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2012年4月26日 (木)

いよいよ上洛…足利尊氏・大宰府を出発!

 

延元元年・建武三年(1336年)4月26日、多々良浜の戦いに勝利した足利尊氏が、京を目指して大宰府を出発しました。

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ともに鎌倉幕府を倒しながらも(5月22日参照>>)後醍醐(ごだいご)天皇建武の新政(6月6日参照>>)に反発して反旗をひるがえし、京へと攻め上った足利尊氏・・・(12月11日参照>>)

しかし、一旦、京を制圧するも、駆けつけた新田義貞楠木正成北畠顕家(あきいえ)らの後醍醐天皇方に破れ(1月27日参照>>)やむなく、九州へと落ち延びました。

その九州で体勢を立て直し、多々良浜の戦いに勝利した尊氏(3月2日参照>>)・・・

一方、天皇側では、義貞が尊氏追討に少々手間取ってる間に、西国の諸将の中から、勝利で勢いづく尊氏への寝返り組が続出します。

これに危機感を抱いた後醍醐天皇は、ここで東国までもが尊氏の味方となってしまっては一大事!!とばかりに北畠顕家を鎮守府将軍として奥州に派遣し、一方の義貞には尊氏追討の勅命(ちょくめい=天皇の命令)を下しました。

これを受けた義貞は、児島高徳(こじまたかのり)とともに、畿内と西国の要所である播磨(はりま=兵庫県南西部)で、尊氏側につきながらものらりくらりと衝突をかわしていた赤松則村(あかまつのりむら・円心)を攻めたてます。

最初は少々手間取ったものの、義貞&高徳の連携プレーによる陽動作戦で、赤松軍を熊山(くまやま=岡山県赤磐)に誘い込み、その間に手薄となった要所=船坂山(ふなさかやま=兵庫と岡山の境にある峠)を落としました。

難攻不落と言われたこの場所を落とした事で、天皇側は、堰を切ったように中国地方への進攻していきます

一方、九州で着々を勢力を拡大しながらも、未だ上洛の時かどうかの判断を決めかねていた尊氏・・・

Asikagatakauzi600 そこへ、かの赤松則村の三男=則祐(そくゆう)が馳せ参じて、
「是非とも上洛を!!」
と、望んだ事で、気持ちが固まります。

かくして建武三年(延元元年・1336年)4月26日京を目指して、大宰府を出発した尊氏・・・

5月1日には、安芸(あき=広島県)厳島に到着し、そこで3日間の参籠を行って勝利を祈願していると、

その最終日に、尊氏のもとに光厳院(こうごんいん=北朝初代の天皇)院宣(いんぜん=上皇の意を受けて側近が書いた文書)が届き、これによって、ますます心は奮起します。

早速、弟の直義(ただよし)20万騎の大軍をつけて陸路にて東に向かわせ、自らは7500余艘の大船団とともに、海路にて東を目指します。
(*今回の数字的な物は、すべて太平記の言い分です)

この時、尊氏は、船中で不思議な夢を見ます。

南の方角から、輝く光に包まれた観世音菩薩が飛んできて、船の舳先に留まり、つき従う二十八部衆が様々な武器をを持って、それをお守りする・・・

ふと目覚めると、実際に、山鳩が1羽飛んできて、尊氏の船の屋形の上に留まりました

これを勝利の兆しと確信する尊氏・・・

一方、陸路を進む直義軍は、5月15日、30万騎の大軍を擁して天皇方にくみしていた福山城を落としました。

この報告を受けた義貞は、一旦、摂津(大阪府)まで後退し、陸路&海路の両方の足利軍を一気にぶっ潰す迎撃作戦を練りますが、この間にも、「尊氏上洛」のニュースを聞いた諸将の寝返りは留まらず・・・

新田軍と同盟を結んでいた者たちも、どんどんと、その場から立ち去ってしまい、やがて、義貞が兵庫に着いた頃には、わずか2万ほどの軍勢しか、そばにいませんでした。

これを心配した後醍醐天皇は、楠木正成を呼び寄せて「義貞と協力して、尊氏を迎撃せよ」との命令を下します。

そこで、正成が一つの作戦を提案します。

「まずは、後醍醐天皇には、一旦、比叡山へと退いてもらい、兵庫に行った義貞を再び京へ呼び戻した後、敵軍を京都市中におびき入れ、新田&楠木連合軍で、それを取り囲み、四方から猛攻をしかけて討ちのめす・・・
てな作戦はいかが?」

と・・・

ところが、この作戦は、坊門宰相清忠(ぼうもんのさいしょうきよただ)反対によって却下されてしまいます。

「天皇たる者が、敵を恐れて都を退くなど、そのプライドが許さん!」
という事らしい・・・

ここで、正成は、次の合戦が運命の戦いになる事を覚悟したと言います。

「此の上はさのみ異儀を申すに及ばず」
(もう、どない言うでもムダなんや・・・)

静かに、そう答えた正成は、5月16日・・・500騎の手勢とともに、義貞の待つ兵庫へと向かったのでした。

次は、いよいよ、楠木父子のあの名場面ですが・・・そのお話は、やはり、「その日」にお話させていただきたいと思いますので、少々お待ちを・・・m(_ _)m
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南北朝・室町時代」カテゴリの記事

コメント

義貞・高徳が赤松勢を攻撃したことが、なかなか踏ん切がつかない尊氏の上洛を誘うのですから、皮肉なものです。

この後の坊門卿による正成への無理な出師要求も、シビリアン・コントロールの失敗例です。南朝はじめ、「文民優位」にはこのパターンがあるのですよね。

投稿: レッドバロン | 2012年4月27日 (金) 23時23分

レッドバロンさん、こんばんは~

正成への無理なアレは…何だか切ないですね。

事の大小はともかく、今も似たような事がある気がします。
「事件は会議室で起きてるんじゃない!」
って、ヤツですね。

投稿: 茶々 | 2012年4月28日 (土) 02時37分

とても魅力的な記事でした!!
また遊びに来ます!!
ありがとうございます。。

投稿: 履歴書の免許 | 2012年5月 7日 (月) 10時21分

履歴書の免許さん、ありがとうございます。

また、遊びにいらしてください。

投稿: 茶々 | 2012年5月 7日 (月) 15時59分

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