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2012年3月23日 (金)

「いざ!鎌倉」の語源~鉢の木と北条時頼

 

寛元四年(1246年)3月23日、鎌倉幕府執権・北条経時が重病となったため、弟の時頼が5代執権に就任しました。

・・・・・・・・

鎌倉幕府の第5代執権である北条時頼(ときより)・・・

Houzyoutokiyori600 父は、第3代執権の北条泰時(やすとき)の嫡男である時氏(ときうじ)ですが、この時氏が執権を継ぐ前に若くして亡くなったために、その長男であった経時(つねとき)が第4代執権となっていたところに、上記の通り、経時が重病になったという事で、その弟である時頼がその後を継いで第5代執権となったわけです。

執権に就任した直後、北条の執権体制に反発する鎌倉幕府第4代将軍・藤原頼経(よりつね)を京都に強制送還して反対派を一掃した事で、不満をつのらせた三浦泰村(やすむら)の一族を滅ぼすというゴタゴタ劇がありましたが、時頼が執権となっていた11年間で、いわゆるモメ事となったのは、この三浦の一件だけで、これまで、発足以来ドタバタ続きだった鎌倉の世を、うまく治めた人物として評価されています。

もちろん、反論もあるでしょう。

モメ事が無いという事は、それだけ執権という地位を揺るぎない物にしたわけで、そのぶん独裁的な一面もあり、特に、第5代将軍・藤原頼嗣(よりつぐ)を追放して後嵯峨天皇の皇子である宗尊(むねたか)親王を第6代の将軍に据えてからは、まさに北条執権の独壇場となった事は確かです。

ただ、その一方では、御家人に対しても数々の融和政策を採用したり、庶民に対しての救済政策を行って積極的に庶民を保護した事などを見れば、やはり時頼=名君と言えるのではないでしょうか?

まぁ、この庶民救済も、もともと北条氏がそれほど身分の高い家柄では無いので、血統で統治をする上から目線の政治には限りがあり、庶民を優遇する善政を敷く事で、自らの立ち位置も確保しようとした・・・と言ってしまえば、その通りですが、

とにかく、それまでは弱肉強食世界で、強い者が弱い者を押さえつけ、言わば「斬り捨て御免」がまかり通っていたわけで、上からの略奪や不法行為にも、庶民は泣き寝入りするしかなかった時代だったのですから、そこを、庶民の側に立った政策を自ら行い、それを配下の武士たちにも推し進めた・・・

武士たるもの、民衆から搾取を繰り返して押さえつけるのではなく、民衆とともに生き、ともに豊かになっていくものであるという観念を時頼は、配下の武士たちに植えつけようとしたのです。

これまで政治を行って来た貴族に代わって、初めての武士政権である鎌倉幕府は、民衆を擁護するという形で、その政権を揺るぎない物にしていこう・・・

この時頼の政策は、民衆を撫でるように=「撫民(ぶみん)政策」と呼ばれます。

これは、日本の歴史上、大いなる転換で、古代より受け継がれて来た秩序の大変革・・・時頼は、もっと注目されても良い政治家ではないかと思います。

そんな中で、生まれたのが有名な謡曲「鉢木(はちのき)・・・「万が一の時」「今動かねばならぬ時」みたいな瞬間を言い表す言葉(ことわざ・慣用句)「いざ鎌倉」のもととなった物語です。

もちろん、これは謡曲なので、後世の創作なわけですが、このような逸話が生まれ、後世にまで語られるのも、やはり、時頼の政策が、善政と呼べるものだったからなのでは??
という事で、ご紹介させていただきます。

・‥…━━━☆

ある僧が、全国行脚の途中に立ち寄った上野(こうずけ・群馬県)佐野というところで大雪にみまわれ、やむなく、近くにあった家に一夜の宿を所望します。

とは言え・・・そこには、見た目にも貧しそうな夫婦・・・

しかし、主人は、嫌な顔一つせず、粟の飯を出してもてなしてくれました。

しかも、この冬空で、火にくべる薪(たきぎ)が無かった事から、大事にしていた梅・松・桜の鉢植えの木を切って暖をとらせてくれたのです。

そのもてなしに感動した僧が、主人に名を訪ねると
「私は、佐野常世(つねよ)という武士です」
と・・・

「一族の者に所領を奪われてしもて、今は、こうして落ちぶれてしまいましたけど、これでも、甲冑や長刀(なぎなた)や馬なんかは、いつでも使えるように、常に備えてますねん。

いざ!という時は、いの一番に鎌倉に馳せ参じて、敵陣に突っ込む覚悟でおます」
と、熱く語りました。

それからまもなくの事、鎌倉から諸国の武将に召集がかかった時、常世は、その言葉通りに鎌倉へと向かいます。

向かう途中、坂道で2度も倒れるような痩せ馬にまたがって駆けつけた常世・・・しかし、鎌倉で彼を迎えてくれたのは、誰あろう、あの時の僧・・・そう、その僧が、時頼だったのです。

時頼は常世の忠義を褒め、雪の日の親切に応えるべく、奪われていた旧領を与えただけでなく、火にくべてくれた梅・松・桜の木にちなんで加賀(石川県)の梅田、、上野の松井田越中(富山県)の桜井という3ヶ所の土地も与えたという事です。

・‥…━━━☆

と、まぁ、これは、創作満載の完全なる美談ですが、

他にも・・・
摂津難波(大阪市)で、たまたま知り合ったみすぼらしい尼さんと話すうち、その彼女の夫が治めていた土地が、夫の死とともに奪われてしまったものの、どこへも訴える事ができずにいる事を聞き、急ぎ、鎌倉に戻り、真相の追究にあたって、彼女の領地を回復したと・・・

こちらは、あの黄門様『大日本史』に、事実として語られていますので、やはり、そのような話が、複数残っていたものと思われます。

武士が、新たなる統治者=政治家として目覚めた鎌倉時代・・・そこには、時頼の特筆すべき功績があったのです。
 


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鎌倉時代」カテゴリの記事

コメント

「鉢の木」の話は小学生の時、視聴覚教室で観ました。教育テレビの社会科番組かと?懐かしいですね。

小さな政府(幕府)と自立自尊の鎌倉武士という日本的な「公」が一つの完成を見た時代でしょうか。

この後、対極に後醍醐天皇さんが出てくるのですが、朝廷と幕府の二者択一は、どうも具合が悪いような気がします。

震災時、某政権の余りのお粗末な対応にたまりかね
「 幕僚長、頼むから、軍政を布いてくれ」 とネットに書き込みがあって、笑えました。東方に鎌倉幕府の成立ですね。

投稿: レッドバロン | 2012年3月23日 (金) 22時23分

レッドバロンさん、こんばんは~

そうでしたね~
この後、またぞろ後醍醐天皇の上から目線で一歩後退するんでしたww

上に立つ人はなかなか難しいですね。

投稿: 茶々 | 2012年3月24日 (土) 03時11分

佐野は、上野の国(群馬県)では、無く下野の国現在の栃木県です。

投稿: 藤原秀郷 | 2013年8月22日 (木) 19時03分

藤原秀郷さん、こんばんは~

申し訳ありませんが、本文にもある通り、この「鉢の木」のお話は、歴史のお話というよりも謡曲の内容としてご紹介しています。

『謡曲:鉢の木』の、冒頭:次第の部分のワキのセリフに
「急ぎ侯ふほどに、これははや上野の国佐野のわたりに着きて候、あまりの大雪にて候ふほどに、この所に宿を借り泊まらばやと思ひ候」
とあるので、その内容のまま、ご紹介させていただきました。

投稿: 茶々 | 2013年8月22日 (木) 19時39分

謡曲『鉢木』には『いざ鎌倉』という言葉は一言も書かれていませんよ。むしろ『いざ鎌倉』という意識が御家人と幕府の間にあったことを題材として
鉢木が作られたと考えるべきです
どなたかの曲解が蔓延しているようで気になっています
お確かめ下さいませ

投稿: 能楽関係者 | 2013年12月 2日 (月) 03時22分

能楽関係者さん、こんばんは~

おっしゃる通り、「いざ鎌倉」という言葉そのものは、謡曲には登場しません。

私としては、『いざ鎌倉』という言葉が登場するという意味ではなく、現在『ことわざ(慣用句?)』として「いざ鎌倉」という言葉を使用する場合に、その意味を表しているのが、この『鉢の木』の物語であるという事で、文字通り『語源』としてご紹介させていただきました。

本文では現代語で表記させていただいた謡曲に登場する「ー族どもに横領せられ…かように落ちぶれては侯えども、今にてもあれ鎌倉におん大事出で来るならば、千切れたりともこの具足取つて投げ掛け、錆びたりとも薙刀を持ち、痩せたりともあの馬に乗り、一番に弛せ参じ…敵大勢ありとても、一番に破って入り、思う敵と寄り合い、打ち合いて死なん」というセリフを要約すれば「日頃貧乏していても、鎌倉に何かあった時には1番に駆けつける」となり、これが『いざ鎌倉』という『ことわざ』の意味を表現していると思っております。

語源とは、言葉そのものではなく「ある語について、それが何に由来するのか」という事ですので…
いずれにしても、言葉足らずで申し訳ありませんでした。

謡曲としての『鉢の木』の作者は不明だそうですが、おそらく物語が誕生したのは、鎌倉時代より、もっと後の事でしょうから、能楽関係者さんがおっしゃるように、「『いざ鎌倉』という意識が御家人と幕府の間にあったことを題材として鉢木が作られた」というのがホントのところだと思います。

そもそも、どなたかの名言とかではなく、とある出来事が由来となることわざが誕生するまでには、その出来事があってから、それなりの時間がかかると思います。

なので、『いざ鎌倉』という『ことわざ』の誕生も、この出来事からは、だいぶ後の事なのでしょうね。

投稿: 茶々 | 2013年12月 2日 (月) 04時39分

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