書紀』では神渟名川耳尊という表記で登場し、ともにカムヌナカワミミノミコトと読みます。
(以下、登場する方のお名前は「読み」(「古事記の表記」・「日本書紀の表記」)とさせていただきます)

ご存じのように、神武天皇は、高天原から天孫降臨したニニギノミコト(邇邇芸命・瓊瓊杵尊)曾孫で、生まれ育った日向(ひゅうが・ひむか)を後に、豊国(とよくに・大分)竺紫(つくし・福岡)阿岐(あき・広島)吉備(きび・岡山)東征して浪速(なにわ・大阪)に上陸し、幾多の戦いを制し、畝火(うねび)の白檮原宮(かしはらのみや)にて即位して、初代天皇となったわけですが(2月11日参照>>)

実は、東征の旅に出る前に、故郷の日向でアヒラ(ツ)ヒメ(阿比良比売・吾平津姫)皇后に迎えて、タギシミミノミコト(多芸志美美命・手研耳命)キスミミノミコト(岐須美美命・書紀には登場せず)という二人の男の子をもうけていました。

しかし、いざ東征して即位してみると、アヒラヒメでは「なんか、もの足らん…」
・・・と、下積み時代を支えてくれたカノジョを捨てて、売れっ子女優へと乗り換えるミュージシャンかお笑い芸人のような事を言いだします。

そこへ、グッドタイミングで側近が、「えぇ子、いてまっせ」との耳より情報・・・

その側近によれば・・・
「その昔、三島にセヤタタラヒメ(勢夜陀多良比売・三島之溝樴姫)というメッチャ美人がいてまして、この娘に一目惚れしたオオモノヌシノカミ(大物主神=大国主命の別名と言われる)(12月21日参照>>)が、彼女がトイレでキバッているところを、赤い矢に変身してホト(陰処=○○です)を一突き!
驚いた彼女が、その矢を部屋に持って帰ると、その夜にイケメン男の姿に戻ったオオモノヌシと彼女がラブラブチョメチョメ
(←古い)・・・
(ちなみにオオモノヌシさんは活玉依毘売(いくたまよりびめ)にも手を出してます…【運命の赤い糸】参照>>

ほんで生まれたのがホトタタライススキヒメ(富登多多良伊須岐比売)・・・まぁ、今はホトというのを嫌がって、ヒメタタライスケヨリヒメ(比売多多良伊須気余理比売・媛蹈鞴五十鈴媛命)と名乗ってるらしいですけど・・・」
との事・・・

早速、彼女を見物に行った神武天皇は、爽やかな丘で野遊びをする7人の乙女たちから彼女を見つけ出し、即、ナンパ・・・

Suizei400 そして、皇后になったイスケヨリヒメとの間に生まれたのが、ヒコヤイノミコト(日子八井命・書紀には登場せず)カムヤイミミノミコト(神八井耳命・書紀には登場せず)、そして、後の綏靖天皇であるカムヌナカワミミノミコトが末っ子というワケです。

ところがドッコイ、神武天皇が亡くなると、にわかに波風がたちはじめます。

長兄のタギシミミが、次の皇位を狙って義母のイスケヨリヒメを皇后に娶り、その3人の息子たちを亡き者にしようと企むのです

♪狭井(さい)河よ 雲立ち渡り 畝火(うねび)
   木
(こ)の葉さやぎぬ 風吹かむとす  ♪
「狭井川がにわかに曇り、畝火山の木の葉が騒ぐ・・・今に激しい風が吹くわよ!」

母・イスケヨリヒメが詠んだこの歌を聞いて、3人の息子たちは、異母兄・タギシミミ謀反に気づきます。

「そっちがその気なら」と、末弟のカムヌナカワミミが「兄ちゃん、殺られる前に殺ってまえや!」と、2人の兄を焚きつけると、二人は手に手に武器を持ってタギシミミの屋敷に・・・しかし、いざ、屋敷の前に着くと、二人の兄は手が震え、どうしてもタギシミミ殺せませんでした。

この様子を見たカムヌナカワミミ・・・すかさず兄の武器を奪ってタギシミミの屋敷へ押し入り、有無を言わさず即座に殺害・・・

すると、兄たちは
「俺らは、いざという時に怖じ気づいてしもた・・・その点、お前は武勇に優れてるさかい、お前が次の天皇になって世を治めたらええ、俺らはお前を助ける役になるから・・・」

てな事で、綏靖天皇元年(紀元前581年?)1月8日カムヌナカワミミは、無事、第2代・綏靖天皇として即位したのです。

とは言え、この綏靖天皇は、以前、お話した『欠史八代(けっしはちだい・缺史八代)(8月5日参照>>)1番目の天皇・・・つまり、この2代・綏靖天皇から9代・開化天皇までの8人の天皇に関しては、記紀の両方ともに、ほとんど逸話が書かれていない空白の状態になっているのです。

今回の綏靖天皇に関しても、即位するまでの上記の話が神武天皇の話の続きのように登場し、即位後の事は、どこに宮殿を置いて、誰と結婚し、子供は誰々で何歳で死んだとして書かれていないのです。

架空の人物だからくわしく書けないのか?
実在の人物だけど、書けない歴史なのか?

そこのところは、先の「欠史八代」のページで書いた通りですが、ここで注目なのは、天皇となったカムヌナカワミミが末弟だったという事・・・

有名な海幸&山幸のお話でも、天下を握るのは弟・・・(2月8日参照>>)

父である神武天皇にも、イツセノミコト(五瀬命・彦五瀬命)イナヒノミコト(稻氷命・稻飯命)ミケノノミコト(三毛野命・三毛入野命)という3人の兄がいますが、いずれも東征の途中で亡くなり、天皇になるのは末弟のカムイヤマトイワレヒコノミコト(神倭伊波礼琵古命・神日本磐余彦尊)=神武天皇です。

天皇ではありませんが、第12代景行天皇の息子で、諸国平定に大活躍するヤマトタケルノミコト(倭建命・日本武尊)も弟です(7月16日参照>>)

さらに、第21代・雄略天皇のゴタゴタで後継者がいなくなった後、偶然発見された天皇家の血を引く兄弟・・・兄・オケノミコト(意祁命・億計王)と弟のヲケノミコト(袁祁命・弘計尊)でも、先に天皇になったのは弟顕宗(けんぞう)天皇、兄の仁賢(にんけん)天皇は、弟が亡くなってから即位します(8月8日参照>>)

この、「いざという時、弟優先の法則」はいったい何なのか???

やはり、これは、記紀が誕生する時代、最もカッコよく描かねばならなかった天武天皇(3月13日参照>>)が弟だったという事と、大いに関係があるのかも知れませんね。
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2012年1月 6日 (金)

神代から現代まで…色の色々な歴史~「色の日」にちなんで

1月6日は、「1=イ」「6=ロ」の語呂合わせから、「色の日」という記念日なのだそうで、今日は「色」のお話をさせていただきます。

・・・・・・・・・・

そもそも、古代の日本で、最も重要かつ好まれた色は「赤」でした。

現在の私たちでも想像できるように、赤とは、
太陽の赤、
炎の赤、
血の赤、

と、何かと、エネルギーや生命を感じさせるところから、強い色=邪悪な者にも打ち勝つ色と認識され、縄文時代の頃には、すでに、魔よけの色として土器や日用品にも多く用いられました。

以前書かせていただいた、愛する人と結ばれている「運命の赤い糸」(8月21日参照>>)のもととなったお話でも、周囲に赤土をまいて、その場を清めるというまじないだっただろうと思われます。

それは、古墳時代になっても続き、古墳の石室内にほどこされた大量の赤は、現在でも確認する事ができます。

未盗掘で発見された奈良の藤の木古墳から、大量のベニバナの花粉が見つかった(9月25日参照>>)のも、記憶に新しいところです。

ま・・・、この場合は、赤というよりは「朱」といったほうが良いかも知れませんね。

そもそもお祝いの時に赤飯を炊くのも、もともとは神棚にお供えしていた「強飯(こわめし・こわいい)が赤かったからで、当時はモミを蒸しただけの物だったのが、玄米になり、さらに白米になるうち、現在のように、白米に赤味をつけるために、小豆と一緒に炊くようになったわけです。

壬申の乱の時に、大海人皇子(おおあまのおうじ=後の天武天皇)赤旗を使用した(7月2日参照>>)事もご存じかと思いますが、これも、五行思想の「火」をイメージしたとされ、ここで、乱に勝利して、天皇家の基盤を作る天武天皇が使用した「赤」が官軍の色となった事から、後の源平の合戦では、官軍(安徳天皇いますから)だった平家が「赤旗」・・・

そして、それに対抗すべく色として、八幡菩薩にちなむ「白旗」源氏が使用したのではないか?と思われています。

この赤白は、ご存じのように、現在の運動会の赤白や、あの紅白歌合戦にも通じています。

とは言え、これらの色にも、時代時代によっての流行が出てきます。

ご存じ、聖徳太子の時代の「冠位十二階」では、紫→青→赤→黄→白→黒(それぞれに濃と淡で12です)と、濃紫が最も高貴な色とされました。

おそらく、赤と青を合わせた中間色という事で、色そのものもミステリアスであり、染めるにも難しく、また原料も大変高価だった(主に日本では紫草の根、ヨーロッパでは貝紫)事などから、紫系の色が高貴な色とされたのだと思いますが・・・

この「紫が身分が高い」という観念は、けっこう長く続いていたようで、江戸時代の初めには、色がらみの紫衣事件(11月8日参照>>)が起こっていますが、ここで言うところの衣服の色は、あくまで階級を示す公式の場の色です。

なんたって、いろんな色の服を身につけたいのは、いつの時代も同じですから、奈良時代の終わり頃には、徐々に使用制限も緩められていたようで、正式な場を除いては、必ずしも階級による色が守られる事はなく、結構、自由な色合いを楽しんでいたようです。

平安時代には淡い色が好まれ、その上にさらに薄物を重ねて、下の色が透けて見える微妙な色合いを楽しむ事が大流行したそうです。(←もちろん、男もです)

ただ、それも、一部の貴族たちの楽しみで、一般庶民は、ほとんど、黒か黄色くらいしか許されなかったそうですが・・・(←工事中か!)

やがて鎌倉時代になると、武士中心の世の中になり、そのファッションリーダーもバトンタッチ・・・武士らしく、緑系や青系や褐色といった色がもてはやされ、それは、さらに、室町時代に花開いた「侘び・さび」の精神から、特にシブイ色が好まれるようになります。

ところが、そんな流行が一転するのが、織田信長豊臣秀吉・・・つまり、安土桃山時代です。

この二人のリーダーが好んだ「金銀派手派手色とりどり」ってのが流行し、今も残る桃山文化の建築物は、それはもう、目にも鮮やかな物ですね。

桃山時代の傑作とされる西本願寺唐門なんか、見ていると時間の経つのを忘れるとして別名・日暮門などと呼ばれています。

Karamon800 西本願寺:唐門

ところが、これも・・・
先の紫衣事件じゃないですが、江戸時代になると、一転して茶色や鼠色ばっかりに・・・

まぁ、これは、流行というよりは、何度も財政難に陥る江戸幕府が、度々質素倹約を呼びかけて、派手な衣装を禁止した事にあるわけですが、「それならそれで…」とばかりに、庶民たちは、逆に、黒や鼠色の中での微妙な色の違いを楽しむようになり、わずかな色の濃淡、あるいは、わずかに別の色を入れた新しい色を次々と生み出し、

それらの色に、花鳥風月を思い起こす美しい名前をつけたり、その色を好む人気の歌舞伎役者の名前をつけたり、イメージする歴史上の人物の名を入れたりして・・・

鼠色 濃鼠 銀鼠 葡萄鼠 利休鼠 藍鼠
源氏鼠 深川鼠 青磁鼠 白梅鼠 
素鼠
一応文字の色は、その色にしてみましたが、
携帯などで、
見え難い場合はゴメンナサイ

「鼠と素鼠は違うのか?」という疑問を残しつつも、これはこれで、結構楽しめ、おかげで、現在でも「そんな名前の色、あるの?」って驚くほどの色の種類が日本にある事は、皆さまもご承知の事と思います。

以前、ご紹介した天下御免の「氷」道中の旗印とされた緋色(8月5日参照>>)
巴御前の鎧の縅(おどし)の色だった萌黄色(1月21日参照>>)
雰囲気から名づけられたであろう今様色
まさに夕陽を思わせる茜色
ウチはもっと汚いゾの納戸色
じつは海って…の紺碧
そんなんあったんや~の空五倍子(うつぶし)

今日はひとつ、ゆっくりと、日本の色を探索してみるのもイイですね~
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2012年1月 5日 (木)

朝倉を支えた名サポーター慈視院光玖

 

明応三年(1494年)1月3日、越前朝倉孝景の弟で、3代に渡って補佐役として活躍した慈視院光玖が55歳でこの世を去りました。

・・・・・・・・

以前、応仁の乱の相国寺の戦い(10月3日参照>>)のところでも、チョコっとお話させていただきましたが、越前(福井県)朝倉氏の当朝倉孝景(たかかげ)という人は二人います。

その応仁の乱の頃に活躍した7代目と、斉藤道三(どうさん)と同世代くらいの10代目・・・

区別するために7代目を英林(えいりん)孝景10代目を宗淳(そうじゅん)孝景と呼びますが、今回の慈視院光玖(じしいんこうきゅう)は、7代め=英林孝景の弟にあたります。

なので、朝倉光玖という名前で紹介される場合もあります。

お察しの通り慈視院光玖というのは法名で、すでに幼少の頃には、京都の建仁寺や弘祥寺に入っていたという事なので、本来なら、その僧侶の道を全うするべき人だったわけですが、なぜか、兄・孝景の補佐役となる・・・

それも、還俗(げんぞく・1度出家した人が一般人に戻る事)せずに、僧籍のまま・・・

彼が、京都から越前へ、いつ頃下向したのかがよくわからないのですが(おそらく行ったり来たりしてたもよう)、兄の孝景が、長禄三年(1459年)頃に敦賀一帯で勃発した21回ほどの合戦のすべてに勝利したのは、弟の経景(つねかげ)景冬(かげふゆ)の協力とともに、「この光玖の支援あればこそ」と言われたりなんぞします。

はっきりしているのは、寛正二年(1461年)・・・ここで越前の代官に抜擢された光玖は、坪江(福井市)河口庄(福井北部)での段銭(たんせん・税金)の徴収など、内政面での手腕を発揮しています。

将兵を率いての合戦もさることながら、私利私欲を捨てて内政に取り組む姿は「国中奉行人(くにじゅうぶぎょうにん)と呼ばれ、郡司(ぐんじ・こおりのつかさ=中央から派遣された国司の部下)として、兄・孝景の越前平定に協力しました。

また、兄の孝景は、地方に点在する有力寺社の領地を押領したりする事が度々あったため、公家や寺社から敵視され、文明十三年(1481年)に孝景が亡くなった時などは、
「アイツは天下一の極悪人…あんな男が死んだとは、コラ めでたいこっちゃ」
と、公家たちが大いに喜んだほどだったと言いますが、

その後、孝景の後を継いで8代当主となった氏景(うじかげ=孝景の嫡子)、さらに、間もなくの文明十八年(1486年)に亡くなった氏景の後を継いだ9代目・貞景(さだかげ=氏景の嫡子)サポートする光玖は、未だ幼い貞景や、外交にウトイ側近らに代わって、室町幕府や公家・有力社寺などとの交渉を一手に引き受ける事となります。

おかげで、興福寺の僧侶・大乗院尋尊(だいじょういんじんそん)などは、光玖の政治手腕を高く評価し、親しく交流しています。

最晩年の明応二年(1493年)には、足羽(あすわ)木田(やしろ)(いずれも現・福井市)で特産物の綿や絹を扱う「十人衆商人」を保護して、他国からの参入を規制し、経済の発展に尽力したとおぼしき定書(じょうしょ=法度書き)も残ります

また、同じ明応二年(1493年)に勃発した、管領・細川政元明応の政変(6月23日参照>>)の時には、細川方を支援すべく、いち早く、被官(ひかん)杉若藤次(すぎわかとうじ)2000人を京へ派遣して、都の評判となったと言います。

こうしてみると、明応三年(1494年)1月3日亡くなる直前まで、朝倉氏の中で重きををなし、その手腕を思う存分奮っていた様子がうかがえますね。

公家からの評判はともかく、なんだかんだで7代め=英林孝景は朝倉氏の中興の祖・・・その大黒柱を失いながらも、朝倉氏はなんら動揺せず、その基盤が揺るぐどころか、逆に、長年モメていた守護の斯波(しば)氏を押しのけ、延徳四年(1492年)には、名実ともに越前の支配者である事を幕府に認めさせるあたりは、そこに、若い当主を支えた慈視院光玖の政治手腕があればこそ!

・・・と、ちょいと持ちあげ過ぎかな?

まぁ、本日は主役なので、そこンところは大目に・・・(*´v゚*)ゞ
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2012年1月 4日 (水)

サウナで謀殺!無念・源義朝の最期

 

平治二年(1160年)1月4日、先の平治の乱に破れて東国に落ちた源義朝が、尾張国野間にて謀殺されました。

・・・・・・・・・・

期待が高まる今年の大河ドラマ「平清盛」・・・

そんな中、主人公の平清盛(たいらのきよもり)生涯のライバルとなる源義朝(みなもとのよしとも)を、人気俳優の玉木宏さんが演じるとあって、さらにワクワク感も最高潮!

・・・と、そんな義朝さんのご命日については、前年の12月29日とも、年が明けた1月3日とも言われますが、今回は平治二年(1160年)1月4日説をとらせていただき、本日、書かせていただく事にします。

・‥…━━━☆

河内源氏の棟梁である源為義(ためよし)の長男として生まれた義朝は、父が都にて朝廷の傭兵として活躍する中、代々受け継いだ領地である相模国(神奈川県)鎌倉で育ちます。

ここを拠点として源氏譜代を名乗る豪族たちを従え、20歳前後までには、南関東一帯に、大きな勢力を持つまでになります。

彼が、畿内を離れたのは、父・為義との関係があまり良くなく、勘当されたから・・・なんて話もありますが、本拠地を離れて京にいる事の多い父に代わって地元・関東を牛耳っていたとも考えられます。

現に、この後、仁平元年(1153年)に義朝が京に上って下野守(しもつけのかみ)に任じられ、父・為朝の隠居とともに源氏棟梁の家督を継いでからは、義朝の長男・源義平(よしひら・悪源太義平)が、わずか15歳ながら、地元での細かな事は任されていたようですので・・・(8月16日の前半部分参照>>)

・・・で、義朝が京に上ってまもなくの保元元年(1156年)に勃発したのが、あの保元の乱でした。

天皇家の主導権争いに摂関家の思惑が重なり、そこに、彼らを警固する役目の源氏と平氏が入り乱れ・・・この戦いで義朝は、父・為義と弟・為朝(ためとも)を敵に回す事になりました(7月11日参照>>)

この時、清盛や源頼政(よりまさ・摂津源氏)とともに、後白河天皇側についた義朝は、勝利のキーポイントとなる夜討ちを進言し、大将として、崇徳上皇(8月26日参照>>)らの籠る白河北殿(しらかわきたどの)急襲するという多大な貢献を果たしました。

おかげで、戦後は左馬頭(さまのかみ)に任じられますが、父を死に、弟を流罪に追いやって(3月6日参照>>)までの大活躍のわりには、一方の清盛と比べて恩賞が少なかったために、その論功行賞を采配した後白河天皇の側近・信西(しんぜい・藤原(高階)道憲)に恨みを持ち、それが、この次の平治の乱の引き金になった・・・

なんて事も言われますが、この左馬頭という役職が、朝廷での軍事や儀式で重要な役どころこなす武士憧れの官職であったと思われる事から、最近では、論功行賞での恨みという物ではなかったとの見方が一般的なりつつあります。

とは言え、論功行賞の恨みでないにしろ、保元の乱で反対派が一掃され、後白河天皇と信西が権勢を奮う政治体制には、いつのほどからか、何かしらの不満を持つようになった事は確かでしょう。

義朝から見れば、かの信西と手を組んで台頭して来る清盛の平家に対して、源氏の旗色が、あまり良くなかった?という事なのかも知れません。

とにかく、同じく信西の体制に不満を持つ藤原信頼(のぶより)(12月9日参照>>)藤原成親(なりちか)、さらに後白河天皇から皇位を譲られた二条天皇側近らと手を組む義朝・・・

平治元年(1159年)12月9日熊野詣へと向かった清盛の留守を狙って、後白河上皇のいた院御所・三条殿を襲撃・・・これが平治の乱です。

この時、逃走した信西を捕縛してさらし首にして(12月15日参照>>)いち時は、クーデターに成功した信頼&義朝たちでしたが、急を聞いて戻って来た清盛により、天皇と上皇を奪回されると(12月25日参照>>)信頼・義朝の追討の宣旨(せんじ・天皇の命令)が発せられ、途端に立場が逆転・・・

アチラ(清盛)が官軍となり、コチラ(義朝)が賊軍となったうえ、六条河原で行われた決戦に敗れ、ついに、義朝は東国へと落ちる事になります(12月26日後半部分参照>>)

実は、前半に書いた通り、源氏の本拠地は東国にあるために、ここ京都に置いていた兵力は、ごく一部・・・それこそ、クーデターを決行する前に、東国から大量の兵士を動員するなんて露骨な事をするわけにはいかないわけですから、この時点で、はなから、清盛の平家軍とは、軍事力においてかなりの差があったわけです。

それでも義朝がクーデターを決行したのは、これ以前には、清盛は信西派か信頼派かという立場を明確にしていなかった事や、先の保元の乱でともに戦った同族の頼政がいた事・・・つまり、義朝は、清盛や頼政が敵に回るとは思っていなかった???という事なのでしょう。

Yositomo500 とにもかくにも、わずかな兵で戦場を離脱した義朝は、一路、本拠地の東国へ・・・そこには、長男・義平、次男・朝長(ともなが)、三男・頼朝(よりとも)が従います。

賀茂川沿いを北へと向かい、八瀬から大原・・・そして坂本へと抜ける中、比叡山の僧兵の落武者狩りに遭い大伯父(為義の伯父)源義隆(よしたか)を失いつつ、堅田から瀬田東近江へ向かうも、おりからの吹雪により、ここまで従っていた頼朝が一行からはぐれてしまいました。

さらに伊吹山を越え、美濃(岐阜県)へと入ったところで、郎党の解散を宣言する義朝・・・義平を北陸道を飛騨方面へ向かわせ、朝長には信濃(長野県)方面へ向かうよう指示しますが、すでに、少し前の落武者狩りで深手を負っていた朝長は、わずか16歳の身ながら、この地で自ら死を選んだと言います(落武者狩りにて死亡とも)

その後、義朝は、自身の乳母の子供であり第一の家臣だった鎌田政家(かまたまさいえ・政清)の舅・長田忠致(おさだただむね)景致(かげむね)父子を頼って、一路、尾張国知多野間(のま)を目指します。

吹雪の中の逃避行から抜け出し、忠致らに迎え入れられた義朝は、さぞかしホッとした事でしょうが、残念ながら、忠致らは、すでに、義朝の首にかかっている恩賞に目がくらんでいたようです。

到着後、ほどなく、彼らに入浴を勧められた義朝・・・このお風呂というのは、焼いた石に水をかけて入浴する、いわゆるサウナのような風呂だったようで、刀は錆びてしまうため、当然、持って入れません。

彼らは、義朝が丸腰になるところを狙っていたのです。

かくて平治二年(1160年)1月4日・・・入浴中に暗殺を決行され、義朝は38歳の生涯を閉じました。
(ちなみに政家も、同日に亡くなっています)

この時の義朝は、無念のあまり「我に木太刀の一つあらば…」と叫んだと言われ、現在、この殺害された地に建つ大御堂寺(愛知県)の境内にある義朝の墓には、おびただしい数の木太刀が供えられています。

一方、北陸へ逃げた長男・義平は、思うように援軍が調達できないうちに父の死を知り、京へと舞い戻っていたところを捕縛されて六条河原で斬首(1月25日参照>>)、途中ではぐれた三男の頼朝は、ご存じのように捕縛され、伊豆への流罪となるのです(2月9日参照>>)

義朝らを一掃し、信西も亡くなってしまった今・・・世は、まさに、清盛主導となっていく事になります。
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2012年1月 3日 (火)

日本初の譲位と重祚…斉明天皇の即位

 

斉明天皇元年(655年)1月3日、第34代・舒明天皇の皇后だった宝皇女が、飛鳥板葺宮で重祚し、第37代・斉明天皇となりました。

・・・・・・・・・・

宝皇女(たからのひめみこ)は、第30代・敏達(びたつ)天皇の孫である茅渟王(ちぬのおおきみ)を父に、第29代・欽明(きんめい)天皇の孫である吉備姫王(きびひめのおおきみ)を母に持つ皇室の皇女として生まれますが、上記の敏達天皇は欽明天皇の息子という、この時代にありがちな身内同志の父と母でした。

Keizukoutokutennou_3 そんな中、宝皇女は最初、高向臣(たかむくのおみ)という、ほとんど史料に登場しない男性と結婚していますが、間もなく死別し、その後、田村皇子(後の舒明天皇)と再婚するのです。

これには、少し前に誕生した日本初の女帝=第33代・推古(すいこ)天皇の事が影響しているのかも知れません。

推古天皇は、皇位を継ぐべき皇子が幼いための次世代への橋渡し=中継ぎの天皇として即位しましたが(12月8日参照>>)、こういう前例ができた以上、万が一、この先も、同じように、男系男子への皇位継承が難しくなった時に、亡き天皇の皇后だった人が女帝として即位する可能性もあるわけで、その時に、その女性が皇族で無かったら、ちとマズイ・・・

つまり、ひょっとしたら皇位につくかも知れない皇后という地位につく人は、天皇家の血筋でないと困る・・・という事で、当時、奥さんが豪族出身の姫しかいなかった田村皇子のもとに、将来の皇后候補として、すでに前夫と死別していた彼女が嫁いだというワケです。

そんな宝皇女は、夫・舒明(じょめい)天皇との間に、二男・一女をもうけますが、この2人の息子が、この後、日本の歴史を大きく動かします。

兄が中大兄皇子が後の天智天皇で、蘇我氏を倒して(6月12日参照>>)大化の改新の行う人・・・

弟の大海人皇子(おおあまのおうじ)が後の天武天皇で、壬申の乱の後に日本という国家の基礎を作る人・・・(2月25日参照>>)

こんなズゴイ人物二人の母である宝皇女ですが、以前、ずいぶん前に、そのご命日の日に書かせていただいた記事(2006年7月24日参照>>)でも、「何となく周囲に振り回された感がある」・・・つまり、自分の意思ではないところで天皇としてまつりあげられ、彼女自身の心の内があまり見えないところがあるように思うと書かせていただきましたが、一方では、彼女は、日本初の天皇家にとって歴史的出来事を二つ実行しています。

それは譲位(じょうい)重祚(ちょうそ)・・・

譲位とは、それまで、天皇が亡くなってから次の天皇に譲っていた皇位を、未だ健在の時に自ら退位して、次の後継者に皇位をを譲るという事・・・

重祚というのは、一度天皇となった人が一旦退いた後、再び皇位につくという事・・・

どちらも、彼女が日本初です。

しかも、最近では、この二つの事に関して、周囲のお膳立てにただ乗っかったのではなく、彼女自身のしっかりした考えで行った彼女主導の行為であるとの見方も出て来ているのです。

それは、譲位と重祚・・・この二つが、ともに、我が子=中大兄皇子に皇位を継がせるための、母の気持ちから出た行為だったという考え方です。

Kougyokuzyotei590 夫である舒明天皇が亡くなった後、第35代・皇極(こうぎょく)天皇となっていた彼女ですが、その時に起こったのが、息子=中大兄皇子による蘇我入鹿暗殺事件乙巳(いっし)の変・・・

その時、この政変を受けて、日本初の譲位をする彼女は、ひょっとしたら息子の中大兄皇子に皇位をい譲りたかったのかも知れません。

しかし、中大兄皇子は、この時には、まだ20歳の若者で皇太子でもありませんし、クーデターを起こした張本人でもある・・・しかも、譲位が日本初なら、女帝からその息子へ直接皇位を渡すのも日本初・・・

そこで、ワンクッション置くため、彼女の実の弟である軽皇子(かるのおうじ)=孝徳天皇への譲位という事にした・・・もちろん、当の中大兄皇子は、ここで正式に皇太子(孝徳天皇の後継者)となります。

その後、孝徳天皇のもと、都は難波に遷され、数々の大化の改新が成される事になりますが、結局、その体制も長く続かず・・・反対する孝徳天皇を残して、皇太子の中大兄皇子以下、皆々が飛鳥に帰ってしまい、孝徳天皇は失意のまま、この世を去っていましました。

そんな孝徳天皇の死を受けて・・・
斉明天皇元年(655年)1月3日宝皇女は、再び、第37代・斉明天皇として即位するのです。

これが、日本初の重祚・・・

すでに中大兄皇子が、孝徳天皇のもとで皇太子になっているのですから、その後継として中大兄皇子が天皇になっても良いものを、あえて、母の宝皇女が、初の試みの重祚を行って天皇になる・・・

譲位と重祚、二つの出来事を彼女主導とする意見では、ここに、彼女の母としての心が垣間見えるとされます。

孝徳天皇の反対を押し切って飛鳥に戻り、難波に残された天皇が寂しく亡くなる・・・「何となく孝徳天皇を死に追いやった感のある息子が、その直後に天皇になれば、何かと厳しい批判の矢面に立つかも知れない」

そんな批判をかわすための母心が、彼女が再び天皇となった理由ではなかったか?
という事なのです。

もちろん、これは、あくまで一つの推理です。

以前書かせていただいたように、すべてが中大兄皇子主導で行われていたのかも知れませんし(2011年1月3日参照>>)、第一、記紀』自体が天武天皇系列の正統性を主張するために歴史書ですから、たとえ同時代にあった出来事でも、果たして、ちゃんと事実を記録しているのかさえ危うい(3月17日参照>>)わけですから・・・

ただ、これまで、その心の内を垣間見る事さえできなかった宝皇女が、自らの意思で、母の心を以って譲位&重祚という日本初の試みをしたのだとしたら、それはそれで、なんだか、心ワクワクする推理だなと思った次第です。
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2012年1月 1日 (日)

2012年…新年のごあいさつ

露と消えにし 難波の夢が

 

四〇〇年の 冬籠り

 

今が春べと 咲くや木の花

400年前、大坂城の炎上とともに消えた秀吉の夢…

今年は久々に、大阪から日本を変える年になるのでしょうか?

どう転ぶかは未知なれど、何かをやらねばならぬ年…

新生・大阪から全国へ…Nenga2012cocolog_2

今年も、楽しい歴史のお話を、いっぱいしましょう!!

本年も、「今日は何の日?徒然日記」をよろしくお願いしますo(_ _)o
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