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2012年3月26日 (月)

母の期待とご落胤説…将軍・足利義尚の苦悩

 

長享三年(1489年)の3月26日、第9代室町幕府将軍・足利義尚が、近江鈎の陣中で病死しました。

・・・・・・・・・

第9代室町幕府将軍足利義尚(よしひさ)の死に関して『公方両将記』では・・・

「御出陣の御年より今春迄三箇年、合戦の御営に御身心を苦しめられ、御勝利有つて陣中にて御逝去ある事、武将の本意と申しながら、御年いまだ廿五歳、器量才芸御行迹(さいげいごぎょうせき)、皆以て世に超え給ひ、殊更(ことさら)御父義政公老後の一子、天下の武将、旁(かたがた)以て一方ならずと、貴賊上下おしなべて歎き悲しむ計也」
とあります。

Asikagayosihisa600 3年に渡る合戦の陣中で心身ともに疲れ果て、酒びたりの生活になっていたという25歳の若者=義尚・・・

この時、可愛い1人息子の死を知った父=足利義政と、母=日野富子の嘆きぶりは、例えようも無かったとか・・・・

今回、両親の期待を一身に背負った若き将軍=義尚が命を落とす事になった近江鈎(まがり)の陣・・・合戦の経緯は、すでに書かせていただいてますが(12月2日参照>>) ・・・

そもそもは応仁の乱の後、近江(滋賀県)南部の公家領や寺社領を勝手に占拠し続けていた六角高頼に対して、室町幕府の権威を復活すべく将軍=義尚自ら出陣して高頼の居城・観音寺城を攻撃して、高頼に城を捨てさせたまでは良かったものの、逃走して甲賀に逃げ込んだ高頼は、甲賀者や伊賀者を駆使して、あの手この手のゲリラ戦を展開するわけで・・・

確かに、大軍と大軍がぶつかる大きな合戦も大変でしょうが、ほとぼりが冷めた頃に奇襲をかけられ、怒涛のごとく去って行っては、また、しばらくして奇襲・・・なんていうゲリラ戦も大変・・・

「酒びたり」って事は・・・
当然ですが、1人でお酒だけを飲んでるわけはなく、そこで遊興&宴会の数々があったわけで、「戦時下の本陣で何やってんだ!」とも思う一方で、そんなゲリラ戦を、3年にも渡る合戦の中で、度々しかけられれば、心身ともに疲れ果てて、酒に走ってしまうのも、わからないではない・・・

まして義尚の背中には両親・・・特に、母=富子の期待がドカンと乗っかっていたわけですから・・・

そもそも、富子が義政の正室となったのが康正元年(1455年)・・・義政=21歳で富=16歳という初々しい新郎新婦だったわけですが、(富子にとっては残念ながら)この時、義政には、すでに今参局(いままいりのつぼね)という側室がいた・・・

しかも、この女性・・・もともとは義政の乳母で、大人になった義政に愛の営みの手ほどきをした女性で、その後も義政の寵愛を受けて側室となっていた人・・・すでに、二人の間には女の子も生まれていました。

さらに、今参局だけでなく、もう1人・・・別の女性も、義政との間に女の子をもうけていました。

そんなところにお嫁に来てしまった富子・・・

嫁いで3年目の長禄三年(1459年)、やっとこさ富子にとって待望の第1子が誕生・・・しかも、未だ他の女性の子供が女ばかりの中で、男の子をを出産したのです(女を男と偽った説あり)

ところが、その子が生まれてまもなく死亡・・・そんな中、「今回の子供の死は今参局の呪詛(じゅそ=呪いをかける)のせいだ」との噂・・・

この噂に関しては、富子自身が、あるいは、大叔母の日野重子が流した・・・なんて話もありますが、とにもかくにも、大変大きな噂となってしまったため、事態の収拾をはかるべく、義政は、今参局を琵琶湖に浮かぶ沖ノ島への流罪としました。

こうしてライバルを1人消しさったものの、その後、なかなか子宝に恵まれなかった富子・・・

ところが、そんなこんなしてるうちの寛政六年(1465年)・・・また別の側室との間に、しかも今度は男の子が生まれてしまいます。

「これ、いかん!」
と焦った富子は、なんと・・・
「その子供は義政の子供やない!彼女(側室)が他の男と浮気してできた子供や!」
と言いだします。

未だ大奥なんて、将軍のお相手がはっきりするような機関が無かった時代・・・正室が、そう言いだせば、それに反発する材料はなく、義政は、その男の子を認知する事はできませんでした。

そんなゴタゴタがあったにも関わらず、その年の秋に富子は出産・・・それが、この義尚なのです。

よく言われるのは、そんな富子の「なんとしても、我が息子を将軍にしたい!」という気持ちが、すでに、次期将軍に決まっていた義政の弟・足利義視(よしみ)とのぶつかりを産んで、あの応仁の乱に至る(1月7日参照>>)・・・というもの

もちろん応仁の乱という大乱の原因は、様々にあり、それだけではないのですが・・・

ただ、この経緯を見る限り、成長して第9代将軍となった義尚に圧しかかったプレッシャーがハンパない事は、容易に想像できます。

しかも、さらにオマケの話が・・・

あくまで噂・・・トンデモ説に近いお話ですが・・・
富子が、義尚を懐妊する少し前・・・すでに夫婦仲が冷めきっていた中で、少し距離を置こうと室町御所を出た富子は、親戚の者が働いていた禁中に、しばらく住んでいた事があったとか・・・

そこに時々通っていたのが、時の天皇・後土御門(ごつちみかど)天皇・・・そう、義尚は、天皇のご落胤かも知れないとの噂があったのです。

もちろん、真偽のほどはわかりませんし、あくまで富子を悪女に仕立て上げたいがための後世の創作の可能性大なのですが、

たとえ本当の事では無かったとしても、そんな噂が義尚本人に耳に入ってでもいたら・・・

「何としてでも将軍になってほしい」という母の期待に加えて、「ご落胤かも知れない」の噂話・・・

もはや、25歳の若者には、手に負えない重荷となっていた事でしょうね。

将軍という華やかな地位にも関わらず、なんとなく、気の毒な思いもする足利義尚の死です。
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コメント

茶々さん、こんにちは。応仁の乱では出てくる人ですが、よく知りませんでした。勉強になりました。

投稿: いんちき | 2012年3月27日 (火) 16時51分

いんちきさん、こんばんは~

応仁の乱関連のせいで、なんか幼い頃のイメージしか無いですね~

25歳の若さはちょっと気の毒です。

投稿: 茶々 | 2012年3月27日 (火) 19時04分

若い酒飲みとは、五代将軍にそっくり!

投稿: ゆうと | 2012年3月27日 (火) 19時12分

天皇のご落胤かもしれない将軍とはスケールが大きい!
応仁の乱の復興を見事行っていたら、名君として讃えられていたでしょうが……。
偉大な人間になるにはプレッシャーやらウワサなんかをはなのける力が必要なんでしょう。

投稿: ティッキー | 2012年3月27日 (火) 20時38分

ゆうとさん、こんばんは~

こういう状況だと酒を飲みたくもなりますね~

投稿: 茶々 | 2012年3月28日 (水) 01時52分

ティッキーさん、こんばんは~

もう少し、生きていてほしかったですね。
それこそ、30代後半にもなれば、ドッシリと落ち着いて、すばらしい将軍になったかも知れません。

投稿: 茶々 | 2012年3月28日 (水) 01時54分

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