« 天変地異で退位…追号も微妙な後西天皇 | トップページ | 京都・大覚寺にて「空薫」体験してきました »

2012年2月23日 (木)

「漢委奴國王」の金印の謎多きお話

天明四年(1784年)2月23日、筑前志賀島の百姓・甚兵衛が、田の溝の中から「漢委奴國王」の金印を発見しました。

・・・・・・・・・

「漢委奴國王」の金印とは・・・
ご存じ、ほとんどの教科書に載ってるアレです。

Kininc 「漢委奴國王」の金印(福岡市博物館蔵)

とは言え、科学の発達した近代に発見されて、周辺の地層やら何やらを綿密に調査して・・・ってワケにはいかない江戸時代の発見ですので、謎はいっぱいあります。

そもそも、百姓・甚兵衛なる者が発見したと記録しておきながら、地元のお寺の過去帳には、その甚兵衛という人物が存在してない事になってるとか・・・

いや、発見者は秀治という百姓であるとか・・・

福岡県糸島市にある細石神社(さざれいしじんじゃ)の宝物として保管されていたはずの「漢委奴國王」の金印が、江戸時代の頃に無くなってしまっていたとか・・・

とにかく、その出土したとされる福岡市東区志賀島という場所の特定も、様々な古記録や資料と現地調査から、大正三年(1914年)に有識者によって推定された場所なわけです。

なので、この金印自体に偽造説もあります。

まぁ、江戸時代の技術なら、充分造れますから・・・

しかし、とりあえずは、その何とかというお百姓さんが偶然発見した物を、郡奉行に提出し、その郡奉行が福岡藩に提出・・・当時、福岡藩の学問所の学長をやっていた儒学者・亀井南冥(かめいなんめい)が、この金印を後漢書(ごかんじょ=中国の歴史書)』東夷伝の中の、(わ=日本)について書かれている箇所に登場する金印ではないか?と特定し、そのレポートを書いた・・・

その後、福岡藩主黒田家に伝わっていた物が、明治維新とともに東京国立博物館に寄託され、やがて昭和六年(1931年)に、当時の国宝保存法によって国宝(現在の重要文化財)に指定された事で、文字通り、重要な品である事が認識され、現在の福岡市博物館での保管・展示に至るというわけです。

てな事で、「偽造かも?」という事は、一応、棚の上にあげといて・・・

まずは、そこに刻まれている「漢委奴國王」の五文字の読み方ですが、

今のところ「かんのわのなのこくおう」と読むのが一般的で、その意味は、
「漢(かん=後漢)に従属する倭(わ)の奴国(なこく)の王」
とされます。

もちろん上記の解釈では「委=倭」として「倭」と「奴」を読み分けして「わのな」となるわけですが、見ての通り、刻まれているのは「倭」ではなく「委」の文字・・・

そこで「委奴」「ヤマト」と呼んだり、記紀神話でイザナギイザナミが天上かた矛で海をかきまわした時にできた最初の島・オノコロ島ではないか?という説もあります。

また、「委奴」「イト」と読み、『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)に登場する倭国内の一つの国・伊都国(いとこく)だとし、その伊都国を現在の福岡県糸島市西区付近と比定する説もあります。

Kininkankeizucc ↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

とにもかくにも、当時の中国の史書によれば、倭人(わじん=日本人)の国は、100余りの小さな国に分かれていたと言いますが、その中で、壱岐や対馬などの海中の諸国を除けば、ほとんどが福岡平野にあったとされるわけで、その中心とも言うべき存在が奴国であっただろうと言われます。

そんな奴国の王に、後漢の皇帝=光武帝(こうぶてい)が、直接仕えない異民族の王として、かの金印を贈ったというわけです。

ところが、その後、かの『後漢書』では、西暦107年頃、師升(すいしょう)なる人物が、奴国の王に代わる倭国の王として使いをよこして来た事が書かれています。

ちなみに、この師升は、外国の史書に初めて登場する日本人・・・一説には、この人が記紀神話に登場するスサノヲでは?とも言われますが・・・で、この後に、例の卑弥呼が登場します。

って事は、つまりは、ここで政権交代があったと・・・

そのために、例の金印が奪われたか、あるいは、奪われないために、磐座(いわくら=祭壇)のような所に隠したか?

それが、江戸時代になって発見されたのではないか?
という事になってます。

もちろん、今では、何か大きな発見が無い限り、なかなか、その藪を抜けだせない話ではありますが・・・
 .

内容が「よかった」と思っていただけましたら
右サイドバーsoonにあります【拍手!!】を・・・
ブログ内の人気ページとしてランキングされます(゚ー゚)
あなたの応援で元気100倍!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



 

 


|

« 天変地異で退位…追号も微妙な後西天皇 | トップページ | 京都・大覚寺にて「空薫」体験してきました »

神代・古墳時代」カテゴリの記事

江戸時代」カテゴリの記事

コメント

仮に金印発見が「ねつ造」なら、誰がどういう目的でしたんでしょうかね?埋める所を誰かが見ていれば、すぐにわかりそうなはずですが。
「発見者の存在が記録上確認できない」と言うのも妙な話ですね。江戸時代は考古学の知識の乏しい頃なので、畑から恐竜の骨が見つかってもわからないでしょうね。

投稿: えびすこ | 2012年2月24日 (金) 16時32分

茶々さん、こんばんは
謎多き。うーん、歴史のロマンを感じますね。解明されないでしょうけど想像はいくらでも、できますね。

投稿: いんちき | 2012年2月24日 (金) 19時03分

えびすこさん、こんばんは~

目的もそうですが、今ほどの識字率もない江戸時代に、『後漢書』にある「奴国」の事を知っている人も少ないでしょうから、技術的には充分偽造できたとしても、儒学者・亀井南冥のような知識が無い限り、偽造しようとは思わないですもんね~

私も、おそらく本物だと思いますが…

投稿: 茶々 | 2012年2月25日 (土) 03時14分

いんちきさん、こんばんは~

そうですよね~
歴史の史料の中には、解明されないほうがロマンがある場合もありますよね~

投稿: 茶々 | 2012年2月25日 (土) 03時15分

邪馬台国は大和か、九州かの論争ですね。私が習った先生は、大和説でした。

投稿: やぶひび | 2012年2月25日 (土) 21時06分

やぶひびさん、こんばんは~

それこそ、ロマンですね~

魏志倭人伝がムチャクチャな道のりを書いてくれたおかげで、論争は絶えませんね。
そこが、オモシロイんですが…

同じ近畿としては奈良を応援したいですが

投稿: 茶々 | 2012年2月26日 (日) 04時06分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/47570/44232276

この記事へのトラックバック一覧です: 「漢委奴國王」の金印の謎多きお話:

« 天変地異で退位…追号も微妙な後西天皇 | トップページ | 京都・大覚寺にて「空薫」体験してきました »