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2012年3月22日 (木)

小牧長久手~岸和田城・攻防戦

 

天正十二年(1584年)3月22日、織田信雄徳川家康に呼応した雑賀・根来一揆衆和泉堺・大坂に進出をするも岸和田城主・中村一氏に撃退されました。

・・・・・・・・・

羽柴(豊臣)秀吉徳川家康の二大巨頭が、唯一直接対決した、ご存じ、小牧長久手の戦いですね。

時系列で並べますと・・・
前年の天正十一年(1583年)4月に賤ヶ岳の戦いに敗れた柴田勝家自刃(4月24日参照>>)
その翌月=5月に、今は亡き織田信長の次男=織田信雄(のぶお・のぶかつ)が、後継者を争っていた弟の神戸(かんべ・織田)信孝自刃に追い込み(5月2日参照>>)・・・

しかし、その信雄は、さらに強大になる秀吉の力を恐れて(3月6日参照>>)、同等の力を持つ家康を抱き込んで、秀吉に抵抗の姿勢を見せる・・・

で、それを警戒した秀吉が、先手必勝とばかりに天正十二年(1584年)3月、美濃・岐阜城主・池田恒興(信長の乳兄弟)を擁して、信雄配下の犬山城を攻撃(3月13日参照>>)・・・こうして、世に言う小牧長久手の戦いが勃発しました。

・・・と言っても、この時点では、秀吉は、まだ大坂城にいて、前線で戦っていたのは、その配下の諸将たち・・・

秀吉が、大坂を離れられない理由の一つが、かの家康が声をかけていた雑賀(さいが・さいか)根来(ねごろ)といった紀州(和歌山県)一揆勢力・・・1人1人は土豪(どごう=地元に根づいた半士半農の武士)に毛の生えたような彼らですが、集団となれば、戦国大名とも充分に戦える武装勢力となります。

「自分が大坂を留守にすれば、家康に呼応した彼らが、大阪に攻め込んでくるかも知れない」と警戒していた秀吉は、できるなら、自分は大坂に腰を据えたまま、この戦いを乗り切りたかったわけですが、残念ながら、犬山城奪取の4日後に起きた羽黒の戦いで、手痛い敗北を被ってしまいます(3月17日参照>>)

しかも、そこがウマイところなのですが・・・この時、家康は、使えるネットワークをフル活用して、この羽黒での勝利を大々的に宣伝して回って、何となく世間では「秀吉形勢不利」の印象をかもし出したのです。

今でもそうですが、「ネットで大人気!」「今月の売上第1位獲得!」なんて言われると、必要ない物にまで目がいってしまうのは人の常・・・こんな時に、そんな噂になれば、「家康有利」とみて寝返る者続出となるわけで・・・

そこで、秀吉は、自ら出陣して事態の打開をはかるわけ・・・で、その秀吉の大坂城出陣が天正十二年(1584年)3月21日だったのです。

Nakamurakazuuzi144 もちろん、すでに警戒している秀吉は、(和歌山方面)からの最前線とも言うべき岸和田城に、たのもしい男=中村一氏(かずうじ)を配置しております。

 
 .
かくして天正十二年(1584年)3月22日、秀吉が大坂を発ったとの知らせを聞いた雑賀&根来の紀州一揆勢は、2万3000ばかりの兵力を2手に分け、一方は東の山際を通って堺へ向かい、一方が岸和田に押し寄せたのです。

この軍勢を目に留めた若い兵士たちが、「即座に迎え撃たん!」とばかりに岸和田城を撃って出るのを見て、侍大将の早川助右衛門川毛惣左衛門
「血気にはやるな!引き返せ!」
と、命令しますが、一氏は、それを阻止・・・

「こんな時、すすんで出ていった若者を戻そうなんて事したら、士気が下がって、勝つモンも負けてしまうっちゅーもんや!行くで!!!」
と、自らの甲冑を整えなおして、いざ出陣!!

これが、見事に功を奏しました・・・

先に出て奮戦する若武者たちが、ふと、振り返ると、そこには菅笠(すげがさ)の馬印(うまじるし=戦場で大将がいる場所を示す印…武将によってデザインが違い、一氏の場合は菅笠)・・・

「おぉ、殿が出馬なされた!」
「こら、勝ったも同然や!」

予想通り、彼らの士気は高まり、1万余りの紀州勢に向かって突入!!!・・・一揆勢は蜘蛛の子を散らすように敗走していきます。

その後、一氏が手勢の300ほどを従えて、堂の池なる場所に回り込み、敗走して来る敵を待ち構えていたところ、堺方面に煙が上がります。

「堺がヤラれたかも知れない」
「堺が落ちたなら、堺に向かった一揆勢が、こっちに来るかも・・・」
「新手の大軍が来たらヤバイぞ」
「城に籠って戦ったほうが得策なのでは?」
てな空気が漂いはじめますが、一氏は・・・

「いやいや、今、俺らが退いたら、最前線で戦ってるヤツらの士気が下がって、籠った城まで落とされるかも知れん。
一揆なんてモンは、所詮は烏合の衆・・・何百おろうが、最初のヤツらを切り崩したら、あとは、どないかなるもんや!
俺に任しとけ!」

と、実にたのもしい・・・

さらに、「そばに馬がいれば、ちょっとの苦戦で城に戻りたくなる」として、諸将たちの乗る馬を全部、城へ戻すよう指示して、来たる敵を待ち構えます。

やがて現われた軍勢に向かって、弓の名手として知られる新藤勘左衛門を筆頭に、まずは雨あられの如く矢を射かけます。

驚き戸惑い、矢に逃げ惑う敵軍・・・
そこを、頃合いを見計らって、
「かかれーー!!」
との号令・・・一氏もろとも、軍団は一気に戦場へと駆けだしました。

・・・と、そこへ、挟み撃ちの如く一揆勢の背後に迫る700ばかりの味方の軍勢・・・

それは、岸和田城が攻撃を受けている事を知り、当時、岸和田城にいた16歳の息子の事を心配して駆けつけた黒田官兵衛(孝高・如水)の軍勢でした。

「味方が来たゾ~!」
とばかりに、さらに士気が高まる一氏軍は、叫び声を挙げながら一気に突入し、またたく間に800あまりの首を取って一揆勢を撃退・・・この岸和田城の攻防戦に、見事、勝利したのでした。

ところで、官兵衛が心配した、当時、16歳の息子=ご存じ、黒田長政ですが・・・

息子の姿を求めて、戦場を駆け巡る官兵衛の目の前に、
黄羅紗の陣羽織に鹿毛の馬にまたがった長政は、なんと、その鞍の四方手(しおで=鞍の前後左右につける革でできた輪っか)に複数の首をぶら下げての登場・・・

息子の頼もしい姿に、官兵衛も一安心したとか・・・

なんか、一氏もカッコイイけど、長政もカッコイイぞ!

と、今日のところは、岸和田城の勝利という事で、雑賀&根来ファンの皆さま・・・ゴメンナサイo(_ _)oペコッ

雑賀&根来が得意のゲリラ的奮戦するところも、いずれまた、「その日」に書かせていただきたいと思いますので・・・お許しを

・・・おっとっと、忘れるところだった( ̄◆ ̄;)

一方の、家康は、この同じ日に、小牧山に土塁を構築・・・来たる秀吉に備えていますが、その小牧でのお話は、3月28日の【秀吉VS家康のにらみ合い~膠着・小牧の陣】でどうぞ>>
 

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コメント

一氏さん、守りに強く、反転攻勢に出る戦機を見逃さずで、バランスのとれた名将ですね。三国志でいうと趙雲子龍?安心して任せられるタイプです。この後、一氏さんは北条攻めの先鋒を仰せつかり、大功を立ててます。デキる男だったのでしょうね。

豊臣、徳川共にこの辺りまでは本当に優れた指揮官がいます。後はどうも怪しいですよ。徳川なんて小牧・長久手の戦いで立てたブランド・イメージを最大限に利用して天下を取ったようなもので。実はこれ以降 ろくな戦さをしておりませんのですよ。

投稿: レッドバロン | 2012年3月23日 (金) 14時35分

レッドバロンさん、こんばんは~

それは、ひとえに、信長の人材育成がスゴかったって事なのでは??

魔王だ鬼だとイロイロ言われてますが、個人的には、信長さんほど、部下の長所をのばす事の出来る上司はいなかったと、私は思ってます。

投稿: 茶々 | 2012年3月23日 (金) 20時05分

はじめまして、いつも楽しく拝読させていただいています。
地元・岸和田でその時期にそんな大きな合戦があったのを初めて知りました。
(久米田合戦くらいしか知らなかったです)
高校時代、毎日岸和田城を見ながら生活していましたが、そんな歴史があったんですねぇ。

今後も記事を楽しみにしています!

投稿: 和泉 | 2012年3月23日 (金) 23時12分

和泉さん、ご訪問ありがとうございます

岸和田はなかなかの要地ですから、きっとイロイロな武将が闊歩したんでしょうね。

地元にかかわる歴史は、特に興味深いです。

投稿: 茶々 | 2012年3月24日 (土) 03時18分

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