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2012年4月21日 (土)

いよいよ始まる長篠城・攻防戦

 

天正三年(1575年)4月21日、武田勝頼が三河長篠城の奥平信昌を包囲しました。

・・・・・・・・・・

ご存じ、長篠の戦いですね。

本来は、まず、このあたりからお話せねばならないところを、織田鉄砲隊VS武田騎馬隊・激突のあの日の事から、ついつい先に書いちゃったもので、順番がアレで、内容もかぶり気味すが、こ容赦のほど・・・m(_ _)m

・‥…━━━☆

そもそもは、未だ甲斐(山梨県)武田信玄が健在な時代・・・

後に長篠城主となる奥平貞昌(おくだいらさだまさ)は、長篠城の北西にある作手(つくで=亀山)を本拠とする武将で、父=奥平貞能(おくだいらさだよし)とともに武田に臣従しておりました。

ところが、天正元年(1573年)4月12日の信玄の死をキッカケに・・・と言っても、これまでにも書かせていただいているように、信玄の死はしばらくの間は公表されていなかった(4月16日参照>>)ワケですが、ご存じのように、それまで、あの三方ヶ原(12月22日参照>>)に代表されるように、「このまま上洛するのか?」と思われる雰囲気で西に進んでいた武田軍が、野田城攻防戦(1月11日参照>>)の後、いきなりの撤退を開始した事には、誰だって「アレ?」と思うわけで・・・当然、その不信感と動揺は、武田の家臣にも、そして周囲の戦国武将にも走るわけです。

そんな中で、かねてから徳川家康の包囲を受けていた武田配下で三河(愛知県東部)側の最前線の位置にある長篠城が開城されます。

比較的アッサリと開城してしまった事で、長篠城主の菅沼正貞(すがぬままささだ)は、亡き信玄の後を継いだ武田勝頼から「徳川への内通」を疑われてしまいますが、この時、同時に内通を疑われたのが奥平貞能・・・

ところが、実は、貞能は本当に内通していたのです。

いや、実際には、上記の信玄の死が本当かどうか知りたい家康が、それを確かめるべく、水面下で貞能に接近して来ていたという感じでしょうか。

とは言え、ここで、武田から疑われた事が背中を押したのか、貞能はそれをキッカケに、「家中の様子から信玄の死は確実である」事を家康に報告しただけでなく、家康の長女=亀姫長男=貞昌との婚約を成立させ、完全に徳川配下となる事を表明・・・一族を率いて作手城を退去し、家督を貞昌に譲りました。

これに応えるかのように家康は、貞昌を、改修工事を済ませた新たな長篠城の城主に迎え、守らせたのです。

もちろん、勝頼とて、その状況をそのまま見過ごすわけにはいきません・・・いや、逆に、勝頼は偉大なる父を越えようとしてか、積極的に隣国に進攻して来ます。

その年の10月には家康の居城・浜松城近くまで迫ったり、翌・天正二年(1574年)正月には、織田信長配下の美濃(岐阜県)明智城を落としたり、さらに、その5月には、父=信玄も落とせなかった高天神城をも陥落させたのです。

かくして天正三年(1575年)3月下旬・・・勢いづく勝頼は、1万5000という大軍を率いて南下を開始し、天正三年(1575年)4月21日この長篠城を包囲したのです。

守る奥平勢は250人・・・徳川から派遣されている傭兵を合わせても、わずかに500人ほどの守りでした。

5月8日・・・いよいよ、大軍による本格的な攻撃が開始されます。

やがて11日には、長篠城の野牛門(やぎゅうもん)に迫った武田軍が猛攻撃を仕掛け、あわや城内に!!という場面もありましたが、城兵は城壁から岩石を落としたり、巧みな弓矢で抵抗し、何とか防ぎました。

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武田の猛攻に耐える長篠城の様子…「長篠合戦図屏風」部分(犬山城白帝文庫蔵)

しかし、多勢に無勢はもう、わかりきった事・・・いくら踏ん張れど、30倍の兵力差はいかんともし難く、13日には、城内になだれ込んだ武田勢に食糧庫を破壊されてしまいます。

長期にわたる籠城戦に耐え抜いて、徳川の援軍を待つつもりだった貞昌の思惑は、この食糧庫の破壊でぶっ潰されてしまい、もはや長篠城は風前の灯となります。

どうする?貞昌・・・と言っても、降伏して開城する事をヨシとしないのであれば、長篠城の現状を家康に報告し、一刻も早い援軍の到着をお願いするしか道は無い・・・

ここで史上最強の伝令=鳥居強右衛門勝商(とりいすねえもんかつあき)が、家康のいる岡崎へ走ります。

さぁ、ここからは続きをどうぞ

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戦国・安土~信長の時代」カテゴリの記事

コメント

どもども、

このブログでこの話が掲載されたら、
「すみませんねぇ~茶々様、小生のためにまた…」
と勝手に思ってしまう今日この頃どす。
でも、お気に入りの記事は

「江戸時代のオモシロ夫婦・池大雅とその妻」

だったりするのでした…。

ではでは

投稿: azuking | 2012年4月21日 (土) 17時36分

azukingさん、こんばんは~

楽しんでいただけてるのなら、ありがたいです。

投稿: 茶々 | 2012年4月22日 (日) 01時09分

信玄が北に執着しすぎたことが。

投稿: おいらん淵 | 2012年10月26日 (金) 01時05分

おいらん淵さん、こんばんは~

川中島ですか?
結局は勝敗すら決まりませんでしたからね~

投稿: 茶々 | 2012年10月26日 (金) 03時23分

川中島も含めて、上州から駿河まで行った後に、上洛ですからね。余り、天下を取りに行く意識は無くて、晩年に急に思い立ったんでしょうかね。
小田原にも行ってますし。
情勢的に仕方が無いのかと。

投稿: おいらん淵 | 2012年10月27日 (土) 18時58分

おいらん淵さん、こんばんは~

気づけば、自分の年齢が1番高かった…て感じかも知れませんが、あれが上洛目的がどうかも藪の中で、もはや、想像するしかありませんね。

投稿: 茶々 | 2012年10月28日 (日) 02時21分

非常に勉強になります。忠実に事実を集めている内容的になっているんで、いいですね。コメントにあった様に織田信長以外は、余り目的が無かった様に感じます。
一直線で京を目指す信長とその他に、なっているような感じが解りました。
そうなると、今川義元も三河、尾張の併合で、武田信玄も三河の平定だったのかと。
一直線の信長と、放射線状に飛騨から上州と領土を増やすだけの目的の武田信玄は、北条と同じで、自国を中心に領国経営のみを目的としていたならば。 勝頼には、信玄が亡くなった後、和睦して欲しかったですね。
信長が許すなら。

投稿: おいらん淵 | 2012年10月28日 (日) 12時26分

おいらん淵さん、こんにちは~

上洛するには、ほとんどの武将が他国の領地を通らねばならないわけですから、当然、事前の根回し必要になってきます。
上杉謙信が2度も、すんなり上洛していますが、それは、上洛の目的が武田信玄との戦いの大義名分を得るためや冠位をもらったお礼だったからでしょう。
一方の織田信長の上洛の時は、浅井氏はOKしてますが、六角氏は承諾しなかったので、上洛の際に合戦となっています。
武田信玄と今川義元の場合は、ともに周辺諸国に打診した様子が見当たらないので、やはり、上洛が目的では無かったように思います。
おっしゃる通り、それなら、後を継いだ武田勝頼が和睦すれば、長篠の戦いも避けられてかも知れませんが、当時は、足利義昭による対信長戦線が活発だったので、方向転換するのが難しかったのかも知れませんね。

投稿: 茶々 | 2012年10月28日 (日) 14時15分

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