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2012年2月 6日 (月)

江戸の初めのクリエイター・小堀遠州

 

正保四年(1647年)2月6日、戦国から江戸初期にかけての武将・・・というより、庭園作家建築家茶人として超有名な小堀遠州こと小堀政一がこの世を去りました。

・・・・・・・・・・

大坂城二条城etc、妙心寺大徳寺南禅寺etc・・・果ては禁裏仙洞御所まで・・・
「ホンマかいな?」
と思うくらい多くの建築&庭園にその名を残す小堀遠州(こぼり えんしゅう)・・・本名は小堀政一(まさかず)と言います(今日は遠州と呼びます)

近江国(滋賀県)坂田郡小堀村土豪(土地に根づいた小豪族)で、浅井長政の被官だった小堀正次(こぼりまさつぐ)長男として生まれた遠州・・・

浅井氏の滅亡(8月27日参照>>)にともなって、父が、豊臣秀吉の弟・秀長(1月22日参照>>)に仕えた事から、彼も秀長の小姓として仕えるようになりました。

茶道が趣味だった父の影響で、幼い頃から茶道に親しんでいた遠州は、当時、秀長の領国だった大和郡山が堺に次ぐ商人の町だった事もあって、みるみる吸収していきます。

やがて秀長が亡くなり、後を継いだ秀保も亡くなった事で、秀吉の直参となった遠州は、古田織部(ふるたおりべ)に弟子入りして、ますます頭角を現して来ます。

18歳の頃には、独特の工夫を凝らした手水(ちょうず)を制作して、師匠の織部をうならせた事もあったとか・・・

秀吉の死後には、父が徳川家康に仕えた事から、関ヶ原には、父とともに東軍として参戦・・・その功績により備中(岡山県)松山1万2460石を賜った父が慶長九年(1604年)に亡くなった事を受けて、遠州が遺領を引き継ぎます。

慶長十三年(1608年)には従五位下遠江守に叙せられ、この官職名から遠州と呼ばれるようになります。

その後の大坂の陣では、やはり家康側につき、徳川配下として、故郷とも言える大和郡山城を攻めるという苦汁も味わいましたが、かの師匠・織部が、敵への内通の疑いで切腹させられてしまった(6月11日参照>>)事もあって、幸か不幸か、徳川の世では茶人のトップの座を獲得する事になります。

元和五年(1619年)には近江国浅井に転封して小室城主となる一方で、河内奉行伏見奉行などの地方行政官も務め、徳川将軍家の茶道指南役もこなします。

そんな中で特筆すべきは、江戸初期に徳川家が行った重要な建築&造園の設計の多くを、彼が担当した事・・・だから、多いんですね~「小堀遠州・作」っていうのが…

Dscn0921a600 京都・圓徳院の北庭
(伏見城にあった北政所=おねの化粧御殿の前庭だった庭園で遠州が手を加えた桃山時代の代表的庭園です)

遠州の作風は、あの千利休(せんのりきゅう)(2月28日参照>>)の尊ぶ侘び茶の中に、東山文化の書院風を持ちこみ、さらに王朝文化の豪華な伝統を取り入れながらも、それが見事に融合している美しさ・・・

これは「遠州の奇麗さび」と呼ばれる独創的な作風です。

その作風は、建築や造園だけでなく、もともとの茶の道にも活かされ、『茶入之次第(ちゃいれのしだい)』『壁書条々(かべがみ・へきしょじょうじょう)などの茶書も執筆して茶道の発展に尽くしながら、「遠州七窯」と呼ばれる陶器づくりの指導や茶器の選定などもこなす・・・もちろん、書画や和歌、華道にも優れた才能を発揮し、まさに縦横無尽の大活躍・・・

生涯で400回の茶会を開き、のべ2000人の客のホストとなった遠州・・・もはや一点の曇りもなき大茶人!

と、言いたいところですが、残念ながら、晩年に唯一の汚点が・・・

それは、大茶人としては致し方ない事かもしれないのですが、趣味と実益を兼ねた茶器の収集・・・このコレクションに、あまりにも熱が入った遠州は、なんと、公金1万両を使いこんでしまったのだとか・・・

ただ、この時すでに茶道指南役として、多くの弟子たちから尊敬されていた遠州・・・その弟子となっている者の中には、幕閣で重き役職につく武将たちもいたわけで・・・

結局、大老酒井忠勝(さかいただかつ)井伊 直孝(いいなおたか)らの口添えにより、この件については不問という事になった遠州・・・何とか、一流芸術家の経歴に傷がつく事無く、正保四年(1647年)2月6日69歳の生涯を終えました。

どこで、どうこうしたという生き方そのものよりも、作品にその名を残す事こそ、クリエイターの本望・・・その名を汚す事にならなくて良かったですね(^-^;
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コメント


室町時代から 数奇者は 怖いもので 下手をしたら命を落とす…と言われていたそうですが、遠州さんも危なかったですね。
幕府体制下でも重んじられ、敬愛されたクリエイターなのに、何という無茶なことを。先達の利休さんや織部さんの跡を追うところでした。離れて見れば、この傾きがたまらなく面白いのかもしれませんが、周囲の人達は生きた心地がしなかったはず。

投稿: レッドバロン | 2012年2月 6日 (月) 19時44分

レッドバロンさん、こんばんは~

ホント、危なかったですね。
やはり、芸術家気質の人というのは、ちょっと個性的で、自分の考えを曲げない面があり、何かと睨まれるのでしょうね。

投稿: 茶々 | 2012年2月 7日 (火) 02時23分

コミック「へうげもの」では昨今流行の「あっちの人」ですが、江戸時代初頭における著名な文化人でしたね。へうげものにおいても古田織部が小堀遠州を、数寄における自分の後継者と認知している描写があります。
1万両を使っても不問になる(必要経費扱い?)と言う事は、幕府の重役に才能を評価されている証拠ですね。

投稿: えびすこ | 2012年2月 8日 (水) 14時55分

えびすこさん、こんばんは~

>必要経費扱い?

っていうのはイイですね~
確かに、必要経費です。
飲み歩いて使っちゃったわけじゃないので…

投稿: 茶々 | 2012年2月 8日 (水) 23時44分

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