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2012年1月23日 (月)

九州北部の覇権を廻って…少弐氏と龍造寺氏

 

天文十四年(1545年)1月23日、主君である少弐冬尚から謀反の疑いをかけられた龍造寺氏の佐嘉城が落城・・・龍造寺家兼が筑後一ツ木へ落ちました。

・・・・・・・・・・・

肥前の熊と称された龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)(11月26日参照>>)祖父家純周家叔父頼純など、龍造寺家の主だった人々が、少弐冬尚(しょうにふゆひさ)の重臣・馬場頼周(よりちか)によって殺されてしまったという、あの事件です。

今回の少弐氏・・・そもそもは、平将門討伐ムカデ退治で有名な藤原秀郷(ひでさと=俵藤太)の末裔で、「武者所に仕える藤原氏」という事で、武藤氏と名乗っていましたが、あの源頼朝に従って源平の合戦に参戦して武功を挙げた事で、建久七年(1196年)に大宰少弐(だざいのしょうに)に任じられます。

太宰少弐というのは、中央から派遣されて大宰府(だざいふ)を治める役職で、長官(そつ)次官大弐少弐・・・

その少弐の役職を代々受け継いでいた事で、少弐氏を名乗るようになったとか・・・

しかも、いつしか大弐・少弐の職だけでなく、筑前(福岡県西部)肥前(佐賀県)豊前(ぶぜん=福岡県東部)壱岐対馬守護職も兼ねるようになり、九州北部に一大勢力を誇るようになっていたのです。

室町時代の初期・・・南北朝の頃には、はじめ後醍醐天皇についていたものの、途中から足利尊氏へと転じ、九州探題(たんだい)となった今川貞世(さだよ・了俊)とともに室町幕府の西の要として活躍していました。

しかし、室町も中期の頃から、周防(すおう・山口県)大内氏関門海峡を越えて九州にも進出しはじめ、しばらくの間、一進一退の攻防が、九州北部を舞台に繰り広げられていたのです。

やがて、そんな拮抗した状態も徐々に劣勢に・・・14代・教頼(のりより)、15代・政資(まさすけ)と、立て続けに大内氏との戦いで命を落としてしまっていました。

龍造寺氏は、そんな少弐氏の重臣だったわけです。

そして、政資の息子である第16代当主・資元(すけもと)の時代・・・豊後(ぶんご=大分県)大友氏などの支援を受けて、かろうじて再興を図っていた享禄三年(1530年)8月、大内氏の16代当主・大内義隆の命を受けた筑前守護代の杉興運(すぎおきつら)の侵攻を受けた時、田手畷(たてなわて)の戦いで、これを撃破!(8月15日参照>>)

久々のクリーンヒットでしたが、実はコレ、その資元の重臣だった龍造寺家兼(りゅうぞうじいえかね)と、この戦いをキッカケに龍造寺の家臣となる鍋島清久らの活躍による勝利・・・

そのため、この戦い以来、少弐氏内でのと龍造寺氏の力が強まり、その主従関係が、少々微妙になって来るのです。

その状況に絶えられなくなった資元は、家兼の進言によって義隆と和議を結びますが、これが謀略で、資元は、その領地をすべて奪われた上、梶峰城(かじみねじょう・佐賀県)を攻撃され、天文四年(1536年)に自刃して果て、ここに一旦、少弐氏は滅亡したのです。

この時、なんとか梶峰城から、危機一髪で脱出したのが資元の息子=少弐冬尚でした。

その後、家兼の支援によって、何とか少弐氏を再興する冬尚・・・しかし、心の中に何かが残ります。

そう、大内との和議を進言したのは家兼・・・しかも、その後に父・資元が攻められた時、救援要請を受けたにも関わらず、龍造寺が兵を出す事は無かったのです。

「ひょっとしたら、大内と通じているのではないか?」
その不信感は、そのまま冬尚の重臣・馬場頼周にも伝染・・・いつしか頼周は家兼を恨むようになり、天文十四年(1545年)1月23日、とうとう、家蒹らのいる佐嘉城(さがじょう)を攻め、家兼の息子2人と4人の孫を殺害するのです。

冒頭に書いた通り、主だった人たちを、すべて失った龍造寺家・・・家兼だけは、何とか脱出し、報復を誓いますが、この方、すでに90歳のご高齢・・・残念ながら、翌年の春に、お亡くなりに・・・

その時の遺言が・・・
「中納言は気宇広大(きうそうだい度量・構想などが並外れて大きい)の質がある・・・龍造寺家を興すものは中納言しかいない!
還俗げんぞく・一旦僧になった人が一般人に戻る事)させよ」

この中納言と呼ばれているのが、かの佐嘉城で命を落とした家兼の孫である龍造寺周家(りゅうぞうじちかいえ)の息子(つまり曾孫)で、7歳の時に龍造寺家ゆかりの宝琳院(ほうりんいん)に入り、円月(えんげつ)と号していた僧・・・後の龍造寺隆信でした。

その後、家督を継いだ隆信が、龍造寺家本家の龍造寺胤栄(りゅうぞうじたねみつ)とともに、冬尚を自害に追い込むのは永禄二年(1559年)1月11日の事・・・ここに、九州の名門・少弐氏は滅亡します(1月11日参照>>)

それからの隆信は、母・慶誾尼(けいぎんに)との強力タッグで本家を継ぎ、九州の一大勢力になっていくのですが、そのお話は3月24日の龍造寺さんのページでどうぞ>>
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戦国・群雄割拠の時代」カテゴリの記事

コメント

「北九州」ではなく「北部九州」にしていただければ、ありがたいです。

投稿: 長府藩浪士 | 2012年1月23日 (月) 12時55分

長府藩浪士さん、こんにちは~

「北九州」とは「九州北部」という意味で使っていましたが、「地元では、その範囲が違っている」という事でしょうか?

北九州市という市があるので、ひょっとして地元で北九州と言うと「北九州市の事」になるとか??
(↑勝手な想像ですが…)

こっちでもありますね~
よく「関西弁」と言われますが、大阪の人で自分たちの方言を「関西弁」と呼ぶ人はほとんどいないです。
なぜなら、大阪弁と京都弁(厳密にはもっと分かれてますが)はぜんぜん違うので…

そんな感じですよね?
お知らせいただいてありがとうございました。

投稿: 茶々 | 2012年1月23日 (月) 17時29分

少弐は九州の最高の名門なのに何故か滅亡しましたが、その系統が龍造寺、鍋島と受け継がれますが、本拠地は筑前から肥前に移っていますね。それだけ大友、毛利などに圧迫されたのかなと思いました。
でも九州と言いますと秋月、相良、伊東、立花、高橋、有馬、それに松田聖子の実家の蒲池と名門が揃っています。四国も結構多いですが、九州はそれ以上です。名門が残りやすいのでしょうか?
対馬の宗氏も名門ですね。でも不思議なのは鎌倉の以来の名門で大大名で残ったのは島津だけです。少弐と島津は本当に全然違うなと思いました。

投稿: non | 2016年2月17日 (水) 15時17分

nonさん、こんにちは~

名門が多く残っているのは…
やはり中央から離れた場所だからですかね?

昔の人々にとって、物理的な距離という物は、なんやかんやで不便ではありますから…

投稿: 茶々 | 2016年2月17日 (水) 16時28分

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