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2012年4月 2日 (月)

鎖国の象徴~長崎出島のいま・むかし

 

寛永十八年(1641年)4月2日、徳川幕府が平戸のオランダ人に長崎出島への移住を命じました。

・・・・・・・・・・・・

江戸時代の鎖国の象徴とも言える長崎の出島・・・

まぁ、最近では、完全に国を閉ざしていたわけではなく、ちょっとばかり、交流する国を限定していただけの「縮小」であり、『鎖国』という言葉は相応しくない・・・なんて事も言われますが、

とにかく、ここ長崎に築造された扇型の人工島=出島を窓口にして、交易にやって来るポルトガル人を管理する目的で、寛永十一年(1634年)から2年の歳月をかけて、長崎の有力者によって造られたのです。

形が扇型になった理由は定かではありませんが・・・
時の長崎奉行が、扇を海に取り落としたからとか、
建造の許可を出す時に、将軍・徳川家光が扇を示したからとか、
波の打ち寄せる衝撃を軽減するために形だったとか、
もともと河口に堆積していた土砂が扇の形をしていたとか・・・

Dezima600b 寛文長崎図屏風(長崎歴史文化博物館蔵)に描かれた出島の様子(ピンクの文字は勝手につけ加えました)

そんな出島は、上記のように、民間で造られた物なので、使用するポルトガル人は、土地使用料を支払って利用しておりました。

しかし寛永十六年(1639年)、キリスト教の布教活動と植民地化される事に脅威を持った徳川幕府が、ポルトガルとの交易を断ってポルトガル人を追放したために、いち時は無人状態となっていたのですが、

先ほどの、出島建設に出資した有力者たち・・・
「ええ儲け話や」と思って出資したのに、
「無人になったらやってられへんがな」
とばかりに、幕府に抗議・・・

で・・・幕府が、寛永十八年(1641年)4月2日平戸に住んでいたオランダ人に出島への移住を命じたのです。

以来、武装と宗教的活動を禁止されたオランダ人が、ここに住む事になりました。
(ちなみにオランダ人も年間使用料を支払っての利用です)

基本的には、日本人が公用以外で出島に入る事は禁止され、オランダ人も出島を出る事は許されていませんでしたが、すでに幕府から、医師としての信頼を得ているシーボルト(3月25日参照>>)のような人物は、出島を出る事を許されていましたし、祭りが行われる時は、その見物も(特別席が用意されていたらしい)OKでした。

こうして、約200年に渡って、外国への玄関口として重宝された出島でしたが、ご存じのように、幕末になって開国された事で、その後は、玄関口というよりは、「外国人居留地の一つ」として使用されるようになります。

まぁ、鎖国時代の名残りで、住人はオランダ人が圧倒的に多かったようですが・・・

ところが、それも明治三十二年(1899年)の「居留地撤廃」で、もはや、出島という物の特殊な役目も完全に終わりを告げたのです。

その後は、3度に渡って行われた長崎港湾改良事業によって周囲は埋め立てられ、大正十三年(1924年)には、あの扇の形もすっかり無くなって、長崎市の一部となりました。

なんせ冒頭に書いた通り、民間の物ですから、その時と場合によって所有者の意のままに形を変えていくのは致し方ないところ・・・

しかし昭和二十六年(1951年)、第2次世界大戦が終わった後に、オランダからの強い要請が・・・

まぁ、オランダは戦勝国という事で、その強みもあったのかも知れませんが・・・

とにかく
「出島は、オランダ人にとっては心のふるさと・・・
日本に旅行するオランダ人は、皆、出島を観光する事を楽しみにしているのだから、是非とも、復元してほしい」

という申し入れがあったのです。

そこで、その翌年から、長崎市が土地を買い上げるなどして復元に取り組む事になり、現在では、境界線をはっきりとさせたうえで、中に庭園や街並みなどが復元されて一般公開もされるようになりました。

もちろん、発掘事業は現在も進められており、この先、もっともっと、在りし日の姿に復元されていくのだとか・・・楽しみですね。
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江戸時代」カテゴリの記事

コメント


江戸時代はオランダが窓口になって、日本はヨーロッパと接することが出来ました。有名なシーボルト先生はドイツ人ですものね。

何とか、英米とも交渉ができたのは、オランダ語能力のお陰でしょう。Ⅰか0かの差は、決定的に大きいです。

投稿: レッドバロン | 2012年4月 3日 (火) 21時28分

レッドバロンさん、こんばんは~

そうですね。
本文にも書いたように、今では「鎖国」という言葉は良くないと言われるくらい、様々な文化が入って来たのは、出島にやって来たオランダ人たちのおかげですね~

蘭学があったからこそ、維新もあった…という感じでしょうか。

投稿: 茶々 | 2012年4月 4日 (水) 03時39分

茶々さん、こんにちは。

出島の復元が、オランダからの申し入れであったとは知りませんでした。私、子供の頃ですが昔行ったことがあるのを覚えてます。

それだけ日蘭両国の交流がいい感じで行われていたんでしょうね、そうでなければ「出島は、オランダ人にとって心のふるさと」などと言ってはくれないでしょうし。
なんだか、読んでいて心が温かくなりましたhappy01

投稿: ZAIRU | 2012年4月 4日 (水) 10時25分

ZAIRUさん、こんにちは~

そうですね。
良い感じの交流が行われていたのでしょうね。

遠い国で「心のふるさと」と言っていただけるのは、なんだかウレシイですね。

投稿: 茶々 | 2012年4月 4日 (水) 14時43分

欧州ではQuarantineと言う。
船舶の検疫所。その扇の形は貿易の発展を願う末広、うしろは尻すぼまりで伝染病(邪気)阿片(邪法)の侵入をくい止めた。
 長崎奉行高橋清相著「崎陽群談」によると
3924坪、ここに未来へのメッセージがある。三千世界二十四節気九星人の世の吉凶を占う。と。オランダに本部のあるオランダ東インド(株)は年額銀55貫目でお家賃契約をした。年一度カピタン江戸参府の折、お礼かたがた直接持参した。

投稿: 椿 | 2012年4月10日 (火) 10時12分

椿さん、情報ありがとうございます。

未だ発掘中…今後も、新しい発見に期待したいですね。

投稿: 茶々 | 2012年4月10日 (火) 21時27分

読んでくれてありがとう。私の名前で調べると
いろいろなとこに書いてるから読んでみてね。
難しいことではなく単なる検疫所だね。

投稿: 椿 博雄 | 2012年4月10日 (火) 21時35分

椿 博雄さん、再びのコメントありがとうございました。

投稿: 茶々 | 2012年4月11日 (水) 02時27分

間違い、高橋清相ではなく、大岡備前守清相著、崎陽群談だね、家光が扇をだしたのは易の陰陽学から取った、陽は貿易振興、陰は伝染病防止、当時流行った掛詞で共に「ぼうえき」をあらわした。

投稿: 椿 博雄 | 2012年4月11日 (水) 09時13分

何か聞きたいことある?

投稿: 椿 博雄 | 2012年4月12日 (木) 20時32分

椿 博雄さん、コメントありがとうございます。

今のところ質問はございませんが、また、よろしくお願いします。

投稿: 茶々 | 2012年4月13日 (金) 13時54分

どうしてもわからないことがある。キリスト教禁止令というのはどこにあるの?

投稿: 椿 博雄 | 2012年4月13日 (金) 20時11分

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