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2012年2月21日 (火)

三井の中興の祖・三野村利左衛門

 

明治十年(1877年)2月21日、幕末から明治にかけて活躍した商人・三野村利左衛門が57歳でこの世を去りました。

・・・・・・・・

三野村利左衛門(みのむらりざえもん)・・・知ってる人はすごく知ってるけど、知らない人はまったく知らないお名前だと思います(当たり前ですが…(*´v゚*)ゞ)

しかし、歴史をひも解いていくと、戦国にしろ幕末にしろ、「よくぞ、このタイミングで、こんな人が登場するなぁ」と思えるほど、その時代の流れにピッタリの英雄的存在の人が、どこからともなく突然に登場するものですが、この方も、そんな人物です。

突然登場するという事で察しがつくように、その前半生はほとんどわからない謎に包まれた状態・・・

Minomurarizaemon500 父親は、庄内藩士関口松三郎と言い、縁続きの木村家の養子となって木村姓を継いでいたという事ですが、利左衛門が幼い頃に出奔して浪人となった事から、父子ともども、大坂から九州あたりを転々とする放浪生活だったようで、もちろん、どん底の貧乏人でした。

大坂の、どこぞの店屋で奉公していたという話もありますが、とにかくわからない・・・

そんな中、どこをどう遍歴したのか、17歳か18歳に頃に江戸に出て来て、干物問屋か油問屋か・・・これもよくわからないけれど、とにかく、どこかの商店で奉公をしていたらしい・・・

ただ、ものすごくマジメに一所懸命働く少年だった事は確か・・・

すでに、その頃には両親も亡くなって、身寄りすらない状態でしたが、マジメに働いていると、チャンスという物はやって来るものです。

ある旗本屋敷から、「屋敷で中間(ちゅうげん=雑用係)奉公してくれる若者を紹介してほしい」と頼まれた人が、「アソコの店に、マジメによく働く奉公人がいる」と、その旗本屋敷に、彼を紹介したのです。

これが利左衛門・20歳の時・・・ここから、彼の人生がはっきりします・・・いや、彼の人生にとっての一大転機となります。

その旗本といいうのが小栗忠高・・・そう、後に、幕府の中心となって活躍する悲劇の名奉行・小栗上野介忠順(おぐりこうずけのすけただまさ)(4月6日参照>>)のお父さんです。

こうして、小栗さんのお屋敷で働く事になった利左衛門・・・忠順は、利左衛門より6歳年下なので、この頃は13~14歳・・・ひょっとしたら、この一番多感な時期に、兄弟のように接していたのかも知れません。

もちろん、ここでも一所懸命働く利左衛門・・・貧乏暮らしだったせいで読み書きはまったくできない彼でしたが、頭は良く、特に経理の計算などは得意中の得意で、しかも、陰日なたなくマジメに働きます。

その様子を影ながら見ていた忠高さん・・・「この子を、ただの中間で終わらせてしまうのはかわいそうだ」と思うようになり、どこか、その才能を発揮できる商家に・・と、三河町にあった紀ノ国屋という商家の婿養子に出します。

ただ、紀ノ国屋は砂糖などを扱う商家と言えど、かなりの零細・・・奥さん手作りの金平糖を、利左衛門が担いで、町で売り歩くといったささやかな商売でした。

しかし、ネがマジメな利左衛門さん・・・小さいながらもコツコツと小銭を貯めて、それを資金に小銭両替商の株を買い、30歳にして、小さいながらも両替商を開業したのです。

両替商とは、その時々の相場に応じて、小判や銀貨を両替するのが商売ですが、どちらかというと金貸しが主流・・・他にも、逆に貯金を引き受けたり、手形を割り引いたり、為替なども扱う、言わば、小さな個人営業の銀行みたいな物ですが、それこそ、未だ開業したばかりの利左衛門は、ごくごく小さな物・・・結局は、商人たちに依存しながら小銭を稼ぐ程度のものでした。

ただ、金融業務の中心地で商売をしているという利点から、江戸市中だけでなく、遠く、京や大坂の情報までもがめまぐるしく入り乱れる状況・・・利左衛門には、経理計算の能力だけでなく、動く世情を適格に判断する洞察力もあったのです。

その能力を遺憾なく発揮しながら、徐々に頭角を現して行く利左衛門でしたが、まだまだ、大金を動かす豪商に群がる小商人・・・

ところが、そんな彼に、三井組から声がかかります。

三井って・・・そう、あの三井です。

江戸の初めに三井高利(たかとし)が開業した越後屋呉服店(3月16日後半部分参照>>)が、江戸だけでなく、京都や大坂にも進出して不動産業や両替商などを一族で分担し、大坂の鴻池屋(こうのいけや)と肩を並べるくらいの豪商・財閥に成長していた三井・・・この頃は、それらの店舗を総称して三井組と呼ばれていました。

もちろん、利左衛門が小銭両替商人として、三井組の店に足しげく通っていた事が縁で呼ばれたわけですが、まだまだ小者で、しかも、どこの馬の骨か素性もはっきりしない利左衛門がなぜに???

実は、この時、三井組は、幕府から100万両の御用金を申しつけられていたのです。

当時の豪商が幕府と密接な関係にあったのは、皆さまご存じの通り・・・幕府は財政が苦しくなると、豪商たちに御用金を課して、強制的な借入れを行うわけですが、もともとお金が無いから借りてる状態なので、返す当てもいほとんど無いわけで、ほぼ、豪商のほうが出しっぱなし。

ただ、その見返りに幕府は、彼らに様々な利権を与えるわけで、言わば、持ちつ持たれつだったわけですが、この100万両の話が出た慶応二年(1866年)の時点で、すでに数年前から、合計260万両以上の御用金を用立てていて、さすがの三井も、今回の100万両には頭を抱えたのです。

おいそれとは出せない金額の100万両・・・せめて、減額してもらえないか?と思うものの、果たして、そんな交渉ができるのか?

実は、この時の幕府の勘定奉行が、誰あろう小栗忠順だった・・・そこで、三井組の誰かが、「自分とこにやって来る小銭両替商人が、昔、小栗の屋敷に奉公していたらしい」と言いだし、何とか、その縁にすがって、利左衛門に交渉役になって貰おうと、声をかけたのです。

一介の小商人でしかない利左衛門に、そんな事を頼むなんて、三井としては一世一代の冒険だったかも知れないですが、資産はあれど現金が無い三井としては、100万両なんて大金は出せないわけで、もはや、窮地に追い込まれた状態だったのです。

こうして、三井の番頭から、御用金の減額についての秘密の相談を受けた利左衛門・・・そこで、ピンときます。

この100万両という金額は、誰が見ても法外な金額・・・忠順の性格を熟知している利左衛門から見れば、とても、このような金額を提示するとは思えないのです。

忠順は、思いやりがあって情け深く、人を踏みにじるような事は絶対にしないはず・・・「この金額には、きっと何かあるはずだ」と・・・

実は、この頃、三井組は、例の御用金の見返りとして外国奉行所為替御用という役目を任されていたのですが、ここで扱っていた外国貿易での関税収入を、中小商人への貸付金に回していたのです。

つまり、幕府の公金を浮き貸しして利益を得ていたのですが、その情報を密かに知っていた利左衛門、「ひょっとしたら、曲がった事が大嫌いな忠順が、その事を知り、三井への懲罰のつもりで100万両という金額を提示したのではないか?」と考えます。

もちろん、三井が直接、部外者の利左衛門に浮き貸しの話をしたわけではありませんし、忠順の気持ちも確かめたわけでもないので、あくまで、彼の予想ですが・・・

かくして、忠順との交渉に赴いた利左衛門は、御用金の減額を三井から頼まれた事は隠しておいて、「中小商人への公的資金貸付け制度の創設」を提案します。

当時のインフレときたらハンパない状態で、多くの中小商人が資金に困っていた事は忠順自身もよく知っていたわけですが、かと言って、もはや財政難の幕府に、商人たちに貸す金など残っているわけもなく・・・実は、忠順も困っていたのです。

そこで利左衛門の提案・・・
「三井は、自分が責任を持って説得するので、公的資金貸付け制度の創設を三井に任せてみてはどうか?・・・そして、将来は、三井が管理している関税収入を、その財源に当てて運営する事を許可してほしい」
と・・・

幕府にとって公的貸付け制度の創設は急務である中、それを、幕府が一銭も出さずにやってくれるなら、それは、幕府にとってもありがたい事・・・忠順は、その提案を呑みます。

しかも、その交渉のついでに、御用金の金額を3分の1程度にネギる事にも成功・・・もちろん、この制度ができたおかげで、中小商人たちもヤミ金に手を出さなくてすむわけで・・・

って、結局は、すでにヤミでやってる事を公に認めさせただけなんですが、これで、すべてが丸く納まったわけで、まさに、利左衛門の知恵一つで、見事に解決したわけです。

こうして、三井から絶大な信頼を得る事になった利左衛門・・・なんと、かの貸付け業務を担当する三井御用所という新設部署に番頭格で迎え入れられる事になるのです。

しかも、忠順との関係も深くなった利左衛門は、この後、兌換紙幣(だかんしへい=正貨を支払うことを約した紙幣)の発行など、様々な経済政策を推し進める忠順の良き相談相手となって補佐したのです。

ところが、なんとか頑張る忠順も、もはやどうしようもないところまで幕府が来ていました。

そう、ここで、ご存じの鳥羽伏見の戦い(1月3日参照>>)です。

その数日前、討幕の気合は充分なれど、その軍資金に困っていた薩長倒幕派は、大坂の商人たちに、合計300万両の献金を呼び掛けます。

しかし、未だ先がどうなるかわからに、このご時世・・・鴻池をはじめとする多くの大坂商人は、その献金を断わり、応じたのは、わずかに3店の商人だけでした。

そうです・・・その3店の中に三井組がいました。

もちろん、三井内部でも、幕府につくのか?薩長につくのか?の議論が交わされたわけですが、そこで、この先を読んだのが利左衛門・・・彼の提案で、三井の方向が決まったのです。

果たして、その数日後に勃発した鳥羽伏見の戦いでは、薩長が見事に勝利・・・しかも、コチラが官軍となりました(1月5日参照>>)

さらに、江戸へと向かう官軍に対して、売れる資産は売りつくして現金に換え、千両箱を届ける三井組・・・おかげで、維新が成った新政府での三井は、財政・経済面で、ほぼ独占の地位を固め、ご存じの超巨大財閥に成長していくのです。

こうして、三井財閥の中興の祖とも言われる三野村利左衛門・・・しかし、一方では、あれだけタッグを組んだ忠順を裏切った人物として、あまり彼を快く思わない人もいる事は確か・・・

なんせ、以前、小栗さんのページ(またまた4月6日参照>>)で書かせていただいたように、この後、朝敵の汚名を一身に受けた忠順は、新政府軍の手によって、無残に処刑されてしまうのですから・・・

しかし、世は動乱の幕末です。

ここまでの動乱の世となれば、戦国も同じ・・・主君=幕府に忠誠を誓って死ぬのも人の道なら、時代の流れを読み取って生き残るのも人の道・・・

一説には、徳川慶喜(よしのぶ)から罷免されて故郷に戻った忠順に、利左衛門は、しきりにアメリカへの亡命を勧めていたとも言います。

しかし、正義感が強く、曲がった事が大嫌いな忠順に、「逃げる」という選択肢は無かったかも知れませんね~

おそらく利左衛門なら、そんな忠順の性格も、お見通しだったかも知れません。

だからこそ、忠順が処刑された後、残った妻子を引き取って、手厚く保護したのかも知れません。

男・利左衛門・・・生き残った者の使命として、大恩ある小栗家を見捨てる事は決して無かったと思いたいです。
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コメント


三野村さん、名前くらいしか知りませんでしたが、そうでしたか、小栗さんちで奉公していたのですね。

どんな仕事でも全力投球する姿勢に、若き日の、太閤さんや高橋是清さんの姿が重なります。

小栗さんの遺族のお世話をしたのも立派、人格のある資本主義の時代を懐かしく思います。

投稿: レッドバロン | 2012年2月22日 (水) 19時55分

レッドバロンさん、こんばんは~

>人格のある資本主義の時代

ホントですね~
先日書かせていただいたからくり儀右衛門こと田中久重さんもそうですが、この頃の方は、「
世間様に可愛がっていただいて出世したのだから、世間様に恩返しする」という精神がありましたね~
今は…なんだか寂しいです。

投稿: 茶々 | 2012年2月23日 (木) 01時06分

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