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2012年1月 5日 (木)

朝倉を支えた名サポーター慈視院光玖

 

明応三年(1494年)1月3日、越前朝倉孝景の弟で、3代に渡って補佐役として活躍した慈視院光玖が55歳でこの世を去りました。

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以前、応仁の乱の相国寺の戦い(10月3日参照>>)のところでも、チョコっとお話させていただきましたが、越前(福井県)朝倉氏の当朝倉孝景(たかかげ)という人は二人います。

その応仁の乱の頃に活躍した7代目と、斉藤道三(どうさん)と同世代くらいの10代目・・・

区別するために7代目を英林(えいりん)孝景10代目を宗淳(そうじゅん)孝景と呼びますが、今回の慈視院光玖(じしいんこうきゅう)は、7代め=英林孝景の弟にあたります。

なので、朝倉光玖という名前で紹介される場合もあります。

お察しの通り慈視院光玖というのは法名で、すでに幼少の頃には、京都の建仁寺や弘祥寺に入っていたという事なので、本来なら、その僧侶の道を全うするべき人だったわけですが、なぜか、兄・孝景の補佐役となる・・・

それも、還俗(げんぞく・1度出家した人が一般人に戻る事)せずに、僧籍のまま・・・

彼が、京都から越前へ、いつ頃下向したのかがよくわからないのですが(おそらく行ったり来たりしてたもよう)、兄の孝景が、長禄三年(1459年)頃に敦賀一帯で勃発した21回ほどの合戦のすべてに勝利したのは、弟の経景(つねかげ)景冬(かげふゆ)の協力とともに、「この光玖の支援あればこそ」と言われたりなんぞします。

はっきりしているのは、寛正二年(1461年)・・・ここで越前の代官に抜擢された光玖は、坪江(福井市)河口庄(福井北部)での段銭(たんせん・税金)の徴収など、内政面での手腕を発揮しています。

将兵を率いての合戦もさることながら、私利私欲を捨てて内政に取り組む姿は「国中奉行人(くにじゅうぶぎょうにん)と呼ばれ、郡司(ぐんじ・こおりのつかさ=中央から派遣された国司の部下)として、兄・孝景の越前平定に協力しました。

また、兄の孝景は、地方に点在する有力寺社の領地を押領したりする事が度々あったため、公家や寺社から敵視され、文明十三年(1481年)に孝景が亡くなった時などは、
「アイツは天下一の極悪人…あんな男が死んだとは、コラ めでたいこっちゃ」
と、公家たちが大いに喜んだほどだったと言いますが、

その後、孝景の後を継いで8代当主となった氏景(うじかげ=孝景の嫡子)、さらに、間もなくの文明十八年(1486年)に亡くなった氏景の後を継いだ9代目・貞景(さだかげ=氏景の嫡子)サポートする光玖は、未だ幼い貞景や、外交にウトイ側近らに代わって、室町幕府や公家・有力社寺などとの交渉を一手に引き受ける事となります。

おかげで、興福寺の僧侶・大乗院尋尊(だいじょういんじんそん)などは、光玖の政治手腕を高く評価し、親しく交流しています。

最晩年の明応二年(1493年)には、足羽(あすわ)木田(やしろ)(いずれも現・福井市)で特産物の綿や絹を扱う「十人衆商人」を保護して、他国からの参入を規制し、経済の発展に尽力したとおぼしき定書(じょうしょ=法度書き)も残ります

また、同じ明応二年(1493年)に勃発した、管領・細川政元明応の政変(6月23日参照>>)の時には、細川方を支援すべく、いち早く、被官(ひかん)杉若藤次(すぎわかとうじ)2000人を京へ派遣して、都の評判となったと言います。

こうしてみると、明応三年(1494年)1月3日亡くなる直前まで、朝倉氏の中で重きををなし、その手腕を思う存分奮っていた様子がうかがえますね。

公家からの評判はともかく、なんだかんだで7代め=英林孝景は朝倉氏の中興の祖・・・その大黒柱を失いながらも、朝倉氏はなんら動揺せず、その基盤が揺るぐどころか、逆に、長年モメていた守護の斯波(しば)氏を押しのけ、延徳四年(1492年)には、名実ともに越前の支配者である事を幕府に認めさせるあたりは、そこに、若い当主を支えた慈視院光玖の政治手腕があればこそ!

・・・と、ちょいと持ちあげ過ぎかな?

まぁ、本日は主役なので、そこンところは大目に・・・(*´v゚*)ゞ
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戦国・群雄割拠の時代」カテゴリの記事

コメント

5日と6日早朝に御礼のメールをしましたが、うまく送信できていないようでした。コメント欄に「送信」がなくて「確認」を押していたからかもしれません。この欄には送信があるので届くと思いますが。届くようでしたら、改めてコメントさせていただきます。

投稿: 竹澤良全 | 2017年1月 6日 (金) 07時49分

竹澤良全さん、こんにちは~

このコメントは、ちゃんと届いていますよ。
また、よろしくお願いします。

投稿: 茶々 | 2017年1月 6日 (金) 09時38分

はじめまして。初めての投稿になります。先程のメールは違う投稿欄でした。朝倉光玖と真盛上人を追いかけて調べています。この欄も興味深く読ませていただきました。
文明17年5月7日中御門宣胤が真盛上人と共に越前朝倉氏景を訪ねて皇室御料越前河合庄の年貢を納入させに下向しています。同18年にも行っております。(宣胤卿記・実隆卿記)この時氏景は家督を継いで四年目ぐらいです。年も若い。氏景の後見役の光玖が控えていたのではないかという推論です。真盛上人と知古のある朝倉光玖がいるから、宣胤は真盛上人を同行させたのではないかと考えています                それから、「明応二年(1493年)に勃発した、管領・細川政元の明応の政変(6月23日参照>>)の時には、細川方を支援すべく、いち早く、被官(ひかん)の杉若藤次(すぎわかとうじ)ら2000人を京へ派遣して、都の評判となったと言います。」
この時の派遣は,雑兵ではなく精鋭の武士を出兵させています。光玖はそこまで細川政元
に力を入れているのに、その後足利義材を一乗谷に滞在させるような矛盾したような行為があるようにあるように思うのですが、その辺のところでおわかりのあるところがありましたらお教え下さい。その他光玖についてお知りのことがありましたらお願いします。

投稿: 竹澤良全 | 2017年1月 6日 (金) 10時46分

竹澤良全さん、こんばんは~

私も、それほどくわしくは無いのですが、明応の政変後に足利義材を越前に迎えた頃は、一時的に細川政元との和睦が進んでいたとも言われてますので、そこらあたりの関係かとも思いますが、
先の応仁の乱など見ても、モメ事の張本人である義視でさえ、途中でその立ち位置をアッチコッチ変えたりしてますので、そのへんの所は、それぞれの思惑、様々な駆け引きがあったように思います。

具体的な思惑については、もう少し調べてみないとわかりませんねぇ
申し訳ないです。

投稿: 茶々 | 2017年1月 7日 (土) 03時57分

ご丁寧な返信ありがとうございます。早朝にも拘わらず申し訳ありません。人間は自分にとって都合がよいことで行動を変えます。そして、その理由の正当性を述べますが、偏に自己保身からでしょうね。まして、この時代は。よく分かりました。今後ともよろしくご指導ください。

投稿: 竹澤良全 | 2017年1月 7日 (土) 07時50分

竹澤良全さん、こんにちは~

こちらこそ、よろしくお願いします。

投稿: 茶々 | 2017年1月 7日 (土) 17時03分

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