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2012年2月29日 (水)

織田信長と相撲大会

 

天正六年(1578年)2月29日、織田信長が安土城に、総勢300人の力士を集めて相撲大会を行いました。

・・・・・・・・

そもそもは神代の昔・・・

高天原(たかまがはら)から降り立って、「この出雲の国を譲れ!」と迫った建御雷神(タケミカヅチノカミ)に、
「それなら勝負しよう!」
と、建御名方神(タケミナカタノカミ)がもちかけ、
国を懸けての大一番を行ったという『古事記』の記述が発祥と言われる相撲・・・

やがて『日本書紀』では、垂仁天皇の時代に、7月7日の夜に、命を懸けた天覧死合(←この字です)が行われ、奈良時代には大仏でお馴染の聖武天皇七夕の夜に相撲見物を楽しんだのだとか・・・(7月7日参照>>)

その後、鎌倉時代から室町時代になると、神事やお祭りの余興として行われる一方で、武士たちの合戦の合い間の体力作りなどでも行われ、子供たちの遊びとしても全国に広がっていきます。

さらに、それは競技化されて、江戸時代には興行という形でプロスポーツとなり、土俵入りの元祖と言われる第4代横綱の谷風梶之助(2007年11月19日参照>>)や、そのライバル釈迦ヶ嶽雲右門(しゃかがたけくもえもん)(2010年11月19日参照>>)、今なお史上最強の声が高い雷電為右衛門(らいでんためえもん)(2月21日参照>>)など、数多くの名力士を産む事になる日本を代表する競技となるわけですが・・・

Dscf0065a600 そんな、現代に至るまでのプロスポーツとしての相撲の原点を造ったのが、かの織田信長なワケです。

もちろん、信長が開催した相撲大会は、今回の天正六年(1578年)2月29日以外にもたくさんあるわけで、有名なところでは元亀元年(1570年)3月3日に安土の常楽寺で開催した相撲大会・・・

この時は、この大会の開催を聞きつけて、近江中の力士が集結したと言います。

この時、勝ち残ったのは、鯰絵又一郎(なまずえまたいちろう)青地与右衛門(あおちよえもん)の2名・・・信長は、この2名に刀と脇差を進呈し、相撲奉行として召し抱えたと言います。

天正六年(1578年)8月15日相撲大会では、1500人の参加者のうち、良い成績を収めた14人の力士に、100石の土地と家を与えたのだとか・・・

また、天正七年(1579年)8月6日7日の2日間渡って行われた大会では、数人の従者とともに(うまや)に立て籠ってから勝負に挑むスタイルで、7人抜きの大活躍を見せた伴正林(ともしょうりん)という少年に100石を与え、馬廻りとして家臣の列に加えたのだそうです。

ちなみに、この正林は、なんと、あの本能寺の変で信長とともに亡くなっています。

また、ある時は、最後の二人になって、どうしても勝負がつかず、両者の検討を讃えて、引き分けではなく、両方の勝ちという采配をしたとか・・・信長さん、ゴキゲンです。

この時の二人の勝者は、東から土俵にあがった豊浦伝蔵と、西から土俵にあがった常楽寺右馬次郎(うめじろう)の二人・・・

この二人には、それぞれが土俵にあがった方角から、「東」という姓と「西」という姓を与えたのだとか・・・しかも、なんと、そのご子孫の東さんと西さんが、現在も安土に住まわれているとの事・・・おそらくは、姓とともに、家屋敷や、ある程度の禄(給料)もいただいたのでしょうね。

しかも、東と西って・・・そうなんです、一説には、相撲が東西になったのも、信長さんのこの出来事から・・・なんて話も・・・

さらに、相撲の信長発(初)は、他にも・・・

はじめのうちは、土俵などなく、力士や観客が周囲を囲んで、その中で戦いをやるというスタイルで、しかも、時間短縮のため、次から次へと、真ん中に力士が入って来ちゃ戦いが始まるといった具合で・・・(伴正林の7人抜きって、そういう事なのねん)

それでも、キレイに勝負が決まった時は良いですが、当然の事ながら微妙な勝負だとモメにモメまくりで・・・やむなく、次回からは、見極め人なる者を設置したのだとか・・・そう、これが行司のはじまりなんて事も言われてますね。

なんせ、途中の大会からは、木瀬蔵春庵(きせぞうしゅんあん)木瀬太郎太夫(きせたろうだゆう)なんてうやうやしい名前の二人が、進行&審判のような形で登場してきますので・・・

さらに、現在、全取組みが終わったあとで行われる弓取り式も、ある大会で優勝した宮居眼右衛門(みやいげんえもん)なる力士に、信長が褒美として弓を与えた事にはじまるとも・・・

ポルトガルの宣教師=ルイス・フロイスは、その著書『日本史』の中で、
「信長は身分の上下に関わらず、裸にして相撲をとらせる事を好んだ」
と書いています。

外国の方なら、上記の「裸に」に喰いつくかも知れませんが、相撲は裸が当たり前の日本としては「身分の上下に関わらず」という、いかにも信長さんらしいところに注目ですね。

幼い頃、有名なあのスタイルで、野山を駆けまわった信長さん・・・おそらくは、ワル仲間たちとも、相撲をとって遊んだ事でしょう。

身分の上下に関係なく、「我こそは!」と思う力自慢を集めて、頑張った者には褒美を与えて、さらに家臣にまでする・・・

プロがプロたるゆえんは、力士の場合は、相撲をとって収入を得るという事なわけですが、そのスポンサーとなった・・・つまり、今も「タニマチ」とよばれる力士のごひいき筋=後援者の元祖が信長だったのですね。
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2012年2月28日 (火)

島原の乱が残した物は…

 

寛永十五年(1638年)2月28日、幕府の総攻撃によって、天草四郎が率いる反乱軍が籠城する原城が落城・・・島原の乱が終結しました。

・・・・・・・・・・・

・・・と、これまで、島原の乱関連の記事を何度か書いておりますので、その経緯などについては、それぞれのページでご覧いただくとして、

本日は、乱のその後のお話を・・・

・‥…━━━☆

元和偃武(げんなえんぶ)・・・
これは、あの大坂の陣で豊臣家を倒した徳川家が、元号を慶長から元和の改めて、応仁の乱以来続いた戦乱の世に終止符を打った事をあらわした言葉で、偃武とは「武器を納める」という意味です。

その後、一国一城制を定め、武家諸法度を発布し、参勤交代の制度も完成させて、生まれながらの将軍=第3代・徳川家光のもと、まさに、江戸幕府の基盤が出来上がり・・・

そんな時期に起こった島原の乱は、「やっと完成形を見たか」と思っていた幕府を震撼させたのです。

一つの城に籠城した農民が蜂起するだけでも由々しき問題な中、鎮圧に向かわせた九州の大名たちが、意外にも手こずってしまった事・・・

Simabaranoranzubyoubu900 島原の乱図屏風(秋月郷土史館蔵)

なので、幕府は、地元の島原藩主・松倉勝家領地没収の後斬首、唐津藩主・寺沢堅高(かたたか)天草領没収をはじめ、細川・鍋島・黒田など、鎮圧に参加した九州の諸大名たちにもいっさい加増は行わないという厳しい態度での論功行賞を実施しました。

手こずったとは言え、なんだかんだで最終的に鎮圧した、言わば勝利した戦いに対しての始末としては、ハンパない厳しさです。

もちろん、上のほう人だけでなく、下は鉄砲隊や足軽まで、弾が残ってるのに撃たなかったとか、退却が早すぎたとかで処分・・・中には切腹にまで及んだ者も数多くいたとか・・・

一方のキリシタンに対しても、すでに発令されていた禁教令をさらに厳しい物とするほか、寺請(てらうけ)・檀家(だんか)制度を実施して、寛永十七年(1640年)には諸国に宗門改役(しゅうもんあらためやく=キリシタンの取り締まり役)をおきました。

これで、民衆は皆、幕府→本寺→末寺→檀家として、幕藩体制にバッチリ組み込まれ(キリスト教以外の)どこかの宗派に属し、寺の檀家として記録されなければ、住民として認めてもらえないわけですから、やむなく改宗するか、表向きはどこかの寺の檀家となっておいて、ウラで信仰を続ける隠れキリシタンになるかしかなくなるわけです。

・・・と、乱の終結直後は、このような動きを見せる幕府側の対策ですが、実は、島原の乱には、もっともっと大きな問題が隠されていたのです。

それは、この乱の一番の責任者として斬首される松倉勝家のお父さん・松倉重政(しげまさ)のご命日のページにもチョイと書かせていただきましたが(11月16日参照>>)、この島原の乱がキリシタンの宗教一揆ではなく、重い税や統治の問題に反発した農民一揆では無かったか?という事です。

宗教一揆なら、上記の通り、禁教令を出して厳しく弾圧すれば何とかなります。

しかし、農民の不平不満による一揆なら、全国各地に不満を抱える農民は山といるわけですし、それぞれ問題が違いますから、いくら島原の乱を鎮圧したとて、次から次へと新たな乱が勃発しないとは限りません。

しかも、これだけ大きな乱となると、その荒廃ぶりも凄まじい物だったのです。

一説には、乱で犠牲になった島原の領民の数は3万7000人を越えると言われています。

つまり、それだけの納税者が、島原&天草地方からいなくなったという事になります。

その場所を統治している大名にとっても、その大名を従える幕府にとっても、これは由々しき問題です。

もちろん、これは、島原に限った事ではありません。

ここまで規模は大きくなくても、役人に反発した村人をかばったとして村ごと根絶やしにしたり、「反発するなら斬っちゃえばいいじゃん」で、無理な重税を課したりする事が、この時代は、まだまだ日常茶飯事だったのです。

これは戦国の名残りとも言えるもの・・・戦国時代なら、領主は、次から次へと武力で以って周囲に進攻し、領地を増やす事ができましたから、むしろ、言う事を聞かない農民は力で抑えつけるのが当たり前・・・むしり取った領地だって、その主人もろとも根絶やしにするのが当然でした。

しかし、幕藩体制が整った江戸時代・・・そんな事をすれば、それが、そのまま税収に響き、荒廃した場所を復活させる事にとてつもないエネルギーがいる事を、彼らは、この島原の乱で知ったのです。

この乱において、島原藩4万石のうち、約半数以上の2万2000石が無人の土地となった言われる島原・・・

幕府は、近隣諸国から島原への移住者を促進するとともに、ここで、大きな政策転換を図らねばならない事を悟りました。

力で押さえる戦国の世を終わらせねばならないのは、誰あろう、自分たち=武士・・・猛き心を抑えて、民衆への愛情を持つ政治家へと変わらなければ・・・

そして、島原の乱から約40年後・・・ここに、見事な将軍が登場します。

ご存じ、犬公方=第5代・徳川綱吉です。

彼は、武家諸法度の第1条にあった
「文武弓馬の道、専ら相嗜むべき事」
(武士たる者、いかなる時も武勇の道を怠ったらあかん!)
を、
「文武忠孝を励まし礼儀を正すべき事」
(忠義の心、孝行、礼儀が大事やで~)
に変更します。

以前も、書かせていただいたように、稀代の悪法と言われる生類憐みの令を発令する綱吉ですが、見方を変えれば、この法令は、人を含む、あらゆる動物の命を大切にする法でもあるのです(1月28日参照>>)

そこに、血で血を洗う戦国を終わらせたい綱吉の意図があったとしたら・・・

いやはや、歴史という物は、様々な見方ができるものだ・・・とつくづく
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2012年2月27日 (月)

清盛と日宋貿易~大河ドラマ・平清盛、第8回「宋銭と内大臣」を見て

昨日の大河ドラマ「平清盛」は、第8回「宋銭と内大臣」という事で、平家の日宋貿易の事や、この先、清盛と相対する事になる藤原頼長の登場がありましたが…
(頼長さんについては、以前upしたコチラで>>

とは言え、ドラマの内容については、あまりツッコミどころはありませんね。

細かく見れば、いくらでも突っ込めるのでしょうが、それをすると、逆にドラマがつまらなくなりそう・・・個人的には、すごく楽しんで見ています。

「松ケン演じる清盛の身なりが、いつまでたっても汚い」ってご意見もあるようですが、以前、小奇麗な白塗り状態でタフマン伊東こと白河法皇の前で舞を舞ってた姿が、私としては、あまり似合ってなかったような?気がします(松ケンファンの方スミマセン)ので、小汚いのが、松ケン清盛の一番カッコ良く見える身なりなのだと思います。

山本耕史さん演じる藤原頼長も、タフマン伊東さん以来の憎たらしいキャラ炸裂で、実に小気味イイ・・・今後のバトルに期待!!

・・・て事で、本日は、昨日の内容から、「清盛と日宋貿易」について、チョコッと書かせていただきたいと思います。

・‥…━━━☆

ご存じのように、あの菅原道真の提案により、寛平六年(894年)に遣唐使が廃止(9月14日参照>>)された事で、日本国内では、平安前期の雅な国風文化が発達する一方で、半鎖国状態となり、経済も文化も閉塞気味・・・

そんな中、海の向こうでは、907年(延喜七年)には唐が滅び、960年(天徳四年)に(そう)によって中国が統一され・・・そうなると、日本では、国が正式な国交を樹立しないうちに、私的な交易を開始する者が現われてきます。

清盛の父・忠盛(1月15日参照>>)も、その中の一人・・・

もともと、伊勢平氏の嫡流であった事から伊勢尾張美濃の3カ国に勢力を持ち、伊勢湾の水運に深く携わっていた清盛さんちですが、清盛のおじいちゃんの正盛が瀬戸内海沿岸にあった国の受領(ずりょう=現地に赴任して行政責任を負う長官)に任命された事で、瀬戸内の海の民とのつながりを持つようになり、海運の「うまみ」で以って成長していったわけで、当然、その息子=忠盛に代になって、瀬戸内の向こうにある九州に、更なる「うまみ」を求めないわけがありません。

ドラマにもあったように、この頃、鳥羽上皇御厩別当(みうまやべっとう=軍事の長官)として、いくつかの荘園の管理を任されていた忠盛は、上皇の領である肥前国神埼荘(かんざきのしょう=佐賀県神埼市)にて、私的な貿易を取り締まろうとする大宰府に対し、「鳥羽院の命令だ」と言って、公然と貿易に乗り出していったのです。

Karafunenissou900 「華厳宗祖師絵伝」(高山寺蔵)に描かれた当時の唐船

そんな父を見ていた清盛・・・その更なる飛躍となったのが、保元三年(1158年)に、清盛自身が大宰大弐(だざいのだいに=大宰府の次官)になった事・・・

彼自身は都に留まっていたものの、配下の者を大宰府へ送り込み、実質的な統括者となった清盛は、大陸への窓口とも言うべき博多を掌握し、日本初の人工港を博多に築くとともに、音戸の瀬戸を開いて瀬戸内海の航路の整備を行い、大輪田泊(おおわだのとまり)を拡張して、本格的な貿易に乗り出します。

後に、弟の頼盛が大宰大弐に任命された時は、その弟自身を大宰府に行かせていますから、清盛がいかに、九州での貿易に力を入れていたのかがうかがえます。

さらに、晩年に福原に遷都する(11月26日参照>>)のも、そこが、上記の大輪田泊に隣接する場所だったからで、やはり、ここでも、貿易を中心に日本の経済を発展させようという意思が見えますね。

ちなみに、この大輪田泊というのが、現在の神戸港です。

ところで、こうして行われた貿易で扱われていた品々とは???

日本から宋へ渡った物としては、硫黄刀剣漆器など、
逆に宋から輸入されたのは、香料織物陶磁器書籍絵画宋銭などなど・・・

ご存じのように、長らく銭貨が鋳造される事がなかった日本(10月30日参照>>)では、この後、この宋銭が通貨として使用される事になるのですから、貨幣経済への移行という点では、日宋貿易の影響は計り知れない物がありますね。

Seizityawannissou600 現在、東京国立博物館には、日宋貿易で取引された南宋時代の龍泉窯(りゅうせんよう)で造られた青磁茶碗が保管されています。

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重要文化財に指定されているこの青磁茶碗・・・ドラマに出て来た清盛の献上品に雰囲気がそっくり!!てか、このあたりをモデルに小道具さんが造られたのでしょうね。

残念ながら、清盛が夢見た貿易での経済発展については、福原遷都後まもなくに以仁王(もちひとおう=後白河法皇の皇子)が挙兵(4月9日参照>>)完成形を見る前に、清盛自身が倒れる(2月4日参照>>)事になってしまうのですが、そんなこんなのお話は、また、別の機会にでも・・・
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2012年2月25日 (土)

京都・大覚寺にて「空薫」体験してきました

 

昨日は、チョイと、おでかけをしておりました。

以前、『香りの記念日』に、「平安時代の人たちは香にうるさかった」というお話をさせていただきましたが(10月30日参照>>)

おそらくは、仏教伝来とともに伝わったお香・・・

なんせ、香木の原産地は東南アジアインドアフリカ・・・どこも熱帯に近い場所で、四季が分かれる温暖な気候の日本には、匂いの強い草木は、ほとんどありませんから、香を焚くという文化は、それまでは無かったでしょうね。

そんなお香が最初に流行したのが平安時代の初期です。

上記のページにも書きました通り、その人自身が作るオリジナルな香りは、その人のセンスの良さを判断する物で、それが上手という事は、ステータスでもありました。

あの清少納言は、『枕草子』の中で、
「よきたきものたきてひとり臥したる」
(イイ香りを焚いて、一人で寝そべる)

事を、「心ときめきするもの」と称してします。

また、紫式部『源氏物語』では、
そらだきもの、心にくく薫りいで
 名香の香など、匂ひみちたるに
 君の御追風、いと殊なれば…」

と、そこはかとない香りを漂わせている源氏の君(光源氏)を、追い風のようについて回る香りが、女性たちを魅了した様子が描かれています。

と、長い前置きになりましたが、

昨日は、京都・嵯峨野にある大覚寺にて、その源氏物語に出て来る「空薫(そらだき)なる物を学んで参ったのであります。

もちろん、最近は「アロマ」がブームになった事もあって、「香をたく」という行為が珍しくも無いわけですが、現在のものではなく、平安時代の「練香(ねりこう)でのやり方を体験して来たのです。

Dscf0800a500 まずは、お香の原料となる香木や根茎などを粉末にして練りあわせた物を、適量を手に取って、お団子のように丸めます。
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Dscf0802a500 お香の原料というのは、漢方薬として使用される物も多いので、丸めた団子状の物は、見た目も香りも、まるでラッパのマークの正露丸そのもの(もちろん口に入れてはいけませんが…)・・・

この団子状の物を練香と言い、現在の香木店では、この状態で売られていますが、平安時代は、皆がオリジナルのブレンドを楽しんで、自分自身で練りあげていたんですね。

Dscf0794a500 次に、あらかじめ、高炉灰(こうろばい)という灰を入れておいた高炉を用意しておいて、そこに火をつけた香炭団(こうたんどん)という小さな炭を入れ、灰が温まるのを待ちます

Dscf0795a500 灰が温まったら、そのそばに火箸で、先ほどの練香を、そばに置くのです。
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そばに置き過ぎると、練香が熱くなり過ぎて煙が出てしまうので、適度な場所に・・・あくまで、煙を出す事無く、ゆっくりと、そこはかとなく香ってくる香りを楽しみます。

平安時代の頃は、この高炉の上に、洗濯物を干すように衣装をかぶせて、香りをしみこませていたようです。

このように、衣装や部屋全体に香りを焚きこめて楽しむ事を空薫=そらだきと言います。

香木の焚き方には、大きく分けけて、この空薫と、一定の作法のもと、高炉を顔に近づけて、香りの違いを楽しむ「聞香(もんこう)とがあります。

いつか聞香も体験してみたいですが、今日のところは、平安貴族のお姉さま方に思いを馳せながら、いい香りを部屋に漂わせてゆっくりと・・・心ときめきする事にいたしましょう( ̄ー+ ̄)

Dscf0778a800 もちろん、大覚寺の庭園なども楽しんで参りましたが…
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2012年2月23日 (木)

「漢委奴國王」の金印の謎多きお話

天明四年(1784年)2月23日、筑前志賀島の百姓・甚兵衛が、田の溝の中から「漢委奴國王」の金印を発見しました。

・・・・・・・・・

「漢委奴國王」の金印とは・・・
ご存じ、ほとんどの教科書に載ってるアレです。

Kininc 「漢委奴國王」の金印(福岡市博物館蔵)

とは言え、科学の発達した近代に発見されて、周辺の地層やら何やらを綿密に調査して・・・ってワケにはいかない江戸時代の発見ですので、謎はいっぱいあります。

そもそも、百姓・甚兵衛なる者が発見したと記録しておきながら、地元のお寺の過去帳には、その甚兵衛という人物が存在してない事になってるとか・・・

いや、発見者は秀治という百姓であるとか・・・

福岡県糸島市にある細石神社(さざれいしじんじゃ)の宝物として保管されていたはずの「漢委奴國王」の金印が、江戸時代の頃に無くなってしまっていたとか・・・

とにかく、その出土したとされる福岡市東区志賀島という場所の特定も、様々な古記録や資料と現地調査から、大正三年(1914年)に有識者によって推定された場所なわけです。

なので、この金印自体に偽造説もあります。

まぁ、江戸時代の技術なら、充分造れますから・・・

しかし、とりあえずは、その何とかというお百姓さんが偶然発見した物を、郡奉行に提出し、その郡奉行が福岡藩に提出・・・当時、福岡藩の学問所の学長をやっていた儒学者・亀井南冥(かめいなんめい)が、この金印を後漢書(ごかんじょ=中国の歴史書)』東夷伝の中の、(わ=日本)について書かれている箇所に登場する金印ではないか?と特定し、そのレポートを書いた・・・

その後、福岡藩主黒田家に伝わっていた物が、明治維新とともに東京国立博物館に寄託され、やがて昭和六年(1931年)に、当時の国宝保存法によって国宝(現在の重要文化財)に指定された事で、文字通り、重要な品である事が認識され、現在の福岡市博物館での保管・展示に至るというわけです。

てな事で、「偽造かも?」という事は、一応、棚の上にあげといて・・・

まずは、そこに刻まれている「漢委奴國王」の五文字の読み方ですが、

今のところ「かんのわのなのこくおう」と読むのが一般的で、その意味は、
「漢(かん=後漢)に従属する倭(わ)の奴国(なこく)の王」
とされます。

もちろん上記の解釈では「委=倭」として「倭」と「奴」を読み分けして「わのな」となるわけですが、見ての通り、刻まれているのは「倭」ではなく「委」の文字・・・

そこで「委奴」「ヤマト」と呼んだり、記紀神話でイザナギイザナミが天上かた矛で海をかきまわした時にできた最初の島・オノコロ島ではないか?という説もあります。

また、「委奴」「イト」と読み、『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)に登場する倭国内の一つの国・伊都国(いとこく)だとし、その伊都国を現在の福岡県糸島市西区付近と比定する説もあります。

Kininkankeizucc ↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

とにもかくにも、当時の中国の史書によれば、倭人(わじん=日本人)の国は、100余りの小さな国に分かれていたと言いますが、その中で、壱岐や対馬などの海中の諸国を除けば、ほとんどが福岡平野にあったとされるわけで、その中心とも言うべき存在が奴国であっただろうと言われます。

そんな奴国の王に、後漢の皇帝=光武帝(こうぶてい)が、直接仕えない異民族の王として、かの金印を贈ったというわけです。

ところが、その後、かの『後漢書』では、西暦107年頃、師升(すいしょう)なる人物が、奴国の王に代わる倭国の王として使いをよこして来た事が書かれています。

ちなみに、この師升は、外国の史書に初めて登場する日本人・・・一説には、この人が記紀神話に登場するスサノヲでは?とも言われますが・・・で、この後に、例の卑弥呼が登場します。

って事は、つまりは、ここで政権交代があったと・・・

そのために、例の金印が奪われたか、あるいは、奪われないために、磐座(いわくら=祭壇)のような所に隠したか?

それが、江戸時代になって発見されたのではないか?
という事になってます。

もちろん、今では、何か大きな発見が無い限り、なかなか、その藪を抜けだせない話ではありますが・・・
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2012年2月22日 (水)

天変地異で退位…追号も微妙な後西天皇

 

貞享二年(1685年)2月22日、第111代後西天皇が崩御されました。

・・・・・・・・・・・・

後西(ごさい)天皇・・・と申し上げても、「あぁ、あの…」という風にはならない、きっと皆さまも「???」が満載の天皇様だと思います。

時代としては江戸の初期・・・参勤交代の制度や鎖国制度が確立して、「やっとこさ落ち着いたかな?」というあたり・・・

治世としては、江戸幕府将軍が第4代・徳川家綱の時代の承応三年(1654年)から寛文三年(1663年)の8年ちょっと間、皇位についておられた天皇です。

Gosaitennou600c その生涯で、7人の妃との間に10人の皇子と16人の皇女をもうけられていますので、そういう点ではお幸せだったのかも知れませんが、天皇自身のあずかり知らぬところで、なんとも言えない、せつない思いに見舞われる天皇でもあります。
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後西天皇の父は、開幕間もなくの頃に、徳川幕府相手に真っ向から意地の退位をやってのけた108代・後水尾(ごみずのお)天皇(4月12日参照>>)です。

もっと親しみやすいご紹介をすると・・・
昨年の大河ドラマでは完全スルーのオールカットされてましたが、徳川秀忠の夫婦は、二人の間に生まれた和子(まさこ・かずこ)という女の子を天皇家に嫁がせています。

奈良&平安時代に藤原氏が、そして今年の平清盛なんかも行う「天皇家に娘を嫁がせて、次期天皇を産んでもらって外戚(がいせき=母方の実家)をゲットしよう!作戦」ですね。

その和子さんのお相手が後水尾天皇です。
あっ、後西天皇のお母さんは別の女性ですよ!(言い忘れるとこだった(^-^;)

とにかく、後西天皇は、その後水尾天皇の第8皇子という事で、(順番でいけば)おそらく天皇にはならないだろう」的な位置であった事から、はじめは叔父・好仁親王(後陽成天皇の第7皇子)高松宮家を継いでいたのですが、先代=110代の後光明(ごこうみょう)天皇が、皇子がいないまま亡くなったために・・・

と言っても、実は、この後継者の決定には2ヶ月もかかっています。

上記の通り、後光明天皇には男子がいなかった・・・という事は、いっぱい男子がいる父の後水尾天皇の皇子たち=後光明天皇の兄弟から次の天皇を選ぶという事になるわけですが、それこそ、皇位継承でモメないために、すでに他の兄弟たちは、皆、出家させてしまっている状態・・・

残っているのは、高松宮家を継いでるこの後西天皇か、まだ生後4ヶ月の高貴宮(あてのみや)か・・・という事になり、一旦は、その生まれたばかりの赤ちゃんを、亡き後光明天皇の養子として皇位を継がせる事に決定したのですが、やはり「さすがに生後4ヶ月では…」との声が出て、結局、「その後継者=赤ちゃんが成長するまでの間」という事で、18歳になる後西天皇が即位したというドタバタ劇があったのです。

つまり、後西天皇は、中継ぎの天皇であったわけです。
さだめとは言え、期間限定はせつないですね。

とにかく、こうして即位した後西天皇・・・即位した直後は、大変、字がヘタクソそで、天皇に書の指導をしていた白河雅喬(まさたか)
「こんなきたない字を書いて…末代までの恥や!」
と、怒鳴られ、そのいた紙を火鉢で燃やされてしまった事があったのだとか・・・

ところが、数年後に、再び天皇の書を見た雅喬は、その美しい筆運びにビックり!

「こんな卑しい者の発した暴言を、ちゃんと忘れないでいてくれて、ここまで成長されるとは!!」
と、感激の涙を流したと言います。

この話を聞く限り、後西天皇という人は、なかなか素直で努力家で、イイ人だったと思われますね。

ところが、そんな頑張り屋の天皇のお心とはうらはらに、在位中の江戸では、明歴三年(1657年)に、あの明歴の大火(振袖火事)(1月18日参照>>)が起こります。

続いて、翌年の万治元年にも大火・・・さらに万治三年(1660年)には伊勢神宮が炎上し、その後も大洪水が発生したり、地震に見舞われたりという天変地異が続発したのです。

・・・で、
「これは、天皇の行いがよくないからだ」
という事になり、幕府からも、そして、父の後水尾上皇からも、退位の要請を受けてしまう事に・・・

かくして寛文三年(1663年)、後西天皇は退位し、先の高貴宮識仁(さとひと)親王が、第122代・霊元(れいげん)天皇として即位します。

茶道や華道、香道にも精通し、秀作と言われる和歌も残しておられる後西天皇・・・退位後は、それらの趣味に勤しむ、穏やかな日々を過ごされたのでしょうか?

ただ、気になるのは貞享二年(1685年)2月22日49歳でお亡くなりになった後に呼ばれるようになった追号です。

本日は、一応、一般的な追号である後西天皇とお呼びさせていただきましたが、このお名前、不思議なところかあるのにお気づきでしょう。

後鳥羽天皇しかり、後醍醐天皇しかり・・・とつくのは、先に在位した天皇の名に由来して後○○天皇とするわけですが、もちろん、「西天皇」などという天皇はおられません。

実は、コレ、後西天皇が中継ぎの天皇だった事で、自分の系統の天皇を後の世に残す事が出来なかった・・・女性天皇で中継ぎの場合は、その系統を残さないのは当然ですが、男性天皇で、(早世・動乱を除いて)そう言った方は少ないわけで・・・

そこで、後西天皇と同じような境遇であった第53代・淳和(じゅんな)天皇に由来して、その淳和天皇が、別名:西院帝と呼ばれていた事から、はじめは後西院という追号だったのです。

それが、明治になって天皇号が復活して後西院天皇と呼ばれ、さらに大正時代になって院号が廃止されたために、後西院天皇から「院」だけを取って後西天皇・・・という事になってしまったのです。

しかし・・・
もともと淳和天皇が西院帝と呼ばれてしたのは、その住まいが御所より西の位置にあったからで、現在も、京都には西院という地名が残ります。

つまり、後西院天皇の「院」は院号というよりは「西院」という一つの単語なわけで・・・

それを、「院」だけをなくして、後西天皇をお呼びするのは、何ともせつない気持ちがするのですが・・・
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2012年2月21日 (火)

三井の中興の祖・三野村利左衛門

 

明治十年(1877年)2月21日、幕末から明治にかけて活躍した商人・三野村利左衛門が57歳でこの世を去りました。

・・・・・・・・

三野村利左衛門(みのむらりざえもん)・・・知ってる人はすごく知ってるけど、知らない人はまったく知らないお名前だと思います(当たり前ですが…(*´v゚*)ゞ)

しかし、歴史をひも解いていくと、戦国にしろ幕末にしろ、「よくぞ、このタイミングで、こんな人が登場するなぁ」と思えるほど、その時代の流れにピッタリの英雄的存在の人が、どこからともなく突然に登場するものですが、この方も、そんな人物です。

突然登場するという事で察しがつくように、その前半生はほとんどわからない謎に包まれた状態・・・

Minomurarizaemon500 父親は、庄内藩士関口松三郎と言い、縁続きの木村家の養子となって木村姓を継いでいたという事ですが、利左衛門が幼い頃に出奔して浪人となった事から、父子ともども、大坂から九州あたりを転々とする放浪生活だったようで、もちろん、どん底の貧乏人でした。

大坂の、どこぞの店屋で奉公していたという話もありますが、とにかくわからない・・・

そんな中、どこをどう遍歴したのか、17歳か18歳に頃に江戸に出て来て、干物問屋か油問屋か・・・これもよくわからないけれど、とにかく、どこかの商店で奉公をしていたらしい・・・

ただ、ものすごくマジメに一所懸命働く少年だった事は確か・・・

すでに、その頃には両親も亡くなって、身寄りすらない状態でしたが、マジメに働いていると、チャンスという物はやって来るものです。

ある旗本屋敷から、「屋敷で中間(ちゅうげん=雑用係)奉公してくれる若者を紹介してほしい」と頼まれた人が、「アソコの店に、マジメによく働く奉公人がいる」と、その旗本屋敷に、彼を紹介したのです。

これが利左衛門・20歳の時・・・ここから、彼の人生がはっきりします・・・いや、彼の人生にとっての一大転機となります。

その旗本といいうのが小栗忠高・・・そう、後に、幕府の中心となって活躍する悲劇の名奉行・小栗上野介忠順(おぐりこうずけのすけただまさ)(4月6日参照>>)のお父さんです。

こうして、小栗さんのお屋敷で働く事になった利左衛門・・・忠順は、利左衛門より6歳年下なので、この頃は13~14歳・・・ひょっとしたら、この一番多感な時期に、兄弟のように接していたのかも知れません。

もちろん、ここでも一所懸命働く利左衛門・・・貧乏暮らしだったせいで読み書きはまったくできない彼でしたが、頭は良く、特に経理の計算などは得意中の得意で、しかも、陰日なたなくマジメに働きます。

その様子を影ながら見ていた忠高さん・・・「この子を、ただの中間で終わらせてしまうのはかわいそうだ」と思うようになり、どこか、その才能を発揮できる商家に・・と、三河町にあった紀ノ国屋という商家の婿養子に出します。

ただ、紀ノ国屋は砂糖などを扱う商家と言えど、かなりの零細・・・奥さん手作りの金平糖を、利左衛門が担いで、町で売り歩くといったささやかな商売でした。

しかし、ネがマジメな利左衛門さん・・・小さいながらもコツコツと小銭を貯めて、それを資金に小銭両替商の株を買い、30歳にして、小さいながらも両替商を開業したのです。

両替商とは、その時々の相場に応じて、小判や銀貨を両替するのが商売ですが、どちらかというと金貸しが主流・・・他にも、逆に貯金を引き受けたり、手形を割り引いたり、為替なども扱う、言わば、小さな個人営業の銀行みたいな物ですが、それこそ、未だ開業したばかりの利左衛門は、ごくごく小さな物・・・結局は、商人たちに依存しながら小銭を稼ぐ程度のものでした。

ただ、金融業務の中心地で商売をしているという利点から、江戸市中だけでなく、遠く、京や大坂の情報までもがめまぐるしく入り乱れる状況・・・利左衛門には、経理計算の能力だけでなく、動く世情を適格に判断する洞察力もあったのです。

その能力を遺憾なく発揮しながら、徐々に頭角を現して行く利左衛門でしたが、まだまだ、大金を動かす豪商に群がる小商人・・・

ところが、そんな彼に、三井組から声がかかります。

三井って・・・そう、あの三井です。

江戸の初めに三井高利(たかとし)が開業した越後屋呉服店(3月16日後半部分参照>>)が、江戸だけでなく、京都や大坂にも進出して不動産業や両替商などを一族で分担し、大坂の鴻池屋(こうのいけや)と肩を並べるくらいの豪商・財閥に成長していた三井・・・この頃は、それらの店舗を総称して三井組と呼ばれていました。

もちろん、利左衛門が小銭両替商人として、三井組の店に足しげく通っていた事が縁で呼ばれたわけですが、まだまだ小者で、しかも、どこの馬の骨か素性もはっきりしない利左衛門がなぜに???

実は、この時、三井組は、幕府から100万両の御用金を申しつけられていたのです。

当時の豪商が幕府と密接な関係にあったのは、皆さまご存じの通り・・・幕府は財政が苦しくなると、豪商たちに御用金を課して、強制的な借入れを行うわけですが、もともとお金が無いから借りてる状態なので、返す当てもいほとんど無いわけで、ほぼ、豪商のほうが出しっぱなし。

ただ、その見返りに幕府は、彼らに様々な利権を与えるわけで、言わば、持ちつ持たれつだったわけですが、この100万両の話が出た慶応二年(1866年)の時点で、すでに数年前から、合計260万両以上の御用金を用立てていて、さすがの三井も、今回の100万両には頭を抱えたのです。

おいそれとは出せない金額の100万両・・・せめて、減額してもらえないか?と思うものの、果たして、そんな交渉ができるのか?

実は、この時の幕府の勘定奉行が、誰あろう小栗忠順だった・・・そこで、三井組の誰かが、「自分とこにやって来る小銭両替商人が、昔、小栗の屋敷に奉公していたらしい」と言いだし、何とか、その縁にすがって、利左衛門に交渉役になって貰おうと、声をかけたのです。

一介の小商人でしかない利左衛門に、そんな事を頼むなんて、三井としては一世一代の冒険だったかも知れないですが、資産はあれど現金が無い三井としては、100万両なんて大金は出せないわけで、もはや、窮地に追い込まれた状態だったのです。

こうして、三井の番頭から、御用金の減額についての秘密の相談を受けた利左衛門・・・そこで、ピンときます。

この100万両という金額は、誰が見ても法外な金額・・・忠順の性格を熟知している利左衛門から見れば、とても、このような金額を提示するとは思えないのです。

忠順は、思いやりがあって情け深く、人を踏みにじるような事は絶対にしないはず・・・「この金額には、きっと何かあるはずだ」と・・・

実は、この頃、三井組は、例の御用金の見返りとして外国奉行所為替御用という役目を任されていたのですが、ここで扱っていた外国貿易での関税収入を、中小商人への貸付金に回していたのです。

つまり、幕府の公金を浮き貸しして利益を得ていたのですが、その情報を密かに知っていた利左衛門、「ひょっとしたら、曲がった事が大嫌いな忠順が、その事を知り、三井への懲罰のつもりで100万両という金額を提示したのではないか?」と考えます。

もちろん、三井が直接、部外者の利左衛門に浮き貸しの話をしたわけではありませんし、忠順の気持ちも確かめたわけでもないので、あくまで、彼の予想ですが・・・

かくして、忠順との交渉に赴いた利左衛門は、御用金の減額を三井から頼まれた事は隠しておいて、「中小商人への公的資金貸付け制度の創設」を提案します。

当時のインフレときたらハンパない状態で、多くの中小商人が資金に困っていた事は忠順自身もよく知っていたわけですが、かと言って、もはや財政難の幕府に、商人たちに貸す金など残っているわけもなく・・・実は、忠順も困っていたのです。

そこで利左衛門の提案・・・
「三井は、自分が責任を持って説得するので、公的資金貸付け制度の創設を三井に任せてみてはどうか?・・・そして、将来は、三井が管理している関税収入を、その財源に当てて運営する事を許可してほしい」
と・・・

幕府にとって公的貸付け制度の創設は急務である中、それを、幕府が一銭も出さずにやってくれるなら、それは、幕府にとってもありがたい事・・・忠順は、その提案を呑みます。

しかも、その交渉のついでに、御用金の金額を3分の1程度にネギる事にも成功・・・もちろん、この制度ができたおかげで、中小商人たちもヤミ金に手を出さなくてすむわけで・・・

って、結局は、すでにヤミでやってる事を公に認めさせただけなんですが、これで、すべてが丸く納まったわけで、まさに、利左衛門の知恵一つで、見事に解決したわけです。

こうして、三井から絶大な信頼を得る事になった利左衛門・・・なんと、かの貸付け業務を担当する三井御用所という新設部署に番頭格で迎え入れられる事になるのです。

しかも、忠順との関係も深くなった利左衛門は、この後、兌換紙幣(だかんしへい=正貨を支払うことを約した紙幣)の発行など、様々な経済政策を推し進める忠順の良き相談相手となって補佐したのです。

ところが、なんとか頑張る忠順も、もはやどうしようもないところまで幕府が来ていました。

そう、ここで、ご存じの鳥羽伏見の戦い(1月3日参照>>)です。

その数日前、討幕の気合は充分なれど、その軍資金に困っていた薩長倒幕派は、大坂の商人たちに、合計300万両の献金を呼び掛けます。

しかし、未だ先がどうなるかわからに、このご時世・・・鴻池をはじめとする多くの大坂商人は、その献金を断わり、応じたのは、わずかに3店の商人だけでした。

そうです・・・その3店の中に三井組がいました。

もちろん、三井内部でも、幕府につくのか?薩長につくのか?の議論が交わされたわけですが、そこで、この先を読んだのが利左衛門・・・彼の提案で、三井の方向が決まったのです。

果たして、その数日後に勃発した鳥羽伏見の戦いでは、薩長が見事に勝利・・・しかも、コチラが官軍となりました(1月5日参照>>)

さらに、江戸へと向かう官軍に対して、売れる資産は売りつくして現金に換え、千両箱を届ける三井組・・・おかげで、維新が成った新政府での三井は、財政・経済面で、ほぼ独占の地位を固め、ご存じの超巨大財閥に成長していくのです。

こうして、三井財閥の中興の祖とも言われる三野村利左衛門・・・しかし、一方では、あれだけタッグを組んだ忠順を裏切った人物として、あまり彼を快く思わない人もいる事は確か・・・

なんせ、以前、小栗さんのページ(またまた4月6日参照>>)で書かせていただいたように、この後、朝敵の汚名を一身に受けた忠順は、新政府軍の手によって、無残に処刑されてしまうのですから・・・

しかし、世は動乱の幕末です。

ここまでの動乱の世となれば、戦国も同じ・・・主君=幕府に忠誠を誓って死ぬのも人の道なら、時代の流れを読み取って生き残るのも人の道・・・

一説には、徳川慶喜(よしのぶ)から罷免されて故郷に戻った忠順に、利左衛門は、しきりにアメリカへの亡命を勧めていたとも言います。

しかし、正義感が強く、曲がった事が大嫌いな忠順に、「逃げる」という選択肢は無かったかも知れませんね~

おそらく利左衛門なら、そんな忠順の性格も、お見通しだったかも知れません。

だからこそ、忠順が処刑された後、残った妻子を引き取って、手厚く保護したのかも知れません。

男・利左衛門・・・生き残った者の使命として、大恩ある小栗家を見捨てる事は決して無かったと思いたいです。
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2012年2月20日 (月)

岩見重太郎のヒヒ退治と一夜官女のものがたり

 

毎年2月20日大阪市西淀川区野里に鎮座する野里(のざと)住吉神社では、一夜官女というお祭りが催されます。

これは、江戸時代は元禄以前から伝わるお祭りで、大阪府の民俗文化財にも指定されている伝統のあるもの・・・

Nosatosumiyosi2 野里住吉神社

由緒によれば、室町幕府・第3代将軍の足利義満によって創建されたこの神社ですが、神社の建つ野里という場所は淀川に近い小さな村で、度々の風水害や疫病に悩まされていたところ、
「毎年、決まった日に、子女を一人、神に捧げよ」
とのお告げがあった事から、毎年1月20日、一人の乙女を選んで、丑三つ時に唐櫃(からびつ)に入れて神社に運び、人身御供としていたところ、

ちょうど7年目の時、この村に、豪傑で知られた武者=岩見重太郎が現われ、
「神は人を救うものであって、人間を犠牲にするのは、神の思し召しではないはずだ!」
と言って、自らが唐櫃の中に入り、神社に向かいます。

しかし、翌朝、彼は傷だらけの姿となって遺体で発見されてしまいます。

その代わり、彼が命を懸けて立ち向かってくれたおかげか・・・その日以来、村は安泰の日々を送れるようになったのだとか・・・

その出来事を、後世に永く伝えるべく始まったのが、一夜官女というお祭りで、明治の終わり頃からは、月遅れの2月20日に行われるようになったとの事・・・

今では、その年に選ばれた7人の女の子が美しく着飾って神社にお参りし、神官が祝詞を唱えるという儀式となっていて、選ばれた女の子も親も名誉となるウレシイお祭りとなっています。

ところで、司馬遼太郎の小説にもなったりしている、この一夜官女の物語ですが、実は、その由緒とも小説とも少し違う、地元の伝承が残ります。

・‥…━━━☆

その昔、野里の村では、秋の実りの頃になると、収穫直前のイネが根こそぎ引き抜かれて荒らされるという事件が起こっていました。

周囲には、獣の毛や足跡があった事から、
「これは、住吉の森に住むヒヒの仕業に違いない!」
との噂となり、困った村人たちが住吉さんにお参りして、
「なんとか、ヒヒを退治してくだされ~」
とお願いしたところ、あくる日になって、お代官様が・・・

「昨日、神さんからのお告げがあった!
ぎょーさんのお供え物をして、汚れの無い乙女を差し出せば、ヒヒは暴れへんとの事や。
今度、正月の16日に、いけにえとなる娘の家に白羽の矢がたつそうや」

と・・・

その言葉通り、正月の16日に、村で一番美しい娘の家に白羽の矢がたちます。

以来、毎年々々、村のべっぴんさんが、一人ずついけにえに捧げられました。

おかげで、村が荒らされる事はなくなったものの、娘を差し出した家の悲しみは相当なもの・・・しかし、現に事件は止み、代官からも「村のため」と言われれば、耐えるしかありませんでした。

そんなこんなのある年、いけにえとなった彼女・・・

いつものように唐櫃に入れられ、神社に備えられた彼女は、誰もいなくなった真夜中、一人で、その唐櫃から抜け出します。

すると、暗がりから声が・・・

「心配すな!俺らはここにおる!」
それは、彼女に思いを寄せる村の若者とその仲間たち4人・・・

毎年、いえにえを差し出したところで、ヒヒがおとなしくなるのは、その年だけ・・・こんな事を続けていたら、毎年、美人がいなくなって、村はブサイクばっかりに・・・
もとい、
毎年、犠牲者が増えるばかり・・・

「今年こそ、自分たちでヒヒをやっつけてしもたれ!」
と集まった、勇気ある若者たちでした。

おとし穴を掘り、石や火縄も用意して準備万端・・・

そこへ、ゴォーーーという轟音きとともに、毛むくじゃらのヒヒや何頭ものイノシシが登場!

慌てて、彼女は唐櫃に戻り、男たちは戦闘準備!

集団が近づいたところで綱を引っ張り足をすくったのち、石を投げ、火縄で攻撃すると、イノシシたちは怯えて逃げ回り、やがて、ヒヒの背中の毛に火が燃え移る!!!

「あつっ!助けてくれ!」
と、なんと、ヒヒが大阪弁をじゃべった!?と、思うがはやいか、火だるまとなって苦しみながら、落とし穴に落ちるヒヒ・・・

火の勢いがおさまったところで、おそるおそる落とし穴に近づき、中を確認すると・・・

なんと、そこには毛皮をかぶった人間・・・しかも、それは、あのお代官様でした。

即座に、この代官が、毎年、供え物を奪い、娘をさらっていた事を理解する若者たち・・・
「やっぱり、ヒヒなんか、おらんかったんや!」

と、安心もしましたが、同時に・・・
相手は悪人で、しかも正当防衛の過失致死だったとは言え、彼らは代官を殺してしまった事になるわけで・・・

この事が知れたら、彼らが、どんな罪に問われるか・・・そこで、一同、相談のうえ、お察しの通りのラブラブ真っただ中だった彼氏と彼女は、二人で村を捨て、逃げる事に・・・

そして、残りの若者らは、村に戻って、こういう噂を流します。

「ヒヒを退治したのは、天下の豪傑=岩見重太郎様やて!
ちょうど、この村を通りがかって、ヒヒを、一発でやっつけなはった。」
「一人は岩見はんの家来になるって、ついて行ったわ」
「あぁ、あの娘が最後のいけにえになってしもたなぁ・・・かわいそうに」

と・・・

・‥…━━━☆

と、
「それ以来、岩見重太郎をたたえるお祭りとして神社でお祭りが行われているけれど、実は、こういう事なのよ」
という感じで、伝承は締めくくられます。

神社の由緒としてのお話は全国的でもよく聞くお話、小説はもちろん楽しい創作が入ったもの・・・そんな中、地元に残る伝承は、いかにも大阪人らしい逸話

もちろん、今となっては、何が本当なのかは、わかりませんが、由緒と伝承の違いには、大阪の庶民たちが受け継いできた、封建的な権力に対するホンネとタテマエを垣間見るようで、実におもしろいです。

仇討ちからヒヒ退治まで・・・
しかも、あの薄田隼人(すすきだはやと)(5月6日参照>>)かも知れないのだから・・・岩見重太郎(9月20日参照>>)は実に忙しいww

一夜官女 (中公文庫) [文庫] 1yakanzyo600

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2012年2月19日 (日)

吉原の花魁・高尾太夫を落とした榊原政岑

 

寛保三年(1743年)2月19日、榊原家宗家の第8代当主で、播磨姫路藩の第3代藩主となった榊原政岑がこの世を去りました。

・・・・・・・・

榊原家の分家で、旗本1000石榊原勝治の次男として生まれた榊原政岑(さかきばらまさみね)・・・

以前、肥後熊本藩の財政を立て直した細川重賢(ほそかわしげかた)のページ(10月26日参照>>) でも、チョコッとお話しさせていただいたように、江戸時代ってのは家を継ぐのは長男と決まっていて、次男・三男となれば、分家を作って独立するか、どこか、後継者のいない家に養子に入ってそこを継ぐか・・・

かと言って、分家を作るにはお金がいるし、そうそう後継者のいない家があるわけもなし・・・って事で、次男・三男の中には、けっこうな年齢になっても兄の家に居候して結婚もできない状況の人がたくさんいたわけですが・・・(これを部屋住みと言います)

今回の政岑さんも、次男という事でご多分にもれず・・・ただ、政岑の場合は、榊原一族の中に、途中で断絶した大須賀家というのがあり、その大須賀姓を継いで、お家を再興するという夢もあったようですが・・・

そんな中、享保十六年(1731年)、父が亡くなった後に家督を継いでいた兄が亡くなった事を受けて、1000石の家を継ぐ事に・・・

ところが、その翌年、本家の榊原家の現当主であった榊原政祐(まさすけ)に子供がいなかった事から、その養子となって、今度は榊原の宗家を継ぐ事になります。

そう、この宗家の榊原家・・・おおもとは、徳川四天王の一人に数えられた、あの榊原康政(さかきばらやすまさ)(5月14日参照>>)で、徳川譜代の家臣の中でも筆頭格!

こうして、政岑は、播磨(兵庫県南西部)姫路藩15万石の第3代藩主となったのです・・・時に享保十七年(1732年)、政岑=19歳の時でした。

その3年後には、陸奥(青森・岩手・宮城・福島)白河藩主松平基知(まつだいらもとちか)の養女を正室に娶り、まもなく、奥さんが女の子を出産し・・・と、ささやかな分家からは大出世の順風満帆な幸せを・・・

ところが、その奥さんが、いわゆる「産後の肥立ちが悪い」というヤツで、出産後まもなく、突然に亡くなってしまったのです。

落ち込む政岑・・・日頃は、能楽や狂言やらといった賑やかな芸事が好きだった人だけに、その落ち込みようは、周囲も心配するほどで、何とか、彼の気分を変えてさしあげようというやさしさから、お抱えの能楽者の一人が、政岑を吉原に誘います。

これが運のつき・・・

Takao600 当時、かの吉原で最高の花魁(おいらん)と評判の高尾太夫(たかおだゆう)恋をしてしまうのです。

ちなみに、この高尾という名前は、京都島原吉野太夫大坂新町夕霧太夫(1月7日参照>>)とともに、三名妓と呼ばれる吉原は三浦屋の名跡で、そこの、その時々の、トップが名乗る名前なので、何人もの高尾太夫がいるわけですが、政岑さんが恋をしたのは6代めの高尾太夫だったという事です。

とは言え、ご存じのように、遊郭という物は、一歩その中に入れば身分など関係の無い別世界・・・例えおエラい殿さまであろうが、大金持ちであろうが、一見(いちげん)の客には、おいそれと、その姿を拝む事さえできないのが高級遊女=花魁です。

なので、政岑も、いきなり恋・・・ではなく、まずは、「そんなに人気の高尾とは、いったいどんな女なんだ?」てな興味から、一連の吉原のルールに従って、徐々にハマッっていくわけですが・・・

以前、【江戸で豪遊~吉原の花魁遊びはいくら?】(11月27日参照>>) で、そのシステムをご紹介しましたが、まずは「初会」という、顔を見るだけのために、政岑は60両以上の大金を使ったと言いますが、政岑にとっては、そんな大金でも余りある好感触・・・

そう、ここで、遠目にチラッと見た高尾に、彼は一目惚れしてしまうのです。

あでやかな風情に気品ある美しさ、見つめられるだけでトロけてしまいそうなその瞳のとりこになってしまいます。

「裏」と呼ばれる2度目の面会でも、彼は70両近い大金を支払い、そして、3度目の「馴染み」・・・ここまでで彼の場合、合計200両以上、大まかな計算で1500万円以上のお金を費やしました。

とは言え、ここまでなら、いくらお馴染さんとなっても、あくまで遊女と客の関係・・・政岑は、ホンモノの恋をしてるんですから、高尾の気持ちもコチラに向いて欲しいわけで・・・

極力、彼女のご機嫌をそこねぬよう、口説きに口説きまくった政岑さん・・・そして、とうとう、彼女の心を開き、3000両(1800両とも2500両とも)で身請けするのです。

寛保元年(1741年)・・・政岑、29歳の春でした。

・・・と、ここまでの話なら、例え吉原での遊興であったとしても、恋した相手が高尾太夫だったというだけで、気持ちとしては純愛なわけですが・・・

実は政岑さん、高尾太夫以外にも、島原の遊女・2名、有馬の遊女・3名を身請けしていて、彼が22歳の時に生まれた長男の政永(まさなが)も、実は、母親は京都の舞妓さんだった・・・なんて噂もチラホラ・・・となると、単なる女好きの遊び人なのか?

一説には、屋敷の庭に人工の山を造ってススキを植え、そのススキ越しに中秋の名月を愛で、宴もたけなわとなった頃に、その山がパッカ~~ンと二つに割れ、中から美女が踊り出て・・・てな仕掛けを造って、贅沢三昧したいたとか・・・

しかし、一方では、吉原では、あの徳川宗春(むねはる)と親しくしていた・・・なんて話もあります。

以前書かせていたがきましたが(10月8日参照>>) 、この宗春さん・・・8代将軍・徳川吉宗の行った享保の改革が発布した倹約令に対して、
「不景気な時こそ、金を使わんと経済が回って行かへんのや!」
真っ向から立ち向かった御三家の尾張藩主です。

後世の私たちから見ると、元禄バブルがはじけた不況真っただ中で、贅沢を禁止し、質素倹約を掲げた享保の改革が、100%の成功とは言えない(6月18日参照>>)事がわかるだけに、この宗春さんこそ名君と称する歴史ファンも多いのです。

その宗春と親しくしていた・・・という事は、政岑のお遊びも計算ずくなのか?

・・・と思いたいのですが、残念ながら、彼の場合は、宗春のようなはっきりとした倹約令への反対意見を示した証拠はなく、吉原で親しくしていたというのも、単なる噂どまりなので、そこのところはよくわかりません。

しかも、そんな遊び放題&高尾の身請けを、かの吉宗に咎められ、寛保元年(1741年)の10月に強制隠居のうえ蟄居(ちっきょ=謹慎処分)・・・家督は、息子の政永が継ぐ事を許されたものの、越後(新潟県)高田への転封となってしまったのです。

これも、本来なら改易処分となるところだったのを、榊原家があの四天王の榊原家だった事から、徳川譜代の重臣たちの説得で、何とか転封ですんだのだとか・・・

しかし、そんな中でも、この榊原家への転封処分について、多くの領民から幕府に対しての反発の声が出たてな記録もあるようなので、やはり、政岑は領民に慕われる名君だったのかも知れません。

現に、高田へお引越した後の政岑は、開墾や灌漑などの農地改革を行ったうえ、農民の生活改善に向けての副業の指導など、まさに名君の中の名君と言えるような殿さまになっています。

しかし、その期間は、あまりに短すぎました・・・

そう、高尾を身請けして処分を受けて・・・から、わずか2年後の寛保三年(1743年)2月19日政岑は31歳という若さで、この世を去ってしまうのです。

政岑とともに、この高田へとやって来ていた高尾は、夫の死後に出家して、静かに余生を過ごしたと言います。

代々の高尾太夫と呼ばれる人が、なかなかの波乱万丈な人生を送っていて、例え身請けされたとしても、ひとところにジッとしていられないような雰囲気なのに対して、この政岑が惚れた高尾太夫だけは、殿さまの妻としてふさわしい生きかたをした貞女であったとの噂・・・政岑さん、女性を見る目、ありますね!

未だ若い時期に奥さんを亡くし、遊びたい盛りの28歳で高尾太夫と知り合い、これからという31歳で亡くなった政岑・・・

高尾太夫との恋は、いい恋だったと思いたいですね。
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2012年2月17日 (金)

アンケート企画「歴史上1番の文明開化は?」の結果発表

 

 
今回のアンケート
「あなたが思う、日本の歴史上で1番の文明開化は?
の投票にご協力いただきありがとうございましたo(_ _)o

予想通り、「明治の文明開化」がダントツでありました。

やはり「文明開化」という言葉の響きが明治を連想させるだけに当然と言えば当然の結果でありますが・・・。

また、いつものようにコメントも沢山いただき、大変楽しいアンケートとなりました。

ではでは、
コメントも含め、本日、このブログ上にて、結果発表をさせていただきますね。

改めて投票募集のページをご覧になりたいかたはコチラからどうぞ>>(別窓で開きます)

・‥…━━━☆ジャ~

1位
23票
明治の文明開化
やはり、1位・・・言葉の響き+劇的に多くの物が変わった時ですからね~
2位
16票
稲作の伝播
これは、生活様式を越えた大きな変化…一列に並べられない物だったかも知れませんが、皆様の広いお心で多くの票をいただきました。
3位
13票
仏教伝来
今も脈々と続く仏教ですからね~精神的な物の根底となる物です。
4位
12票
漢字の導入
これも、今も使用中ですからね。。。無い世界を想像する事すら難しいです。
5位
10票
太平洋戦争の終結
コチラは、近代においての大変化…ただ、手放しでは受け入れられないので複雑です。
6位
4票
鉄砲伝来
戦国重視だと劇的ですね~これで、戦い方が変わりましたから…
7位
2票
蘭学おこる
鎖国の中でのコレは大きいですね~おそらく幕末にも大きな影響を与えてますから…
8位
1票
青銅器伝わる
キリスト教の伝来
TPP

それぞれ1票しか入りませんでしたが、TPPはともかく、青銅器とキリスト教は無視できない変化を与えたと思います。
11位
0票
遣唐使の派遣
日宋貿易
日明貿易
南蛮貿易
日米修好通商条約を結ぶ

残念ながら、この5項目は0票でした…少しアバウト過ぎましたね。選択肢を考えた側のミスです…スミマセン
その他 7票:下記のコメントでご確認を…

と、このような結果となりました~ご協力感謝します。

゜。°。°。°。°。°。°。°。゜。°。°。°。

続いて、投票コーナーにいただいたコメントを・・・
*いただいた順に表示「青文字」の管理人のコメントもお楽しみください

青銅器伝わる 此処から様々な物が発展していったかなと思うので(男性/20代/東京)
「数少ない青銅器派…やはり後世への影響は大きいと思います」
稲作の伝播 やっぱり稲作ですね。現代にまでず~っと日本人の心身を満たしてくれるし(女性/福井)
「これで、定住&集団という劇的変化がありますからね」
仏教伝来 538年がいまだに記憶に焼き付いて残っています。(男性/60代/東京)
「思想の基本となる物の伝来ですからね…大きいです」
太平洋戦争の終結 WGIPに染まった反日勢力が日本を蹂躙し始めた。
「負の影響ととらえる方も多くいらっしゃるでしょうね。」
太平洋戦争の終結 やっぱマッカーサー来日からかな?(男性/40代/愛知)
「あの空港に降り立つシーンは、後から見てもインパクト強いです。」
稲作の伝播 全体をみればそうでしょう。(男性/30代/千葉)
「日本と言う国の生活様式を決めましたからね。
仏教伝来 日本人の精神は仏教伝来のおかげかなぁ(女性/30代/兵庫)
「日本人の一人として、この国の精神のすばらしさは世界一だと思っています…その基本となる思想ですからね。」
稲作の伝播 土着の民(縄文人、国津神?)に大陸から新しい技術が伝えられ日本人気質は大きく変わった(女性/40代/東京)
「ここに、国津神と天津神の壮大なドラマが隠れていますね。」
明治の文明開化 やはり蒸気機関等の産業革命は、すごいと思います。(男性/30代/福岡)
「近代への産業革命としてはダントツの変化ですからね。」
稲作の伝播 人の生き方そのものがダイレクトに変わったと言えるのは、これしかないでしょう(男性/20代/岡山)
「そう、やはり生き方ですね…ムラの形成も不可欠です。」
漢字の導入 うう~~ん、難しいけれど・・、とりあえず・・。(女性/50代/奈良)
「選択肢を考えた私も難しかったです…本当は、すべてがあっての今の日本ですから…」
キリスト教伝来 鎖国の一番の原因だったようですから。(女性/40代/千葉)
「そうですね。教義というよりも、その後の日本の姿勢に影響を与えたかも知れません。」
漢字の導入 漢字が伝わらなければ、どのような文字になったのか興味がでました。(男性/20代/大阪)
「漢字が伝わるまで文字が無かったというのが定説のようですが、そうでは無いという意見も根強い…だったら、いったいどんな文字だったかも気になりますね。」
明治の文明開化 ただ肉食自体は江戸時代でも牛や豚以外の肉(鴨など)は食べていたようです。(男性/30代/千葉)
「そうですね~確かウサギも、そのために1羽・2羽って、鳥の数え方をするって言いますものね。。。
蘭学おこる コレが無ければ、明治維新も違っていたのではないでしょうか?(受売り)(男性/40代/新潟)
「これが無ければ西洋の文化に触れることに、もっと拒否反応があったかも知れませんね。」
明治の文明開化 廃藩置県を執行、封建議会制を取り入れたのは、当時では上下逆転したようだったのでは(女性/50代/【海外】)
「廃藩置県で上の人の反発が少なかったのは、やっぱ賢い人が多かったって事でしょうか?←個人的な感想」
仏教伝来 これかなと・・・(男性/30代/千葉)
「やはり、精神的な面が大きいですね。」
漢字の導入 なんだかんだと言って、日本文学史への影響は大きいと思う。(女性/20代/岐阜)
「そこからひらがなも生まれますからね…導入後にそれを変化させる巧みさは日本のお家芸ですね。」
稲作の伝播 外から見るとやっぱり日本=米の印象が強いんじゃないかなあ・・・(女性/20代/東京)
「伝わった時は野菜でも、それを主食にしたのは日本人ですものね。」
稲作の伝播 外から見るとやっぱり日本=米の印象が強いんじゃないかなあ・・・食って大きいんじゃないかと思います。(女性/20代/東京)
「食欲は、欲の中でも、最も基本の欲ですものね。」
稲作の伝播 このノウハウを持って来て支配した一族が天皇家だという説も有ります。(北海道)
「確かに…この技術をもってすれば、支配的立場に立つ事も可能ですね。」
漢字の導入 漢字を導入しなかったら、片仮名も平仮名もないですから。伝わらなかったらどんな文字使ってたんでしょう?(女性/10代/千葉)
「謎の石版みたいなのが出て来ないですかね…ちょっと期待(*´v゚*)ゞ
その他 東京オリンピック 万博もそうですがその後の『進歩と調和』はどうかな??(女性/40代/奈良)
「高度成長期頃の変化って事ですね。。。技術の進歩と調和は実現されたように感じますが人類の進歩と調和は??」
明治の文明開化 日本を大国の地位にまで高めたので。(男性/40代/秋田)
「世界の中の日本…それまでには無かった観念ですね。」
漢字の導入 これがなかったらヲシテや神代文字だかなんたらだった気がする。(女性)
「やはり神代文字を使っていたのでしょうか?どれくらい普及してたのかも知りたいところです。」
TPP 反日マスコミと朝 鮮人の日本解体策動
「利点・難点が解り難いです」
明治の文明開化 『ちょんまげ終了』『廃刀』はかなりのインパクトありです。(女性/20代/大阪)
「見た目も変わりましたからね=明治の文明開化は…」
蘭学おこる これぞ、平和な時代による所の文明かなと思います。(女性/50代/静岡)
「平和な時代の文明開化…確かにそうですね。」
明治の文明開化 変わる時は一気にいく、日本人らしいです。これからも、期待してます。(男性/40代/大阪)
「一気に変わってほしいですね…今、その時が来てるような気がします。」
太平洋戦争の終結 日本人気質が失われて習慣・思想など国が大きく変化したのは敗戦後からのように思って(女性/40代/埼玉)
「戦前の良きところは、そのまま残っていてほしいんですがね…難しいです。」
その他 戦後の農地改革
「多くの土地を所有していた人にとっては劇的変化ですね。」
その他 この半世紀の技術革新が一番の文明開花です。何世紀か後に生活様式の変換点として高く評価されるでしょう。(男性/50代/石川)
「世界のニッポン!その技術を誇りにしたいです。」
仏教伝来 日本古来の縄文時代からの神道と、仏教の神仏習合により、日本人の精神が形作られたと思います(女性/50代)
「日本人の精神形成には不可欠の仏教ですね。
太平洋戦争の終結 他国の意思に多大に沿うようになったという点で以前までの国のありかたが大転換したのではと思います。(女性/20代/奈良)
「大きな戦争でしたからね。。。影響も大きいですね」
仏教伝来 思想統一とか社会形成につながるから(女性/30代/【海外】)
「今の社会でも不可欠ですからね」
明治の文明開化 やっぱここでしょう。自虐じゃなきゃ、この先の2つを選らびません。(女性/50代)
「自らの意思での変化という点では、ここですね。」
稲作の伝播 瑞穂の国の礎はこれを置いてほかにはないでしょう。(男性/30代/兵庫)
「お米の国だから…瑞穂という言葉は良いですよねヽ(*≧ε≦*)φ」
漢字の導入 日本の文明開化は感じから始まったのでは?(女性/10代/埼玉)
「これを使う使わないで、スゴイ変化がありますからね」
その他 facebook  スマホ appleの創業者 TPP//アセアン+3&インド・&オーストラリア(男性/60代/岡山)
「海外にいる友人とも、まるで隣にいるように話せる…スゴイです!」
明治の文明開化 過去を一気に捨て西洋を受入れ、国民が新しい世の中に希望を感じた。このスピードと明るさが文明開化。(男性/40代/愛知)
「確かに…よく、あれだけの短期間にこれだけの変化が、というほど変わりましたね。」
その他 鉄道と自動車が導入されたこと。
「交通の発達は、経済と意識の点で大きく影響しますから…」
仏教伝来 神教勢力に勝った仏教勢力により国の形が作られたのですから、最大の文明開化ではないかと感じてます。(女性/40代/宮城)
「そうですね、ここで国の形が大きく変化しました」
ここからは ブログ&twitterからの投票です
(勝手ながら、投票にノーカウントのコメントは省かせていただきましたので、投票募集のページの方でご確認ください)
鉄砲伝来 鉄砲伝来だと思います。どうでしょう?(はんこ広場池袋西口店@hankohiroba_ike)twitterから
「おぉ!最初の1票をtwitterからいただくとは…これもウレシイ変化ですv(^o^)v集計の時に、プラスさせていただきますね。ありがとうございます。」
その他 「ペリーの来航」はどうでしょうか?(やぶひび)
「私も、ペリーとハリス、どっちを選択肢に入れようか悩みました。」
漢字の導入 が決定的でしょうね。これで日本文化は世界文明と繋がりました。漢字なくして日本語の成立はあり得ません。また、精妙な国語の表現力なくして、日本文化が世界性を持つこともなかったでしょう。
西洋化による文明開化のインパクトは大きいですが、日本は過去に一遍やってるのですね。幕末の人達は、オランダ語を突破口として、英語やフランス語を読んできました。
江戸時代の読書階級は当然漢文が読めます。文明開化の後はヨーロッパの言語の一、二に精通するようになった。鴎外や漱石が出てくる所以です。(レッドバロン)
「確かに、明治維新のインパクト強いですが、稲作と漢字は、日本の原点に近い物がありますからね~」
稲作の伝播 これで人はひとつところで安定した生活が出来るようになり、米を蓄えて富める者が誕生しました。文明を築く根源はコレだと思います。(わしも関西人)
「おっしゃる通り、「ひとつところで安定した生活」と、それにともなう集団の形成は大きいと思いますね。」

・‥…━━━☆

以上、投票、ならびに、楽しいコメントをありがとうございました~

これからも、不定期ではありますが、オモシロイ投票のお題を思いつきましたら、投票コーナーを設けてみたいと思いますので、その時は、ぜひぜひご協力いただけますよう、よろしくお願いします。
 .

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2012年2月16日 (木)

将軍の教育係も大変!青山幸成と兄・忠俊

 

寛永二十年(1643年)2月16日、徳川秀忠家光の2代の将軍に仕え、摂津尼崎の初代藩主となった青山幸成が59歳で亡くなりました。

・・・・・・・・・・

青山幸成(よしなり・ゆきなり)は、徳川譜代の家臣・青山忠成の四男として生まれ、17歳の時に、徳川家康の息子・秀忠の近侍となりました。

その後、大坂の陣などに参戦した功績を挙げ、元和五年(1619年)に常陸国(ひたちのくに=茨城県)新治郡筑波郡など加増され1万3000石の大名となりました。

さらに、寛永十年(1633年)には遠江(静岡県西部)掛川藩に2万6000石、寛永十二年(1635年)には摂津(兵庫県)尼崎5万石・・・と出世していきます。

初代尼崎藩主となった幸成は、各村の庄屋を統轄する役人=郡右衛門(大庄屋)制度制定して体制の整備を行い、積極的に新田開発を行った事から、尼崎藩が4000石も石高を増やした・・・という事なので、なかなかの名君でもあったのでしょう。

2代将軍・秀忠の後を継いで、家光が第3代将軍になった時には側用人(そばようにん)として仕えていた幸成・・・

ある時、その家光が、出来上がったばかりの印籠を自慢げに幸成に見せます。

印籠と言えば黒漆塗(うるしぬり)が普通の時代・・・そのシロモノは、それこそ、将軍でしか作れないような派手派手な蒔絵が施された、いかにも高そうな物・・・

「これ、どや!」
と言わんばかりの表情の家光・・・もちろん、その見事さを褒めてもらいたくて見せてるわけですが・・・

すると、幸成は、いきなり顔をゆがめたかと思うと
「印籠っちゅーもんは、薬を入れるためにある物・・・そこにこんな派手な装飾をしても何の役にもたちまへんがな!
長たる将軍様が、そんな事をしたら、大名や町人までマネして、しまいには、どないもならん事になりまっせ!」

と言い、家光から、その印籠を奪い取って、庭にあった飛び石に投げつけ、さらに、足で踏んでブッ壊し、その場で捨ててしまったのだとか・・・

当然の事ながら、そんな幸成の態度に激怒した家光は、すぐさま、彼の所領を没収したのです。

さすがの幸成は、そんな事をすれば、そのような状況になる事は覚悟の上だったのか?、さっさと、嫡男・幸利(よしとし)を連れて相模(神奈川県)藤沢に向かい、とっとと蟄居(ちっきょ・謹慎)してしまったのです。

しばらく経って、少し落ち着いた家光・・・確かに、その時は激怒しましたが、落ち着いて考えてみれば、幸成のやった事に対して、与えた処分はちと大き過ぎ・・・

「度が過ぎた処分をしてしまったなぁ」と反省する中、考えてみれば、息子の幸利には何の罪もないわけで・・・

そこで、幸利に「出仕せよ」との命を出す家光・・・

しかし、幸利は
「父が、あなた様のご機嫌をそこねたのですから、その息子が仕えるなどできません」
と、キッパリ!

その後、何度も出仕要請が来ますが、幸利は断わり続け、一生蟄居の身分のままでいたのだそうです。

この幸成・幸利の行動は、自らの進退を懸けて主君の間違いをいさめたとして、後世の側用人たちの鏡になったとか・・・
 .

と、幸成さんと家光にまつわる逸話をご紹介しましたが、実は、『駿江雑説弁』という書に出てくるというこの逸話・・・どうやら、違うみたいなのですね。

というのも、『寛政重修家譜』という幕府公式の系譜集には、尼崎初代藩主となって家光に仕えた幸成は、寛永二十年(1643年)2月16日59歳で亡くなるその時まで、老中だった事になっています。

しかも、死が間近に迫った頃には、家光はたいそう彼の事を心配して、周囲の者に容態を訪ねたり、見舞として使者を何度もよこしたりしたようですし、もちろん、その死後の領地は、息子の幸利がしっかりと継いでいます。

どちらが信用できるか?
と言えば、もちろん後者の『寛政重修家譜』のほうが、幕府の公式文書なので、信用度は断然高いわけですが・・・

とは言え、この『寛政重修家譜』・・・完成したのが、文化九年(1812年)って事ですから、幸成さんが亡くなってから150年以上経ってる事になるので・・・

しかも、気になるのは、この幸成さんには7歳年上の忠俊(ただとし)さんというお兄さんがいるのですが、実は、この方にも同じような話があります。

この方も、初代家康から秀忠・家光と3代に仕える人なのですが、父・忠成の死を受けて常陸国江戸崎藩の第2代当主となった後、家光の(もり)となった彼は、たびたび家光をいさめていたため、元和九年(1623年)に老中を免職されて上総国大多喜藩・2万石に減転封されますが、その2万石を幕府に突き返し、長男の宗俊(むねとし)ともども蟄居の身となったと言うのです。

さらに、その後の再出仕の要請を断り続け、蟄居の身のまま寛永二十年(1643年)4月15日・・・つまり、幸成さんの2ヶ月後に亡くなったとされます(4月15日参照>>)

まぁ、息子さんのほうは、寛永十一年(1634年)に家光からの許しが出て再び出仕していますが・・・

これはいったい???

『駿江雑説弁』が人を取り違えたのか?
『寛政重修家譜』の記録が違うのか?

実は、この忠俊・幸成兄弟が一番活躍した時代は、ちょうど秀忠から家光へとバトンタッチされる頃・・・この頃の幕府は、引退しても大御所として君臨する秀忠を中心としたその家臣たちの旧グループと、新生・家光を中心とする新グループとが、何やらきな臭い雰囲気を醸し出していた頃・・・

表立った大きな衝突こそ無いものの、その中をうまく泳いだ者と、泳げなかった者とがいたわけで・・・そこには、将軍のご機嫌をそこねたのそこねないのにかこつけた追い落としがあったのかも・・・

幸成の話も忠俊の話も、そんな中でのドタバタと言えるかも知れない出来事ですが、後に、呼び戻された宗俊は、家光から、
「お前のオヤジさんがやったように教育したってくれ」
と言って、世継ぎとなるべき男子=家綱の教育係を頼まれたようなので、時とともに、そのゴタゴタは丸く納まった?という事でしょうか。
 .

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2012年2月15日 (水)

釈迦の入滅~涅槃会と涅槃図の見どころ

 

紀元前383年?の旧暦2月15日、仏教の開祖である釈迦が入滅しました。

・・・・・・・・・

今から2500年ほど前、ご存じ、仏教の開祖釈迦(しゃか)が、最後の教えを残して80歳の生涯を閉じました。

日本では、その日を旧暦の2月15日とし、釈迦の教えや徳に感謝する『涅槃会(ねはんえ)という法会が、各お寺で行われます。

旧暦の2月15日という事なので、月遅れの3月15日に、この行事を行う寺院も多いです。

涅槃とは、煩悩(ぼんのう)煩悩の数え方は除夜の鐘のページで>>)すべて取り払った悟りの境地の事を言いますが、ご存じのように、お釈迦様が亡くなる時は、その悟りの境地に達していたわけですから、この涅槃会の場合の涅槃は、「お釈迦様が亡くなった」という意味で使われます。

この日は、各寺内に、お釈迦様が亡くなった時の姿を描いた『涅槃図』を掲げて、僧が、お釈迦様の最後の説法を記したとされる『遺教経(ゆいきょうぎょう)を読み、参拝者が礼拝します。

頭を北に、西に向いて横たわるお釈迦様の姿を描いた涅槃図は、究極の悟りの世界を表していると言われ、この時のみ公開される涅槃図を拝みに、多くの善男善女が集まるのです。

日本での記録としては、天平勝宝(749年)頃から始まっていた奈良興福寺の記録が最古の物で、貞観二年(860年)には、尾張(愛知県西部)出身の僧・寿広が、舞楽などを交えて盛大に行った事から、「涅槃会と言えば興福寺」と言われるほど有名になりますが、その人気とともに、行事そのものも全国各地に広まっていったのだとか・・・

ちなみに、元祖の興福寺の涅槃会は、毎年2月15日10時から、本坊の北客殿で行われ、誰でも参拝できるうえ、甘酒の接待もしてもらえます(゚ー゚)
(興福寺への行き方は本家HP・奈良歴史散歩「東大寺・春日野めぐり」へ>>

あと、さすがに、今日の2月15日のには、間に合いませんが、冒頭に書かせていただいた通り、3月15日に行われる所もありますので、本家HPの「京阪奈・歳時記」でチェック>>

・‥…━━━☆

では、京都・東福寺の涅槃図を例に、「涅槃図の見どころ」をご紹介しましょう!
ちなみに、この東福寺の涅槃会は毎年3月14日~16日です。

Nehant1a750c (←画像はクリックすると大きくなります)

まずは上部にある
沙羅双樹(さらそうじゅ)の木
この沙羅双樹の「双樹」というのは、お釈迦様が亡くなった時に、その四方に沙羅の木が2本ずつ計8本あったという意味で、沙羅双樹という木ではないわけですが、その花が、お釈迦様が亡くなると同時に、季節外れの花を咲かせたり、すぐに散っては、その花びらでお釈迦様の遺体を覆ったと言われています。
青の点線で囲んだ部分が枯れているのに、まだ青々としている木もあります。

●お釈迦様
中央の宝台の上に、頭を北にして横たわるお釈迦様が描かれていますが、これが、「北枕」の由来とされ、右脇を下にしているのは、西方浄土に向かうという意味だとされています。

●薬袋(やくたい)
これは、お釈迦様の母・摩耶夫人(まーやぶにん)が、病気の我が子のために天から投げたとされる薬の入った袋・・・しかし、残念ながら、沙羅双樹の木に引っ掛かってお釈迦様のもとには届きません。
これは、例えお釈迦様であろうと誰であろうと、死ぬ事は免れないという事を意味していると言われます。
現在でも、薬を与える事を「投薬」と言うのは、ここから来ているそうです。

●動物
お釈迦様の周囲に描かれた弟子や、見守る人たちとともに、図の下の方には十二支をはじめとする様々な動物たちが描かれます。
これは、もちろん「動物たちも、お釈迦様の死を悲しんでいる」という意味で、人だけでなく、生きとし生ける物すべてに慈悲の心を持ったお釈迦様の徳を表しています。
ちなみに、東福寺の物は50種類以上の動物が描かれているのだとか・・・ただし、鼠がお釈迦様の使いとされている事から、猫が描かれた涅槃図は非常に少ないらしいです。

.

・・・と、ご紹介しましたが、もちろん、涅槃図そのものは、それぞれのお寺によって大きさも画風も違います。

ただ、上記のようなポイントは同じですので、もし、ご覧になる機会がありましたら、参考になさってみてください。

ところで・・・
涅槃会では、正月飾りに使った鏡餅に砂糖や醤油をかけて炒ったあられが授与される事があります。

これを『花供御』または『花御供』と書いて「はなくそ」と呼ぶことから、関西では、『お釈迦さんの鼻糞』なんて言われたりしますが、「これを食べると1年間無病息災でいられる」という、ありがた~いシロモノですので、大事に食べてくださいね。

では、本日は、お釈迦様に思いを馳せながら・・・ちょっぴり静かに過ごしましょう。
 .

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2012年2月14日 (火)

平清盛の寵愛を受けた祇王と仏御前

2月14日『祇王忌』・・・

『平家物語』に登場する、平清盛に愛された白拍子・祇王(ぎおう)の亡くなった日とされます。

ただ、現在、京都・嵯峨野祇王寺にある碑には『承安二年壬辰八月十五日寂』とあり、「亡くなったのは8月15日」というお話もあります。

また、もともと軍記物で戦いの話が中心であった初期の『平家物語』には、この祇王のくだりは無く、後からつけ加えられた物であるため、時系列で並べると、少々の矛盾がある事も確か・・・

しかし、例え、後からつけ足された話であったとしても、戦いの合い間にに可憐に咲くその花は、軍記物の緊張を緩和する美しい話として、現在でもなお史実として語られます

Dscn6905a800 祇王寺(京都・嵯峨野)

まさに平家全盛の時代・・・
京の都には、評判の白拍(宴席の相手をする遊女)白拍子については3月1日参照>>)がいました。

姉を祇王(ぎおう)、妹を祇女(ぎにょ)と言い、姿は美しく、謡(うたい)はうまく、舞も見事・・・

特に、姉の祇王を寵愛した平清盛は、彼女と妹を邸宅に迎え入れて優遇し、母の刀自(とじ)には屋敷を与えて仕送りを絶やさなかった事から、彼女らは、とても裕福な身分となっていて、都では、それにあやかろうと「祇」の文字を使った名前に改名する人も後を絶たなかったくらいだったとか・・・

しかし、そんな日々も3年ほど経った頃・・・その時は、突然訪れます。

清盛の邸宅に、(ほとけ)と名乗る16歳の白拍子がやって来ます。

彼女は加賀の出身で、舞いの名手として近頃評判の白拍子でしたが、いくら都で人気者になっても、いっこうに清盛からのお呼びがかからない事に不満を持って、自ら売り込みに押しかけて来たのです。

その話を聞いた清盛・・・
「アホか!
白拍子なんて者は、客から指名されて宴席にやって来るもの・・・
呼んでもおれへんのに、自分から来るなんか聞いた事ないわ!
追い返せ!」

と、けんもほろろ・・・

しかし、そばにいた祇王が、それをなだめます。

「いえいえ、遊女の売り込みなんて、よぅ、ある事どす。
ウチも、売れへん時代は、自分から殿方のところへ参上したもんどす。
聞いたら、年端もいかぬ若い白拍子・・・きっと何か、事情がありますのやろ。
会うだけでも、会うてあげておくれやす」

と・・・

大好きな祇王が、そう言うなら・・・と、清盛は、もはや帰り支度をしていた仏御前を引きとめて、部屋に招き入れました。

仏御前が、平伏して待つ、その部屋に祇王とともに入って来た清盛は、すかさず、
「この祇王が、“会うたれ”て言うから会う事にしたけど、会う限りは、そんで終わりってワケにもいかんさかい、何か、1曲、うとてくれるか?」

「承知しました」
と、仏御前は
♪君をはじめて見るおりは
 千代も経ぬべし姫小松
 御前の池なる亀岡に
 鶴こそ群れいてあそぶめれ~ ♪
(あなたに初めて会うた時、前の池の亀山に鶴が遊んでる光景が見えるようで…私みたいな小者は、それ見ただけで千年は長生きできますわ)

と、即興の今様を歌いますが、これがかなりGOOD

さすがは、今評判の若手だけあります。

そうなると、歌だけでなく、舞を見てみたくなるのも人の常・・・早速、鼓打ちを呼び寄せ、彼女に舞いを所望します。

・・・と、これが、また見事!!!

舞い終えた仏御前が、
「おおきに~ ほな、これで退散させていただきます」
と言うと、

「アカン!アカン!帰ったらアカンでぇ。そのままいとき」
「いや・・・でも・・・」
「なんや、祇王が横におるから遠慮してんのか?
それやったら、祇王が帰ったらええねん。」

「えぇ~~!!(゚ロ゚屮)屮」
これには、祇王はもちろん、仏御前のビックリです。

なんせ、仏御前も、ちょっと腕に覚えのある若手らしく、今、都一と評判の祇王を寵愛する日本一の実力者=清盛が、自分の舞を見たら、どんな反応をするのか?

あるいは、そこで「ウマイ!」とお褒めの言葉の一つも貰えれば、今後の仕事にもハクがつく・・・なんて事を思って、言わば、腕だめしのような気持ちで押しかけて来てみただけで、何も、祇王の立ち位置に取って代わろうと思ってたわけではないのです。

慌てて
「いえいえ、そんな事してもろたら、祇王姉さんのお心遣いに対して申し訳が立ちまへん。
ここは一つ、ウチの事を覚えておいていただけたら・・・ほんで、また、何かのおりに呼んでもろたら来ますよって、今日のところは退散したします」

と言いますが、

「アカン!許さへん!
祇王、暇を出すから、お前が退出せぇ」

ここまでのやりとりを、ただ伏し目がちに、ひと言も言葉を漏らす事なく聞いていた祇王は、それでも何も言わず、ただ、す~っと部屋を出ていきました。

自室に戻り、とにかく、いつでも部屋を出て行けるように、下女とともにかたずけを始める祇王でしたが、さすがに、この時になると、自然と涙が出てきます。

♪萌えいづる 枯るるも同じ 野辺の草
  いずれか秋に あはで果つべき  ♪
「春に芽がふくように愛され、秋に枯れるのが野原の草・・・秋に果実を実らせるような永遠の愛を、私のような遊女が求めてもムリなのよねぇ」

遊女と客の関係なんて、いつかは切れる物・・・これは、仏御前が悪いわけではない
と心に思ってはみるものの、やはり、その時となると悲しい物です。

やがて、祇王は清盛のもとを出て、母のいる邸宅へ・・・母も妹も驚いて、その理由を聞きますが、祇王は、話そうとしません。

しかし、祇王が清盛の邸宅から出された噂は、またたく間に都に広がり、それを止めようもないのも事実・・・

やがて、しばらくして
「仏御前が、寂しがってるから、ちょっと来て、なぐさめてやったてぇや」
と、清盛からの神経を疑うような連絡・・・

先行きを不安がる母の為に・・・と、招きに応じる祇王でしたが、案の定、その招きはミジメな物でした。

これまで自分が座っていた清盛の近くの席に仏御前が座り、祇王は末席・・・気をつかった仏御前が、「もっと前の方へ・・・」とうながしますが、清盛はそれを許さず・・・

仏も昔は凡夫なり 我らもつひには仏なり
  何れも仏性具せる身を 隔つるのみこそ悲しけれ♪
「仏御前も私も、同じなのに、なぜ、私だけがこのような身の上に…」

と、1曲歌いますが、もはや、最後は涙声に・・・

周囲も、思わずもらい泣き・・・さすがに、この空気にバツが悪そうな清盛は、
「お前の舞も見てみたいとこやけど、今日は時間が無いさかい。
まぁ、また、来たい時にここに来て、仏御前をなぐさめたってくれたらえぇがな」

とだけ言って、さっさと退散・・・

自宅に戻った祇王は、もはやこらえきれなくなり
「死にたい・・・」
と、泣き崩れます。

その様子を見た祇女は
「お姉ちゃんが、そないするなら、ウチも・・・」
と死を覚悟・・・

母は
「そんなん、アンタら二人がどないかなってしもたら、ウチはどうしたらええん?」
とうろたえつつも、
「この老いた母のためにも、生きておくれ」
という必死の懇願に、二人の娘は
「死ぬ事が親不孝となるのなら、世を捨て、仏門に入りましょう」
と、髪をおろし、嵯峨の山寺にて、尼として暮らす事になりました。

時に祇王=21歳、祇女=19歳、母は45歳でした。

こうして、嵯峨の粗末な庵で、念仏三昧の日々を送っていた彼女たち・・・そんなある年の秋、日頃は人も訪ねて来ないこの場所に誰かが・・・

不思議に思いながら対応すると、そこには、すでに髪を下ろして尼の姿になった仏御前が・・・わずか17歳での出家でした。

あの時・・・祇王に取って代った自分が清盛の横で末席の祇王に対応した時、おそらく、この先の自分に訪れるであろう風景と重ね合わせた仏御前は、実力者に寵愛されて裕福に暮らす事の空しさを感じ、自ら髪を下ろして、祇王のもとを訪ねて来たのでした。

「もし、一緒にいる事が、お嫌でしたら、ウチは別のお寺に行きますよって」
と、祇王への気遣いを見せる仏御前に、
「そんな事、思うわけないやん!
お互い、大きな流れに呑みこまれただけ・・・
さぁ、一緒に仏様にお仕えして、その後は、ともに極楽浄土へ行きましょ」

それから、仲良く暮らした4人は、早い遅いの差はあれど、皆、本望を遂げ、静かにこの世を去っていったという事です。

・‥…━━━☆

と、『平家物語』に沿ってご紹介しましたが、このままだと、
「清盛=女の敵!」
「遊ぶんやったら、もっと上手に遊べ!」

と、非難轟々の清盛さんの態度ですが、冒頭に書かせていただいた通り、もとは無かった話なので、おおまかな人間関係は事実だとしても、細かなセリフ回しは、おそらく後世の創作・・・清盛を悪人にしたい『平家物語』ですからね。

Dscn6926a600 現在の嵯峨野祇王寺には、4人の女性のお墓とされる五輪塔と、その横には、清盛の供養塔とされる三重層塔が、静かに、ひっそりとたたずんでいます。
 .

*祇王寺への行きかたは本家HP:京都歴史散歩「紅葉の嵐山」でどうぞ>>
 .

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2012年2月13日 (月)

1万人を救った救世大士…宝蔵国師・鉄眼

 

天和二年(1682年)2月13日、江戸へと旅立った鉄眼が、再び大坂へと戻りました。

・・・・・・・・・・

鉄眼道光(てつげんどうこう)・・・彼は、江戸時代前期の僧です。

九州肥後(熊本県)に生まれた鉄眼は、やはり僧だった父の影響で、はじめは浄土真宗を学んでいましたが、僧本人の善し悪しではなく、寺格によって僧の上下が決まる当時のシステムに嫌気がさしていたところ、京都宇治にて黄檗宗(おうばくしゅう=禅宗の一派)の総本山である万福寺(萬福寺)を開山した隠元隆琦(いんげん りゅうき=中国からの渡来僧)という僧と出会った事から、禅宗へと転向します。

Dscn5965a800 黄檗山・萬福寺

そうして、若い頃は畿内を中心に各地・各寺を巡り、人を集めては般若心経(はんにゃしんぎょう)の教えを説いていた鉄眼・・・「彼の講義はわかりやすい」なかなかの評判で、彼の話聞きたさにやって来るファンも少なからずいたのですが、一つ難点と言えば、いつも最後のほうは、話が脱線してしまう所・・・

そう、実は、彼には、ある夢があって、結局、講義の最後は、いつも、その夢の話になってしまうのです。

まぁ、彼の講義が好きな人にとっては、それが、また、良い所なのかも知れませんが・・・

その夢とは、いつか
「大蔵経(だいそうぎょう=経典の総集編)」を刊行する事・・・

「この国は、古来より、仏教国と言われていて、現に寺院の伽藍や仏像など、本場中国にも劣らない立派な物がありますけど、悲しいかな、『大蔵経』という物が刊行された事は一度も無い!
これでは、ホンマモンの仏教国とは言えまへん!
僕は、いつかこの『大蔵経』を刊行してみたいと思てます」

と、熱く語って、講義を締めくくるのでした。

もちろん、聞き入る聴衆も、その熱意はわかるものの、ちょっとやそっとでは成し遂げられない大事業ですから、話半分・・・ハッタリの大風呂敷のような感じに受け取っていたのですが・・・

やがて鉄眼40歳となった寛文十年(1670年)、大坂(現在の大阪市浪速区元町)にあった小さな薬師堂を再興して瑞龍寺(ずいりゅうじ=後の通称:鉄眼寺)と名を改め、そこを拠点に黄檗宗の布教活動を続けます。

一方で、ちょうど、その頃、これまで、全国を行脚(あんぎゃ)修行して集めた資金がある程度貯まった事から、かの万福寺の近くに、師匠である木庵性瑫(もくあんしょうとう=中国からの渡来僧)から授かった7000巻近い経典を保管する貯蔵所=宝蔵院を設け、それらの印刷に取りかかろうと、印房(印刷所)を開きました。

そうです・・・とうとう、彼の夢が、実現に向かって走り出したのです。

ところが、いざ事業を始めようとした矢先、大坂(堀江一帯)を大洪水が襲います。

被害に苦しむ人々を目の当たりにした鉄眼・・・なんと、これまで集めた資金のすべてを、その救済に投げ出したのです。

そして、再びゼロからのスタート・・・また、全国行脚で資金を集めて回ります。

しかし、これも・・・
納得いく額が集まった頃に起きた摂津・河内・和泉(大阪府)一帯の飢饉・・・飢えに苦しむ人々を救うため、これも難民救済の資金にあてられたのです。

結局、またまた全国行脚の旅に出る鉄眼・・・

その後、ようやく資金が集まり、3度目の正直とばかりに事業にとりかかり、天和元年(1681年)、やっと事業は完成したのです。

鉄眼は、すでに51歳という年齢になっていました。

1618部7334巻からなる、この大蔵経は「黄檗版」あるいは「鉄眼版」と呼ばれ、日本仏教史上に残る一大事業でありました。

翌年、この大蔵経を幕府に献上するため、江戸へと旅立った鉄眼・・・しかし、その旅の途中で、畿内に大飢饉が発生しているとの噂を耳にします。

「餓死者が急増し、道にバタバタと人が倒れている」

そんな話を聞いて、いても立ってもいられなくなった鉄眼は、すぐさま東海道を引き返し、一路、大坂へ・・・

かくして天和二年(1682年)2月13日大坂に舞い戻った鉄眼が見た物は、噂に聞いた通りの悲惨な光景・・・

鉄眼は、すぐさま、手配した米を人々に配ると同時に、彼自身も粥を作って、目の前の餓死寸前の人々を救おうと働きます。

その姿を見た人は、口々に、
「救世大士(ぐぜだいし)
と、彼の事を呼び、崇めたと言います。

なんと、この時に鉄眼が、餓死がら救った人の数は1万人を越えたのだとか・・・

ところが、彼自身は、この救済活動のさ中に、疫病に感染し、翌月の3月22日(20日とも)この世を去ってしまったのです。

後に、彼には、朝廷から「宝蔵国師」の諡(おくりな)がおくられたとの事・・・

何度も足踏みしながらもあきらめず、夢を叶えた鉄眼・・・しかし、完成した夢を幕府に披露するという、最も「ええかっこ」できる舞台を踏めなかった・・・

いや、踏まなかった・・・

もし、あの時、大坂に戻らなければ、将軍の前で「ええかっこ」できたかも知れません。

しかし、そんな華やかな舞台を蹴って、現場に戻る事こそが、最も鉄眼らしい生き方・・・そんな生き方に人は感動し、尊敬するのだと思います。

鉄眼の残した大蔵経の版木は、今も、万福寺の塔頭・宝蔵院に保管されていて、重要文化財に指定されています。
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2012年2月12日 (日)

ブログ開設:6周年を迎えました!

 

おかげ様で、本日=2012年2月12日に、このブログは、開設:6周年を迎えました。

Chacah145 山あり谷ありの6年間ではありましたが、いつも見に来てくださる皆さまに励まされながら続けるうち、先日は、累計:500万アクセスという、大きな節目を迎える事もできました。

なにぶん、趣味の範囲の歴史好きでありますので、誤字脱字・勘違い・勉強不足などなど・・・様々な気になる点もございましょうが、これを機会に、また新たな気持ちで踏ん張って参りたいと思いますので、今後ともよろしくお願いします。

ところで、最近、とみに思いますのは、このブログを見に来てくださってる閲覧者の皆さまのすばらしさです。

なぜに、それを痛感したかと申しますと、右サイバーにつけさせていただいてる【i2i Web拍手】というブログパーツです。

このブログパーツは、右サイドバーにつけておりますため、携帯で閲覧してくださってる皆様はご覧になれない物なのですが、いつも、記事の最後に、「よかったと思っていただきましたら拍手を…」というコメントを書かせていただいている「アレ」で、つまりは、その記事に対する評価=人気の度合いなわけですが、

(自分で言うのもなんですが)そのランキングが見事なのです。

もちろん、すべての記事を自分で書いていますので、私としては、全ページに思い入れがあるわけですが、その中でも、「コレ、なかなか良いんじゃないの?」「この人の生き方好きだなぁ」と、私自身が思うようなページが見事にランキングされています。

これも、やはり、いつも見に来てくださってる皆様が、いかにちゃんと記事を読んで、その内容について考えてくださっているかの証拠・・・このようなすばらしい閲覧者の皆さまに恵まれている事を、今更ながらではありますが、深く感謝したいと思います。

・・・で、今回は、ごく最近、このブログにお越し下さるようになった方々、そして、いつも携帯でご覧になっている皆様に向けて、その【i2i Web拍手】のランキングの上位にあるページへのリンクを、この本文に貼らせていただきたいと思います。

中には古いページもありますが、ぜひ、この機会に、もう一度、読み直していただければ幸いです。
(あらためて誤字脱字に気づかれましたら、お知らせください)

なお、ブログのトップページと、【i2i Web拍手】の説明のページについては、純粋な個々のページへの拍手数とは言い難い物ですので、順位からは省かせていただいてます。

  1. 千利休・切腹の謎~利休の握っていた秘密とは?>>
  2. 土佐勤皇党・武市半平太~切腹す>>
  3. 信長と秀吉を魅了した戦国一のイイ人・蒲生氏郷>>
  4. 「生き方が男前」…幕末から昭和を駆けた新島八重>>
  5. 戦国リボンの騎士~女城主・井伊直虎>>
  6. 悲劇の名奉行・小栗忠順の汚名を晴らしたい!>>
  7. 間山、天明の大噴火~鎌原村の秘話>>
  8. 関ヶ原・秘話~ともに命を賭けた戦場の約束>>
  9. 秀吉はなぜ家康を朝鮮に行かせなかったのか?>>
  10. 内に秘めたる烈女魂~勝頼の妻・北条夫人桂林院>>
  11. 賄賂政治家・田沼意次の汚名を晴らしたい!>>
  12. 大奥スキャンダル絵島の真相>>
  13. 史上最強!崇徳天皇・怨霊伝説>>

以上、特に携帯でブログをご覧になっていただいている皆様に、この【i2i Web拍手】のランキングの情報をお知らせしたくて書かせていただきました。
(PCなら、改めて書かなくても、いつでも見れますので…)

今後とも、末永く「今日は何の日?徒然日記」を、ご愛読くださいますよう、よろしくお願いしますm(_ _)m
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2012年2月11日 (土)

「大日本帝国憲法」誕生のお話

 

明治二十二年(1889年)2月11日、大日本帝国憲法が発布されました。

・・・・・・・・・・

ご存じ、今日は『建国記念の日』・・・

その由来は、初代天皇である神武天皇が、九州から畿内へ上陸し、奈良の畝傍山白檮原宮(かしはらのみや)を建ててイスケヨリヒメと結婚して即位した皇紀元年1月1日が、太陽暦に換算すると紀元前660年2月11日となる事から・・・というお話は、以前書かせていただきました(2007年2月11日参照>>)

同時に、そのページに、今日は『万歳三唱の日』という記念日でもある事を書かせていただきましたが、それは、戦前は『紀元節』と呼ばれていたこの日に合わせて、明治二十二年(1889年)2月11日に行われた式典に向かわれる明治天皇の前で、初めて万歳三唱が行われた日である事から・・・

・・・で、その式典というのが憲法発布記念式・・・そう、今日2月11日は『大日本帝国憲法『が発布された日でもあるのです。

・‥…━━━☆

明治維新を迎えて、近代国家へと走り出した日本・・・

自由民権家は、憲法を制定して、それに基づく議会政治行う事を政府に求めて憲法案などを作り、マスコミを通じて公表して、その実現をあおります。

もちろん、彼らだけではなく、福沢諭吉植木枝盛(えもり)など、色々な人が、私的な憲法案(私擬憲法=しぎけんぽう)を作成したりしていましたが、それは、イザという時は革命もいとわないフランス流の物から、立憲君主制を主張するイギリス風の物など様々・・・

もちろん、それを受けて政府内でも憲法制定が叫ばれるようになり、草案を作成したりもするのですが、なんせ、政府内には、ガッチガチの保守派もおり、天皇親政を主張する宮中勢力もありますから・・・

Itohirobumi600 そんな中で、伊藤博文は、自分と同じ憲法構想を持っていた大隈重信が、ちょっとした行き違いで失脚した明治十四年の政変(10月11日参照>>)の翌年、憲法制定のための調査として、1年以上に渡ってヨーロッパの各地を訪問します。

各国の様々な資料を読みあさるかたわら、高名な学者を訪問したり、敏腕政治家と会談したり・・・と精力的に見聞する中、皇帝の権限を活かしているドイツの憲法を教えてもらい、それをモデルにして、日本の憲法を作成する決意を固めました。

帰国後は、明治十九年(1886年)から、憲法作成のため、井上毅(こわし)伊東巳代治(みよじ)金子堅太郎らとともに金沢(神奈川県横浜市)東屋旅館に泊まり込んで草案の作成に取り掛かりました。

さらに、ドイツ人顧問のロエスレルにも来てもらって、彼の意見も取り入れながら・・・

まずは3つの草案を完成させ、それをたたき台にして、それこそ、寝る間も惜しみ、現在のお互いの立場を抜きにしてのホンネの話し合い・・・「あーだ」「こーだ」の意見を戦わせ、時には、お互いを罵倒しながら、中身を詰めていきます。

ところが、ある日、たまたまその時、別の部屋に置いていた作りかけの草案が入ったカバンを取りに行くと、そこに置いてあったはずのカバンがありません。

「えぇっ?」と思い、
部屋の中を隅々まで探しますが、やっぱりありません。

そう、実は、昨夜、旅館にドロボーが入り、憲法草案が入ったカバンをまるまる盗まれてしまったのです。

一同驚愕!!!
もし、それを、
自由民権派にでも見られでもしたらΣ(゚д゚;)

落ち込む彼らのもとに、「カバンが見つかった!」との知らせ・・・なんと、そのカバンは近くの畑に、無造作に捨ててあったと・・・

慌てて中身を確認すると、中にあった金品は盗まれているものの、草案はまるまる無事・・・

そう、そのドロボーは、政治的に敵対する誰かとかではなく、金目当てのホンモノ・・・正真正銘のドロボーだったおかげで、金目になる物だけを取って、ワケのわからん紙切れは、そのままにしておいてくれたんですね~

ホッと胸をなでおろす4人でしたが、さすがに、「ここでは危険だ」とわかって、その後は伊東の別荘で話し合われ、ついに完成・・・

そして、完成した物を枢密院(すうみついん=審議機関)に持ちこんで、明治天皇を交えて、さらに審議・・・

かくして明治二十二年(1889年)2月11日、発布されたそれが『大日本帝国憲法』です。

発布されるこの日まで、国民にいっさい知らされなかった事から、この憲法が伊東の独裁と言わる事もありますが、幕末から明治の変化のスピードを考えてもみてください。

確かに、話し合いや協議は重要ですが、猛スピードで事を運ばねばならない明治維新のような時代・・・時には独裁と言われるほどの統率力とリーダーシップを持った指導者でなければ、事が進んでいかないという事もあるように思います。

こうして、日本は、東洋で初めて近代的な憲法を持つ国家となったのです。

・・・と、本日は『大日本帝国憲法』の誕生の話に終始してしまいましたが、その中身については、また、いずれかの「その日」に書かせていただきたいと思います。

*その他、伊藤博文関連のお話は…
  ●一世一代…伊藤博文の日の丸演説
  
  ●内閣総理大臣・伊藤博文くんを評価したい
  
  ●伊藤博文・暗殺~真犯人は別にいる?
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2012年2月10日 (金)

時子・滋子・徳子~女性の助力で清盛・頂点へ…

 

承安二年(1172年)2月10日、平清盛の娘・徳子高倉天皇の中宮となりました。

・・・・・・・・・

今年の大河ドラマの主役・平清盛・・・

以前、このブログでも、その清盛と、あの織田信長が似てるんじゃないの?てな事を書かせていただきましたが(2009年2月11日参照>>)、誰しも思うところは同じなのか、今年の大河ドラマの造り手の皆さまも、何やら、そのキャラ設定が、若き日の信長と、よく似た描き方をしていらっしゃるような・・・

もちろん、一視聴者として、何となくそう感じるというだけで、たまたまなのかも知れませんが、奇抜な衣装で町中をかっ歩するところとか、父親への反発心をつのらせるところとか、元服などの儀式的な場を拒んで暴れるとか、周囲が「後継ぎはこっちの方がイイんじゃないの?」と思うようなしっかりした弟がいるとか・・・

まぁ、ドラマでは、周囲がどんなに反対しようが、父の忠盛の清盛可愛さは揺るぐ事なく・・・と言った感じですが、実際の忠盛さんは、どちらかと言うと、清盛よりも弟の家盛の方が可愛かったのでは?なんて言われてますね。

それは、忠盛の地位が上がると、それに比例して家盛の地位も上がる・・・つまり、自分が出世すると同時に、家盛を朝廷に推挙してたんじゃないか?って事らしいです。

まぁ、現在、正室となっている女性の生んだ子供を引き立てるというのは、当時としては当然だったのかも知れませんが・・・

ただ、以前も書かせていただいたように、その家盛は、忠盛が亡くなる前にこの世を去ってしまいますので(1月15日参照>>)、祇園の乱闘事件でドタバタだった清盛も、家盛の死後はバトンタッチするように朝廷内の地位を高めていき、忠盛が亡くなる頃には、後継ぎには不足なし・・・って感じでしょうか?

ちょっと話がそれたので、戻しますが・・・
清盛と信長・・・似ているようで、決定的に違うのは、朝廷との接し方でしょうか?

確かに、以前から何かと書かせていただいているように、信長は、一般的に言われるほど、実際には天皇や朝廷と関係が悪くは無かったと私は感じております。

せっせと御殿の修復などやってあげてましたし、例の「蘭奢待(らんじゃたい)の一件」(3月28日参照>>)も、あの「御馬揃え」(2月28日参照>>)・・・

とは言え、やはり一定の距離を保っていた気がするのですが、清盛の場合は、その距離が断然短いように思います。

それには、清盛の生きた時代という物もあるでしょう。

清盛の生きた平安末期は、荘園制も全国に行きわたり、中央集権もある程度機能していますから、領地の所有権は朝廷に認められて初めて正式な物となるわけですし、農民から身を起こした地方武士団も、地方に行くのがイヤだからと都に留まる領主からその管理を任されているだけで、その領主を無視して勝手に領地を増やしたりすれば、即、朝廷への反逆者となるわけで・・・

いくら政治的才能があったとしても、ある程度の地位がないと、その腕を奮う事はできないのが現状・・・

清盛も戦国時代に生まれていたら、その武力と富で領地を増やしていったかも知れませんが、やはり、平安末期では不可能でしょうね。

・・・で、清盛は、朝廷内での地位を縁故で拡大して行く事になります。

ちょうど、同じような思いを持つ、平時子(たいらのときこ)と再婚した事も、清盛にとって幸いだったかも知れません。

・・・というより、それも計算だったのかも知れませんが・・・

清盛の最初の奥さんは高階基章(たかしなのもとあき)の娘で、そのお名前もわかりません。

この基章さんという人自身が、娘が清盛と結婚したおかげで少々の出世をしますが、それでも正六位止まりである事を踏まえれば、あまり身分の高いお人ではないようで、その娘さんは、清盛との間に長男・重盛と次男・基盛をもうけますが、もし、子供を産んでいなかったら記録に残ったかどうかさえ危うい雰囲気です。

結局は、清盛が時子と再婚する前には、すでに亡くなっていたという事ですが、そこのところもよくわからない状況です。

一方の時子は、平時信(たいらの ときのぶ)の娘で、同じ桓武平氏ではありますが、清盛の伊勢平氏とは流れが違い、武家ではなく、公家として朝廷内に留まっている堂上平氏と呼ばれる一門でした。

つまり、清盛は、時子と結婚する事で、朝廷との距離も、さらに縮まったという事ですね。

もちろん、そうなると、摂関家だけでなく天皇家とのつながりをも求めるようになるわけで・・・

で、美人だと評判の時子の妹・平滋子(しげこ)後白河法皇に送り込み(7月8日参照>>) 、時子自身も、後白河法皇の息子・二条天皇乳母となり・・・

しかし、その滋子が後白河法皇との間に息子をもうけたあたりから、チョイと先例の無い事が起き始めます。

実は、二条天皇が病気になった時、皇太子である息子に皇位を譲り、その子が第79代六条天皇となりますが、なんと、この六条天皇は、わずか生後9ケ月・・・その即位式では途中でグズり出し、乳母がオッパイを与える事によって、やっと落ち着いたなんで場面も・・・

しかも、この六条天皇の即位を受けて皇太子となったのは、後白河法皇と滋子の間に生まれた憲仁(のりひと)親王・・・なんと、天皇3歳(かぞえ年なので)で皇太子が6歳という何ともアンバランスな感じに・・・

しかも、その後に二条天皇が亡くなると、その3年後には六条天皇が退位して、皇太子である憲仁親王が第80代高倉天皇として即位・・・5歳の天皇から8歳の天皇へのバトンタッチと、何とも奇妙なリレーとなります。

もちろん、こうなると滋子は天皇の生母・・・その実家の力が、さらに大きくなるのは当然と言えば当然です。

Tairanotokuko そして、いよいよ承安元年(1171年)、滋子の働きかけによって後白河法皇の猶子(ゆうし・契約関係上の養子)となった清盛の娘・徳子高倉天皇に入内・・・

「猶子となって」というのは、本来、清盛の娘が天皇に入内できるような身分ではないからで、そこには、かなりの強引さが垣間見えます。

とは言え、これは、清盛だけが強引だったわけではなく、後白河法皇自身にも思惑があり、両者の利害関係が一致したから・・・

かくして、その2年後の承安二年(1172年)2月10日徳子は中宮となります。

徳子:16歳、高倉天皇は5歳下の11歳でした。

そして、その6年後の治承二年(1178年)には、徳子が待望の男の子を出産・・・さらに2年後の治承四年(1180年)、その男の子は第81代安徳天皇として即位し、清盛は念願の外戚(母方の祖父)をゲット!・・・あの藤原氏と同様の方法で(8月19日参照>>)頂点へと・・・

しかし、暗雲はすでに、すぐそばにまで・・・

治承元年(1177年)に、あの鹿ヶ谷事件(5月29日参照>>)が起こっている事でも察しがつくように、すでに、清盛と後白河法皇の蜜月関係は崩壊・・・

さらに安徳天皇即位の、わずか2カ月後には、あの以仁王(もちひとおう=後白河法皇の第3皇子)令旨(りょうじ=天皇家の人の命令書)が発せられます(4月9日参照>>)

時子・滋子・徳子と・・周囲の女性の助力によって、思う存分その手腕を発揮できる舞台へと上り、そこで頂点を極めた清盛でしたが、案外、その終焉は、駆け足でやって来る事になります。

*徳子さんのその後については、そのご命日の日に>>
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2012年2月 9日 (木)

旧第四師団司令部庁舎の特別公開に行ってきました!

 

先日、旧第四師団司令部庁舎の特別公開に行って参りました~

・・・・・・・・・

このブログでも何度か書かせていただいております通り、現在、復興天守閣を中心に大阪城公園として皆さんの憩いの場になっているあの場所は、古くは石山本願寺として織田信長と対抗(5月3日参照>>)、その後に豊臣秀吉難攻不落の城を造り(9月21日参照>>)、次に天下を取った徳川がまったく新しい城郭を構築し(1月23日参照>>)、やがて迎えた幕末・鳥羽伏見の戦いに敗れて(1月9日参照>>)明治新政府の物となった後は、陸軍所(後の陸軍省)が置かれ、近代日本の陸軍発祥の地となった場所です。

その後、陸軍省は東京に移転しますが、大阪城内には大阪鎮台が置かれ、その大阪鎮台が第四師団司令部と名を変え、昭和の時代には、周辺に様々な陸軍施設が建ち並び、東洋一の軍需工場となっていました。

そんな中で持ちあがった天守閣復興案・・・(11月7日参照>>)

それは、
大阪市民の悲願でもあり、
昭和天皇の即位御大典の記念事業でもあり、
当時の大阪が人口200万人を越える日本一の大都市になった勢いもありで、陸軍の移転費用と天守閣の復興費用のすべてを、大阪市民の寄付でまかなう事を条件に、それは実現される事になります。

つまり、この建物は、その時に、大阪城の天守閣とともに、昭和六年(1931年)建てられた第四師団司令部庁舎という事ですね。

もちろん、当時は天守閣が復興されたとは言え、公園として整備されたのは、現在の公園の敷地に比べればごく一部で、他にも多くの軍事施設が建っていましたが、現在に残るのは、以前ご紹介した大阪砲兵工廠化学分析場(6月7日参照>>) と、この第四師団司令部庁舎ぐらいです。

今となっては、この第四師団司令部庁舎が、大阪市内に残る最も大きな軍事施設の跡という事になってしまいました。

確かに、戦争はイカンですが、戦争の悲惨さを語り継ぐ施設としても、また、近代建築を保護するという意味でも、個人的には、この第四師団司令部庁舎を、この先も残していっていただきたいと願っています。

たとえば、同じく大阪城内にあった旧砲兵工廠本館などは、悪しき戦争の遺物として昭和五十六年(1981年)5月取り壊され、その跡地には、現在、大阪城ホールが建っていますが、実は、その本館は、有名建築家のデザインによる重要文化財クラスの近代建築だったわけで・・・
「もう、それが見られない」と思うと、やはり、ちょっと寂しい気がします。

まぁ、今のところ、この第四師団司令部庁舎は残す方向となってるようなので、安心なのですが・・・

アッ、言い忘れてましたが、第四師団司令部庁舎は、戦後、約3年間進駐軍に接収された後、解除後は大阪市警視庁大阪府警となっていましたが、やがて市立博物館として使用された後、その博物館の品々が大阪歴史博物館に移された事で、現在は閉鎖となっています。

では建物を見てみましょう。

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旧第四師団司令部庁舎・外観

全長約95mの鉄筋コンクリート、地下1階・地上3階の建物は、塔屋を配したシンメトリー=左右対称で、西洋の城郭をイメージした造りになっています。

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大階段

玄関を入った中央にはこれまた左右対称の大階段があり、南北(入った正面から見ると左右)一直線中央に廊下が走り、その廊下に沿って各部屋が並びます。

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中央廊下
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貴賓室

玄関のちょうど上に当たる位置の2階にあるのが貴賓室・・・最も豪華で格式のある部屋で、西側(建物正面側)には3つの窓が設けられ、真ん中を除く左右2つの窓は扉となっていて、玄関上のバルコニーに出られるようになっています。

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貴賓室前のバルコニーです

この建物が現役の頃は、このバルコニーに立てるのは天皇皇后・両陛下だけだったとか・・・しばし、ウットリ(゚ー゚)

屋上に登れば、天守閣を間近に見ながらの360°の視界で、大阪市内を一望できます。

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旧第四師団司令部庁舎・屋上

屋上にペントハウスのように建ってる塔屋の上には、今も、迎撃用の銃器を置く銃座があるそうですが、残念ながら、中の階段がグズグズの為、立ち入り禁止となっていて見られませんでした。

今回は、特別公開という事で、チョコッとだけ中に入らせていただきましたが、中に入らずとも、スクラッチタイルが貼られた豪華な外観はなかなか見ごたえありなので、大阪城におこしになられた時は、ぜひ、天守閣だけでなく、この旧第四師団司令部庁舎の建物のそばに行って、当時の技術の粋を集めた建築を堪能してみてください。

また、最近の報道によれば、新しい市長さんは、何やら、府庁の建物とコラボして・・・なんて構想があるようなので、今後は、一大観光地として生まれ変わるかも・・・

楽しみですね。
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2012年2月 8日 (水)

農耕のはじまり~『御事始め』から連想

 

今日・2月8日は、『御事始め』という節目の日なのだそうです。

・・・・・・・・・

以前、今日、2月8日針供養を行う日である事を書かせていただきましたが(2008年2月8日参照>>)、そのページにある通り、針供養は、この2月8日と12月8日の年・2回・・・

東の地方では2月が多く、西の地方では12月が多いと・・・
実は、この『御事(おこと)始め』というのも、今日・2月8日と12月8日の2回なのです。

と言っても、こちらは少し複雑・・・

2月8日が『御事始め』の時は、12月8日が『御事納め』
逆に
12月8日が『御事始め』の時は、2月8日が『御事納め』

地方によって、両方やったり、片方しかやらなかったり、どっちも無かったりと、様々なようですが、実は、前者が農業を基準にした物で、後者がお正月を基準にした物・・・

農業を基準にした物では、この2月8日に1年の農作業を始める日とされ、12月8日が一連の農作業を締めくくる日なのです。

逆に、お正月を基準にした物では、12月8日に、すす払いなどして1年のホコリを落とすと同時に、ぼちぼちお正月の準備をしはじめ、その後、お正月を過ごしたら、今度は2月8日に年神様の神棚を取り外して、一連の正月行事を終える・・・と、

なるほど・・・こうして、両方並べて見るとわかりますが、
1年のうちの2ヶ月チョイの間だけ、正月気分でお休みし、あとは、仕事に勤しむ・・・という事ですね。

まぁ、昔は、12月後半から2月の初めなんて極寒の季節に、農作業なんてできるわけがありませんから、その間に大掃除をしたり、正月行事を行ったりという事だったのでしょうね。

ちなみに、この日は『御事汁(おことじる)という、里芋やごぼう、大根、にんじんなど、冬らしい根野菜を入れた味噌汁を作って、いただくのだそうです。

とは言え、私の家はもちろん、親戚中でも、コレをやってるのを見た事無いので、恥ずかしながら、それ以上くわしくは知らないのですが・・・

・‥…━━━☆

って事で、ここからは、「農作業を始める」というワードから連想した「農耕の始まり」について書いてみたいと思います。

日本での農耕の始まりと言えば、これまでは弥生時代のイメージが強かったですが、ここ最近は、縄文時代から農耕を行っていた『縄文農耕論』が主流になっています。

この『縄文農耕論』自体は、昭和の初め頃から論じられていましたが、それは、あくまで、それまでに出土した石器や、発掘された遺跡の集落の様子などから見た推論であったわけです。

それを変えたのが平成四年(1992年)の内丸山遺跡(さんないまるやまいせき)の発見でした。

その場所は、すでに江戸時代から土器が頻繁に出土し、何かしらの遺跡がある事はわかっていて、近年にも何度か発掘調査されていた場所だったのですが、その平成四年に、野球場を建設するために発掘調査したろころ、縄文時代前期中頃から中期末期の、これまでに無い巨大な集落跡が発見されたわけです。

まぁ、あまりの過熱ぶりに「最盛期には、100戸に500人の居住者がいた」なんて発表しちゃって、「そら多すぎだろ!」異論反論の嵐になった事もありましたが、同時に住んだ人数なんてのは推測の域を出ないものの、その集落跡が広大である事や、そこに、多くの大小竪穴式住居跡があった事は確か・・・

しかも現場からは、ひょうたんゴボウなどの栽培植物が出土しているほか、特に重要だったと思われるは、デオキシリボ核酸(DNA)分析により、実際に栽培されていた事が明らかとなりました。

つまり、農耕が行われていたと・・・

また、クワキイチゴなどの種子と一緒に、ショウジョウバエの仲間のサナギが発見されており、このハエが醗酵物を好むハエである事から、おそらく、これらの実を発酵させて果実酒を作っていたという事も判明しました。

いち時の過熱ぶりも影をひそめて落ち着いて来た三内丸山遺跡・・・その後の調査から、今では、ここに住んだ人たちには階級が無かったであろうとの見方が強まっています。

この場合の階級=支配する者とされる者の関係という物は、集団が大きくなってこそ、はじめて生まれる物で、ここに住んだ人たちは、それが生まれるほどの多人数ではなかったという事なのでしょう。

とは言え、これまで微妙だった『縄文農耕』が、最新科学で明らかになった事は大きな進歩・・・

いや、むしろ、個人的には・・・
地元の方や、期待している方には、ホント申し訳ないのですが、それほど大きな集落でなくて、ちょっとホッとしたかな?・・・なんて気持ちも、

だって、ある程度の規模のムラだったからこそ、ここの住人たちは、ともに栗を栽培し、ともにお酒を作りながらも、誰が誰を支配するという事はなく、皆平等に暮らしていたわけで・・・

きっと彼らは、ともに笑い、ともに助け合い、ともに生きる、争いなど知らない人たちだったのではないかと・・・

ちょっと理想的過ぎる妄想ですが、今のところは、そう思っておきたいのです(*´v゚*)ゞ
 

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2012年2月 7日 (火)

謎多き継体天皇

 

継体天皇二十五年(531年)2月7日、第26代・継体天皇が崩御されました。

・・・・・・・・

このブログでもチョコチョコ書いてますが、未だ、様々な議論が尽きない継体(けいたい)天皇・・・。

Keizukeitai なぜ議論が尽きないかと言いますと・・・まずは、コチラの天皇系図を→
(画像をクリックすると大きくなります)

ご存じ、初代の神武天皇から数えて、継体天皇は26代めになるわけですが、もともとは万世一系とされた天皇家の血筋が、戦後になって「三王朝交代説」なる物が唱えられはじめた事から議論となります。

まずは、第10代の崇神(すじん)天皇・・・すでに、このブログでも書かせていただいてますが(12月5日参照>>)日本書紀では、初代の神武天皇を「始馭天下之(はつくにしらす)天皇(すめらみこと)としておきながら、10代の崇神天皇にも「御肇国(はつくにしらす)天皇(すめらみこと)としている・・・この事から(他にもいっぱい理由はありますが)、現在では、おそらく、初代の神武天皇から第9代の開化天皇までは架空の人物で、実在したとおぼしき天皇の初代が崇神天皇であろうと考えられています。

この点は、ほぼ、専門家さんの間でも一致している見解だと思われますが、先の「三王朝交代説」では、その後、5世紀代の第16代・仁徳天皇のところで1回、次に、6世紀以降の新王朝=継体天皇のところで、もう1回・・・と、古代には合計3回、血統の異なる王朝が交代しているとされます。

もちろん、この「三王朝交代説」も一つの説に過ぎず、系図の通り、その血筋は繋がっている可能性も大なのですが、一方では、その系図を見ればこそ、継体天皇の皇位継承には、ちょっと不可思議な部分があり、ここで何かが変わったであろう事は否めませんね。

そもそもは、第25代武烈(ぶれつ)天皇が、子供がいないまま亡くなった(12月8日参照>>)にはじまります。

子供がいない=後継者がいない・・・という事で、大連(おおむらじ)大伴金村(おおとものかねむら)なる人物が、まずは第14代・仲哀(ちゅうあい)天皇5世の孫にあたる倭彦王(やまとひこのおおきみ)に白羽の矢をたて、彼の住む丹波(京都府)迎えの使者を送ります。

ところが、物々しく武装してやって来た使者を見るなり倭彦王は恐れおののいて「天皇になんかなりたくない~っ!」と、どこかに逃亡してしまうのです。

仕方なく、次の候補者を探したところ、越前(福井県)に第15代・応神天皇5世の孫にあたる男大迹王(おおどのおおきみ・袁本杼命)という人物をはっけ~~ん!

早速、使者を送って、彼を天皇として迎え入れるわけですが、その人はすでに58歳という年齢で、言われるがまま河内(大阪府)樟葉宮(くずはのみや・現在の枚方市)に入ったものの、それでも
「自分は天子の才能がなく、力不足やと思う」
と、皇位につく事を辞退します。

Dscn1197a600 しかし、そこを金村ら群臣が頼みに頼んで、ようやく、1年後の継体天皇元年(507年)2月4日に、その樟葉宮で即位・・・これが第26代・継体天皇です。

それにしても、○○天皇の5世の孫・・・って、
5代もさかのぼらなアカンのか?
もっと他に近い人はおらんのか?

という疑問とともに、「迎えの使者を見て逃げる」という不自然な行動から、不可解さはモンモンと湧いて来るわけで・・・

しかも、上記の通り、継体天皇が即位したのは河内・・・これまでの政権の中心は大和(奈良県)であったわけで、本来の天皇家の後継者なら、大和から迎えが来てもよさそうな物ですが、逆に、継体天皇は、この後、抵抗勢力に遭って、20年間も大和に入る事ができず、ようやく、大和に入って都を定める事ができたのは、継体天皇二十年(526年)だったというのです。

さらに、この、わずか2年後に、あの磐井(いわい)の乱(11月11日参照>>)という古代最大の内乱も勃発しています。

つまり、継体天皇は、武烈天皇の死後に起こった大和王朝の動揺に乗じて大和に攻め入った新興の地方豪族ではなかったか?というわけです。

そして、その後、その継体天皇の新勢力が、西へを力を伸ばしたのが磐井の乱というわけです。

とは言え、ここで何らかの政権交代があったという見方の中でも、上記のように、「まったく別の新興勢力」という考え方と、「いや、やはり天皇家の血筋は守られている」という考え方との両方があり、ごくごく最近では、後者の意見のほうが、やや優勢になりつつあります。

・・・というのは、未だ記憶に新しい今城塚(いましろづか)古墳(大阪府高槻市)の発掘・・・

実は、現時点で宮内庁は、茨木市にある太田茶臼山(おおだちゃうすやま)古墳を、継体天皇が葬られた三島藍野陵(みしまのあいののみささぎ)だと比定していて、この太田茶臼山古墳が継体天皇陵という事になっています。

ご存じのように、天皇陵と特定された古墳は、宮内庁の管理下に置かれますので、例え学術調査と言えど、簡単に中を調査する事はできません・・・なんせ、そこには遺骨やら何やらもあるわけで、天皇家にとっては、悪く言えばご先祖様の墓を暴く事になるわけですから、子孫としては、「そっとしておいて欲しい」という気持ちもあるわけで・・・

ところが、最近になってかの今城塚古墳こそが、継体天皇の陵墓ではないか?という証拠が続々・・・幸いな事に、こっちは、天皇陵に指定されていませんから、調べ放題に調べられるわけです。

・・・で、そんな中から、発見された3種の石棺は、その素材が、熊本県産の阿蘇凝灰岩(ぎょうかいがん)二上山(大阪と奈良にまたがる山)産の白石兵庫県加古川右岸産の竜山石(たつかまいし)・・・と、これまたバラエティに飛んだ原産地

また、出土した埴輪などには、多くの船の絵が描かれており、中には2本マストの大型船・・・もはや、外国との交易も可能なほどの船が描かれているのです。

それは、この陵墓の主が、畿内はおろか、遠く九州までをも含める広域な水運ルートを掌握していた事を示すもの・・・

実は継体天皇の父・彦主人王(ひこうしおう)近江国(滋賀県)高島郡を本拠として琵琶湖の水運を掌握し、そこから北は越前へ、南は美濃(岐阜県)や尾張(愛知県西部)にまで力をのばしていた人・・・それを証明するかのように、その彦主人王の母は美濃牟義津(むげつ)の有力豪族の娘で、奥さん(つまり継体天皇の母ですが)振姫(ふりひめ)は、越前三国の有力豪族の娘で、その実家は九頭竜川の水運を掌握していたと言われます。

継体天皇は、父が早くに亡くなった事で、近江から母の実家である福井に転居して、そこで育ったとされ、その時点で、広域の水運ルートを持っていたのかも・・・そこに目をつけたのが、金村らの一派・・・

5代前というのはともかく、継体天皇の曽祖父の意富富杼王(おほほどおう)の妹である忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ)は、第19代允恭(いんぎょう)天皇の皇后となって、第20代安康(あんこう)天皇と第21代雄略(ゆうりゃく)天皇を産んでいますから、まったく天皇家と無関係ではなく、少なくとも、これまで何代にも渡って天皇家と血縁関係を結んで来た豪族の出身という事に継体天皇はなるわけですから、

その人に、武烈天皇の妹(もしくは姉)である手白香皇女(たしらかのひめみこ)を皇后に据え、これまで天皇家に何人もの后妃を出している豪族・和珥臣河内(わにのおみこうち)の娘・荑媛(はえひめ)や、淀川の水運に強い茨田連小望(まんだのむらじおもち)の娘・関媛(せきひめ)など、畿内に勢力を持つ豪族や王家の娘を妃に迎え

つまりは、婿入りのような形で天皇となってもらう・・・そこに、畿内はおろか、広域支配を可能にする政権が誕生する・・・

それこそが、継体天皇を推した大伴金村らのシナリオではなかったか?と思います。
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2012年2月 6日 (月)

江戸の初めのクリエイター・小堀遠州

 

正保四年(1647年)2月6日、戦国から江戸初期にかけての武将・・・というより、庭園作家建築家茶人として超有名な小堀遠州こと小堀政一がこの世を去りました。

・・・・・・・・・・

大坂城二条城etc、妙心寺大徳寺南禅寺etc・・・果ては禁裏仙洞御所まで・・・
「ホンマかいな?」
と思うくらい多くの建築&庭園にその名を残す小堀遠州(こぼり えんしゅう)・・・本名は小堀政一(まさかず)と言います(今日は遠州と呼びます)

近江国(滋賀県)坂田郡小堀村土豪(土地に根づいた小豪族)で、浅井長政の被官だった小堀正次(こぼりまさつぐ)長男として生まれた遠州・・・

浅井氏の滅亡(8月27日参照>>)にともなって、父が、豊臣秀吉の弟・秀長(1月22日参照>>)に仕えた事から、彼も秀長の小姓として仕えるようになりました。

茶道が趣味だった父の影響で、幼い頃から茶道に親しんでいた遠州は、当時、秀長の領国だった大和郡山が堺に次ぐ商人の町だった事もあって、みるみる吸収していきます。

やがて秀長が亡くなり、後を継いだ秀保も亡くなった事で、秀吉の直参となった遠州は、古田織部(ふるたおりべ)に弟子入りして、ますます頭角を現して来ます。

18歳の頃には、独特の工夫を凝らした手水(ちょうず)を制作して、師匠の織部をうならせた事もあったとか・・・

秀吉の死後には、父が徳川家康に仕えた事から、関ヶ原には、父とともに東軍として参戦・・・その功績により備中(岡山県)松山1万2460石を賜った父が慶長九年(1604年)に亡くなった事を受けて、遠州が遺領を引き継ぎます。

慶長十三年(1608年)には従五位下遠江守に叙せられ、この官職名から遠州と呼ばれるようになります。

その後の大坂の陣では、やはり家康側につき、徳川配下として、故郷とも言える大和郡山城を攻めるという苦汁も味わいましたが、かの師匠・織部が、敵への内通の疑いで切腹させられてしまった(6月11日参照>>)事もあって、幸か不幸か、徳川の世では茶人のトップの座を獲得する事になります。

元和五年(1619年)には近江国浅井に転封して小室城主となる一方で、河内奉行伏見奉行などの地方行政官も務め、徳川将軍家の茶道指南役もこなします。

そんな中で特筆すべきは、江戸初期に徳川家が行った重要な建築&造園の設計の多くを、彼が担当した事・・・だから、多いんですね~「小堀遠州・作」っていうのが…

Dscn0921a600 京都・圓徳院の北庭
(伏見城にあった北政所=おねの化粧御殿の前庭だった庭園で遠州が手を加えた桃山時代の代表的庭園です)

遠州の作風は、あの千利休(せんのりきゅう)(2月28日参照>>)の尊ぶ侘び茶の中に、東山文化の書院風を持ちこみ、さらに王朝文化の豪華な伝統を取り入れながらも、それが見事に融合している美しさ・・・

これは「遠州の奇麗さび」と呼ばれる独創的な作風です。

その作風は、建築や造園だけでなく、もともとの茶の道にも活かされ、『茶入之次第(ちゃいれのしだい)』『壁書条々(かべがみ・へきしょじょうじょう)などの茶書も執筆して茶道の発展に尽くしながら、「遠州七窯」と呼ばれる陶器づくりの指導や茶器の選定などもこなす・・・もちろん、書画や和歌、華道にも優れた才能を発揮し、まさに縦横無尽の大活躍・・・

生涯で400回の茶会を開き、のべ2000人の客のホストとなった遠州・・・もはや一点の曇りもなき大茶人!

と、言いたいところですが、残念ながら、晩年に唯一の汚点が・・・

それは、大茶人としては致し方ない事かもしれないのですが、趣味と実益を兼ねた茶器の収集・・・このコレクションに、あまりにも熱が入った遠州は、なんと、公金1万両を使いこんでしまったのだとか・・・

ただ、この時すでに茶道指南役として、多くの弟子たちから尊敬されていた遠州・・・その弟子となっている者の中には、幕閣で重き役職につく武将たちもいたわけで・・・

結局、大老酒井忠勝(さかいただかつ)井伊 直孝(いいなおたか)らの口添えにより、この件については不問という事になった遠州・・・何とか、一流芸術家の経歴に傷がつく事無く、正保四年(1647年)2月6日69歳の生涯を終えました。

どこで、どうこうしたという生き方そのものよりも、作品にその名を残す事こそ、クリエイターの本望・・・その名を汚す事にならなくて良かったですね(^-^;
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2012年2月 5日 (日)

アクセス数・500万HITを達成しました!ありがとうございます

 

私ごとで恐縮ですが、昨日=2012年2月4日に、ブログのアクセス数が、なんと!500万アクセスを越えました。

はじめた頃は、まさか、ここまでの数字になるとは思ってもみませんでした。

これも、いつも遊びに来てくださる皆さまのおかげ・・・本当に、うれしい限りであります。

また、来週の2月12日には、いよいよ、このブログも開設6周年を迎えます。

しかも、今、書いておりますこの記事が、2001ページめ・・・

見ていただいている皆様には、記事数の事は解り難いかも知れませんが、管理人の私には、「今、記事がいくつあるのか?」という事が管理画面に表示されるようになっていまして、それが、ちょうど2000を越えた所なのであります。

なにやら、重なる節目に、感動を覚える茶々でありますが、それと同時に、引き締めて、これからも、歩んでいきたいと感じております。

毎度毎度、心に誓う事ではありますが、
この先も、末永く、着実に歩んでいくためには、焦らず騒がず、心落ち着けて、ゆっくりと前に進んでいく事を心がけたいと思います。

・・・と言いますのも、これまでは、どこかに出かける用事があったり、「翌日に時間が取れないな」と思ったときは、2日分・3日分を、1日にまとめて書いたりしていたのですが、そうすると、やはり、気持ちが焦って、思うように書けなかったり、中途半端だったり・・・

後で読み返してみると、反省しきりの記事になっていたりします。

もちろん、ブログだけでなく、本家のホームページの更新も、怠ってしまう事がしばしば・・・やはり「これではいかん!」です。

まだまだ、この先何年も・・・いや何十年も、そして、アクセス数も、いずれ1000万アクセスを越える事を目標に、これからも、ゆっくりと精進してまいりたいと思いますので、どうか「今日は何の日?徒然日記」を、広いお心で、末永く可愛がってくださいませ。

今後とも、よろしくお願いしますo(_ _)oペコッ

ちなみに、昨日は、「旧陸軍第四師団司令部庁舎・公開」のイベントで、またまた大阪城に行っておりました。

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相変わらず、大阪城はカッコイイ(゚▽゚*)(←個人の感想です)

また、いつか写真をまとめて、報告させていただきたいと思います。

追記:
閲覧いただいている皆様には、あまり関係の無い個人的なお話ですが、この節目を機会に、以前、休止させていただいていた「にほんブログ村」へのランキングの参加を再開させていただく事にしました。

ずっとブログに来ていただいている皆様は、ご存じかも知れませんが、未熟者ゆえ、いち時、人気ランキングの動向が気になった時期がありまして、自らをクールダウンさせるためにも、2年前ほどから、ランキングは不参加の設定にしていたのですが、その間にも、参加不参加に関わらず応援してくださる方がある事に感動し、やはり、この節目を機会に参加させていただく事にしました。

これからも「人気ブログランキング」「にほんブログ村・歴史ブログ」の両方で応援いただけるとありがたいです。

もちろん、その日の記事が「良い話だなぁ」と思っていただけましたら、右サイドバーにあります「拍手」の応援も大歓迎です。

いつもの事ですが、皆さまの応援が更新の励みになっております。
これからも、よろしくお願いしますm(_ _)m

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2012年2月 3日 (金)

漢学→蘭学→英学そして再び…夢止まぬ福沢諭吉

 

明治三十四年(1901年)2月3日、1万円札でお馴染み福沢諭吉が、66歳でこの世を去りました。

・・・・・・・・

もはや慶応義塾の創始者としても超有名な福沢諭吉(ふくざわゆきち)さんですが・・・

Fukuzawayukiti600 彼は天保五年(1834年)、豊前国(福岡県東部)中津藩士・福沢百助の次男として生まれますが、その頃、父の百助は中津藩の廻米方(かいまいがた=集めた年貢米を現金に換えて国に送る役)を務めていて、大坂堂島にあった中津藩の蔵屋敷で生活していたので、実は、諭吉さんは、大坂生まれの大坂育ち・・・

兄弟仲良く、家では、よくしゃべり、よく暴れ、活発な諭吉少年でしたが、実は木登りもできず、水泳も苦手だったので、もっぱら遊ぶのは家の中・・・

そんな息子を見た父は、
「10か11にでもなれば、寺に預けて、坊さんにでもなってもらおか~」
と言っていたとか・・・

とは言え、コレ、息子に対するあきらめムードの言葉ではありません。

当時の中津藩は、厳しい封建制度のもと、世襲の身分に縛られており、家老の息子は家老になれても、足軽の息子は足軽・・・身分の低い福沢家なら、どんなに頑張っても名を成す事はありませんでしたが、僧侶なら、身分は低くても、実力があれば大僧正にもなれるワケで、

この思いは、幼い息子に、学問での出世を期待した父の、篤いエールだったのです。

そんな父の死にともない、一家が故郷=中津に戻ったのは、諭吉が2歳の時・・・

すでに兄弟はバリバリの大阪弁で、当然、「おウチ大好き」の諭吉少年も大阪弁・・・友達と話をしようとするも、「そうじゃちこ」と友達が言うと、「そうでおますなぁ」と答え、???と微妙な雰囲気となり、なかなか話が続かなかったのだとか・・・

しかも、服装も大坂風だったので、中津での諭吉は、なにかと浮いた存在となり、ますます、家に引き籠りがちな少年に・・・

その代わり・・・そのぶん、勉学のほうはバッチリ!
ますます意欲的に漢学を学ぶ諭吉少年でしたが、そんな彼にショックを与えたのが、あのペリー来航(6月3日参照>>)でした。

「時代は変わる!!」
と感じた諭吉は、蘭学を学ぼうと、一大決心して長崎へ・・・実に安政元年(1854年)、諭吉=21歳の時でした。

翌年、大坂に出て、緒方洪庵(おがたこうあん)適塾に入った諭吉は、みるみる頭角をあらわし、やがて塾長まで務めるようになります(6月10日参照>>)

しかし間もなく、福沢家を継いでいた兄が亡くなった事を受けて、諭吉が家督を継がなければならなくなり、塾長をやってる場合では無くなるばかりか、藩命によって江戸勤務を命じられてしまいます。

安政五年(1858年)、江戸へと入った諭吉は、築地鉄砲衆中津藩長屋で暮らしながら、日々の職務をこなしていましたが、もはや、適塾にて、様々な事を学び&経験した彼には、ただ日々の仕事をこなす事だけでは満たされず・・・その年の10月、自宅にて蘭学塾を開くのです。

これが、後の慶応義塾の起源・・・しかし、その翌年、横浜見物に行った諭吉は、そこで、またまたショッ~ク!!
「もはや蘭学やない!これからは英学や!」
と、思うのですが、当然の事ながら、当時は英学塾なんて物はありませんから、ひたすら独学・・・

そんな中で、万延元年(1860年)、「幕府がアメリカに使節を派遣する」事を小耳に挟んだ諭吉は、「なんとか、その船に乗り込んで、アメリカに行きたい!」と思い、使えるコネをフルに使いまくり、軍艦奉行・木村喜毅(よしたけ・芥舟)従者という名目で、なんとか、あの咸臨丸(1月13日参照>>)乗り込む事に成功したのです。

この時の滞在は、短い物でしたが、有効な辞書も持ちかえる事が出来たうえ、何より、その目で外国を見て来たという自信とともに、諭吉にとっては大きな成果となった渡米でした。

帰国後、すぐに『華英通語』という辞書を出版した事もあって、中津藩士の身分ながら幕府の外国方に雇われ、外交文書の翻訳をこなす諭吉・・・なんせ、この頃は、英語が出来る人が少ないですから・・・

やがて文久二年(1862年)・・・今度は、幕府の遣欧使節にくっついて、フランスイギリスポルトガルオランダドイツロシアと、ほぼ1年をかけて巡りますが、それこそ、今度は以前のような従者ではなく、正式な使節の一員として同行・・・(1月22日参照>>)

後に、この時の経験を記した『西洋事情』という著作がベストセラーになって、彼の名は一躍有名となるのです。

その翌年、ご存じの『学問のすゝめ』を刊行し(11月25日参照>>)、ますます有名になるのですが、そんな諭吉に、新政府からのお誘いは無かったのか???

実は、慶応三年(1867年)12月の王政復古の大号令(12月9日参照>>)のすぐ後に、新政府からのお声がかけれらていたのですが、諭吉は、それを丁重にお断りして、その後も、新政府の官職につく事はありませんでした。

そのお断りの翌年、塾の名前を『慶応義塾』と改めるとともに『学問のすゝめ』を刊行するのですから、もはや、「自らの進む道は著作活動と後進の育成」と、しっかりと決めていたという事でしょうね。

上野戦争(5月15日参照>>)の時、銃声轟く中でも塾の講義を続けた事は有名な話で、それはそれで、一本筋の通った、男の生きざまを感じます。

こうして時代の最先端を行き、時には「西洋かぶれ」と称された諭吉さんですが、晩年は一転、和に親しむ生活を送っていたのだとか・・・

趣味は居合抜き・・・和服を好み、朝早くに塾の寄宿舎の生徒を起こして散歩するのが日課で、散歩から戻ると、朝ごはんは必ず和食・・・米のメジに、辛めの味噌汁がお好みだったのだそうです。

病気にかかった時は、西洋医学に頼るより、日本人的な生活を習慣づける事を重視し、こんな事を・・・

「僕は、田舎の貧乏士族の生まれやさかい、子供の頃は、麦飯ばっかり食べて、着物も木綿のつんつるてんのヤツやった・・・

それが、どや、開国の波に乗って東京に来て・・・おかしなモンで、こんな贅沢な暮らししとったら、体のほうが驚いてしもとるがな。

昔みたいに、風吹きさらしのとこで、まともな服も着られんくらい貧乏でも、汗水たらして働いとったら、そのうち体は丈夫になるんや」

ベストセラーを生みだして、有名大学も創設して、一万円札にまでなって・・・さぞかし、満足で「ドヤ顔」満載の晩年を過ごされた事だろう・・・うらやましい限り!!!

と思っていましたが、どうしてどうして、人とは、とかく無い物ねだり・・・諭吉さんも、1周回って、「若き頃の夢あふれる自分の姿を、晩年に再び」と願っていたのかも知れませんね。
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2012年2月 2日 (木)

終結へ向かう日清戦争~威海衛・攻略

 

明治二十八年(1895年)2月2日、日清戦争にて日本軍が、威海衛を攻略しました。

・・・・・・・・・・

未だ政治の混迷が続く朝鮮をめぐって対立していた日本と清国(しんこく・中国)・・・

明治二十七年(1894年)の2月に勃発した朝鮮の内乱鎮圧のために派兵した両国の間に起こった軍事衝突をキッカケに、両者は日清戦争へと突入します。

日本にとっては、明治維新以降、富国強兵を旗印にまい進して来た中の、初めての本格的な対外戦争・・・一方の清国は「眠れる獅子」と恐れられた大国です。

開戦前には、「おそらく日本が不利」・・・と思われていた予想に反して、連合艦隊が制海権を握り、朝鮮半島と遼東半島を主戦場として戦う陸軍も勝利を収め明治二十七年(1894年)11月には旅順口(りょじゅんこう)を攻略しました。

★これまでの日清戦争の経緯については、コチラのリンクから↓

・‥…━━━☆

旅順口を攻略した事で勢いづいた大本営は、本来なら、翌年の春に予定していた直隷(ちょくれい=北京近郊)での決戦を前倒しして、「冬の間にやってしまおう」と、旅順攻略直後に、第1軍・第2軍、そして連合艦隊に向け、戦闘準備に入るよう命令を出しました。

しかし、そこに「待った!」をかけたのが、第2軍司令官大山巌(いわお)連合艦隊司令長官伊東祐亨(ゆうこう)・・・

二人の連名による電報には、極寒期における直隷付近での戦闘の難しさ、抜海湾の凍結による物資運搬の難しさなどを指摘したうえで、
北へ進むよりは、山東半島の攻略や清国艦隊の撃滅作戦を行ったほうが良いのでは?

という意見が書かれてあったのです。

先の旅順攻略のページにも書かせていただいてますが、ここのところ、夜ともなれば氷点下となり、軍服も凍りつくような寒さの毎日なのですよ。

ちなみに、この頃、最前線にいた兵たちの間には、不思議な話が残っています。

この戦争に一兵卒として参戦していた田中岩次郎という人物の証言によれば・・・

この頃は、もはや頭上を銃弾が飛び交っている時でさえ、意識が朦朧(もうろう)としてしまうような事がしばしばあり、中には、そのまま眠りについて亡くなってしまう者が出るほどの疲労困憊状態だったそうなのですが、

ある時、彼も、途中で意識が飛んでしまい、ハッと我に返って、再び銃をかまえると、なんと、銃弾飛び交う彼らの目の前を、赤い帽子をかぶった10数騎の騎兵が、右に左に縦横無尽に走って行ったのだとか・・・

もちろん、その一団を見たのは、田中一人ではありません。

そこにいた何人かの者が目撃し、「あれは敵か、味方か?」と大騒ぎに・・・また、その後も騎兵隊は何度となく現われ、その度に彼ら将兵たちを励まして、やがて勝利に導いてくれたと・・・

そのために将兵たちの間では、その幻の騎兵隊を「神兵」と呼んでいた・・・って事らしいのですが、これ、明らかに幻覚見てます

そんな話が兵たちの間で語られるほど、限界に来ていた彼らを、現地軍のトップである大山たちは目の当たりにしているのですから・・・意見を言いたくなるのも無理はありません。

かくして12月14日、大本営は、直隷攻略を延期して、山東半島攻略作戦を実行する事を決定します。

やがて年が明けた明治二十八年(1895年)1月20日・・・

連合艦隊の先発隊・4隻は山東半島の東に位置する湾内に入り、海軍陸戦隊の38名が上陸を開始します。

鉄砲射撃で清国軍を撃破しながら付近を制圧し、続いて午前8時頃から、歩兵部隊が本格的な上陸を開始します。

Nissinsennsoukannkeizuc ↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

26日には、全部隊の上陸を完了・・・ここで、司令官・大山は、部隊を2手に分けて西へ・・・鳳林集(ほうりんしゅう)の南東を目指して兵を進めます。

この時の最終目標は威海衛(いかいえい)ですが、そこは堅固な要塞に守られた軍港都市でしたから、「そのまま、まともに攻撃をすれば多大な犠牲が出る」と考えた大山による、まずは、手薄と見られる南側から攻める作戦だったのです。

1月30日鳳林集への集中攻撃を開始した日本軍は、その日のうちに威海衛湾南岸の要塞を制圧・・・そして、さらに左岸を進み、明治二十八年(1895年)2月2日、ついに威海衛を攻略しました。

そして休む間もなく、放棄する時に清国兵が自ら壊していった各要塞砲の修理に入ります。

一方、この時、天候の悪化による激しい風雪に行く手を阻まれ、零下20℃の気温で甲板も凍りついて身動きとれなかった連合艦隊・・・

やっと晴れ間の見えた2月3日威海衛沖に集結した後、6日には水雷艇(すいらいてい)が出撃・・・敵・旗艦の定遠(ていえん)をはじめ、清国艦隊の来遠(らいえん)威遠(いえん)などを撃沈させました。

一方、陸に戻って・・・やがて威海衛砲台の修理が完了した7日・・・沖に浮かぶ日島(にっとう)砲台に向けて、陸からの砲撃を開始すると、それに連動するかのように、連合艦隊から劉公島(りゅうこうとう)への艦砲射撃が開始されます。

海から陸からの縦横無尽の砲撃に、湾周辺にいた清国艦隊はほぼ壊滅状態・・・まともに動ける大きな艦は鎮遠(ちんえん)のみとなり、その後、動けなく定なった遠に代わって、この鎮遠が清国艦隊の旗艦となりました。

しかし、この日の戦闘により、もはや、進退窮まった清国軍・・・

かくして2月12日、日本の旗艦・松島が停泊する陰山口(いんざんこう)に、清国艦隊の小型軍鑑・鎮北(ちんほく)が、白幡を掲げてやってきます。

そこには、この威海衛での作戦を指揮していた清国軍水師提督丁汝昌(ていじょしょう)降伏文書を携えた使者が・・・

日清戦争がいよいよ終結に向けて進みはじめました。

ただ・・・その日の夜、丁汝昌は鎮遠の船内で服毒自殺を遂げたという事です。

★その後の終結に向けてのお話は、また「その日」に書かせていただきたいと思います。
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2012年2月 1日 (水)

汚名返上?再評価高まる山県有朋

 

大正十一年(1922年)2月1日、元長州藩士で、軍人で政治家の、あの山県有朋が亡くなりました。

・・・・・・・・・・

もはや有名な人物なので、ご紹介など不要かとは思いますが・・・

天保九年(1838年)、長州(山口県)城下の下級武士の家に生まれた山県有朋(やまがたありとも)・・・

Yamagataaritomo600 父は蔵元付仲間(くらもとつきちゅうげん=藩倉庫の警備員)という役職で、本来なら、彼もその後を継いで・・・という事だったわけですが、幕末という時代が彼にチャンスを与えます。

とは言え、未だ尊王攘夷(そんのうじょうい=天皇を大事に外国を排除)(くわしくは10月2日参照>>)の「そ」の字も知らない若い頃の彼は、学問が苦手だった事から、ただ、ひたすら槍術(そうじゅつ)の鍛錬に励む毎日でした。

しかし、その「腕」のおかげで、幕末で治安が悪くなった京都への派遣組に抜擢され、その京都で、久坂玄瑞(げんずい)(7月19日参照>>)梅田雲浜(うんびん)(9月14日参照>>)と知り合います。

そう、尊王攘夷思想をバッチリ植え付けられ・・・やがて、萩に戻った彼は、松下村塾(しょうかそんじゅく)(11月5日参照>>)の門を叩きます。

そして、彼の運命を変える高杉晋作との出会い・・・晋作が創設した奇兵隊に参加するのです。

そこで、下関戦争(5月10日参照>>)での敗北を経験した彼は、一気に開国派へと転じ、四境戦争(長州征伐)小倉を攻略する中(7月27日参照>>)、戦争直後に晋作を失った奇兵隊の中で、いつしか晋作に代わる存在となっていきました。

やがて起こった戊辰戦争では、長岡や会津方面を転戦して活躍(5月13日参照>>)・・・維新後には、陸軍の整備や徴兵制度の確立に尽力して、陸軍卿参謀本部長内務卿、さらに政界にも進出し、2度の総理大臣も経験し、元老(最高首脳の重臣)として晩年に至るまで絶大な発言力を維持していました。

思えば、農民が40%、その他でも仕官のクチもない荒くれハミダシ武士の寄せ集めで、維新の後は不要の者として悲惨な末路となる奇兵隊(11月27日参照>>)の中では、出世頭・・・(伊藤博文もいますが…)

しかし、そんな有朋は、とにかく評判がおよろしくない・・・

あの山城屋事件(11月29日参照>>) に代表される大金飛びまくりの汚職に癒着の藩閥・軍閥の代表格政党政治への抑圧的な姿勢、先の富国強兵策の軍制や徴兵制も、果ては昭和陸軍の暴走へとつながったとも言え、何かと、暗い、負のイメージがつきまといます。

その評判は、すでに生前から悪かったらしく、大正十一年(1922年)2月1日85歳の生涯を終えた後、東京・日比谷公園を斎場として国葬で行われた葬儀の模様を伝える新聞には、
「席は空席だらけで、参列したのは文官・武官の大物たちのみで、国葬にはほど遠い雰囲気だった」
と書かれたとか・・・

少し前に行われた大隈重信(おおくましげのぶ)の国葬には70万人以上の会葬者が訪れたという記録と照らし合わせれば、その不人気ぶりも想像できますね。

この事は、どうやらご本人も承知だったようで、高橋是清(これきよ)に、その事について語った事があったとか・・・ご本人の耳にも入っていたとなると、それはそれでちょっとお気の毒なような気も・・・

しかし、ここに来て名誉挽回の兆しが・・・

まだ読んでないので、あくまで股聞きで恐縮ですが、学習院大学井上寿一教授の著書「山県有朋と明治国家(NHK出版)の中で、有朋は、外交敵にも軍事的にもリアリストで、富国強兵をうたいながらも、実際の出兵には常に慎重・・・対欧米協調を基本とする外交路線などの現実的な政治手腕を評価しておられるようです。

これまでは、西郷隆盛坂本龍馬などに代表される英傑と呼ばれる人物にスポットが当たってばかりでしたが、混迷する現在の政治を打破するには、リアリスト山県有朋という人の生き方を再研究するのも良いかも知れませんね。

実は、きまじめで不器用で、そのやさしさをうまく表現できなかった・・・とも言われている有朋さん、再評価に期待します。
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