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2012年2月19日 (日)

吉原の花魁・高尾太夫を落とした榊原政岑

 

寛保三年(1743年)2月19日、榊原家宗家の第8代当主で、播磨姫路藩の第3代藩主となった榊原政岑がこの世を去りました。

・・・・・・・・

榊原家の分家で、旗本1000石榊原勝治の次男として生まれた榊原政岑(さかきばらまさみね)・・・

以前、肥後熊本藩の財政を立て直した細川重賢(ほそかわしげかた)のページ(10月26日参照>>) でも、チョコッとお話しさせていただいたように、江戸時代ってのは家を継ぐのは長男と決まっていて、次男・三男となれば、分家を作って独立するか、どこか、後継者のいない家に養子に入ってそこを継ぐか・・・

かと言って、分家を作るにはお金がいるし、そうそう後継者のいない家があるわけもなし・・・って事で、次男・三男の中には、けっこうな年齢になっても兄の家に居候して結婚もできない状況の人がたくさんいたわけですが・・・(これを部屋住みと言います)

今回の政岑さんも、次男という事でご多分にもれず・・・ただ、政岑の場合は、榊原一族の中に、途中で断絶した大須賀家というのがあり、その大須賀姓を継いで、お家を再興するという夢もあったようですが・・・

そんな中、享保十六年(1731年)、父が亡くなった後に家督を継いでいた兄が亡くなった事を受けて、1000石の家を継ぐ事に・・・

ところが、その翌年、本家の榊原家の現当主であった榊原政祐(まさすけ)に子供がいなかった事から、その養子となって、今度は榊原の宗家を継ぐ事になります。

そう、この宗家の榊原家・・・おおもとは、徳川四天王の一人に数えられた、あの榊原康政(さかきばらやすまさ)(5月14日参照>>)で、徳川譜代の家臣の中でも筆頭格!

こうして、政岑は、播磨(兵庫県南西部)姫路藩15万石の第3代藩主となったのです・・・時に享保十七年(1732年)、政岑=19歳の時でした。

その3年後には、陸奥(青森・岩手・宮城・福島)白河藩主松平基知(まつだいらもとちか)の養女を正室に娶り、まもなく、奥さんが女の子を出産し・・・と、ささやかな分家からは大出世の順風満帆な幸せを・・・

ところが、その奥さんが、いわゆる「産後の肥立ちが悪い」というヤツで、出産後まもなく、突然に亡くなってしまったのです。

落ち込む政岑・・・日頃は、能楽や狂言やらといった賑やかな芸事が好きだった人だけに、その落ち込みようは、周囲も心配するほどで、何とか、彼の気分を変えてさしあげようというやさしさから、お抱えの能楽者の一人が、政岑を吉原に誘います。

これが運のつき・・・

Takao600 当時、かの吉原で最高の花魁(おいらん)と評判の高尾太夫(たかおだゆう)恋をしてしまうのです。

ちなみに、この高尾という名前は、京都島原吉野太夫大坂新町夕霧太夫(1月7日参照>>)とともに、三名妓と呼ばれる吉原は三浦屋の名跡で、そこの、その時々の、トップが名乗る名前なので、何人もの高尾太夫がいるわけですが、政岑さんが恋をしたのは6代めの高尾太夫だったという事です。

とは言え、ご存じのように、遊郭という物は、一歩その中に入れば身分など関係の無い別世界・・・例えおエラい殿さまであろうが、大金持ちであろうが、一見(いちげん)の客には、おいそれと、その姿を拝む事さえできないのが高級遊女=花魁です。

なので、政岑も、いきなり恋・・・ではなく、まずは、「そんなに人気の高尾とは、いったいどんな女なんだ?」てな興味から、一連の吉原のルールに従って、徐々にハマッっていくわけですが・・・

以前、【江戸で豪遊~吉原の花魁遊びはいくら?】(11月27日参照>>) で、そのシステムをご紹介しましたが、まずは「初会」という、顔を見るだけのために、政岑は60両以上の大金を使ったと言いますが、政岑にとっては、そんな大金でも余りある好感触・・・

そう、ここで、遠目にチラッと見た高尾に、彼は一目惚れしてしまうのです。

あでやかな風情に気品ある美しさ、見つめられるだけでトロけてしまいそうなその瞳のとりこになってしまいます。

「裏」と呼ばれる2度目の面会でも、彼は70両近い大金を支払い、そして、3度目の「馴染み」・・・ここまでで彼の場合、合計200両以上、大まかな計算で1500万円以上のお金を費やしました。

とは言え、ここまでなら、いくらお馴染さんとなっても、あくまで遊女と客の関係・・・政岑は、ホンモノの恋をしてるんですから、高尾の気持ちもコチラに向いて欲しいわけで・・・

極力、彼女のご機嫌をそこねぬよう、口説きに口説きまくった政岑さん・・・そして、とうとう、彼女の心を開き、3000両(1800両とも2500両とも)で身請けするのです。

寛保元年(1741年)・・・政岑、29歳の春でした。

・・・と、ここまでの話なら、例え吉原での遊興であったとしても、恋した相手が高尾太夫だったというだけで、気持ちとしては純愛なわけですが・・・

実は政岑さん、高尾太夫以外にも、島原の遊女・2名、有馬の遊女・3名を身請けしていて、彼が22歳の時に生まれた長男の政永(まさなが)も、実は、母親は京都の舞妓さんだった・・・なんて噂もチラホラ・・・となると、単なる女好きの遊び人なのか?

一説には、屋敷の庭に人工の山を造ってススキを植え、そのススキ越しに中秋の名月を愛で、宴もたけなわとなった頃に、その山がパッカ~~ンと二つに割れ、中から美女が踊り出て・・・てな仕掛けを造って、贅沢三昧したいたとか・・・

しかし、一方では、吉原では、あの徳川宗春(むねはる)と親しくしていた・・・なんて話もあります。

以前書かせていたがきましたが(10月8日参照>>) 、この宗春さん・・・8代将軍・徳川吉宗の行った享保の改革が発布した倹約令に対して、
「不景気な時こそ、金を使わんと経済が回って行かへんのや!」
真っ向から立ち向かった御三家の尾張藩主です。

後世の私たちから見ると、元禄バブルがはじけた不況真っただ中で、贅沢を禁止し、質素倹約を掲げた享保の改革が、100%の成功とは言えない(6月18日参照>>)事がわかるだけに、この宗春さんこそ名君と称する歴史ファンも多いのです。

その宗春と親しくしていた・・・という事は、政岑のお遊びも計算ずくなのか?

・・・と思いたいのですが、残念ながら、彼の場合は、宗春のようなはっきりとした倹約令への反対意見を示した証拠はなく、吉原で親しくしていたというのも、単なる噂どまりなので、そこのところはよくわかりません。

しかも、そんな遊び放題&高尾の身請けを、かの吉宗に咎められ、寛保元年(1741年)の10月に強制隠居のうえ蟄居(ちっきょ=謹慎処分)・・・家督は、息子の政永が継ぐ事を許されたものの、越後(新潟県)高田への転封となってしまったのです。

これも、本来なら改易処分となるところだったのを、榊原家があの四天王の榊原家だった事から、徳川譜代の重臣たちの説得で、何とか転封ですんだのだとか・・・

しかし、そんな中でも、この榊原家への転封処分について、多くの領民から幕府に対しての反発の声が出たてな記録もあるようなので、やはり、政岑は領民に慕われる名君だったのかも知れません。

現に、高田へお引越した後の政岑は、開墾や灌漑などの農地改革を行ったうえ、農民の生活改善に向けての副業の指導など、まさに名君の中の名君と言えるような殿さまになっています。

しかし、その期間は、あまりに短すぎました・・・

そう、高尾を身請けして処分を受けて・・・から、わずか2年後の寛保三年(1743年)2月19日政岑は31歳という若さで、この世を去ってしまうのです。

政岑とともに、この高田へとやって来ていた高尾は、夫の死後に出家して、静かに余生を過ごしたと言います。

代々の高尾太夫と呼ばれる人が、なかなかの波乱万丈な人生を送っていて、例え身請けされたとしても、ひとところにジッとしていられないような雰囲気なのに対して、この政岑が惚れた高尾太夫だけは、殿さまの妻としてふさわしい生きかたをした貞女であったとの噂・・・政岑さん、女性を見る目、ありますね!

未だ若い時期に奥さんを亡くし、遊びたい盛りの28歳で高尾太夫と知り合い、これからという31歳で亡くなった政岑・・・

高尾太夫との恋は、いい恋だったと思いたいですね。
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コメント

好きな女性を妻に出来て、幸せだと思います。でも、殿様としたらかなりの無駄使いしたわけで、家臣や領民には負担にかけたから
名君と言えないです。

投稿: やぶひび | 2012年2月19日 (日) 22時41分

やぶひびさん、こんばんは~

そうですね~
ずいぶん使っちゃいましたから…名君とは言い難いですね。

投稿: 茶々 | 2012年2月20日 (月) 01時52分

豪快な遊びっぷりで 江戸時代の大藩のお殿様らしいです。一緒に遊んでた?のが、かの尾張大納言ですし。

結果として、改易を免れますが、逆に、親藩・譜代の気軽さってのがあったかもしれません。外様では、ここまでは…。

マジメな人ばかりでも、歴史はつまらなくなります。それにしても、榊原さんとこも、短命の家系なんですよね。

夢と知りせば…という感じがすごくします。

投稿: レッドバロン | 2012年2月20日 (月) 16時56分

レッドバロンさん、こんばんは~

もう少し長生きだったら、何かやってくれた人なのではないか?と勝手に想像しています。

投稿: 茶々 | 2012年2月20日 (月) 18時26分

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