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2012年3月30日 (金)

江戸時代に西洋式の正月を祝った大槻玄沢

 

文政十年(1827年)3月30日、江戸後期に活躍した蘭学者・大槻玄沢が71歳でこの世を去りました。

・・・・・・・・・・

仙台藩の支藩である一関(いちのせき)藩医であった大槻玄梁(げんりょう)の長男として誕生した大槻玄沢(おおつきげんたく)は、その本名を茂質(しげかた)と言います。

Ootukigentaku500 この玄沢という名前は、医学を目指した彼が、お世話になった二人の師匠の名前を足したもの・・・そう、『解体新書』(3月4日参照>>)で有名な杉田玄白(げんぱく)前野良沢(りょうたく)から一字ずつもらって名乗った通称というヤツですが、有名なお名前なので、本日は玄沢さんと呼ばせていただきます。

お医者様だった父の影響からか、幼い頃から勉学に才能を発揮する少年だった玄沢さん・・・

やがて、その父の口添えで、地元の医師・建部清庵(たてべせいあん)に弟子入り・・・ここで、みっちりと医学&語学を学びます。

その後、22歳の時に、江戸への遊学を許された玄沢は、清庵と交流のあった杉田玄白の私塾に入学・・・ここで医術を学びつつ、前野良沢からオランダ語を教えてもらいます。

・・・と、この良沢の所で、一生モンの友人と出会います。

それは、やはり良沢に教えを乞いに来ていた仙台藩の藩医=工藤平助(くどうへいすけ)・・・

ただ、せっかく仲良くなれたは良かったものの、この時の玄沢が許された遊学期間はわずかな物で、別れはすぐやって来る・・・はずでした。

しかし、何と平助は、「こんな短い期間じゃ、ちゃんと学問を修められない!」とばかりに、一関藩の藩主に談判してくれ、おかげで遊学期間が2年も延びて、玄沢は、医学に語学に、有意義な時間を過ごす事ができたのです。

やがて28歳になった玄沢は、今度は長崎への遊学を許され、日本の中で最も外国に近いこの地で生のオランダ語に触れ、更なる語学力を磨いたのです。

そして1年間の長崎遊学を終えて、天明六年(1786年)に江戸に戻って来た玄沢は、まもなく、仙台藩の藩医に大抜擢!!!

そう、実は、これも、かの平助の推薦してくれたおかげでした。

藩医になった事で江戸に定住する事となった玄沢は、医者として活躍する一方で、私塾・芝蘭堂(しらんどう)を開いて、後世の人材育成にも尽力・・・さらに、蘭学の入門書である『蘭学階梯(らんがくかいてい)をはじめとする数多くの有意義な著作も残す事になります。

寛政二年(1790年)には、師匠の玄白から、かの『解体新書』の改訂版の作成を頼まれ、14年もの歳月をかけて、見事に、それも完成させました。

ただ、その後半生は、少し医学から離れ、どちらかと言うと翻訳中心の仕事をこなし、それらの洋書から知り得る外国の知識を活かして、ロシアイギリスなど、徐々に迫りくる外国勢に対する政策などの助言をする事もあり、その意見は藩内にとどまらず、幕府にも重要視されるようになったのだとか・・・

地元では、玄沢の意思を受け継いだ、息子で漢学者の大槻磐渓(ばんけい)、孫で国語学者の大槻文彦(ふみひこ)とともに「大槻三賢人」と呼ばれて、今もなお尊敬されるそうです。
 .

ところで、そんな玄沢さん・・・オモシロイ逸話が残っています。

それは、西洋式で、しかも太陽暦で、初めてお正月を祝った日本人という事・・・

もちろん、日本に滞在している外国人は、例え日本中が旧暦で祝っていても、彼らだけは西暦で「A Happy New Year」とやったでしょうが、日本人主催で・・・というのは、おそらく玄沢が初・・・

『続南蛮広記』でも
「明らかに年次の知れてゐる所では…大槻玄沢の“阿蘭陀正月(おらんだしょうがつ)”が最初であろう」
と書いています。

玄沢による初回のニューイヤーパーティが行われたのは寛政六年の11月11日・・・この日が西暦で1795年の1月1日にあたる事から、友人たちを招いて、盛大な宴会を催したようです。

「冬至より12日にあたる日を以て、彼国の正月とす。
これをヤニユワレーといふ。
長崎出島に旅宿の蛮人、訳官をまねきて酒筵
(しゅえん)をまふく。
ことに華麗をつくすとなり」

これは、玄沢の解体新書・翻訳仲間桂川甫周(かつらがわほしゅう)弟で、戯作者の桂川甫粲(ほさん・森島中良)という人物の『紅毛雑話』の一文ですが、こんな感じで玄沢もやってみたんでしょうね~

とは言え、宴会に出された物は、なんと西洋料理・・・

「箸を用いないで…匙子(さじ)で取って喫(くら)い、白金巾(しろかなきん)を膝の上に蔽(おお)い、一菜を食し了れば器皿(きべい)を易(か)える」

・・・て、これは、西洋料理どころか、フルコースディナーやおまへんか!

聞くところによれば、この玄沢さんちのニューイヤーパーティ・・・初回以来、数十年に渡って毎年行われたとか・・・

って事は、おそらく、文政十年(1827年)3月30日にお亡くなりになる間際まで・・・

いやはや、おみそれしましたm(_ _)m

さすがは玄沢さん・・・かなりの西洋ツウですね。
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江戸時代」カテゴリの記事

コメント

こんばんは。ハイカラですね。

そういえば、4月1日はエーブリルフール。
江戸時代は「不義理の日」なんだとか。

投稿: やぶひび | 2012年3月30日 (金) 22時09分

ご無沙汰です。
一般人には太陽暦と太陰暦の「月日換算」と言う概念がないので、「太陽暦1月1日」が太陰暦の何月何日かは、年によって違うのでどうやって調べたんでしょうか?
太陰暦だと「13か月の年」もあるので。

今回の大槻玄沢で「ブログ登場1100人目」ですね。

投稿: えびすこ | 2012年3月30日 (金) 22時48分

やぶひびさん、こんばんは~

「不義理」という事は、やはりウソをついても良いって事なのでしょうか??

どんな感じだったのか興味津々…

投稿: 茶々 | 2012年3月31日 (土) 00時39分

えびすこさん、ありがとうございます。

江戸時代は、印刷屋が発行する占いつきのカレンダーが流行ってたらしいので、確かに、一般の人なら、そのカレンダーに従って生活し、太陽暦の事など知るはずも無かったでしょうが、大槻さんは一般人では無いので、そこのところは、しっかりと計算していたのでしょうね。

投稿: 茶々 | 2012年3月31日 (土) 00時47分

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