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2012年4月 6日 (金)

戦国から江戸の城の変貌~「城の日」に因んで

 

4月6日は、(し)(ろ)の語呂合わせで「城の日」という記念日なのだそうです。

なので、今日は「お城」について・・・

と言っても、本当は、城と言えば各時代に存在するわけで・・・たとえば、縄文時代の遺跡として有名な吉野ヶ里遺跡には、物見櫓のような高層建造物と柵が復元されていますが、厳密に言えば、ああいうのも城なわけではありますが、

今回は、いわゆる「城」と聞いてイメージするような、戦国から江戸にかけてのお城の変貌について、お話してみたいと思います。

・・・・・・・・・・・

現在、「城」と聞いてイメージするような形の物のはじまりは、鎌倉時代末期から南北朝にかけて、吉野山周辺を舞台に行われた攻防戦で生まれた山城・・・そう、あの楠木正成赤坂城(10月21日参照>>)千早城(2月5日参照>>)にような城が、そのルーツと言われています。

この場合、平地ではなく、ゲリラ戦に有利な山の上に砦のような城を築き、天然の崖を利用して、上から石や丸太を落としたりして、攻めて来る敵を防ぐ方式で、山そのものにあまり手を加える事はなく、あくまて地形を活かした形に通路や城壁が構築されます。

その後、室町時代の前期には、いち時政権が安定した事もあって、戦う城よりは守護や地頭の居館という意味合いが大きくなり、防御面より便利さを重視した造りになり、主とその家族が居館と周辺の屋敷に住み、配下の半士半農の地侍たちは、それぞれの郷で屋敷を構えて暮らすという形になります。

それが変化するのが、ご存じ応仁の乱(5月20日参照>>)以降の下剋上の世の中・・・

乱世に入ったところで、再び防御を重視しなければならなくなった武将は、もともとの居館を本城とし、配下の地侍の屋敷を支城とし、重要な場所に砦を築いて、それぞれをネットワークでつなぐ事で防御を固めます。

ちなみに、支城や砦を構築する基準としては、ほら貝や鐘の音が聞こえる範囲・・・有事の際には、危険を察知した支城や砦からほら貝や鐘が鳴らされ、それを聞いた隣の城が、また鳴らし・・・という具合に、連絡を取ると同時に、その音を聞いた侍が、即座に武装して、決められた場所に集合するという感じです。

なので、この時期の城攻めは、まず、本城と支城の連絡を断つところから開始されますよね?

この頃に、その本城として多く生まれた城が、いわゆる「山城」と呼ばれる物で、独立した山の頂上から斜面にかけて、あるいは連山の峰に、天然の要害を利用して構築されたもの・・・

基本的には南北朝時代の物と変わりませんが、土木技術が発達したぶん、人工的な堀切や土塁などが構築されて、頂上の城に行くまでのルート&分かれ道などが複雑に構成され、防御力がより固くなってます。

一般的は、高低差が100m以上ある山の上に構築された物を「山城」と呼び、代表的な物は、
岐阜城(8月15日参照>>)
小谷城(8月27日参照>>)
観音寺城(10月6日参照>>)
以前ご紹介した福知山の猪崎(いざき)(7月22日参照>>)などは典型的な中世の山城です。

そんな中でも、月山富田城(がっさんとだじょう)(11月21日参照>>)などは、高低差が300mもあったと言いますから、「しょっちゅう通う家臣の身にもなれ!」って感じですが、防御は完璧でしょう。

ちなみに、安土城は分類としては山城ですが、個人的には、いわゆる典型的な山城とは違う気がします。

それは、たぶん、それを造った信長の意図が、他の山城と違うから??・・・以前、書かせていただいたように、この安土城は、後方の観音寺城とセットでは無かったか?と思うからですが・・・(2月23日参照>>)

その話をし出すと長くなりそうなので・・・
ここで、蛇足の豆知識・・・

城と言えば、城壁や土塀の間に垣間見える木々が美しく・・・
♪春高楼(こうろう)の花の宴(えん) 巡る盃(さかづき)影さして
  千代の松が枝
(え)分け出(い)でし 昔の光今いづこ ♪
と、「荒城の月」(10月9日参照>>)に歌われるような光景を思い浮かべてしまいますが、その光景は、この後の城から・・・中世の山城には、木はいっさい生えてません。

なんせ、高い木があると、近づいて来る敵が見えませんし、敵の恰好の隠れ場所になってしまいますので、とにかく見晴らし重視・・・なので、おそらく、現在残る城跡からは、想像し難い光景だった事でしょうね。

・・・で、そんな山城にも、やがて変革期が訪れますが、それが、織田信長の台頭です。

以前、「城割」(8月19日参照>>)という物について書かせていただきましたが、信長は、勝ち取ったその場所を平定する時、それまで、その領地に散らばっていた支城や砦を破却し、本城のみを残して、その城下に配下の者を住まわせるという形で、武士たちを、半士半農ではない、常時戦えるプロの戦闘員としました。

そこに残された本城は、戦うための城であると同時に、主の居館でもあり、領地を統治管理する役目(今で言う県庁や都庁)も担う事になります。

さらに、ここらあたりから合戦の主流が野戦から城攻めへと変わって夜襲を警戒せざるを得なくなり、昼夜を問わず守りが固められる事が重要になって来ます。

・・・で、ここで登場するのが、高低差100m前後の山というよりは小高い丘に構築された「平山城」という物・・・

たとえば、先ほど出て来た福知山の猪崎城・・・ここ福知山は、信長の命を受けた明智光秀が攻め落とすまで、塩見氏が統治していた場所で、その猪崎城は塩見氏の本城であり、領内には複数の支城が点在していたわけですが、上記の通り、猪崎城は典型的な戦国山城なので、城下を統治しながら夜襲に備えるには不向き・・・

そこで、塩見氏を倒した光秀は、支城の一つであった横山城が建っていた小高い丘に新たな治めるための城を構築し、残った支城は本城もろとも、すべて破却する事としました。

この時、横山城の場所に建てられたのが現在の福知山城(天守は復元)・・・これが平山城ですね。

この方式は江戸時代まで続き、関ヶ原の後に近江(滋賀県)を与えられた井伊直政も、石田三成佐和山城を潰して、眼下の小高い丘に彦根城を構築しています(2月1日参照>>)

そんな平山城の代表格は、有名な姫路城熊本城岡山城などなど・・・そう、実は、この平山城は、城から城下を一望でき、逆に、城下のどこからでも城を望める事ができる事から、江戸時代初頭でも、まだまだ諸大名からの人気が高かった事から、近世の城のほとんどが、この形式となっているのです。

そして、最後に登場するのが「平城」・・・

近世にればなるほど、築城技術の発達とともに、もはや地形を利用した設計など考えなくても良くなり、どんな場所にでも、思い通りの掘やら土塁やらの防御策を講じる事ができるようになりますから、むしろ、高低差の少ない広大な敷地に計画的な城下町を整備して、そこに、まさに統治のシンボルとも言うべき城郭を築く事になります。

むしろ、ここで重視されるのは、城下町が発展するための物流であり、いざという時のために船を横付けできるほどの水運であるわけで、河口や湖や海に面した平城が構築されるようになったのです。

Dscf0530a800 銀杏越しに見る大阪城・六番櫓

代表格は、ご存じ、我らが大坂城(8月18日参照>>)や、その大坂城に感激した毛利輝元が築城を決意した広島城(4月15日参照>>)などなど・・・

まさに水というところでは、「忍の浮城」と呼ばれた武蔵忍(おし)(6月16日参照>>)も平城ですね。

・‥…━━━☆

以上、本日は「城の日」という事で、お城の変貌を駆け足で見て参りましたが、歴史に精通されている方にとっては「そんなモン知ってるよ」という内容だったかも知れません。

でも、まぁ、せっかくの「城の日」という事なので、これを機会に新たに見直して見るというのも一興かと・・・
 .

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コメント

桜を見に行くなら、城の天守からがいいと思います。秀吉が築城時、大阪城は江戸城と匹敵する大きさだそうですね。

投稿: やぶひび | 2012年4月 6日 (金) 21時04分

やぶひびさん、こんばんは~

真田丸が玉造駅の向こう、空堀があのあたりですからね~
相当、広かったでしょうね。

投稿: 茶々 | 2012年4月 7日 (土) 01時47分

 戦国期の山城歩き好きです。とりわけ実際あった攻防戦の山城には、堀切や竪堀の位置を見ながら守りや攻撃の思い浮かべる。その空間では、戦った領主と対話ができる喜びを感じますす。

投稿: 銀次 | 2012年4月 7日 (土) 04時07分

こんにちわ、茶々様。

お城に因んでちょっと質問ですが
日本の城はどうして中国やヨーロッパ、中東のお城のように城塞型がないのでしょうか?

籠城でもしようものなら城下に火をかけられれば国力の低下に繋がるわけなので・・・。

よろしくお願いします_(._.)_

投稿: DAI | 2012年4月 7日 (土) 11時37分

銀次さん、こんにちは~

そうですね。
壮大な城郭を見るのも良いですが、妄想をかきたてられるのは戦国の山城ですね。

>領主と対話

イイですね~(*^-^)

投稿: 茶々 | 2012年4月 7日 (土) 17時43分

DAIさん、こんにちは~

「外国の戦いは民族同士の戦いだから…」という話を聞いた事があります。

確信の無い話なので恐縮ですが、
たとえば、宋から元に変わるように、外国の戦いというのは、民族の争いであるため、負けた者は民族ごと虐げられるという事になりますが、

日本の場合は、古代の戦いこそ、そのような戦いでしたが、少なくとも戦国時代の戦いでは、そのような事はなく、領主が変わっても、多くの一般市民は、そのまま、その地で生活をするというスタイルだったので城塞型が発達しなかった…というような事だったと思います。

それが正解かどうかはわかりませんが、一理あるかな?と個人的には思っています。

投稿: 茶々 | 2012年4月 7日 (土) 17時56分

>茶々様 DAI様

日本国内の戦は 基本的に大名同士の徴税権の取り合いです。領内の百姓衆を殺戮してしまっては、土地を手に入れても、収入が無くなってしまいますからね。(ヤクザやさんが縄張り争いをするのと一緒です。欲しい縄張り=繁華街を焼き払ったら、意味ありませんもの。)

戦国時代は城内に領民を入れて保護したケースもあります。(鳥取城、上田城の攻防など。)鳥取城は乏しい兵糧がそれでさらに枯渇し、酷いことになります。わざと乱暴して領民を城内に追い込んだのは羽柴軍の謀略という説もあります。サルの悪知恵だったか?

投稿: レッドバロン | 2012年4月 7日 (土) 21時11分

レッドバロンさん、こんばんは~

戦国も後半になると、ほとんどの一般市民は日和見の状態で、勝敗が決した途端に落武者狩りとして参戦したりしてますね。

極端に言えば、「納税する相手が変わるだけ」って感じで静観してたって感じでしょうか?

鳥取での秀吉の場合は、三木城の大変さを繰り返さないために、準備段階で徹底した対策を練りましたね。

投稿: 茶々 | 2012年4月 8日 (日) 00時40分

茶々様、レッドバロン様
詳しい判りやすい説明 ありがとうございました。

なるほど・・・なるほど・・・

なるほど・・・なるほど・・・

なるほど・・・なるほど・・・

腑に落ちました。

今日も感謝です

投稿: DAI | 2012年4月 8日 (日) 12時42分

DAIさん、こちらこそ、いつもありがとうございます。

DAIさんの質問で、ハタッと気づく事あり、思い出す事あり、で、勉強になります。

投稿: 茶々 | 2012年4月 8日 (日) 18時40分

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