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2012年3月 7日 (水)

隠岐へ…後醍醐天皇と児島高徳

 

元弘二年(1332年)3月7日、鎌倉幕府との交戦に敗れた後醍醐天皇が隠岐へ流されました。

・・・・・・・・・・

鎌倉幕府を倒すべく、何度も挑戦した第96代後醍醐(ごだいご)天皇・・・

正中元年(1324年)の正中の変(9月19日参照>>)では、事前に計画がバレた事で事無きを得た後醍醐天皇でしたが、その後、楠木正成(くすのきまさしげ)という強い味方を得た元弘元年(1331年)、再びの討幕計画を立てます(8月27日参照>>)

これが元弘の変・・・

ご存じ!正成が赤坂城にて幕府を翻弄する痛快な戦いを演じてくれるわけですが、悲しいかな多勢に無勢・・・なんたって幕府が相手ですからね。

しかも、この戦いの最中に肝心の後醍醐天皇が幕府側に捕らわれてしまった(9月28日参照>>)事で、やむなく正成は、元弘元年(1331年)10月21日赤坂城に火をかけ、自らを死んだと見せかけて、金剛山の奥へと脱出したのです(10月21日参照>>)

こうして終わった元弘の変・・・捕虜となった天皇方の要人は、ことごとく厳しい処分となりますが、張本人である後醍醐天皇にも、「隠岐(おき=島根県)への流罪」という処分が下される事になりました。

この時、(中国)から来日していた俊明極(しゅんみんき)なる禅僧が、後醍醐天皇の顔を見て、
「あなたは2度帝位につくだろう」
と予言し、天皇は、かたくなに出家を拒否したのだとか・・・

かくして元弘二年(1332年)3月7日後醍醐天皇は隠岐へと発ったのです。

Godaigoroot330 後醍醐天皇の配流ルート

お供の公家2人に、身の回りの世話をする女官が1人・・・この3名以外は、甲冑に身を固め、弓矢を装備した警固の武士たちが総勢500余騎、先頭を行くは千葉貞胤(ちばさだたね)小山秀朝(おやまひでとも)佐々木道誉(どうよ)などなど・・・

後醍醐天皇を乗せた車が、七条通を西へ行き、東洞院通を南に曲がれば、天皇を見送ろうと集まった京中の老若男女が
「一天の主である天皇様を、臣下の者が流罪にするやなんて!」
「言語道断!!そのうち運も尽きるて」

と、口々に幕府批判を囁いたのだとか・・・

やがて桜井の宿(大阪府三島郡)を通過する時には、一旦、輿を下に下ろして、遠くに見える石清水八幡宮を拝礼し、後醍醐天皇は、再び、京都に戻って来る事を願ったと言います。

湊川(みなとがわ=神戸市)を通る際には、かつての福原京を思い起こし須磨(すま)の海岸では、源氏物語の光源氏に思いを馳せ・・・

と、後醍醐天皇の行列の行く先の備前(びぜん=岡山県東南部)の国に児島高徳(こじまたかのり)なる武将がおりました。

彼は、後醍醐天皇が笠置(かさぎ)で挙兵したとのニュースを聞いて、それを救援すべく、自らも挙兵しましたが、間に合わず・・・正成討死の一報(実は誤報)を聞いて落胆していたところでしたが、

ここに来て、自らのそばを後醍醐天皇の行列が通ると聞いて、仲間を集めて天皇奪回計画を立てていたのでした。

ところが、直前で、幕府側がルートを変更してしまったために、計画は挫折・・・

とは言え、なんとか、その熱き思いを後醍醐天皇に伝えたいと思い、百姓姿に身を変えて、天皇がお泊りになっている宿の周辺をウロつきます。

「何とか、そのお顔だけでも拝顔できたら・・・」
と、心ははやるものの、警固が厳しくて、なかなか近づけません。

しかたなく、高徳は、宿の庭にあった桜の木の幹を削って、大きな文字で1句書きつけのです。

♪天莫空勾銭 時非無范蠡♪
「天勾銭(てんこうせん)を空(むな)しうすること莫(なか)
時に范蠡
(はんれい)無きにしもあらず」

翌朝、警固の武士たちは、桜の幹に書かれた詩句を見つけて
「これは何だ?」
「誰が書いたんだ?」

と、ちょっとした騒ぎとなりますが、誰もその句の意味がわからないため、大した問題にもならず、後醍醐天皇への事情聴取もありませんでした。

しかし、その噂を聞いた後醍醐天皇だけは、その歌の意味を悟り、
『龍顔(りょうがん)(こと)に御快(おんこころよ)く笑(え)ませ給え…太平記より心からうれしそうな笑みを浮かべられた・・・と、

この句の意味は・・・
その昔、戦いに敗れて捕虜となった越王勾銭(えつおうこうせん)が、後に忠臣の范蠡の進言に従って戦い、呉(ご)を倒す事ができたという中国の『史記』にある逸話に後醍醐天皇をなぞらえた物で、

「天よ、どうか勾銭(=後醍醐天皇)を見捨てんといてください!
ひょっとしたら、そのうち范蠡
(=高徳自身?)のような忠臣が現われるかも知れませんからね」
という事だったのです。

こうして旅をするうち、やがて天皇は出雲(島根県)三尾(美保)の港に到着・・・ここに10日間ほど滞在した後、軍船300余艘に護衛され、はるか隠岐へと北上して行ったのでした。

現在、高徳が詩句を刻んだ桜があったとされる場所には、作楽神社(さくらじんじゃ=岡山県津山市神戸)が建立されています。

また、この時、後醍醐天皇が行かれた道筋には、本来なら、天皇のような身分の人とはふれあうはずもなかった庶民たちが、流人という身分なればこそ、後醍醐天皇と親しく交流したという逸話が、各地に数多く残ります。

Daigozakura600kuri 岡山県真庭市落合という所にあるこの桜の木も、その一つ・・・

配流の際に、この桜を見て、後醍醐天皇が絶賛したとして「醍醐桜」という名がついた桜で樹齢1000年との事・・・もちろん、岡山県の天然記念物に指定されています。
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鎌倉時代」カテゴリの記事

コメント

♪舩坂山や 杉坂と みあと慕いて 院の庄…♪

戦前の小学校唱歌に歌われた格調のシーンですね。(入院中の叔母がいつも歌っておりました。)
後醍醐帝の配流と越王匂銭の臥薪嘗胆の故事が合わさっていて、警護役ごときが読んでも 意味分からないところがミソでしょうか。

今の私達は 茶々様の大阪弁を読んで、ニンマリ。

投稿: レッドバロン | 2012年3月 7日 (水) 20時07分

レッドバロンさん、こんばんは~

>小学校唱歌

そうですね唱歌にありました。
題名は、まんまの「児島高徳」でしたね。

「青葉茂れる桜井の」とともに、もうほとんど歌われる事もないのでしょうが、唱歌には、すばらしい歌がたくさんあるんですけどね~

叔母様の思い出とともになれて光栄です。

投稿: 茶々 | 2012年3月 7日 (水) 23時29分

茶々さん、こんにちは~!
佐楽神社、よく行きました。津山西部の小学校の遠足コースなんですよね。通ってた中学校の近くだったので、学校帰りに院庄の友達のうちに行く時はいつも前を通ってました。昔の守護館跡だけあってかなり広い敷地だったと記憶しています。勿論、児島高徳と後醍醐天皇の故事も地域を学ぶ授業で習いました。ただ、唱歌は残念ながら聞いたことがないです。そんな全国区の唱歌があるとは!多分津山の人間は知らないと思います。知ってたら先生が得意げに教えてくれてたはずなので(笑)。
あと、実家の近くには旧出雲街道が通っていて、後醍醐天皇が飲まれた湧水や、通った時詠まれた歌なんかもあります。実家は佐良山地区なんですが、美作や久米のさらやま~で始まる歌だったと思います。確か。
…実は後鳥羽上皇も隠岐流刑で同じコースを辿ったらしく、やはり佐良山を通ったとき、美作や久米のさらやま~で始まる歌を詠まれています。
まあ、住んでた人間に言わせれば、何がいいのかさっぱりですが…でも少し誇らしいですね(笑)

投稿: おみ | 2012年3月 8日 (木) 04時50分

茶々さま、お返事ありがとうございました。

昔の唱歌や童謡には 「児島高徳」や「大楠公」(青葉茂れる♪)の他にも「青葉の笛」や「元寇」「鎌倉」「牛若丸」などなど、歴史上の人物や場面を歌った曲の数々ありました。戦前の小学校はゆとり教育ではないので、今では字句も難しいかも?

歌われないのは残念ですね。日本人が国民的な情景を失って 久しいです。

投稿: レッドバロン | 2012年3月 8日 (木) 19時26分

おみさん、こんばんは~

やはり、戦後は歌われなくなったのでしょうかね。

近くだと遠足で行くんですね~やっぱり…
すばらしい景色なんでしょうね。

投稿: 茶々 | 2012年3月 8日 (木) 22時23分

レッドバロンさん、こんばんは~

確かに、難しいですね。
「児島高徳」なんか、漢詩がそのまま歌詞になってますもんね。

でも、歌い継がれていってほしいです!

投稿: 茶々 | 2012年3月 8日 (木) 22時25分

こんにちは。ストーリー、ありがとうございます。

日本人の先輩によると、日本の教科書は、隠されている物や日韓合併での工作員による破壊で、情報が歪んでいる物が多いそうです。

天皇の島流しが、<隠岐の島、ではなく沖の島>で、磯竹島(鬱陵島)の事かもしれません。

日本は島国なので、古来ずっと、かなり遠くの島々に出掛けていました。だから、隠岐じゃすぐ近所の気がするのです。

朝鮮古文献の1412年辺りの記録に<流山国>が鬱陵島に在ったと書いてあります。

鬱陵島の北東の2島(観音島と竹島)は見る方向によっては前方後円墳の形をしています。

天橋立には、沓島〔くつしま〕・笠島〔かさしま〕があるそうで、頭と足に着けるもので示されています。

天橋立からずっと沖に出ていくと、竹島や磯竹島(鬱陵島)に着きます。

鬱陵島には(朝鮮南部にも在るそうですけれど)日本の石で囲った墓地同様の古墳があるそうです。

朝鮮古文献や古地図には<于山島>が多出しています。漢文の時代なので、<于=at, by, from, than>だそうです。そして、<山島=やまと>。

<大于山・小于山>との表記もあり、<大やまと・小やまと>と呼ばれていたかもしれません。日本列島の国は、<大和〔だいわ:大倭〕>とも書かれていたらしいですから。

新羅が512年に侵略を掛けた国は<やまと>だったかもしれません。新羅は執拗に日本に侵略を掛けて来続けていましたから。

<八咫烏>は朝鮮半島人で、朝鮮半島の為に日本を使い込んで来た勢力です。サッカーの日本代表に、ちゃっかりマーキングしています。

<やまと>が都合が悪いらしく、教科書などから情報を外いている勢力が居るそうです。そんな所で、かつてヤマト国が有った事実に近いストーリーを、よろしければ組立てて見てくださいませ\(・▽・)

投稿: (・_・) | 2015年9月10日 (木) 15時06分

長文と追加、失礼。

鬱陵島の観音島は、上から見ると<沓〔くつ〕or足>の形です。

そして、雪舟作と言われている水墨画の右下に書かれている<クツ島・笠島>は、絵では鬱陵島の側島の<観音島・竹島>に似て居ます。(但し、その作品が雪舟の作名のかどうかは不明だそうですけれど)

謎解きが楽しそうでしょ?

投稿: (・_・) | 2015年9月10日 (木) 15時14分

(・_・)さん、こんにちは~

後醍醐天皇は流されっぱなしではなく、後に自力で脱出して戻って来る>>わけですから、どちらかというと「(流された島は)意外に近かったんじゃ?」という気がしないでも無いですが、色々と妄想しながら謎解きするのは楽しいです。

投稿: 茶々 | 2015年9月10日 (木) 17時43分

こんばんは、茶々さん。
私は児島高徳の存在を疑っています。と言うよりも私の歴史を教えてくれた先生はいなかったと断言しました。まあその先生は聖徳太子、大化の改新も疑っています。そう言う先生の言う話なので分かりませんが、梅松禄には出てこない武将ですね。ところで南朝系の武将は疑われる武将が多いですね。そう言う方が正統とは何だかポルポトの方を正統にしたのとよく似ている感じがしました。

投稿: non | 2015年9月11日 (金) 22時37分

茶々さん、ポルポト派と一緒と言うのはゲリラ戦をしたり、名前が不明な方が多いので、何故正統と思いました。でも三種の神器と言いましても剣は熱田、鏡は伊勢です。おまけに剣が見つかっていませんからどうなったのかなと思いました。児島高徳は私が見た歴史雑誌は否定派が多いです。

投稿: non | 2015年9月11日 (金) 23時15分

茶々さん、おはようございます。
かなり否定的にそして悪く書きましてすみません。御気分を害しましたか。
私が見た雑誌はどうも科学的な歴史と言う方なのでかなり左の歴史雑誌なので児島高徳は否定しています。でも本当に名和長年にしてもよく分からない武将が多いです。所謂草莽の走りかなと思いました。それにしても北条時宗以降ですが、世界史を見てきた考えから見ますと日本の中世は信長、秀吉、家康等の三英雄の頃まで続き、武士とやくざが共存する世界が江戸時代になりましたが、それまでは足利などの武士と楠木のやくざに相当する悪党が激突して庶民は苦しんだと思いました。あの南北朝の騒乱は何の為だったのでしょうか?後醍醐天皇は自分以外の皇族が敵対しているのをどう思っていたのかと思います。

投稿: non | 2015年9月12日 (土) 09時25分

nonさん、こんにちは~

児島高徳を否定する説はありますよ。
ただ、それと南朝の正統性とは別々に考えなければならない物だと思っています。

このページのお話は、南北朝ではなく鎌倉討幕ですが、この後に鎌倉幕府を倒して政権を握った後醍醐天皇は、その後、1度も政権を手放していません。
京都を占拠した北朝が、勝手に別の政権を打ちたてただけで、その時点でも南朝は成立しています。
もし、現政権に敵対する側をゲリラと呼ぶのであれば、北朝がゲリラですよね?
(ゲリラ戦は戦い方でゲリラ戦をやってるからゲリラではありませんから)
後醍醐天皇が崩御された後も、南朝は1度も政権を手放す事なく存続し、北朝側が講和しようと歩み寄っての南北朝合一なのですから、一般的には南朝が正統だったと考えるのが妥当かと思います。

以前、nonさんが同様のコメントしてくださった【九州における南北朝最大の合戦=筑後川の戦い】>>のページで、ことかねさんが秀逸でわかりやすいコメントをしてくださってますよ!

歴史へのアプローチは様々で、多様な考え方があり、永遠に正解が出無い(正解を確かめようが無い)物ですので、私としてはどんなご意見も否定はしませんが、この議論は永遠に噛み合う事は無いと思いますよ。

投稿: 茶々 | 2015年9月12日 (土) 17時39分

茶々さん、おはようございます。
まあ議論してもかみ合わないと思います。南北朝の問題は・・・でも江戸時代までと違うのは明治政府も認めています。
ところで南朝関係者は分からないことが多いです。そう言う点がポルポト派に似ていると思います。ポルポト派も南朝同様によく分からないことが多いです。
謎と言いますと楠木、名和もあまり分かっていません。それだけ草莽の民が多いのかなと思います。
世界史的な観点で見ますとよく分からないのが南北朝です。
イギリスでは似た歴史もありますが、そう言うのは控えます。

投稿: non | 2015年9月13日 (日) 11時20分

nonさん、こんにちは~

「どちらが正統か?」については、永遠に答えが出る物ではありませんので、もはや議論するつもりは無いのですが、コメントに書かれている

>江戸時代までと違うのは明治政府も認めています。

というのは、どなたの見解で根拠は何ですか?
南朝を正統とする歴史観は、南北朝とほぼ同時進行だった『神皇正統記』や『太平記』にも見え、江戸時代の『大日本史』でも南朝を正統としていて、この歴史観は、明治44年の「南北朝正閏論争事件」の時にも、南朝正統派の大きな拠り所となったはずです。
(だから南朝が正統という意味ではありません。何を根拠に上記のコメントをされたのかが気になるだけです)
そのような見解があるのでしたら、その出どころを知りたいと思いました。

投稿: 茶々 | 2015年9月13日 (日) 16時46分

茶々さん、こんばんは。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E5%8C%97%E6%9C%9D%E6%AD%A3%E9%96%8F%E8%AB%96
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E6%9C%9D%E7%9A%87%E8%83%A4%E7%B4%B9%E9%81%8B%E9%8C%B2
ここに書いています。ヤフーでも知恵袋でhttp://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1317272983こんな事を書いています。
あまりこういう事は言いたくないので失礼します。

投稿: non | 2015年9月13日 (日) 19時39分

nonさん、こんばんは~

>あまりこういう事は言いたくないので…

そうだったんですか…すみませんでした。
最初にそちらからお話を始められて、その後、複数のいページに渡ってたくさんコメントしてくださるので、お話されたい事がいっぱいあるのかと、つい返信してしまっていて申し訳なかったです。
こちらこそ失礼しました。

投稿: 茶々 | 2015年9月14日 (月) 18時37分

茶々さん、すみません。
私は皇室をどちらが正統で偽と言う話は好きでないです。今の陛下も両方とも先祖としています。だからこそ両方とも正統と言うのが本当の南北朝の和解だろうと思います。
我が一族も壬申の乱以降は関ヶ原まで戦った同士が親戚になっています。そう言うのはもう二度とあってはいけないと思っています。
北朝側に立った先祖が多いので北朝側ですが、児島高徳みたいな人は好きです。桜井の別れは昭和天皇ではないですが涙を流します。でも尊氏も憎み切れないし、北条もそうです。江戸時代になって平和になって良かったと思っています。

投稿: non | 2015年9月14日 (月) 19時20分

nonさん、こんばんは~

私も両雄並び立つのが良いです。
先のコメントで、nonさんが「南朝はゲリラ」とおっしゃっていたので、つい南朝推しな感じのコメントになってしまってましたが、もともと「南北朝正閏論争事件」の時の明治天皇のご聖裁が1番だと思っておりました。

投稿: 茶々 | 2015年9月15日 (火) 02時58分

「天莫空勾銭 時非無范蠡」この文字をもじって高校時代によく言っていたのが「点と先公空しゅうするなかれ 時に落第無きにしも非ず」でした。児島高徳は身近な英雄。津山高校38年卒 
今でも使われているのでしょうか。

投稿: | 2016年12月 4日 (日) 14時53分

さすが!
児島高徳…地元は、すごく浸透しているんですね。

投稿: 茶々 | 2016年12月 5日 (月) 09時54分

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