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2012年1月30日 (月)

大阪で知った民俗学の種…宮本常一の話

 

昭和五十六年(1981年)1月30日、日本を代表する民俗学者・宮本常一が73歳でこの世を去りました。

・・・・・・・・・

昭和三十五年(1960年)の著作『忘れられた日本人』(岩波書店)で、一躍有名になった民俗学者宮本常一(つねいち)さん・・・

その著書は、昭和14年(1939年)以来、日本全国をくまなく歩いた宮本さんが、各地の民間伝承などを調査する中で知り合った、辺境と言われるような場所に住む老人たちを生き生きと描いた作品で、宮本民俗学の代表作と言われている物です。

Miyamototuneiti400 その生涯の4000日以上を旅に費やし、1200軒以上の民家に泊ったという宮川さんの研究は、何気ない庶民の暮らしぶりを低い視点から、丹念に追うという物で、あの柳田國男(やなぎたくにお)のソレとは一線を画する物でした。

底辺の人たちの芸能や、闇の部分である性の問題にも踏みこんだ事から、いち時は学界から無視された事もあったようですが、近年になって再評価が高まり、今では、日本を代表する民俗学者の一人に数えられています。

・・・てな事を言わなくても、もはや有名な人ですから、皆さんご存じなのでしょうが・・・

ただ、その研究の原点となる物が、大阪で培われていた事・・・しかも、それが、自分が中学生の頃に散々ウロチョロしていた場所だったという事を、恥ずかしながら、私は最近まで知りませんでした。

それは、大阪市中央区・・・地図で言えば大阪城の西、最寄駅で言えば京阪&地下鉄の天満橋近くの釣鐘町という場所です。

Dscn1139a600 その名の通り、ここには、寛永11年(1634年)に江戸幕府・第3代将軍の徳川家光が、地子銀(固定資産税)を免除する約束をした事で、感謝した町民が記念に建てた鐘楼があった場所で、釣鐘町と呼ばれていたわけで、その鐘は、日に3度、町に時刻を知らせるのに使われていたという事です。

その後、明治三年(1870年)に、一度、鐘楼ごと撤去され、鐘のみが大阪府庁の屋上で保管されていましたが、昭和六十年(1985年)にこの地に戻り、鐘楼が復元されて、現在は「釣鐘屋敷跡」と呼ばれています。
(くわしい場所は、本家HP:大阪歴史散歩「歴史を見つけに中之島へ…」でどうぞ>>

・・・で、この釣鐘の近くに住んだという宮本さんですが、もともとは、山口県周防大島(すおうおおしま)の貧しい農家に生まれたと言います。

小学校を出て、実家の農業の手伝いなどしていましたが、大正十二年(1923年)の16歳の時に、大阪に住む叔父さんから、
「大阪に来て、働きながら勉強したらどないや?」
と、声をかけられた事から、立身出世を夢見て、大阪に行く決意をするのです。

この時、船で島を出る彼を、1000人近い島民が見送りにやって来たとか・・・

後の自叙伝で、
「この事が、後々までの心の負担になった」
と、この時の心境を、ご本人が語っておられますが、おそらくは、彼が「大阪で一旗挙げて来る」と小耳に挟んだ人たちが、少々の期待を以って見送っただけのでしょうが、彼にとっては、それが、良い意味のプレッシャーとなって、より頑張れたのかも知れませんね。

とは言え、この時の彼は、「何をする」「何を学ぶ」といった目標が、まったく無いままの来阪・・・しばらくの間は、叔父さんの家に居候して、あれこれ考えていた中、その叔父さんの勧めで逓信(ていしん)講習所の試験を受けてみたところ、これが、見事合格!!

そこで、電信技術を学んで卒業した後、高麗橋郵便局(大阪市中央区内平野町)に配属され、ここで、叔父さんの家を出て、一人暮らしをはじめます。

その場所が、上記の釣鐘町・・・

4軒続きの長屋が3棟、合計12軒がワンセットになった長屋に住んだ彼は、長屋の住人たちと、親しくつきあうち、意外な事に驚いてしまうのです。

なんと、ここに住む老人たちのほとんどが文字を知らなかった・・・中には、若い人でも文字を知らない人がいて、ラブレターの代筆なんかも頼まれる始末・・・

読み書きもでき、郵便局に勤める彼を「秀才」と認識する彼らは、未だ20歳そこそこの彼に身の上相談までするように・・・

大都会の真ん中で、ポツリと、地面を這うように・・・それでいて生き生きとたくましく生きる長屋の住人たちに心惹かれて行く毎日・・・

もちろん、長屋だけでなく、自宅からほど近い勤務先との通勤中のそこここにも、一所懸命働き、一所懸命生きている人たちがいる・・・

そんな彼らの姿に感動した記憶から、底辺に生きる人々、困窮にあえぐ人々に接して話を聞くという、彼の研究のスタイルが生まれたのです。

その後、天王寺師範学校を卒業して小学校に勤務するも、昭和五年(1930年)には、肺結核を患って、故郷の周防大島に戻り、その療養中に書いた研究論文が、かの柳田國男の目に止まった・・・という事なので、ひょっとしたら、釣鐘町に住んだのは、わずか数年間だったのかも知れませんが、例えそんなわずかな期間でも、長屋の住人との触れ合いがなかったら・・・

ひょっとして民俗学者・宮本常一には、なっていなかったのかな?と、思うと、地元を知ってる者としては、ちょっぴりうれしかったりします。
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